七夕を迎えるたびに、憂鬱になることがある。それは七夕の起源に関わるいわゆる「棚機津女伝説」のことである。棚機津女とは、水辺で棚の造りのある機屋で、神に捧げる神御衣(かむそ)を織りながら神の訪れを待つ少女のことと説明される。そのような伝説が古来から伝えられ、それに中国伝来の織姫・牽牛の物語と習合して七夕の伝説が形成されたという。そしてそのことは『古事記』に記されているという。また必ずと言ってもよい程に「折口信夫によれば」と説明されるのである。しかし『古事記』のどこを探してもそのような記述はなく、折口自身も『古事記』に七夕伝説を直接示唆する記述があるとまでは言っていない。それにも関わらず、歳時記や各地の七夕行事の解説には、「棚機津女の伝説云々」がさも事実かのように語られるのである。ネットで七夕の起原について検索すると、まず九分九厘、棚機津女伝説について説いている。それらを書いている人に聞いてみたい。あなたは自分で調べた結果を書いているのか、それとも先行する説を、何の疑いもなく切り貼りしているのかと。誰もが誰かの解説の孫引きをして、さらに尾鰭がたくさん付け加えられ、折口の手を離れて独り歩きしている。
歳時記や年中行事について解説する本が数え切れないほどあるが、「・・・・と考えられている」「・・・・という習慣がある」「伝説によると」「・・・・と伝えられている」「・・・・とされている」というだけで、どれ一つとして史料的根拠を示して論証しているものはない。そうであるから、それらの著書を疑うことなく、検証することなく、ただ都合よくコピペをしたネット情報が氾濫し、それを読んだ一般読者が、みなだまされることになるのである。そこまで言うと、「某神社に伝えられている」と反論されたたことがある。しかし、「伝承」というものはいくらでも「創作」できるものであり、伝承があったことを示す史料的根拠を示せないということは、伝承の存在自体も怪しいのである。大阪枚方市に七夕伝説があるとして、市の関係者がさかんに由緒を宣伝しているが、その論証は余りにもお粗末で、想像と推論の積み重ねに過ぎない。一見して根拠を示しているように見えるが、学問的批判に耐えられるものではない。私は半世紀以上『古事記』『日本書紀』『万葉集』などに親しんできたが、「棚機津女」伝説など見たことがない。それがあるというなら示して見せてほしい。もともとありはしないのだ。一般の読者の皆さんに申し上げたい。根拠のないいい加減な説に惑わされないように、十分気をつけていただきたいのである。「・・・・と言われている」という書き方をしているネット情報は、まず疑ってかからなければならない。
『古事記』に見える機織の場面としてまず思い当たるのは、天の岩戸に至る少し前、服屋(イミハタヤ)にましまして神御衣(カムミソ)織らしめたまふ時にその服屋(ハタヤ)の頂(ムネ)を穿ちて、天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて堕し入るる時に、天の服織女(ミソオリメ)見て驚きて梭に陰上を衝きて死にき。」という場面である。しかし織女が、神聖な機屋に籠もって神の衣のための布を織っていた、ということ以上の記述はない。
当然のことながら『日本書紀』にも同じ場面の記述があるが、天服織女(あめのはたおりめ)が忌服屋(いみはたや)で神に奉納する衣を織っていたというだけのことである。また瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が初めて木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)を見た時、「秀起つる浪穂の上に、八尋殿を起てて、手玉も玲瓏に、織経(ハタオ)る少女(オトメ)は、是誰が子女ぞ」と言った、と言う場面がある。これは娘が水辺で機を織る場面であるが、「八尋殿」を建ててというからには、大きな御殿で織っていたことになり、どこにも棚機津女に繋がる要素はない。
「たなばた」に関わる記述を強いて上げれば、『日本書紀』神代下の天稚彦の葬儀の場面に、「天(あめ)なるや弟織女(おとたなばた)の頸(うな)がせる玉の御統(みすまる)の穴玉はやみ谷二渡・・・・」という歌が記されているが、「弟織女」を「オトタナバタ」と読ませている。「織女」を「たなばた」と読み、「七夕」という漢字を当てはめたことには何か理由があるのだろうが、それを文献的根拠を上げながら論証した論文に出会いたいものである。私の不勉強でまだ知らないだけかもしれないが、あれば是非教えていただきたい。『万葉集』には実に夥しい数の七夕の歌が載せられているが、伝説の棚機津女の姿を思わせる歌は見当たらない。
もちろん私の見落としもあり得る。しかし繰り返して言うが、一般に言われている棚機津女に関する伝説が奈良時代以前にあったことを示す確実な証拠はないのである。それにもかかわらず、「日本古来の七夕伝説」云々との解説がネット上に氾濫している。折口信夫という大家がが言うと、誰もが疑うことなく有り難く頂戴してしまう。私の古代史の学力ではとても解き明かせないが、とにかく「七夕伝説」を一度謙虚に見直す必要がある。
追記 七夕伝説について良心的な論文を御紹介します。ネットで検索できますから、参考にして下さい。
七夕説話伝承考 大久間喜一郎
歳時記や年中行事について解説する本が数え切れないほどあるが、「・・・・と考えられている」「・・・・という習慣がある」「伝説によると」「・・・・と伝えられている」「・・・・とされている」というだけで、どれ一つとして史料的根拠を示して論証しているものはない。そうであるから、それらの著書を疑うことなく、検証することなく、ただ都合よくコピペをしたネット情報が氾濫し、それを読んだ一般読者が、みなだまされることになるのである。そこまで言うと、「某神社に伝えられている」と反論されたたことがある。しかし、「伝承」というものはいくらでも「創作」できるものであり、伝承があったことを示す史料的根拠を示せないということは、伝承の存在自体も怪しいのである。大阪枚方市に七夕伝説があるとして、市の関係者がさかんに由緒を宣伝しているが、その論証は余りにもお粗末で、想像と推論の積み重ねに過ぎない。一見して根拠を示しているように見えるが、学問的批判に耐えられるものではない。私は半世紀以上『古事記』『日本書紀』『万葉集』などに親しんできたが、「棚機津女」伝説など見たことがない。それがあるというなら示して見せてほしい。もともとありはしないのだ。一般の読者の皆さんに申し上げたい。根拠のないいい加減な説に惑わされないように、十分気をつけていただきたいのである。「・・・・と言われている」という書き方をしているネット情報は、まず疑ってかからなければならない。
『古事記』に見える機織の場面としてまず思い当たるのは、天の岩戸に至る少し前、服屋(イミハタヤ)にましまして神御衣(カムミソ)織らしめたまふ時にその服屋(ハタヤ)の頂(ムネ)を穿ちて、天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて堕し入るる時に、天の服織女(ミソオリメ)見て驚きて梭に陰上を衝きて死にき。」という場面である。しかし織女が、神聖な機屋に籠もって神の衣のための布を織っていた、ということ以上の記述はない。
当然のことながら『日本書紀』にも同じ場面の記述があるが、天服織女(あめのはたおりめ)が忌服屋(いみはたや)で神に奉納する衣を織っていたというだけのことである。また瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が初めて木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)を見た時、「秀起つる浪穂の上に、八尋殿を起てて、手玉も玲瓏に、織経(ハタオ)る少女(オトメ)は、是誰が子女ぞ」と言った、と言う場面がある。これは娘が水辺で機を織る場面であるが、「八尋殿」を建ててというからには、大きな御殿で織っていたことになり、どこにも棚機津女に繋がる要素はない。
「たなばた」に関わる記述を強いて上げれば、『日本書紀』神代下の天稚彦の葬儀の場面に、「天(あめ)なるや弟織女(おとたなばた)の頸(うな)がせる玉の御統(みすまる)の穴玉はやみ谷二渡・・・・」という歌が記されているが、「弟織女」を「オトタナバタ」と読ませている。「織女」を「たなばた」と読み、「七夕」という漢字を当てはめたことには何か理由があるのだろうが、それを文献的根拠を上げながら論証した論文に出会いたいものである。私の不勉強でまだ知らないだけかもしれないが、あれば是非教えていただきたい。『万葉集』には実に夥しい数の七夕の歌が載せられているが、伝説の棚機津女の姿を思わせる歌は見当たらない。
もちろん私の見落としもあり得る。しかし繰り返して言うが、一般に言われている棚機津女に関する伝説が奈良時代以前にあったことを示す確実な証拠はないのである。それにもかかわらず、「日本古来の七夕伝説」云々との解説がネット上に氾濫している。折口信夫という大家がが言うと、誰もが疑うことなく有り難く頂戴してしまう。私の古代史の学力ではとても解き明かせないが、とにかく「七夕伝説」を一度謙虚に見直す必要がある。
追記 七夕伝説について良心的な論文を御紹介します。ネットで検索できますから、参考にして下さい。
七夕説話伝承考 大久間喜一郎
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