いきなり「原稿用紙と明朝体」といいますが、一体両者にどのような関係があるのでしょうか。一見して結び付かないと思われますが、歴史的には大いに関係があります。
承応三年(1654)、長崎に在住する中国人の度重なる招聘に応えて、明の禅僧隠元が崇福寺の住職として来日し、黄檗宗を伝えました。隠元自身は3年で帰国するつもりだったようですが、周囲がそれを認めません。4代将軍徳川家綱は山城国の宇治に寺領を寄進し、中国にあった黄檗山万福寺と同じ名前の禅院を創開。帰国を断念せざるを得ない状況になりました。
この隠元の弟子に、鉄眼道光という日本人僧侶がいました。彼は寛文四年(1664)、一切経(大蔵経)全巻の開版を志しました。一切経とは、簡単に言えば仏教の経典の大全集でして、一人の人間が一生掛かっても読み切れない程の量があります。彼は数々の苦難を乗り越えて、ついに延宝六年(1678)に完成させました。読むだけでも大変ですのに、それを版木に彫って印刷するという、途方もない大事業です。
版木はそれぞれが26㎝×82㎝×1.8㎝の大きさで、総計約6万枚に及ぶそうです。版木は桜材で、節のないこの大きさの板を採れる桜の木が何本必要であったか。桜の名所の吉野に近かったことは、材料を得やすかったとはいえ、それにしても大変なことなのです。
これらの版木は「鉄眼版」と呼ばれ、現在は万福寺の塔頭である宝蔵院に伝えられています。そして驚くべき事に、今なお刷り立てが行われているのです。話が一寸逸れますが、大学院生の頃、塙保己一が開版した『群書類従』の版木を保存している、渋谷の温故会館に住んでいたことがあります。私の母校である國學院大學に隣接していて、登校時間が1分という便利なところでした。それはともかく、そこでは今もその版木で刷り立てが行われ、『群書類従』が販売されているのです。高価な物でしたが、手間の掛かる作業を見ながら、それも当然と思ったことでした。現在の本が安すぎるのです。 閑話休題。この版木は、刊行物やパソコンのフォントとして、日本では最も馴染みのある明朝体で彫られています。明朝体の特色は、縦画が太く横画が細く、また横画の右端が三角に盛り上がっていることにあります。一般に漢字は横画の方が多いので、横画が細い方がすっきりして読みやすく、理に適っています。例えば「書」という漢字を、横画を太く縦画を細く書いたら、線の間隔が詰まって、判読できなくなってしまう。文字の大きな新聞の見出しならともかく、新聞記事がみなゴチックで印刷されるとしたら、字の大きさはもっと大きくならざるを得ないでしょう。
さてそれらの版木で刷られる一切経は、現在でも販売されていますが、あまりにも膨大で、個人の手に負えるような物ではありません。しかし幸いなことに、日本人に馴染みのある般若心経ならば版木一枚に収まり、それだけを買うことができるのです。万福寺の山号の「黄檗」は、もともとはその樹皮から黄色の染料が採れる樹木で、防腐効果もあるため、写経の料紙に塗られることもあったそうです。その般若心経も黄色の紙に刷られています。黄檗は高価ですから、もちろん現在は黄檗染めではありませんが、その色からも「黄檗」を印象付けられます。
さてようやく原稿用紙のお話です。その般若心経を見ると、1行に20字で、20行に割り付けされています。空白の部分があるため、そう見えないかもしれませんが、400字はなくとも、割り付けだけは20字×20行、計400字になっていて、現在の原稿用紙と同じなのです。本当は順序が逆で、現代の原稿用紙の書式は、この鉄眼版をもとにしてできたものなのです。原稿用紙に隠元が隠れていた。洒落のつもりではありませんが、現代生活のあちこちに、歴史その物とまでは言えませんが、歴史の痕跡が残っている。それに気が付くと、歴史がとても身近に感じられます。
宝蔵院には多くの見学者が来ますが、その大半が印刷やフォントに関わる仕事をしている人達だそうです。何をするにも、原点を見ておきたいということなのでしょう。見習うべき心掛けです。
承応三年(1654)、長崎に在住する中国人の度重なる招聘に応えて、明の禅僧隠元が崇福寺の住職として来日し、黄檗宗を伝えました。隠元自身は3年で帰国するつもりだったようですが、周囲がそれを認めません。4代将軍徳川家綱は山城国の宇治に寺領を寄進し、中国にあった黄檗山万福寺と同じ名前の禅院を創開。帰国を断念せざるを得ない状況になりました。
この隠元の弟子に、鉄眼道光という日本人僧侶がいました。彼は寛文四年(1664)、一切経(大蔵経)全巻の開版を志しました。一切経とは、簡単に言えば仏教の経典の大全集でして、一人の人間が一生掛かっても読み切れない程の量があります。彼は数々の苦難を乗り越えて、ついに延宝六年(1678)に完成させました。読むだけでも大変ですのに、それを版木に彫って印刷するという、途方もない大事業です。
版木はそれぞれが26㎝×82㎝×1.8㎝の大きさで、総計約6万枚に及ぶそうです。版木は桜材で、節のないこの大きさの板を採れる桜の木が何本必要であったか。桜の名所の吉野に近かったことは、材料を得やすかったとはいえ、それにしても大変なことなのです。
これらの版木は「鉄眼版」と呼ばれ、現在は万福寺の塔頭である宝蔵院に伝えられています。そして驚くべき事に、今なお刷り立てが行われているのです。話が一寸逸れますが、大学院生の頃、塙保己一が開版した『群書類従』の版木を保存している、渋谷の温故会館に住んでいたことがあります。私の母校である國學院大學に隣接していて、登校時間が1分という便利なところでした。それはともかく、そこでは今もその版木で刷り立てが行われ、『群書類従』が販売されているのです。高価な物でしたが、手間の掛かる作業を見ながら、それも当然と思ったことでした。現在の本が安すぎるのです。 閑話休題。この版木は、刊行物やパソコンのフォントとして、日本では最も馴染みのある明朝体で彫られています。明朝体の特色は、縦画が太く横画が細く、また横画の右端が三角に盛り上がっていることにあります。一般に漢字は横画の方が多いので、横画が細い方がすっきりして読みやすく、理に適っています。例えば「書」という漢字を、横画を太く縦画を細く書いたら、線の間隔が詰まって、判読できなくなってしまう。文字の大きな新聞の見出しならともかく、新聞記事がみなゴチックで印刷されるとしたら、字の大きさはもっと大きくならざるを得ないでしょう。
さてそれらの版木で刷られる一切経は、現在でも販売されていますが、あまりにも膨大で、個人の手に負えるような物ではありません。しかし幸いなことに、日本人に馴染みのある般若心経ならば版木一枚に収まり、それだけを買うことができるのです。万福寺の山号の「黄檗」は、もともとはその樹皮から黄色の染料が採れる樹木で、防腐効果もあるため、写経の料紙に塗られることもあったそうです。その般若心経も黄色の紙に刷られています。黄檗は高価ですから、もちろん現在は黄檗染めではありませんが、その色からも「黄檗」を印象付けられます。
さてようやく原稿用紙のお話です。その般若心経を見ると、1行に20字で、20行に割り付けされています。空白の部分があるため、そう見えないかもしれませんが、400字はなくとも、割り付けだけは20字×20行、計400字になっていて、現在の原稿用紙と同じなのです。本当は順序が逆で、現代の原稿用紙の書式は、この鉄眼版をもとにしてできたものなのです。原稿用紙に隠元が隠れていた。洒落のつもりではありませんが、現代生活のあちこちに、歴史その物とまでは言えませんが、歴史の痕跡が残っている。それに気が付くと、歴史がとても身近に感じられます。
宝蔵院には多くの見学者が来ますが、その大半が印刷やフォントに関わる仕事をしている人達だそうです。何をするにも、原点を見ておきたいということなのでしょう。見習うべき心掛けです。
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