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とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

文部科学省の理念は現実にはうまくいかない

2025-04-06 17:57:31 | 高校国語改革
前回の文章は生成AIを利用したものだった。そこに書かれていることは現在の教育において重要な問題をはらんでいる。

探究活動として生徒たちの協力によって問題を解決する授業がさかんに行われている。その理念はとてもすばらしい。そのことについて批判する人は間違っている。しかし問題は探究するための知識が備わっていない生徒がそのような答えのない問いに対していくら討論しても解決の道筋なんか見つかるはずがないということなのである。

知識偏重の教育に対する批判はもっともである。かつて受験戦争と呼ばれていた時代、社会の用語集をすべて覚えるような勉強を強いられた。そんな勉強が意味がないのは明らかであったのだが、多くの受験生がそれをしてしまっていた。そこから抜け出して、考える力を育てなくてはならないのは当然である。

しかし、考える力とは何なのか。現実には考える道具、つまりある程度の知識がなければ考えることなどできないはずである。知識偏重はいけないのはあきらかだが、かといって知識がない人間は考えることなどできやしない。

確かに超天才もいる。小学生のころから数学が高校生以上できるこどももいるようである。そういう子供は、知識はそれほどなく数学を理解しているのであろう。しかしそれは数学と言う特殊な世界の中だけで通用するのである。特殊な能力を持っている人は例外として、それ以外の人間は、やはり、現実への対応としてある程度の知識が必要であり、その知識を活用する能力を育てなくてはならないはずだ。

いま学校教育で行われている総合的な探究の時間はそうなっているだろうか。断言してもいい。決してなっていない。出世したい教師のパフォーマンスか、やる気のない教師のネット丸投げのいずれかになってしまっているのである。こういう結果に陥ってしまったのは、文部科学省の無能さのあらわれである。

『御上先生』も文部科学省を批判するならば、もっと現代の教育を掘り下げて批判してほしかった。いつも文科省は勘違いしかしないのだ。文科省も出世したい人たちのパフォーマンスだらけなのかもしれない。
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学校教育における「答えのない問い」の意義

2025-04-05 15:01:54 | 高校国語改革
近年の学校教育の現場では、「答えのない問い」を中心とした探究活動や討論が重要な役割を果たしています。これらの活動は、生徒が自ら問題を見つけ、解決策を模索する力を育むことを目的としています。具体的には、生徒は様々な視点から問題を考え、多角的なアプローチを試みることで、柔軟な思考力と深い理解を得ることができます。

探究活動は生徒が自主的に課題に取り組み、情報を収集し、分析する過程を重視します。この過程において、生徒は以下のような能力を養います:
  • 批判的思考力: 問題を多角的に考え、疑問を持つ力。
  • 創造力: 新しい解決策を考え出す力。
  • 問題解決能力: 効果的な方法で問題に取り組む力。
また、探究活動を通じて、生徒は自分自身の興味や関心を深めることができ、一人ひとりが主体的に学ぶ姿勢を築くことができます。

その探究活動において重要なのは討論です。討論は、生徒同士が意見を交換し、互いの考えを深める場です。討論によって得られる主な効果は以下の通りです:
  • コミュニケーション能力: 意見を明確に伝え、他者の意見を理解する力。
  • 協調性: 他者との協力を通じて、一緒に問題を解決する力。
  • 論理的思考力: 根拠をもとに意見を構築し、論理的に説明する力。
討論の場では、多様な視点から問題を考えることが求められ、意見の違いを尊重しながら解決策を導く力が育まれます。

しかし、現代の子供たちは答えをネットに求めてしまう傾向が強く、その結果、探究活動や討論がうまく機能していないことが多いのです。インターネット上には膨大な情報が存在し、簡単に答えを得ることができるため、自分で考える力が養われにくくなっています。
ネット検索による情報収集は、一見効率的に見えますが、以下のような問題点が存在します。

「答えのない問い」に対する探究活動や討論は、学校教育において非常に重要な役割を果たしています。これらの活動を通じて、生徒は自分で考え、問題を解決する力を養うことができます。しかし、インターネットの普及により答えを簡単に得ることができる状況では、自らの探究心を育むことが難しくなっています。教育現場では、これらの課題に対処し、子供たちが自ら考える力を養うための取り組みが求められています。

以上は生成AIを使って作った文章です。

この程度のことが1分で書けてしまう時代に教育は何ができるのでしょうか。そこの議論こそが重要なのではないかと考えます。

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映画『名もなき者』を見ました。

2025-03-13 16:23:57 | 高校国語改革
デビュー当時のボブディランを描く映画『名もなき者』を見ました。ボブディランの生き方を再現した名作です。

私がボブディランに出会ったのは1975年のアルバム『欲望』です。当時私は中学生だったはずです。『欲望』はボブディランのアルバムの中で大ヒットした作品です。そのアルバムを繰り返し聞きました。そしてボブディランの文庫本の伝記を読んだ記憶があります。もちろん伝記と言っても初期のディランを紹介しただけだったわけですが、それでもそれがとても印象に残っていました。1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルでのエレキギターの演奏の顛末が書かれていたのです。

この映画はその状況が具体的な映像として再現されています。そしてそこにいた人々のそれぞれの心情がよくわかります。フォークとして築き上げた伝統を大切にしたい人たち。時代への反抗というフォークのイデオロギー的な面を大切にしたい人たち。人間としての関わり合いを大切にしてきた人たち、信念を貫きたい人たち、それぞれの心情と信条が絡み合い、膨張していくエネルギーがその舞台にはあったのです。

古き良き時代の物語といえばそれまでですが、そんなぶつかり合いにあこがれる自分を再発見しました。
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オペラ『竹取物語』を見ました。

2024-12-16 22:35:55 | 高校国語改革
やまぎん県民ホールで開催されたオペラ『竹取物語』を見ました。

新作オペラで作曲は沼尻竜典氏。原作にできるだけ忠実にオペラにしているようですが、強調しているところに製作者側の意図も明確にあらわれています。かぐや姫に五人の求婚者が現われるのですが、それによって命を落とすものもいます。大けがを負うものもいます。女のために命を落としたり、大けがを負ったりすることが、かぐや姫の無理な注文に原因があったのではないかと思わせるような筋に感じます。帝が不死の薬を焼く場面を強調しているようにも感じられます。かぐや姫と結ばれない世の中で不死であることがなんの意味があるのか。人生の意味を考えさせられます。

普通のオペラとは違い、オーケストラは舞台の上にいます。映像を用いて、きれいな舞台になっています。話もわかりやすく、日本人にとってなじみやすいオペラだと思います。私はオペラ初心者ですが、こういう作品なら入門にうってつけだと感じました。

指揮は阪哲朗さん。山形公演は山形交響楽団が演奏します。楽しめる作品でした。
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映画『風が吹くとき』を見ました。

2024-09-07 18:12:36 | 高校国語改革
映画『風が吹くとき』を見ました。現実に原爆が落とされた場合、こういうことになっていくのかと、恐怖を覚えました。

1987年に日本で公開され、その時も話題になった映画ですが、今回再上映されたのを機会に初めて見ました。善良な老夫婦が原爆投下の危険の知らせを聞き、その対策を準備します。中途半端な情報と知識と勝手な思い込みのために、十分な準備とまではいきません。そのために命は助かるのですが、かなりの被ばくをしてしまいます。情報は何も届かず、それでも夫婦は政府を信じています。その善良な夫婦の姿が痛々しく涙を誘います。

私たちは原爆の真実をみないようにしてきたように思います。どうせもう使わないだろうという勝手な楽観主義に陥っています。そういう生半可な知識と、御上を信じ込むことがどれだけ危険なことかを教えてくれます。広島や長崎について今こそ、詳しく知ることが大切であると感じます。

音楽をロジャー・ウォーターズ、主題歌をデビッド・ボウイが手がけました。
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