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木皿泉『昨夜(ゆうべ)のカレー、明日(あした)のパン』その1

2015-01-19 12:47:00 | ノンジャンル
 木皿泉さんの’13年作品『昨夜(ゆうべ)のカレー、明日(あした)のパン』を読みました。木皿さんの初小説で、8つの短篇から成っています。
 『ムムム』 〈ムムム〉は、両手の指で拳銃の形をつくると、空の飛行機めがけて「バーン」と叫び、テツコの方を見て、ニッと笑いかけた。その日の夕方、テツコはギフ(義父のこと)にその話をすると、それはよかったと義父は言った。〈ムムム〉は、少し前まで飛行機の客室乗務員をしていたのだが、ある日突然、笑うことができなくなってしまい会社を辞め、今は、両親の住む隣の家で暮らしている。〈ムムム〉というのは、ギフがつけた名前である。ギフは自分が秘密の言葉をあげたおかげかな、と言った。テツコは夫の一樹が7年前に亡くなったにもかかわらず、この家の嫁として9年この家に居続けていた。
 次の日、テツコも言葉をもらった。それは恋人の岩井さんがくれた。岩井さんは「そろそろ結婚しようか」と言った。「そんなこと急に言われても」とテツコが言うと、「わかった、僕が悪かった」と岩井さんは言い、もっと場所や指輪とかに気をつけるべきだったと一人合点し、今日の話は聞かなかったことにしてくれと言った。その日、珍しく残業したテツコは、帰りの電車を待つホームで、つい「めうどくさい」と言ってしまうのだった。隣に立つ若い女の子は、真剣に手紙を読んでいた。そこには「さびしすぎるわ! 吉本さん!」と大書されていて、小さな字で「転職ですか」とか「結婚するんですか」とか書かれていた。女の子はケータイを取り出して真剣に何やら打っていたが、やがて「ああ、もうッ!」と小さく言うと、全速力で階段に向かって駆けていった。次のが最終の電車で、もう後はなかった。
 駅前の路地裏にある店に立ち寄ると、ギフが飲んでいた。「やっぱり、言葉って効くもんなんですね」テツコはさっきの女の子の話をした。「その人は、きっと何かにとらわれて、身動きできなかったんですよ。それが、その言葉で解放されたんじゃないですかねぇ。逃げられないようにする呪文があるのなら、それを解き放つ呪文も、この世には同じ数だけあると思うんだけどねぇ」「あの時の、パン屋みたいなもんなんだ」「そう。よく覚えてたねぇ。一樹の病院の近くの、あのパン屋」一樹が末期ガンだと知らされ、病院から夜遅くギフと帰る途中にあったパン屋。深夜にもかかわらず焼き立てのパンを売ってくれた。悲しいのに、幸せな気持ちになれるのだと知ってから、テツコは、いろいろなことを受け入れやすくなったような気がする。「人は、感情にも、とらわれてしまうもんですよね。悲しいかな、人はいつも何かにとらわれながら生きてますからねぇ」とギフは言った。
 岩井さんは聞かなかったことにしてくれと言ったくせに、結婚後の生活に関する話題を次々にした。なぜ岩井さんは、自分と結婚するものだと思いこんでしまったのだろう。テツコは、そのことに無性に腹が立った。テツコは思い切って、自分には結婚は考えられないから、今後のことを話し合いたいので日を空けてほしい、と岩井さんに一方的に伝えた。夜、テツコはその日を忘れないように台所のカレンダーに印を入れた。ちょっと考えて稲妻の絵にした。「オッ、こんなところにカミナリが」何も知らないギフは早々と見つけて、無邪気に喜んでいる。
 岩井さんとの約束の日は台風だった。迷ったあげく、気象予報士のギフの言うことを聞いて、ゴム長をはいてゆくことにした。台風のことを考えて早めに家を出て、岩井さんのアパートに着くと、岩井さんは「え、もう来たの?」と言った。部屋の半分だけきれいになっていた。「結婚はしたくないんです。岩井さんのことが嫌いというわけではなくて……。たぶん、私、家族をつくるのがイヤなんだと思う」テツコは久しく帰っていない自分の家のことを思った。自分の部屋とリビングを結ぶ暗い階段。もうあそこへは戻りたくなかった。岩井さんに理由を問われ、嫌だったのは葬式の時の母だったと思いだした。葬式の汚れを落とすために、塩を執拗にかけねば気のすまない母は、明るく、清潔なものだけが好きだった。岩井さんの健康的なうなじを見て、テツコは、急に憎くなった。「人は必ず死ぬんだからね。一樹みたいに、死んじゃうンだからね」テツコは、泣きたいのを我慢した。「わかってるよ」岩井さんがやっと言うと、「わかってないよ」とポツンと言った。(明日へ続きます……)

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