「こども論」について残っていた部分を含めて全文掲載します。
近代からポスト近代に変化するの中での子どものとらえ方の変化。そしてその変化の中での混乱をまとめたものです。
国語の現代文の分野においても、教育界においても重要なテーマです。
【子ども論】
「子ども論」という分野があります。
この分野は、誰もが自分の体験として感じることができるものなので、わりと理解しやすいものではないでしょうか。
【「巨人の星」と「タッチ」】
子ども論を考える上で、象徴的な例が「巨人の星」と「タッチ」です。
アニメにもなったマンガで、知っている人も多いのではないでしょうか。野球を題材にした漫画で、大ブームになりました。
「巨人の星」は梶原一騎、川崎のぼるという人の作品で、星飛雄馬という主人公が、父親である星一徹に小さいころからスパルタ教育を受けて、巨人軍のエースに成長していくというお話です。父親は息子を当然のように殴ります。それに時には反発しながらも飛雄馬はそれに耐え、逆にそれをバネとして成長していきます。
わたしは小学生のころそのアニメを見ていました。当時、「アタックNO.1」「サインはV」「エースをねらえ」など、そういういわゆる「スポ根」ものが多くありました。私の世代に人は成功のためには努力と根性が必要である(?)と教えられたわけです。そしてそれを実践していた人もかなりいたのではないでしょうか。
私世代の根っこには、スポ根精神が存在しているのです。
「タッチ」は、私が大学生のころ連載が始まったと記憶しています。あだち充という人の作品で、上杉達也という主人公が、双子の兄の死を乗り越え甲子園で活躍する姿を描いています。
ただし、同じ野球を題材といていながら、こっちはぜんぜん雰囲気が違います。高校野球を題材にしながら、恋愛や友情をテーマとしていて、根性なんて無縁の世界です。もちろんスポーツですから時にはがんばるわけですが、それもほどほどと言ったところで終わってしまいます。それよりも主人公の達也と幼馴染の南との恋愛のほうが物語全体の主軸になっていたと思います。マンガもアニメも大ヒットしました。
さて、「巨人の星」では子どもである星飛雄馬君は、半人前であるからこそ、親が一人前の大人にしようと厳しく接しました。子どもを大人になる前の未成熟な存在として教育していたわけです。
一方、「タッチ」では上杉達也も、その周りの高校生たちも、ひとりの立派な人格として描かれています。時には高校生らしい無邪気さもあるのですが、それはそれでひとりの人間の個性として認められているのです。大人たちは時にはアドバイスらしきことを言うこともあるのですが、押し付けになりません。相手を高校生という半人前の存在としてではなく、あくまで一人の人間として接しています。
つまり、「巨人の星」は近代の作品で、子どもは、大人になる前の未成熟な、半人前の存在として描かれていますが、「タッチ」は子どもも大人と同じように一人前の人間として描かれているのです。
【経済主義と子どもの関係】
このような子どもに対する認識の変化はどうして起こってきたのでしょう。
近代の大きな特徴は経済主義です。お金のあることが正しく、お金がないことが間違っています。間違っていると言うとしっくりこない人もいるかもしれませんが、いい年をした大人が働かずぐだぐだしていれば、世間から白い目で見られると思います。お金もうけばかり考えている人は強欲であまりよく見られないという傾向はありますが、それは日本人独特の横並び意識というもうひとつの価値観のためで、現代人のだれもがお金を必要としているのは明らかです。
お金を座標軸として見ますから、労働力にならないものは「一人前」として扱われません。
子どもは大人になる前の段階ですので労働力として計算できません。「働かざるもの食うべからず」という表現がありますが、子どもはまだお金を生み出していませんので、一人前の人間になる前の存在としてとらえられてきました。労働力として計算できるようになると一人の人間としての権利が得られる、そう社会は(無意識のうちに)見ていたのです。その意味で、近代に子どもに「人権」はなかったのです。
だから、子どもはよりよい大人になるために、「教育」されました。ここでいう「教育」は大人になるためのしつけという意味も強くあったと思われます。だから体罰もある程度は容認されてきたといっていいでしょう。
しかし、「ポストモダン」の時代になり、経済的な豊かさに対する疑念が生まれてきました。
経済的にいくら豊かになっても、朝から晩まで働きづめで幸せと言えるのか。もっと家族との時間を大切にすべきではないか、と家族のために一生懸命がんばってきたお父さんは非難の対象となってしまいました。
子どもは子どもで、いい大学に入ればいい就職があり、そうすれば経済的に安定すると教えられ、詰め込み教育が行われ、常軌を逸した受験勉強を強いられました。
このような近代に対するアンチテーゼとして、「心の豊かさ」が叫ばれ、家族の大切さが繰り返しドラマで描かれました。子どもたちには「ゆとり」が与えられ、そして少子化という事情もあいまって、子ども一人ひとりを大切にし、さらに子ども一人ひとりにお金をかけるようになりました。
こうして子どもは本当に「宝」となりました。
これはいいことだと思います。昔の子どもたちに比べて今の子どもたちは素直で明るくあんりました。物怖じせず、自分の意見をしっかり言います。しかし、いくつかの点で気になることがあります。
【現状の課題】
1、子どもを甘やかしすぎてはいないか。(「近代」の復讐)
詰め込み教育の反省から、「ゆとり教育」が誕生しました。この「ゆとり教育」のおかげで子どもが明るく元気になったのは事実だと思います。
しかし、この「ゆとり教育」は一方では学力低下を招いたという批判がなされました。どのデータをもとにしてこれを検証すればいいのかわからないのですが、その傾向はあったのだと思います。
ただし、事実を曲解した議論もあったのも事実です。
例えば、当時円周率を3,14ではなく3で教えるということが話題になり、これに対して、大きな声で批判している人がたくさんいました。しかし、ではなぜより正確な3,1416でなく3、14なら許されるのでしょうか。3でだめなら、3,14でもだめなはずで、その理由もわからずにただ回りの空気に流されて批判していた人が多くいました。
あるいは、大学生の学力低下が叫ばれ、大学生にもなって分数の計算もできないということを問題視する意見も多く聞かれました。しかしこれは学力低下の問題ではなく、大学進学率が急激に上がったためであり、また、文系学部で数学が必要がないという大学入試制度のためであり、「ゆとり教育」の問題ではないのです。
どうも「ゆとり教育」は日本人の好きな「空気」によって、必要以上に悪者にされたようでした。
ただ、「ゆとり教育」が学力低下を招いていたというのは教員をしていて直感的には感じられました。また、学力調査などの数字を見ても、その傾向があったのではないかと感じさせられるものでした。
さらに、子どもたちは携帯ゲームで遊ぶようになりました。一人で遊ぶことができ、しかも持ち運びが簡単なので、好きな場所で、好きなだけ遊ぶことができます。よくできたゲームであるため飽きることもなく、子どもたちは退屈という言葉を忘れてしまいました。現代っ子の辞書には「退屈」という言葉はないのです。子どもたちのゲームブームなどを見ていると、この子達は将来本当に大丈夫なのだろうかと感じられるようになりました。
一方では近隣国の躍進が伝えられます。韓国や中国の受験戦争のニュースや、様々な場面での両国の若者の語学力を見て、そして、韓国企業の国際的な躍進とあいまって、このままでは日本は国際競争力を失い、どんどんどんどん、貧しくなっていくのではないかと誰もが心配することとなってしまいました。
このような状況になって、揺り戻しがはじまりました。確かに子どもを大切にすることは大切であるし、子どもの人権を大切にすることは大切なことです。昔はそれをあまりにも軽視しすぎていたのも事実であろうと思います。しかし、最近の子どもに対する対応はいきすぎなのではないか、子どもたちを甘やかしすぎたのではないか。「ゆとり教育」の見直しがはじまったのです。
これはつまり、「経済優先主義」の復活であり、ポストモダンから近代への回帰と見ることができます。
2.自立できない子ども、子離れできない親
最近の子どもは反抗期がなくなってしまいました。それはなぜなのでしょう。
「ガンコ親父」という言葉がありますが、昔の父親は怖いのが当たり前でした。学校にも名物先生がいてたいてい怖い先生でした。大人が怖いのが当たり前で、それに鍛えられていたわけです。
なぜ、怖い大人が多かったのかというと、昔は大人は、子どもによりよい大人になってもらいたくて厳しく接していたからです。小学生時代ならその親の言葉に従っているだけでよかったわけですが、中学生、高校生になるにしたがって、大人たちからどんどん大人の価値観を押し付けられるようになります。これは大人たちが単に自分の価値観を押し付けたかったからではありません。社会に出て早く一人前の社会人としてみとめてもらえるようにという親心からだったのです。
しかし子どもにしてみれば子どもとしての価値観を否定されることになるので、おもしろくありません。「コンチクショウと」と思うようになり、大人が敵となってしまっていたわけです。だから、反抗期というのは、だれが悪いというようなものではなく、子どもが大人になるための通過儀礼であったのです。
ところが近年、子どもたちは大切に育てられるようになりました。大人たちは子どもの言う事をよく聞き、子どもをできるだけ認め、子どもを応援するようになりました。
例えば昔は部活動の応援に熱心な親なんてあまりいませんでした。しかし、最近では大会や試合のたびに応援に来る親も珍しくありません、高校でもそうなのです。もちろん、これは悪いことではありません。こんなに家族に応援してもらってうらやましいくらいですし、家族の絆が深まり、子どもの成長にとっていいことです。しかし、これは反面弊害がでてきます。子どもが親離れできなくなるということです。さらに親もなかなか子離れできなくなってしまいます。
その結果子どもはいつまでたっても子どものままになってしまい、モラトリアム状態、つまり、いつまでたっても就職しない子どもや、いつまでたっても結婚しない子どもが増えてきます。経済的にも、生活面でも親がずっと面倒をみてくれるのだから、それに甘えてしまう子どもが増えてしまうのです。
私たちはここにポストモダンの問題点を見ることになります。
つまり、子どもの人権を認めようとし、子どもの人格を認めようとした結果、逆に子どもの自立が遅れ、ある意味では親も自立できなくなってしまったのです。
近代の制度を新たなものに改革しようとしたら、逆に前近代的な状態になってしまったというような皮肉な結果になったような気もするのです。
3.時代の変化についてけない
子どもに対する対応が大きく変化したように、様々な分野で時代は大きく変化しています。世の中が変化するのは当たり前です。しかし近年はその変化があまりに大きく、急激です。するとどうなるのか、大人は自分が子ども時代に一生懸命努力して見につけてきた価値観が、大人になって時代遅れとなってしまって、とまどってしまうようになります。誰もが自分の価値観を信じられなくなり、自己分裂を起こすことになってしまいます。
体罰の問題もそうです。
最近、体罰が大きな問題になっています。体罰によって肉体に後に残るようなダメージを負ったり、自殺に追い込まれたり、このようなことがおこる以上、体罰はあってはならないとのは当然です。
しかし、以前は体罰もある程度容認されてきたことも事実です 私が子どものときは体罰は当たり前のように行われていました。「当たり前のように」というと実は少しおおげさなのですが、しかし、体罰がなされたからと言って、大きな問題になるわけではありませんでした。親の中には、子どもに体罰をする教師を熱心な教師ととらえている人もいました。特に運動部の指導においては、親のほうから、「言うこと聞かなかったら殴ってやってください。」ということがありました。
今はそんなことはありません。ここ2,30年の間で流れはまったく変わってしまいました。
昔の教育を受けて、それを信じていた親や教師は、ある程度子どもは厳しく育てるものだと考えています。特に最近のわがままなことを平気でする子ども、人の迷惑を顧みず非常識な行動をとる子どもなどを見ていると、さすがにもっと厳しくしつけるべきではないかと思って当然だと思います。だから、行き過ぎはよくないのは当然として、ある程度の体罰を認めるべきだという考え方もよく理解できます。そして、そのような考え方は過去は否定されなかったわけです。
子どもたちの中にも厳しい指導のもと実績を上げてきた人は多く、行き過ぎは悪いが、厳しい指導はあってもいいと考えている生徒は多いのです。
体罰による自殺があり、あるいは度が過ぎる体罰があったりして、世の中の雰囲気は体罰は絶対にダメという風潮になりました。それと同時に厳しい指導はダメというような風潮も生じてきました。もちろんこの背景にはポストモダン的な子ども観があるのは明らかです。
そしてそれに異を唱えることは「空気」が許さなくなってしまいました。
(日本人のこの「空気支配」はいつか日本人を滅亡に導くような気がします。)
この結果、体罰はだめとしても、子どもには厳しく指導すべきだと考えていた、それを自分が子どものころから信じ続けてきた大人や、厳しい指導のおかげで成長していると考えている子どもは、自分の信条を否定せざるを得なくなり、いったい自分は何を信じていいのかわからなくなってしまうという事態に直面してしまっています。
この大きな混乱は徐々に日本社会を苦しめる結果となってしまうのではないかと心配されます。
4.経済的に豊かであるからこそのこころの豊かさなのではないか。
近代合理主義が、経済優先主義を生み、競争社会が生まれ、が人間の心を貧しくしているというポストモダン主義の考え方はおそらく誰もが否定はしないでしょう。しかし、だからと言って、経済を切り捨てていいのかというと、だれもが賛成するとは思えません。
確かに、競争社会によって生じてきた学歴社会、詰め込み教育などのような近代的な教育を簡単に肯定するわけにはいきません。もっと子どもがのびのびと成長できるような社会に変革しなければならないはずです。
しかし、そのようなことを言っていられるのは、日本が比較的裕福な国だからではないでしょうか。余裕があるときは、だれでも優しい気持ちになることができます。しかし、余裕を失った瞬間、その偽善者の顔の下から本性が現れる。バブル経済の時はみんな平和で優しい気持ちになり、(多少の反対もありましたが)「ゆとり教育」が受け入れられました。しかし、バブルが崩壊し、韓国や中国の経済的な躍進が顕著になるやいなや、だれもがこころの豊かさを失ってしまいました。日本の経済的な優位性が揺らいできた瞬間に、「ゆとり教育」は戦犯となり、「ゆとり教育」を推進した人は、日本社会特有の集団いじめのターゲットとなってしまったのです。
経済的に豊かであり、なおかつ競争社会でない、助け合う社会でありつづけることは可能なのかどうか。そこが今我々に問われているのではないかと感じるのです。
5.未来につけを回しての、発展途上国につけをまわしての経済的な豊かさ
先進国がなぜ先進国でいられるのか、その要因のひとつに、発展途上国の存在があります。先進国は発展途上国の安い資源や安い労働力により商品を作り、それを売ることによって自国の利益を得てきました。つまり、発展途上国との経済力の落差を利用して利益を得てきたのです。悪い言い方になるかもしれませんが、発展途上国をくいものにして経済発展を遂げてきたのです。
もちろん、発展途上国はそれを利用して発展し、経済力をつけてきたわけですから、それが悪いこととは言えないのかもしれません。しかし、なんとなく卑怯な気もします。
そもそも、発展途上国という言い方自体、先進国めざして発展する国がいい国であり、どの国も先進国を目指して経済発展を遂げるべきだという、先進国の思い上がりが感じられます。経済発展が悪いこととは言いません。しかし、先進国からの押しつけの近代化は、自国の文化を破壊し、その国の本来の姿を見失わせてしまうという危険性があるのです。
このことを明確に指摘したのは、夏目漱石でした。今でも高校のいくつかの現代文の教科書の中に、「現代日本の開花」という漱石の評論が残っていますが、そこで指摘しているのは、近代化を押し付けられた明治の日本が、本来の自分の姿を見失いノイローゼ状態になっているというものでした。
丸山真男の「『である』ことと『する』こと」という評論も同じテーマです。高校の現代文の評論の定番となっています。身分制度があった徳川時代の日本は『である』価値観、『である』文化であった。しかし、近代になって、日本人も権利を主張しなければならなくなった。つまり『する』価値観が浸透してきた。この両方の価値観のなかで、日本人は価値観を見失い混乱しているというような内容です。
いずれの評論も、近代化の過程で日本人が従来の価値観を急激に変更せざるを得なくなり、自分の立ち位置を見失い混乱していることを懸念しています。先進国の他国への有無を言わせぬ介入は、結局は大切なそれぞれの文化を破壊することにつながるのではないか。もしそうだとすれば、このような先進国によるグローバル化は、大きな誤りなのではないかとも思えるのです。
近年になり、イスラム文化圏とアメリカの関係がうまくいっていません。この問題の根本は、エルサレムに無理やりユダヤ民族がイスラエルを建国し、それを後押ししたのがアメリカであったということです。その後もアメリカがイスラムの中に自分の価値観を無理やり押し付けていったように思われます。もとろんイスラム圏の一部の人たちのテロリズムを肯定するわけではありません。しかし、先進国の横暴がいけなかったことは明らかです。
話を戻します。
発展途上国が経済発展し、先進国に追いつくと先進国は経済的な優位性を失い、豊かさを実感できなくなります。一時、一人勝ち状態だったアメリカが、日本やEUの躍進によって、富を得られなくなった時期がありました。次にはBRICsと呼ばれる、ブラジル、ロシア、インド、中国が台頭してきました。先進国が先進国でいられなくなる日がやってきました。それは必然です。しょうがないことのはずなのです。
その時、アメリカが何をしたか。富の囲い込み運動です。特許、著作権など、自分たちの元気だったころ生まれた知的財産を自国から出て行かないようにがんばりました。
著作権なんて大変なことになっています。ディズニーの権利を守るために、どんどん権利期間が伸びていっているのです。これは明らかに芸術に対する冒涜です。この近代においては、著作権や特許は必要なものです。しかし、権利者が死んだあと何年も権利が続くのであれば、新しいものは生まれにくくなります。さらに言えば、音楽ではラップなどの音楽は以前あった音源を平気で使用しているのに、著作権が問題となっていません。もはや基準が何かわからなくなってきています。
これは本当にフェアなのでしょうか。
もはや、先進国は経済的な豊かさという価値観に縛られていては、何をしでかすかわかりません。もっと別の価値観を見つけなければ、自己喪失の恐怖に陥ってしまいます。
これは、未来の子どもたちの富を現代人が使っているということになるわけです。すくなくとも今私たちが生きているこの近代の経済は未来に借金を残すという裏技を使うことで何とか成立してきたのです。つまり子供たちの幸福を犠牲にすることによって成立する社会が現代社会なのです。
子供をしあわせにするといいながら、その本質はこどもを不幸にするシステムを作り上げている、そこで生み出される「子ども論」にはどこかうさんくささがつねにつきまとっているのです。
近代からポスト近代に変化するの中での子どものとらえ方の変化。そしてその変化の中での混乱をまとめたものです。
国語の現代文の分野においても、教育界においても重要なテーマです。
【子ども論】
「子ども論」という分野があります。
この分野は、誰もが自分の体験として感じることができるものなので、わりと理解しやすいものではないでしょうか。
【「巨人の星」と「タッチ」】
子ども論を考える上で、象徴的な例が「巨人の星」と「タッチ」です。
アニメにもなったマンガで、知っている人も多いのではないでしょうか。野球を題材にした漫画で、大ブームになりました。
「巨人の星」は梶原一騎、川崎のぼるという人の作品で、星飛雄馬という主人公が、父親である星一徹に小さいころからスパルタ教育を受けて、巨人軍のエースに成長していくというお話です。父親は息子を当然のように殴ります。それに時には反発しながらも飛雄馬はそれに耐え、逆にそれをバネとして成長していきます。
わたしは小学生のころそのアニメを見ていました。当時、「アタックNO.1」「サインはV」「エースをねらえ」など、そういういわゆる「スポ根」ものが多くありました。私の世代に人は成功のためには努力と根性が必要である(?)と教えられたわけです。そしてそれを実践していた人もかなりいたのではないでしょうか。
私世代の根っこには、スポ根精神が存在しているのです。
「タッチ」は、私が大学生のころ連載が始まったと記憶しています。あだち充という人の作品で、上杉達也という主人公が、双子の兄の死を乗り越え甲子園で活躍する姿を描いています。
ただし、同じ野球を題材といていながら、こっちはぜんぜん雰囲気が違います。高校野球を題材にしながら、恋愛や友情をテーマとしていて、根性なんて無縁の世界です。もちろんスポーツですから時にはがんばるわけですが、それもほどほどと言ったところで終わってしまいます。それよりも主人公の達也と幼馴染の南との恋愛のほうが物語全体の主軸になっていたと思います。マンガもアニメも大ヒットしました。
さて、「巨人の星」では子どもである星飛雄馬君は、半人前であるからこそ、親が一人前の大人にしようと厳しく接しました。子どもを大人になる前の未成熟な存在として教育していたわけです。
一方、「タッチ」では上杉達也も、その周りの高校生たちも、ひとりの立派な人格として描かれています。時には高校生らしい無邪気さもあるのですが、それはそれでひとりの人間の個性として認められているのです。大人たちは時にはアドバイスらしきことを言うこともあるのですが、押し付けになりません。相手を高校生という半人前の存在としてではなく、あくまで一人の人間として接しています。
つまり、「巨人の星」は近代の作品で、子どもは、大人になる前の未成熟な、半人前の存在として描かれていますが、「タッチ」は子どもも大人と同じように一人前の人間として描かれているのです。
【経済主義と子どもの関係】
このような子どもに対する認識の変化はどうして起こってきたのでしょう。
近代の大きな特徴は経済主義です。お金のあることが正しく、お金がないことが間違っています。間違っていると言うとしっくりこない人もいるかもしれませんが、いい年をした大人が働かずぐだぐだしていれば、世間から白い目で見られると思います。お金もうけばかり考えている人は強欲であまりよく見られないという傾向はありますが、それは日本人独特の横並び意識というもうひとつの価値観のためで、現代人のだれもがお金を必要としているのは明らかです。
お金を座標軸として見ますから、労働力にならないものは「一人前」として扱われません。
子どもは大人になる前の段階ですので労働力として計算できません。「働かざるもの食うべからず」という表現がありますが、子どもはまだお金を生み出していませんので、一人前の人間になる前の存在としてとらえられてきました。労働力として計算できるようになると一人の人間としての権利が得られる、そう社会は(無意識のうちに)見ていたのです。その意味で、近代に子どもに「人権」はなかったのです。
だから、子どもはよりよい大人になるために、「教育」されました。ここでいう「教育」は大人になるためのしつけという意味も強くあったと思われます。だから体罰もある程度は容認されてきたといっていいでしょう。
しかし、「ポストモダン」の時代になり、経済的な豊かさに対する疑念が生まれてきました。
経済的にいくら豊かになっても、朝から晩まで働きづめで幸せと言えるのか。もっと家族との時間を大切にすべきではないか、と家族のために一生懸命がんばってきたお父さんは非難の対象となってしまいました。
子どもは子どもで、いい大学に入ればいい就職があり、そうすれば経済的に安定すると教えられ、詰め込み教育が行われ、常軌を逸した受験勉強を強いられました。
このような近代に対するアンチテーゼとして、「心の豊かさ」が叫ばれ、家族の大切さが繰り返しドラマで描かれました。子どもたちには「ゆとり」が与えられ、そして少子化という事情もあいまって、子ども一人ひとりを大切にし、さらに子ども一人ひとりにお金をかけるようになりました。
こうして子どもは本当に「宝」となりました。
これはいいことだと思います。昔の子どもたちに比べて今の子どもたちは素直で明るくあんりました。物怖じせず、自分の意見をしっかり言います。しかし、いくつかの点で気になることがあります。
【現状の課題】
1、子どもを甘やかしすぎてはいないか。(「近代」の復讐)
詰め込み教育の反省から、「ゆとり教育」が誕生しました。この「ゆとり教育」のおかげで子どもが明るく元気になったのは事実だと思います。
しかし、この「ゆとり教育」は一方では学力低下を招いたという批判がなされました。どのデータをもとにしてこれを検証すればいいのかわからないのですが、その傾向はあったのだと思います。
ただし、事実を曲解した議論もあったのも事実です。
例えば、当時円周率を3,14ではなく3で教えるということが話題になり、これに対して、大きな声で批判している人がたくさんいました。しかし、ではなぜより正確な3,1416でなく3、14なら許されるのでしょうか。3でだめなら、3,14でもだめなはずで、その理由もわからずにただ回りの空気に流されて批判していた人が多くいました。
あるいは、大学生の学力低下が叫ばれ、大学生にもなって分数の計算もできないということを問題視する意見も多く聞かれました。しかしこれは学力低下の問題ではなく、大学進学率が急激に上がったためであり、また、文系学部で数学が必要がないという大学入試制度のためであり、「ゆとり教育」の問題ではないのです。
どうも「ゆとり教育」は日本人の好きな「空気」によって、必要以上に悪者にされたようでした。
ただ、「ゆとり教育」が学力低下を招いていたというのは教員をしていて直感的には感じられました。また、学力調査などの数字を見ても、その傾向があったのではないかと感じさせられるものでした。
さらに、子どもたちは携帯ゲームで遊ぶようになりました。一人で遊ぶことができ、しかも持ち運びが簡単なので、好きな場所で、好きなだけ遊ぶことができます。よくできたゲームであるため飽きることもなく、子どもたちは退屈という言葉を忘れてしまいました。現代っ子の辞書には「退屈」という言葉はないのです。子どもたちのゲームブームなどを見ていると、この子達は将来本当に大丈夫なのだろうかと感じられるようになりました。
一方では近隣国の躍進が伝えられます。韓国や中国の受験戦争のニュースや、様々な場面での両国の若者の語学力を見て、そして、韓国企業の国際的な躍進とあいまって、このままでは日本は国際競争力を失い、どんどんどんどん、貧しくなっていくのではないかと誰もが心配することとなってしまいました。
このような状況になって、揺り戻しがはじまりました。確かに子どもを大切にすることは大切であるし、子どもの人権を大切にすることは大切なことです。昔はそれをあまりにも軽視しすぎていたのも事実であろうと思います。しかし、最近の子どもに対する対応はいきすぎなのではないか、子どもたちを甘やかしすぎたのではないか。「ゆとり教育」の見直しがはじまったのです。
これはつまり、「経済優先主義」の復活であり、ポストモダンから近代への回帰と見ることができます。
2.自立できない子ども、子離れできない親
最近の子どもは反抗期がなくなってしまいました。それはなぜなのでしょう。
「ガンコ親父」という言葉がありますが、昔の父親は怖いのが当たり前でした。学校にも名物先生がいてたいてい怖い先生でした。大人が怖いのが当たり前で、それに鍛えられていたわけです。
なぜ、怖い大人が多かったのかというと、昔は大人は、子どもによりよい大人になってもらいたくて厳しく接していたからです。小学生時代ならその親の言葉に従っているだけでよかったわけですが、中学生、高校生になるにしたがって、大人たちからどんどん大人の価値観を押し付けられるようになります。これは大人たちが単に自分の価値観を押し付けたかったからではありません。社会に出て早く一人前の社会人としてみとめてもらえるようにという親心からだったのです。
しかし子どもにしてみれば子どもとしての価値観を否定されることになるので、おもしろくありません。「コンチクショウと」と思うようになり、大人が敵となってしまっていたわけです。だから、反抗期というのは、だれが悪いというようなものではなく、子どもが大人になるための通過儀礼であったのです。
ところが近年、子どもたちは大切に育てられるようになりました。大人たちは子どもの言う事をよく聞き、子どもをできるだけ認め、子どもを応援するようになりました。
例えば昔は部活動の応援に熱心な親なんてあまりいませんでした。しかし、最近では大会や試合のたびに応援に来る親も珍しくありません、高校でもそうなのです。もちろん、これは悪いことではありません。こんなに家族に応援してもらってうらやましいくらいですし、家族の絆が深まり、子どもの成長にとっていいことです。しかし、これは反面弊害がでてきます。子どもが親離れできなくなるということです。さらに親もなかなか子離れできなくなってしまいます。
その結果子どもはいつまでたっても子どものままになってしまい、モラトリアム状態、つまり、いつまでたっても就職しない子どもや、いつまでたっても結婚しない子どもが増えてきます。経済的にも、生活面でも親がずっと面倒をみてくれるのだから、それに甘えてしまう子どもが増えてしまうのです。
私たちはここにポストモダンの問題点を見ることになります。
つまり、子どもの人権を認めようとし、子どもの人格を認めようとした結果、逆に子どもの自立が遅れ、ある意味では親も自立できなくなってしまったのです。
近代の制度を新たなものに改革しようとしたら、逆に前近代的な状態になってしまったというような皮肉な結果になったような気もするのです。
3.時代の変化についてけない
子どもに対する対応が大きく変化したように、様々な分野で時代は大きく変化しています。世の中が変化するのは当たり前です。しかし近年はその変化があまりに大きく、急激です。するとどうなるのか、大人は自分が子ども時代に一生懸命努力して見につけてきた価値観が、大人になって時代遅れとなってしまって、とまどってしまうようになります。誰もが自分の価値観を信じられなくなり、自己分裂を起こすことになってしまいます。
体罰の問題もそうです。
最近、体罰が大きな問題になっています。体罰によって肉体に後に残るようなダメージを負ったり、自殺に追い込まれたり、このようなことがおこる以上、体罰はあってはならないとのは当然です。
しかし、以前は体罰もある程度容認されてきたことも事実です 私が子どものときは体罰は当たり前のように行われていました。「当たり前のように」というと実は少しおおげさなのですが、しかし、体罰がなされたからと言って、大きな問題になるわけではありませんでした。親の中には、子どもに体罰をする教師を熱心な教師ととらえている人もいました。特に運動部の指導においては、親のほうから、「言うこと聞かなかったら殴ってやってください。」ということがありました。
今はそんなことはありません。ここ2,30年の間で流れはまったく変わってしまいました。
昔の教育を受けて、それを信じていた親や教師は、ある程度子どもは厳しく育てるものだと考えています。特に最近のわがままなことを平気でする子ども、人の迷惑を顧みず非常識な行動をとる子どもなどを見ていると、さすがにもっと厳しくしつけるべきではないかと思って当然だと思います。だから、行き過ぎはよくないのは当然として、ある程度の体罰を認めるべきだという考え方もよく理解できます。そして、そのような考え方は過去は否定されなかったわけです。
子どもたちの中にも厳しい指導のもと実績を上げてきた人は多く、行き過ぎは悪いが、厳しい指導はあってもいいと考えている生徒は多いのです。
体罰による自殺があり、あるいは度が過ぎる体罰があったりして、世の中の雰囲気は体罰は絶対にダメという風潮になりました。それと同時に厳しい指導はダメというような風潮も生じてきました。もちろんこの背景にはポストモダン的な子ども観があるのは明らかです。
そしてそれに異を唱えることは「空気」が許さなくなってしまいました。
(日本人のこの「空気支配」はいつか日本人を滅亡に導くような気がします。)
この結果、体罰はだめとしても、子どもには厳しく指導すべきだと考えていた、それを自分が子どものころから信じ続けてきた大人や、厳しい指導のおかげで成長していると考えている子どもは、自分の信条を否定せざるを得なくなり、いったい自分は何を信じていいのかわからなくなってしまうという事態に直面してしまっています。
この大きな混乱は徐々に日本社会を苦しめる結果となってしまうのではないかと心配されます。
4.経済的に豊かであるからこそのこころの豊かさなのではないか。
近代合理主義が、経済優先主義を生み、競争社会が生まれ、が人間の心を貧しくしているというポストモダン主義の考え方はおそらく誰もが否定はしないでしょう。しかし、だからと言って、経済を切り捨てていいのかというと、だれもが賛成するとは思えません。
確かに、競争社会によって生じてきた学歴社会、詰め込み教育などのような近代的な教育を簡単に肯定するわけにはいきません。もっと子どもがのびのびと成長できるような社会に変革しなければならないはずです。
しかし、そのようなことを言っていられるのは、日本が比較的裕福な国だからではないでしょうか。余裕があるときは、だれでも優しい気持ちになることができます。しかし、余裕を失った瞬間、その偽善者の顔の下から本性が現れる。バブル経済の時はみんな平和で優しい気持ちになり、(多少の反対もありましたが)「ゆとり教育」が受け入れられました。しかし、バブルが崩壊し、韓国や中国の経済的な躍進が顕著になるやいなや、だれもがこころの豊かさを失ってしまいました。日本の経済的な優位性が揺らいできた瞬間に、「ゆとり教育」は戦犯となり、「ゆとり教育」を推進した人は、日本社会特有の集団いじめのターゲットとなってしまったのです。
経済的に豊かであり、なおかつ競争社会でない、助け合う社会でありつづけることは可能なのかどうか。そこが今我々に問われているのではないかと感じるのです。
5.未来につけを回しての、発展途上国につけをまわしての経済的な豊かさ
先進国がなぜ先進国でいられるのか、その要因のひとつに、発展途上国の存在があります。先進国は発展途上国の安い資源や安い労働力により商品を作り、それを売ることによって自国の利益を得てきました。つまり、発展途上国との経済力の落差を利用して利益を得てきたのです。悪い言い方になるかもしれませんが、発展途上国をくいものにして経済発展を遂げてきたのです。
もちろん、発展途上国はそれを利用して発展し、経済力をつけてきたわけですから、それが悪いこととは言えないのかもしれません。しかし、なんとなく卑怯な気もします。
そもそも、発展途上国という言い方自体、先進国めざして発展する国がいい国であり、どの国も先進国を目指して経済発展を遂げるべきだという、先進国の思い上がりが感じられます。経済発展が悪いこととは言いません。しかし、先進国からの押しつけの近代化は、自国の文化を破壊し、その国の本来の姿を見失わせてしまうという危険性があるのです。
このことを明確に指摘したのは、夏目漱石でした。今でも高校のいくつかの現代文の教科書の中に、「現代日本の開花」という漱石の評論が残っていますが、そこで指摘しているのは、近代化を押し付けられた明治の日本が、本来の自分の姿を見失いノイローゼ状態になっているというものでした。
丸山真男の「『である』ことと『する』こと」という評論も同じテーマです。高校の現代文の評論の定番となっています。身分制度があった徳川時代の日本は『である』価値観、『である』文化であった。しかし、近代になって、日本人も権利を主張しなければならなくなった。つまり『する』価値観が浸透してきた。この両方の価値観のなかで、日本人は価値観を見失い混乱しているというような内容です。
いずれの評論も、近代化の過程で日本人が従来の価値観を急激に変更せざるを得なくなり、自分の立ち位置を見失い混乱していることを懸念しています。先進国の他国への有無を言わせぬ介入は、結局は大切なそれぞれの文化を破壊することにつながるのではないか。もしそうだとすれば、このような先進国によるグローバル化は、大きな誤りなのではないかとも思えるのです。
近年になり、イスラム文化圏とアメリカの関係がうまくいっていません。この問題の根本は、エルサレムに無理やりユダヤ民族がイスラエルを建国し、それを後押ししたのがアメリカであったということです。その後もアメリカがイスラムの中に自分の価値観を無理やり押し付けていったように思われます。もとろんイスラム圏の一部の人たちのテロリズムを肯定するわけではありません。しかし、先進国の横暴がいけなかったことは明らかです。
話を戻します。
発展途上国が経済発展し、先進国に追いつくと先進国は経済的な優位性を失い、豊かさを実感できなくなります。一時、一人勝ち状態だったアメリカが、日本やEUの躍進によって、富を得られなくなった時期がありました。次にはBRICsと呼ばれる、ブラジル、ロシア、インド、中国が台頭してきました。先進国が先進国でいられなくなる日がやってきました。それは必然です。しょうがないことのはずなのです。
その時、アメリカが何をしたか。富の囲い込み運動です。特許、著作権など、自分たちの元気だったころ生まれた知的財産を自国から出て行かないようにがんばりました。
著作権なんて大変なことになっています。ディズニーの権利を守るために、どんどん権利期間が伸びていっているのです。これは明らかに芸術に対する冒涜です。この近代においては、著作権や特許は必要なものです。しかし、権利者が死んだあと何年も権利が続くのであれば、新しいものは生まれにくくなります。さらに言えば、音楽ではラップなどの音楽は以前あった音源を平気で使用しているのに、著作権が問題となっていません。もはや基準が何かわからなくなってきています。
これは本当にフェアなのでしょうか。
もはや、先進国は経済的な豊かさという価値観に縛られていては、何をしでかすかわかりません。もっと別の価値観を見つけなければ、自己喪失の恐怖に陥ってしまいます。
これは、未来の子どもたちの富を現代人が使っているということになるわけです。すくなくとも今私たちが生きているこの近代の経済は未来に借金を残すという裏技を使うことで何とか成立してきたのです。つまり子供たちの幸福を犠牲にすることによって成立する社会が現代社会なのです。
子供をしあわせにするといいながら、その本質はこどもを不幸にするシステムを作り上げている、そこで生み出される「子ども論」にはどこかうさんくささがつねにつきまとっているのです。