とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

朝日新聞「折々のことば」より「嫉妬するわたしは四度苦しむ。(ロラン・バルト)」

2021-07-31 07:53:52 | 折々のことば
 朝日新聞の「折々のことば」より引用します。

「嫉妬するわたしは四度苦しむ。(ロラン・バルト)」

このことばについて鷲田清一さんが次のように説明します。

 嫉妬している人は、自分が排除されたことに苦しみ、自分が嫉妬という攻撃的な感情に囚(とら)われていることに苦しみ、その感情が愛する人を傷つけることに苦しみ、そして自分がそういう凡庸な感情に負ける「並みの人間」であることに苦しむ。いずれの局面でも自分を外せない。人であるとは難儀なことだ。フランスの批評家の『恋愛のディスクール・断章』(三好郁朗訳)から。

 「嫉妬」というのは人間の、あるいは動物の特有の心です。これほど厄介なものはありません。なぜ「嫉妬」はあるのでしょう。「嫉妬」がなければどんなに人間は幸せになれるだろう、そんなことを考えながら、「嫉妬」との戦いにつかれながら人間は生きています。

 しかし、考えてみれば「嫉妬」がない世界は人間の世界ではありません。「嫉妬」とともに生きていくのが人間なのです。「嫉妬」に苦しみながら生きていく、それこそが人生なのです。

 「嫉妬」は「自分」を大切にしたいという心の表れです。「自分」ほど厄介なものはないのです。
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こまつ座『日本人のへそ』をテレビで見ました。

2021-07-29 16:34:06 | 演劇
 今年、こまつ座が『日本人のへそ』を上演しました。宮城県でも上演したので、宮城県でならば新型コロナウイルスも大丈夫だろうとチケットを購入しました。しかし、新型コロナウイルスが予想外に広がり見に行くことを取りやめました。残念でした。今回WOWOWで放送したので、映像ではありますが見ることができました。どんでん返しの連続で、初期の井上ひさしの作品のおもしろさを存分に味わえました。
 
 『日本人のへそ』は、井上ひさしの最初の戯曲です。井上さんは「ひょっこりひょうたん島」の脚本で有名であり、また、てんぷくトリオのコントの作家としても活躍しました。当時は、現在のような大作家という扱いではなく大衆作家という印象でした。その井上さんが1969年にテアロルエコーに書き下ろしたのが『日本人のへそ』です。今から50年以上前の作品です。描かれている事物は古くなってしまって現在にそぐわないものも多いのですが、内容的には今でも十分納得できます。というよりも今の状況に一番よく合う内容なのです。

 例えばどんでん返しの繰り返し。真実の見えない今の新型コロナウイルスの状況そのものです。新型コロナウイルスに対する対応に対しての世論がコロコロと変化していく状況とまったく同じです。新型コロナウイルスの状況が落ち着いてきたと思ったら、次の日には緊急事態宣言。それがよくなったからオリンピックを開催したと思ったら、爆発的な拡大。どこに真実があるのかがわからない。真実は権力者が握りつぶす。現在の状況とそっくりです

 もうひとつ、演劇でなければ真実を言うことができないような現状も今の状況そのものです。現在は何か言えばSNSで炎上し、「炎上歓迎」と開き直ったような言動がまかり通り、真実を言うことを誰もがためらうようになっています。真実を言おうとすると「ども」ってしまうような、この演劇の登場人物と同じです。真実は虚構の中で表現するしかない。こういう時こそ演劇が必要なのです。虚構が必要なのです。

 現実はもはや形を失ったしまった現在、真実を描く虚構の重要性を感じる演劇でした。

 最後にもうひとつ。小池栄子さんはすごい役者です。

 
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新型コロナウイルス感染拡大を心配してオリンピックの開催に疑問視している人がオリンピックに感動して何が悪い

2021-07-26 21:11:34 | 社会
 今日のインターネットを見ていたら、これまで新型コロナウイルスを心配してオリンピックの開催に疑問を持っていた人が、オリンピックで金メダルを取った選手に感動したことを発信したことに対して批判しているものがあった。

 例えば夕刊フジの記事。タイトルは「蓮舫氏が大炎上 五輪中止派なのに「金」祝福ツイート 『お見事なダブルスタンダード』痛烈な批判相次ぐ」。蓮舫氏がオリンピックの金メダリストの祝福のツイートをしたことを揶揄する記事である。確かに蓮舫氏は何でも批判する傾向があり、その意味で批判の対象となりやすいことはわかる。しかし、今回の件で蓮舫氏がダブルスタンダードだという批判は論理がずれている。

 しかもこの記事、蓮舫氏を直接批判しているわけではなく、蓮舫氏を批判するツイートが多くあるということを言っているだけで、この記事の責任は自分にはないと防御線を張りながらの記事なのである。

 新型コロナウイルスの感染拡大の勢いは強まる一方である。今日の東京の感染者は前週の月曜日の倍近い。専門家の警告は現実のものとなりつつあるのである。この現実をオリンピックの金メダルで覆い隠すことはできやしない。

 ほとんどの日本人はオリンピックが好きだし、日本人が活躍することを喜んでいる。それと今回の新型コロナウイルス感染拡大防止のためにオリンピックの開催に疑問を持つことは別次元のことである。一部のメディアがこれを一緒くたにする無謀な論理をまかり通らせようとしていることは、この国の劣化が進んでいるとしか思えない。
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オリンピックの開会式は長すぎる

2021-07-24 13:01:51 | 社会
 オリンピックの開会式は毎回長い。今回は新型コロナウイルス対策ということで、入場行進の間隔をとらなければならないという事情でとりわけ長くなってしまった。入場行進は開会式の主たる目的なのだから長くなるのはしょうがないと言う意見もあるのだろう。しかし限度がある。もっと工夫があってしかるべきである。

 しかも今回は無観客であった。四方の観客のことを考える必要がない。映像で紹介できればそれでいいのである。やりようはいくらでもあったはずだ。それこそ今後のオリンピックの開会式の「レガシー」となる新たな入場行進を創造することができたはずである。

 オリンピックにはいろいろ制約があるようであるが、コロナ禍であるということはそういう制約をぶち壊すチャンスだったはずだ。結局は前例踏襲になってしまったのは残念である。

 あんあなに長時間選手を拘束することが「アスリートファースト」と言えるとは思えない。
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小学校での教科担任制導入はいいことだが心配もある

2021-07-22 08:29:35 | 教育
 文部科学省の有識者会議は小学5、6年生で教科担任制を導入することを了承したという報道があった。対象教科は外国語(英語)、理科、算数、体育の4教科。教員定数を増やすことで必要な人員配置を進めるよう求めるという。大変いいことである。しかし一方では大変心配である。

 それぞれの教科にはそれぞれの専門的な知識が必要である。低学年であれば専門的な知識もそこまで深いものではないかもしれない。だから子どもたちひとりひとりを深く理解するために学級担任がそのほとんどを教えるというのも納得はできる。しかし高学年になれば専門性が深まり、それを学級担任が請け負うのは無理なのは当然である。教師の負担を減らし、かつ教育効果を上げるという意味でとてもいい改善である。

 しかし心配もある。

 1点目は、現在でも教員志望者が減っている。その中で教員の数を増やそうとすれば能力の乏しい教員が増えてしまう。それは逆に教育効果を下げる結果になるという心配である。現在の教員の仕事量はブラック企業以下である。だから教員志望者は減る一方である。その中でさらに教員数を増やすということは、教員の質の低下を生み出すことになりかねない。

 2点目は小学校の教員定数を増やすということは、他のどこかに予算的なしわ寄せがくるのではないかという心配である。例えば中学校、高校の教員数が減らされるということが考えられる。

 日本の教育予算は先進国の中で圧倒的に少ない。教育改革の一番は教育予算の大幅な増加であることを見失ってはいけない。

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