一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

楽しい映画と美しいオペラ―その22

2009-09-07 10:09:12 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その22

     ドミンゴ、バロック・オペラに命を吹き込む
                  
ヘンデルの『タメルラーノ』  

 ベートーヴェンのもっとも敬愛した作曲家はヘンデルであったらしい。これは青木やよひ先生から教わった話だが、ちょっと意外だった。ボン時代の若きベートーヴェンは、ピアノの練習にバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を教材にしたという話も聞くに及んで、バッハこそベートーヴェンの理想の音楽家像であったにちがいないと勝手に思い込んでいた。  

 ヘンデルは40を超えるオペラを作曲している、音楽史上有数のオペラ作曲家である。その正統の後継者はモーツァルトではないかというのが、ヘンデルのいくつものオペラを聴いてきた私の素朴な感想でもあった。ベートーヴェンのオペラは『フィデリオ』1曲のみである。それにベートーヴェンの構築的な、壮麗な音の世界は、やはりバッハに源流があるのだろうとも思っていた。  

 私を含めて日本の音楽愛好家は、ヘンデルを知らない。6月23日付けの当ブログ「ヘンデル没後250周年」で北沢方邦先生が書かれた、〈壮麗な音のバロック建築を作り上げた〉ヘンデルの真の姿は、私の眼前でヴェールに包まれたままである。その姿こそ、ベートーヴェンが敬愛してやまないヘンデルその人であるのだろうが。  

 そんな隔靴掻痒の気分でいた8月22日に、NHKのBShiで、ヘンデルのオペラ『タメルラーノ』が放映された。『ジュリオ・チェーザレ』『ジュスティーノ』『アルチーナ』『アリオダンテ』『オルランド』『アグリッピーナ』に次ぐヘンデル・オペラ体験で、分厚かった私の眼前のヴェールも、少しずつ剥がされていくような気分になってきている。今回の『タメルラーノ』は、ドミンゴがバヤゼットを歌うというので、何週間も前から心待ちにしていたのである。  

 タメルラーノとは、14世紀後半から15世紀初めにかけて、「東は中国の辺境から西はアナトリアまで、北は南ロシアの草原地帯から南はインド北部に至る広大な地域を支配下に置き、中央アジア史上空前絶後の大帝国を建設した」(『世界大百科事典』)ティムールの、ヨーロッパにおける呼称である。青年時代に右脚に不治の重傷を受け、そのために「跛者ティムールTimur-lang」(ペルシャ語でティムーリ・ラング)と呼ばれ、これがヨーロッパに伝えられてタメルランTamerlaneとなったらしい。タメルラーノはそのイタリア語呼称である。  

 1402年7月、タメルラーノはバヤゼット1世率いるオスマン・トルコとアンゴラ(アンカラ)で戦い、勝利した。このオペラは、そのとき囚われたバヤゼットとその娘アステリア、タメルラーノと同盟の関係にあるギリシャの王子アンドロニコ、それにタルメラーノの4人が繰り広げる、愛と憎しみの物語である。  

 オペラのタイトルは『タメルラーノ』だが、ここでのタメルラーノには、私たちが「ティムール」という名前から想像する、好戦的で威圧的な雰囲気はまったくない。心ならずも好きになってしまった宿敵の娘アステリアの行動に振り回される、どこか人のいい君主なのである。演じるバチェッリも、見事なバロック唱法を披歴しながら、バレエを踊るような軽やかな動きを見せる。対してバヤゼットは、囚われの身を嘆き、タメルラーノへの憎しみを露わにし、娘への愛に苦悩する。バヤゼットこそ、このオペラの主役なのである。  

 テノールが主役というと、19世紀以降のオペラでは一般的だが、ヘンデルの時代まではそうではなかった。去勢をしたカストラートが主役で、その華麗な技巧を競い合うのがバロック・オペラであったのだ。『タメルラーノ』は、テノールが主役となった、オペラ史上初の出し物かも知れないという(堀内修氏)。ドミンゴは、オテッロ、ローエングリン、ドン・ホセ、カヴァラドッシなど、余人ではなし得ない輝かしいキャリアを積み重ねた後、68歳にしてはじめて、テノール主役の原点に返ったのだ。その冒険精神には敬意を表さずにはいられない。  

 ドミンゴはやはり稀有なテノールである。彼が歌うことによって、現実感がいささか希薄なバロック・オペラが、人間の相貌を濃くしはじめる。憎しみ、哀しみ、愛という人間的な情感が、まことにニュアンス豊かに歌われる。とりわけ第3幕冒頭のアリアの美しい気高さ、そして10分間にも及ぶ自害の場面の、劇的で深味のある演技。まさにドミンゴならではのバヤゼットである。  

 バヤゼットの娘アステリアは、アンドロニコを愛しながらも、また復讐心を秘めながらも、タメルラーノの求婚を受け入れようとするのだが、その状況にふさわしく、悲しみに満ちた美しいアリアが与えられている。アンドロニコとの二重唱も、うっとりするほど美しい。ヘンデルの優れたメロディーメーカーぶりがいかんなく発揮されている。アステリア役のインゲラ・ボーリンもいいし、アンドロニコ役のサラ・ミンガルドもいうことはない。バヤゼットの自害の後、タメルラーノに慈悲心が生まれ、アステリアとアンドロニコは結ばれる。幕切れ直前のタメルラーノとアンドロニコの二重唱がまた印象的である。  

 指揮はイギリスのポール・マクリーシュ。ヘンデルの権威だということだが、ドミンゴと並んで、この上演を成功に導いた功労者といっていいだろう。軽快で、躍動感に富み、時に劇的、時に情感に溢れと、4時間近い上演を飽きさせない。舞台を白一色で統一し、タメルラーノの衣装にはラメをふんだんに施すなど、美術・衣裳は洗練の極み。演出にも強い説得力があり、この上演は、それこそ総合芸術というに足りる、第一級のものといえよう。

2008年4月1日・4日 マドリッド王立歌劇場
バヤゼット:プラシド・ドミンゴ
タメルラーノ:モニカ・バチェッリ
アステリア:インゲラ・ボーリン
アンドロニコ:サラ・ミンガルド
イレーネ:ジェニファー・ハロウェイ
レオーネ:ルイージ・デ・ドナート
マドリッド王立劇場管弦楽団(マドリッド交響楽団)
指揮:ポール・マクリーシュ
演出:グレアム・ヴィック
美術・衣裳:リチャード・ハドソン
照明:ジュゼッペ・ディ・イオリオ
振付:ロン・ハウエル

2009年8月31日 j-mosa



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