うたことば歳時記

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冬至・小正月の小豆粥・七種粥

2017-07-03 10:37:47 | 年中行事・節気・暦
小豆粥

 正月七日には七草粥を食べますが、15日のいわゆる小正月には、小豆粥を食べる風習があります。中には餅入りの小豆粥の場合もあるようです。しかし15日の粥も「七種粥」と呼ばれてしばしば混同されているように、「七くさ粥」は実は二つあるわけです。

 七日の七草の起原が中国にあることは、6世紀に長江中流域の年中行事を記した『荊楚歳時記』に記されていて明らかです。そして15日の小豆粥についても、同様に「荊楚歳時記」次のように記されています。「冬至の日,日の影を量り,赤豆粥を作りて以て疫を禳ふ。・・・・正月十五日,豆糜(とうび)を作り,油膏(ゆこう)を其の上に加え,以て門戸を祠る。・・・・乃ち酒脯飲食及び豆粥・・豆糜を以て箸に挿(はさ)みて之を祭る」。正月15日ではなく、冬至に小豆粥を食べる風習も、日本各地に今でも残っています。

 冬至の粥については、『荊楚歳時記』にその目的ははっきりと疫病を払うことであるとされていますが、「赤豆」とわざわざ色が明記されているように、赤いことに魔除けの意味があったと思われます。また正月15日には豆糜を食べることになっていますが、糜とは粥のことですから、これも冬至の「赤豆粥」と同じようなものと考えてよいでしょう。日本の史料ですが、鴨長明の『四季物語』には、「あかきは陽のいろをからせ給ふ御事にて,あづきの御かゆをたまはらせ給ふとぞ。冬の陰の余気を陽徳にて消させ給ふ御こころなるべし。」と記されていて、陰が極まる冬至の日に、陽の色である赤いものの威力によって、陽に転じることの意義を説明しています。

  日本において正月15日の粥が確認できる最古の書物の史料は,『弘仁式』に見られます。『弘仁格式』とは、弘仁十一 年(820年)頃に成立した書物で,大宝元年(701 年)から弘仁10 年(819年)に至るまでに詔勅や官符として出された、律令の改正法を編集したものです。それによれば、正月十五日の早朝、宮中の飲料水や氷や粥を管轄する主水司(もんどのつかさ)が、宮中に「七種粥」を献上することになっていました。

 また延長五年(927年)に成立した『延喜式』の主水式には、正月十五日に供える七種粥の材料として、
米・粟・黍子・薭子・葟子・胡麻子・小豆の7種の穀物と、調味料として塩があげられています。塩味だったことがわかるのは、なかなか面白いですね。この7種の穀物は、その後多少の出入りがあったようで、鎌倉時代の有職故実書である『年中行事秘抄』には、「七種粥、小豆・大角豆(ささげ)・黍(きび)・粟・葟子(みのごめ)・薯蕷(やまいも)・米」と記されています。

 小豆だけでなく7種の穀物などが揃っているのは、正月七日の七草に倣い、「七」という陽の数によって、癖邪の威力をさらに強めようという意図によるものと思われます。ただあくまでも本来は小豆が中心だったようです。『延喜式』の主水式には、同じ正月十五日に下級官人に支給する粥の材料として、米と小豆と塩が上げられています。つまり上級者には七種のそろった粥を賜るのに、下級者には小豆粥だけなのです。これは七種粥が本来は小豆粥であって、そこから発展したものであることを示しています。また『土佐日記』の承平五年正月十五日には、「十五日。今日、小豆粥煮ず。口惜しく、なほ日の悪しければゐざるほどにぞ・・・・」と記されています。風雨がおさまらないので港に停泊している時なので、炊事も自由にならなかったという理由もあるでしょうが、例年のように十五日の小豆粥が食べられなかったことが、余程に残念だったようです。舟中であるため七種が揃わなかったのかもしれませんが、それでも最も重要な小豆だけは用意があったのでしょう。このお話しも、小豆粥が七種粥に先行していたことを示唆しています。

 このような小豆を中心とした七種粥は、早くも奈良時代に見られます。同志社大学の森田潤司氏の研究によれば、正倉院文書に、天平宝字八 年(764 年)正月十四日、内裏から大仏殿に七種粥を供えた記録があるとのことです。一般には粥が出現する前には羮(あつもの)と呼ばれるスープ状の物に調理したとされていますが、奈良時代に七種粥があったことということです。しかし穀類を煮れば、羮のつもりでも実際には粥状になってしまうでしょう。

 正月十五日の小豆粥には、餅を入れることがあります。旧暦では15日は満月か、限りなくそれに近い月齢です。満月は望月ともいうことから、餅を入れることになったのは、容易に察することができます。
古代の人は、同音異義語には現代人以上に敏感でしたから、自然な発想でした。『枕草子』第2段には、「十五日、もちかゆの節供まゐる。」と記されていて、餅入りの粥であったことがわかります。その後、正月十五日、つまり小正月の餅入り小豆粥は、現在まで変わることなく伝えられているのです。
 
 『荊楚歳時記』には冬至の小豆粥が記されていますが、これはどのように理解したらよいのでしょうか。中国では周代から前漢の時代までは、冬至を含む月が正月であったとされています。このことを考証する力は私にはありませんが、もしそうだとするならば、小正月の小豆粥と同じように、年の始めに食べることになります。なにも確証があるわけではないのですが、このあたりに何かヒントがありそうだなと思っています。

 我が家では小豆粥は食べませんが、粥ではなく小豆を入れた豆御飯を、赤飯代わりに目出度い時によく食べています。今までその色についてはあまり意識しませんでしたが、こうして文章を書いてみると、赤いことの意味をあらためて認識しました。赤は目出度い色だからというよりは、陰陽思想の陽の色にあたるからということのようです。

 脱線しますが、韓国の国旗を太極旗といい、中央には赤と青からなる巴紋が描かれています。これは宇宙の根本である太極は、赤に象徴される陽と、青に象徴される陰によって構成されていることを表しています。逆に見れば、陽と陰は太極から現れてくるということでもあるのでしょう。陽と陰は本来は優劣の関係ではなく、互いに補完する関係なのですが、言葉の印象が先行し、一般には陽の方が優れていると理解されてしまいます。新しい年は陰の気が極まって陽の気が萌してくる時ですから、それに合わせて赤い小豆を食べるのだと理解しました。



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