一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【78】

2010-05-07 13:11:03 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【78】
Kitazawa,Masakuni


 ツツジの咲く時期が年々早まっている。今年は4月の半ばに満開となり、青木やよひの散骨式には散っているのではないかと心配したが、その後の寒さで持ち直し、華やかな緋色や紅で参加いただいたひとびとの目を楽しませてくれた。例年なら5月上旬の今頃は新緑が美しいのだが、もはや新緑ではない。

古代インドの社会と宇宙論 

 翻訳の仕事と青木の介護などで、机の上に積んだままであった何冊もの本を、ようやく落ち着いて読みはじめた。そのひとつが Wendy Doniger:The Hindus;An Alternative History,Penguin Press, 2009 という700頁に及ぶ大著である。 

 わが国でも中村元博士の業績をはじめ、インド哲学研究は世界的水準にあるが、一般には近づきがたいアカデミーの世界と思われている。またインド紹介や紀行文は数多いが、あまりにも断片的で、この壮大な文明の背景はほとんど伝わってこない。

 その点本書は、約5000万年以前からのインドの歴史をたどりながら、キリスト紀元前1500年頃に遡るヴェーダ類、同じく前800年頃のブラフマナ類、前600年頃のウパニシャド類、前400年頃の『ラーマーヤナ』や前300年頃の『マハーバーラタ』などの大叙事詩を徹底的に渉猟しながら、それらの説話や神話を通じて古代インドの壮大な世界観と、それを生みだした文明の奥深さ、さらに古代インド社会のおおらかさと自由さをみごとに解明している。いうまでもなく、それがしだいにカースト制度の固定化や宗派的対立を生み、イギリスの植民地支配の「分断して統治せよ」とその誤った近代化によって変形し、多くの矛盾と悲劇をもたらす過程ももちろん追求されている。

 だがこの古代の分析にほぼ半分の頁が費やされているのをみてもわかるように、今日の人類にも教訓をあたえるようなインド思想の源泉は、まさに古代にある。

反戦の書『マハーバーラタ』 

 たとえば『マハーバーラタ』である。『ラーマーヤナ』には日本語の要約がある(しかしラーマとシータが再び結ばれてめでたしという結末になっているが、原書はその後の悲劇的な離別である)が、18巻に上るこの膨大な叙事詩には、第6巻の一部である「バガヴァッド・ギーター」の完訳を除いて日本語訳はない。

 男神たちや女神たちの子孫であり、親族でさえあるカウラヴァの一族とパーンダヴァの一族との葛藤と戦いを描いたこの叙事詩は、はじめインダス峡谷に、その後ガンジス平原に栄えた古代の諸王国の征服や被征服、戦闘や敗北など現実の生々しい歴史を遠く反映しながら、それをより神話的・伝説的次元に昇華しているといえるが、「バガヴァッド・ギーター」が明示しているように、さらにそれをインド古代哲学によって批判的にまとめあげ、語りあげたものである。 

 戦闘の前夜、殺戮に思いをおよぼし、嫌悪と迷いに陥った英雄アルジュナのもとに、戦士の姿となったクリシュナの神があらわれ、ヨーガの教えを説く。すなわち戦争は神々が創りだした迷妄(マーヤー)にほかならないが、戦士たる汝は、この迷妄の戦闘に参加するという行為(カルマ)を通じてしか、このマーヤーの帳を破ることはできない。迷妄の世界では、すべては矛盾からなっている。だがひとつひとつの矛盾は、それを認識(ジュニャーナ)し、それを業(ごう:カルマ)として生き抜くことで、はじめて解消する。カルマのなかで認識(ジュニャーナ)は自己の運命に対する信愛(バクティ)となり、そこで汝の個我(アートマン)は宇宙の個我(アートマン)のなかに溶け込み、ブラフマン(宇宙我)となる。これが解脱(モクシャまたはムクティ)、すなわちマーヤーからの離脱なのだ、と。 

 (この思想は、一部が彼の『日記』のなかで共感をもって引用されているだけではなく、まさにベートーヴェンの思想であり、生き方であり、音楽である)。 

 その後の恐るべき戦闘で、クリシュナの助けをえたアルジュナは勝利を手にするが、パーンダヴァの一族もやがて次々と死に、戦士クリシュナも狩人に射られて死ぬ(もちろん神として再生するが)。アルジュナも兄弟とともに、ヒマーラヤの山々で死ぬ。まさにマーヤーの世界の「はかなさ」を歌うことで全編は終わる。 

 ドニガーは『マハーバーラタ』を世界最大の反戦の書と呼び、その思想はガーンディにいたるとしているが、まさにその通りであろう。ガーンディの非暴力(アヒンサ)は、戦争を含む暴力(ヒンサ)の全否定(ア)であって、けっして弱者の戦術などではない。 

 だが非暴力も、観念にとどまる限り、世界を変革する力とはなりえない。行為(カルマ)による身体的な力となってこそ、マーヤーの世界の矛盾を克服できるのだ。

青木やよひの散骨式 

 4月24日に青木やよひの散骨式が行われた。当日は曇り時々雨の天候であったが、海は比較的穏やかで、借り切った遊覧船がほぼ満席の21名の方が参加してくださった。伊東港の沖合手石島近くで、波にゆられながら、ひとりずつ、一握りの遺灰を撒き、花をたむけた。 

 終了後ヴィラ・マーヤに集まり、それぞれの自己紹介や青木の思い出を語り、おいしい地魚の握り寿司とビール、日本酒などでにぎやかに懇談し、また青木の「ベートーヴェン不滅の恋人」のヴィデオ(NHK総合)などを鑑賞し、彼女の業績を偲んだ。 

 ご参加のみなさん、そして当日都合がつかず不参加のメールや電話をいただいた方々、心からお礼を申しあげます。



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