とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

傘を返さないという事

2016-06-30 13:52:28 | 社会
 6月26日の朝日新聞の天声人語が興味深かった。福井県の高校が10年前から始めていた傘の貸し出し運動が、あまりに返却者がすくなく終了してしまったということである。高校生たちの無念さはよく理解できる。一方では私自身も傘をすぐに忘れるので自分が責められるような気がした。

 最近の高校生は本当に善意に満ちている。30年近く高校の教員をしているが、生徒はみんな素直になり、積極的にボランティア活動をする生徒も増えてきた。本当にすごいことだと思う。だから彼らの善意がむなしく終わるようなことになるのは本当に残念である。

 しかし、一方では私自身がちゃんと傘を返すかと言われると自信がないのである。とにかく傘を忘れる。朝使った傘も帰るときに晴れていれば90パーセントの確立で起きパなしになる。こんな自分が傘を借りたら悪意があるわけではないが返す自信がない。

 物にあふれ平和になった日本。人々は優しくなりものは粗末に扱われる。



 今回も400字制限で「パラグラフ」の書き方で書いてみました。
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「祝日のない6月に『雨の日』を」(「どう思いますか」シリーズ)

2016-06-29 06:59:46 | どう思いますか

(朝日新聞の6月29日の「どう思いますか」に対する意見です。パラグラフ型で書きます。字数は400字を目安にします。)

 単発の祝日を増やすより大型連休を

 6月に祝日がないので「雨の日」を設置してはどうかという意見が寄せられている。確かに心情的には理解できる。しかし私はもっと違う形での休みの設定をお願いしたい。祝日の増加は規則正しい日常が成立しにくいからである。それよりも春と秋に大型連休を設定すべきだ。

 私たちは規則正しい一日、一週間を過ごしながら生きている。祝日があると得した感じがあるが、逆にどこかに無理が生じて前後に疲れが出てしまうという実感がある。日常の繰り返しのほうが仕事がはかどり、計画が立てやすく疲労感が少ないのだ。

 一方では日本人は時間外労働が多いのでしっかりと休む時間を与えるべきだとも考える。観光産業、レジャー産業を活性化するという意味でも、春と秋に1週間の連休があるといい。「山の日」や「海の日」など最近できた祝日、あるいは「体育の日」なども移動して春はゴールデンウィークとして1週間、秋にシルバーウィークとして1週間休みにすべきだ。
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ジョニミッチェル「Shine」

2016-06-28 08:22:07 | 音楽
 ピーターバラカンさんが書いた『ロックの英詞を読むー世界を変える歌』という本を拾い読みしている。ロックの詞の中でもメッセージ色の強い歌詞を集めてバラカン氏が解説してくれている本である。いい本である。その中でジョニミッチェルの「Shine」を紹介している。

 ジョニミッチェルはもちろん解説の必要のないミュージシャンである。透明感のある音楽、そして詩人としての才能を感じさせる歌詞。ロックを芸術にしたミュージシャンと言ってもいい。バラカン氏によると、現在彼女は中大脳動脈瘤で闘病中だということだ。奇跡の回復を願うばかりだ。

 この歌は、すべてのものに光があたるように歌っている。良いものにだけではない。人類を危機に陥れるようなものにまでにもである。少しだけ引用する。

 良い土、きれいな空気、きれいな水に光があたりますように
 そして子どもが安全に遊べる場所にも光が当たりますように
 またすぐそこで
 爆発する爆弾にも光があたりますように

 この混迷した世の中、憎しみ合ってはいけない。それぞれの人にはそれぞれの事情がある。爆弾を作った人も、本質的に戦争がしたいわけではない。まずは認め合いお互いに光の中に立とう。そこからもう一度出発するしかないのだという思いが伝わってくる。

 すばらしい曲だ。
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「山月記」の授業実践記録5(作者と「語り手」の関係)

2016-06-27 09:12:41 | 国語
 作者と「語り手」の関係を理解してもらうために次のように説明しました。

 例えば映画を思い浮かべてみてください。映画の舞台となっているのはある特定の時代と場所と、ある特定の人たちです。映画を見る人にとってはすぐに入り込むことはできません。そこで最初は遠景からからの映像があり、その土地を象徴するものが映し出されたり、また時代を感じさせるものがあったりと、次第に見ている人を映像の世界に引き込むように仕組まれています。そしていつの間にか見ている人も、その作品世界の中にいる人として、登場人物と同じ目線で「参加」しているような感覚になります。

 そうなる作品がいい作品です。作品の中に引き込まれない映画はそういう部分が雑なものが多いような気がします。

 「落語」を思い浮かべてください。落語は実際に聞きにいくと、話の筋(ストーリー)だけを話しているわけではありません。最初は落語家は観客に直接語り掛けます。世間話をしたり、自分にあった出来事を語ったり、時には観客をイジッタリと落語家と観客が直接向き合って話をしています。しかし、落語の筋に入ると落語家は登場人物を演じ始めます。観客はその落語の世界にいつの間にか導かれているのです。そこには落語家の演出能力があります。

 これらと同じように、小説家は読者を作品世界につれこむようにさまざまな仕掛けを行います。小説家はストーリーテラーとしての能力ばかりが目立ちますが、演出家的な要素、プロデューサー的な要素も必要になっています。そういう総合力のある人がすばらしい小説家になるのではないかと思います。
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「山月記」の授業実践記録4(「語り手」の介入)

2016-06-26 09:46:04 | 国語
 「語り手」が客観的描写に徹しきれなかった箇所、それは袁傪の心の中を描いている箇所です。李徴の即興の詩に対して、「何かが欠けている」と思ったと書いている箇所です。ここはそれまでの流れとは違う、つまり「破格」な表現なので目立ちます。読者はこの表現に導かれるのはあきらかです。この「破格」な表現は作者の明確な意図によって描かれたのです。もしそうでなければこの作者は素人並みと考えていいはずです。つまり、作者は李徴には「何か欠けている」部分があると読者に伝えたかったのは明白なのです。

 さて、少し混乱が生じます。「語り手」と「作者」の違いです。

 それを考えるためにここで話を少し根本にさかのぼりましょう。いったい小説って何なのでしょうか。

≪第1段階≫
 小説の骨格には話の筋(ストーリー)があります。具体例として次の桃太郎の冒頭部分を使ってみましょう。
 
 むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがいました。
 ある日、おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ選択にいきました。

 この筋だけの話を第1段階とします。


≪第2段階≫
 さて、この話を誰かが誰かに語り聞かせる場面を想像してみてください。そのとき「語り手」は少し聞き手を意識して語り始めます。

 きょうは花子ちゃんにおもしろいお話しをしてあげるね。
 むかしね、むかしっていうのはね、花子ちゃんが生まれるずっと前のことだよ。
 花子ちゃんが生まれるずっとずっと前にね、田舎の村にね、おじいさんとおばあさんが住んでいたんだ。
 おじいさんはね、おばあさんととっても仲良しでね、ふたりっきりで生活していたけど、毎日毎日働いて、幸せだったんだ。
 秋になってきてね寒くなってきたんだと思うんだけど、昔って枯木に火をつけてストーブにしてたんだけど、その枯木を準備しなければならなくなってね、おじいさんは山に枯木を探しに行ったんだ。
 おばあさんはね、今はどの家だって水道があるけど、昔はなかったから、洗濯しに川までいったんだ。

 
 なんて話をし始めます。これは語り手が聞き手を意識して聞き手に理解しやすいように筋(ストーリー)に介入しているわけです。


 ≪第3段階≫
 次第に語り手は介入の度合いを高めていきます。

 トンビが輪を描いている。北からの風がゆるやかに流れている。風は山の上の木々を赤く染め始める。秋の空は高く澄んでいた。
 山のふもとに小さな家がある。その小さな家で老夫婦が生活をしていた。家といっても今の感覚から言えば小屋である。雨風を防げばそれでいいという建物である。その頃のそのあたりに住む人々はそれが当たり前の家であった。
 科学という言葉のなかったころである。誰もが神を信じていた。神の力で生かされていると信じていた時代だ。彼らは死は怖くなかった。いや、死は怖くないというのを建前として生きていた。かれらは静かに生きていた。子供のいない老夫婦にとってそれが生きるということであった。
 この時期になると冬を越す準備をしなければならない。年老いた男は山に枯木を取りにいく。男は年を経るにしたがって体が動かなくなることを感じていた。背中に痛みを感じて生きていくことに苦しさを覚え始めていた。体のいたみは心を締め付け始める。漠然とした不安。
 「ちくしょう。」
 男は山に向かって一言叫ぶ。その叫び声が返ってきたとき、涙があふれてくる。
 年老いた女は川に洗濯に行く。女にとって耐えることが生きることだった。この時期水が冷たいのは知っている。しかし、それを悔やんでいてはいけない。いつも自分を殺すことだけを心掛けてきた。

 例えばこのようにどんどんストーリーに介入していきます。最初のほうでは聞き手に視点の誘導をしています。そしてストーリーを壊さない程度に勝手に設定を作り上げていきます。そして登場人物の心を描き始めます。

 このように、語り手はどんどん第一段階の筋(ストーリー)に介入して脚色していきます。ここまでくるとほとんど小説と言っていいですね。

 そして語り手が筋(ストーリー)にどのように介入していくかは、作者が決めているのです。小説家の作者というのは、語り手に筋(ストーリー)の語り方を演出していく総合プロデューサー的な役割をしていることがわかります。逆に言えば、語り手の介入の仕方に作者の意図が表れるといっていい。
 
 話をもどします。語り手が山月記で袁傪の心の中を描くという「破格」なことを行ったということは、明確な作者の意図であると考えるべきなのです。無視できない、大きな記述なのです。
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