とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

セブンイレブンのストロベリーチョコレートバー

2016-05-31 17:30:57 | お題
 セブンイレブンのストロベリーチョコレートバーが好きでした。
 
 先日、ストロベリーチョコレートバーのつもりで買って帰って食べてみたら、味が違っています。よく見てみたらダブルベリーチョコレートバーでした。ラズベリーが加わっていたのです。かなりショックでした。わたしには酸っぱすぎます。もう戻ってこないのでしょうか。何か大切なものを失ったような気がします。

 年を取ると好きだったものがどんどん周りから消えていきます。
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書評『憲法と無意識』(柄谷行人著)

2016-05-30 17:18:36 | 読書
 とても刺激的でおもしろい本でした。なぜ憲法第9条は守られ続けているのか。なぜ憲法9条は改憲というかたちではなく解釈の変更にとどまっているのか。そこに日本人の戦争をのぞまない無意識があるからだという話です。「徳川の平和」を破って急激にたどった道程への悔恨があるというのです。無意識というオカルト的な理論のように一見見えますが、読んでいくうちに納得させられます。

 また近代史の展開についてヘゲモニー国家という概念を導入し、説得力のあるおもしろい考え方を提示しています。ヘゲモニー国家とは覇権国家のことを言うようですが私は初耳の言葉でした。18世紀のオランダ、19世紀のイギリス、20世紀のアメリカがそれに当たります。それぞれの覇権が終了した時点から次の覇権に移るまでの間が、帝国主義的な覇権争いの状態になるということでした。現在はアメリカの覇権が終わり、「新自由主義」という名の覇権争いが生じている時代ということになります。

 とても興味深い話でした。批判的に再読し自分でもよく考えてみたいと思います。
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オバマ大統領広島訪問

2016-05-28 10:31:46 | 社会
 オバマ大統領が広島を訪問し、すばらしいスピーチを行った。大きな出来事だった。原爆投下に謝罪をすべきだという意見があるが、私はそうは思わない。あの戦争は日本が仕掛けたものであり、戦争を終わらせるために原爆が必要だったというアメリカの理屈も理解できるからである。また、実際の原爆の悲惨さはあの投下によってしか人類は実感できなかった。その責任をアメリカに負わせるわけにはいかないと考える。

 もちろん罪のない広島や長崎の人たちが数多く死に、後遺症で苦しめられたことを考えると、こんなに軽々しくいえないことではある。しかし、ここで謝罪をしてしまえば逆にアメリカの多くの戦死者に対してどう説明していいかわからなくなる。あくまでもあの戦争で悪いのは日本であった。その根本を揺らぐようなことを今するわけにはいかない。

 過去の悲惨な出来事を未来にいかそうというオバマ大統領のスピーチは感動的であった。だれに責任があるのかは置いておき、広島と長崎に原爆が投下されたことはとても悲惨なことだということ、そして二度と核兵器を使わないことをを全人類が共有しなければならない。それを未来に生かさなければならない。演説の最後の部分は涙なくしては聞けない言葉である。

 ただし、一方ではこれによって沖縄のことがいい加減にすまされていいわけではない。いま起きている問題にどう対応するのかは全く別次元の問題である。

 また、コバンザメのようにくっついていた安倍首相。このオバマ大統領の広島訪問はあなたの成果ではない。あなたは平和について何も発信していない。あなたは何を言いたいのだ。何をしたいのだ。もっとリーダーとして発信してほしい。
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「コミュニケーションとしきり」で再び論拠を考える。

2016-05-27 14:26:37 | 国語
 高校の国語教科書に載っている「コミュニケーションとしきり」について何度か書いてきました。その際、福澤一𠮷氏の「根拠・論拠・主張」の論理で整理してみようと考えてきました。しかし、福澤氏の本をもう一度よく読んでみると、「根拠・論拠・主張」についての「根拠」と「論拠」について私の解釈に誤りがあることが分かってきました。もう一度振り返ってみる必要があります。

 「主張」には「根拠」が必要です。そして「根拠」と「主張」をつなげる「論拠」が必要になる。ここまでの考え方に問題はありません。問題は「論拠」はおもてに出ない場合が多いということです。

 そのことを受けて「コミュニケーションとしきり」についてもう一度整理しなおします。

《根拠1》
 子供は小さいころ母親との間には言葉がなくとも通じ合えるという思い込みがあるが、ある時、理解しあえていないことに気付く瞬間が訪れる。こどものころの幸福は消え、暗黒が訪れる。そして「わたし」と「わたし以外の存在」との間は〈透明〉ではなく〈しきり(障害)〉があることを発見する。


《根拠2(あるいは根拠1の具体例)》
 ルソーのエピソード。
 ルソーが幼いころ母親のような存在だったランベルシエ嬢の櫛を壊したという疑いをかけられ、親しい間柄でも理解し合えない経験をした。そして50年後再び事件を回想し「あの櫛を壊したのはぼくではない。」と言う。


《主張(意見)》
 わたしたちは、どこまでもコミュニケーション不能の部分(障害)を抱えているからこそ、コミュニケーションし続けるのである。


 さて、ここにどのような論拠が考えられるでしょうか。

《論拠案》
 人はだれもが心を通じ合いたいという願望をもっている。

 《根拠1》から《主張》にいたるまでの論拠としては上記でいいのではないでしょうか。しかし、《論拠2》のルソーのエピソードに関してはやはりおかしい。ルソーは50年間このことを言い続けたわけではあるまい。50年後に再び言うということは、コミュニケーションがなりたたないショックから立ち直れず、コミュニケーションを一時あきらめたと考えるのが自然である。
あるいはルソーが親しい人と心が通じないことにショックを受け、自分の人生をかけ50年間コミュニケーションが成立するための努力をつづけたというのならば論理が成立する可能性はある。しかし、われわれにとってそれほどジャンジャックルソーと言う人がなじみのある人ではない。だからそう読み取るのは無理があろう。ジャンジャックルソーについて軽く調べてみたが、彼の人生からそこまで言うことも難しいと思われた。

わたしとしては「根拠」「論拠」「主張」をもとに日本型「パラグラフ」を考えたたいという思いがある。このような試行錯誤を続けながら、いつか成果を出し、国語教育に小さな貢献ができたらと考えている。
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「山月記」の授業6(「人虎伝」との比較)

2016-05-26 19:51:32 | 国語
 「山月記」は「人虎伝」を下敷きにしている。ではどういう点が違うのか。

 1点目。「人虎伝」での李徴は精神的な理由で虎になったとは思っていない。罪にあたる行為をしてしまったから虎になったと考えている。ある女性と不倫関係となり、その夫に殺意を感じたために、一家全員を焼きころしてしまったのである。なんとひどい男だ。これなら虎になってもしょうがないという理由である。また、李徴のセリフ以外のところからも李徴が乱暴者であったことがうかがわれる。乱暴であったから虎になったのである。「山月記」は心理面での弱さに焦点があてられているが、「人虎伝」ではそれはあまり感じられない。

 2点目。李徴は詩人になろうとはしていない。役人をやめたのは任期が終わったからである。そして衣食に窮したから再び役人になった。役人生活はそれほど苦しいものではなかった。

 3点目。李徴のセリフを信じるならば、李徴が気にかけているのは妻と子供のことである。だから「山月記」のように妻子のことを後回しにしていない。さらに、李徴の詩を書き残したのは、妻子に遺言として、自分の形見として残したかったというのが理由である。そして袁傪は「足りない」ところを感じていない。
 
 どのような芸術作品も必ず下敷きになるものがある。完全なオリジナルはありえない。完全なオリジナルなんてあったとしたら、それはだれにも理解できないものになるはずである。その下敷きになったものをどう変化させたのかに、筆者のオリジナリティーがある。

 さて中島敦のオリジナリティーはなんだったのか。
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