とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

夏目漱石の『草枕』を読む。11

2024-05-31 08:32:16 | 夏目漱石
第十一章

 すでに日は暮れている。画工は観海寺に行く。月の光で、眼下に海が開け、眺めがいい。

 和尚は東京をうらやましがり、電車に乗ってみたいと言うが、画工はつまらないし、うるさいという。しかも東京は探偵に「屁の勘定」をされると言う。東京は誰かに監視されるような社会のなのだという。和尚は那美について語る。那美は嫁ぎ先から帰ってきてから、色々なことに気になるようになり、和尚のところに法を聞きにきて、「訳のわかった女」になったという。

 那古井の住民たちが那美を気違い扱いをしているのに対し、和尚は那美をまともな判断のできる女だと判断しているのである。ということは那美の奇抜な行動には何らかの裏の意味を匂わせることになる。

 和尚のところに修行に来ていた泰安という若僧に「大事を窮明せんならん因縁に逢着」させて、よい智識(仏法の指導者)になりそうだと言う。この泰安は床屋で話題なった僧である。床屋は那美を気違いだと言ったが、和尚の話を聞くと泰安を目覚めさせた女だということになる。これを聞くと那美は画工に対しても同じように接しているのではないかと感じる。画工に何かを悟らせようとしているように見えるのだ。
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イプセン作『人形の家』を読みました。

2024-05-26 13:53:48 | 読書
イプセン作の『人形の家』を読みました。演劇脚本としては必読書のひとつだと思いますが、今回初めて読むことができました。今読む作品としてはとりたててどうということのない作品なのかもしれませんが、演劇史的にはとても重要な作品であると思います。

世間知らずのお嬢さんであったノラは、家族のために犯罪をおこしてしまいます。しかし世間知らずであったがために自分のやったことが犯罪だと気が付かないでいました。夫も出世して経済的にもこれから安定しそうです。順風満帆にみえました。ところが自分の犯罪行為に気付かされます。なんとかそこから逃れようと小手先の策を考えるのですが、まったくうまくいきません。しかもそれが夫にバレてしまいます。読者はみんな「かわいそうなノラ」と思うことでしょう。しかし、ノラは結局助かってしまいます。もちろん夫も地位も名誉も失うことなく、経済的にも助かります。読者もみんなよかったよかったと思うでしょう。

ところが戯曲はここから急展開します。ノラは助かった時に自分が単なる世間知らずだったことをはじめたわかるのです。つまり夫の「お人形」にすぎなかったということに気付かされるのです。世間知らずのお嬢さんであったノラは、夫から自立しようと家を出ることを決心します。このどんでん返しの構成に読者はびっくりします。

ブレヒトによって演劇に拠る「異化効果」という言葉が有名になりました。ブレヒトの場合はわざと「これは演劇だ」という演出をすることが異化効果であったですが、実は「人形の家」のようなどんでん返しは異化効果の典型と言ってもいいのではないでしょうか。こういう意見を言っている人をまだしらないのですが、私にはそう思えるのです。その意味でとても重要な戯曲作品だと思います。
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映画「ボブ・マーリー ONE LOVE」を見ました。

2024-05-25 08:09:04 | 映画
若くして死んだ、世界的ミュージシャン、ボブ・マーリーの伝記映画「ボブ・マーリー ONE LOVE」を見ました。平和のために音楽を作り続けたボブ・マーリーの姿に感動しました。

ボブ・マーリーの全盛期はおそらく私が高校生のころだったと思います。ライブアルバムがラジオや雑誌で紹介されて、購入しました。当時はレゲエは耳新しく、最初はなじめなかったのですが、しだいにその良さに浸るようになっていきました。英米中心に広まったポップミュージックが広がりをはじめたきっかけになったような気がします。

ジャマイカは内政が混乱しており、その中でボブ・マーリーは銃撃を受けたという話はきいていたのですが、実情はよくわからないままでしたが、この映画でかなり理解できるようになりました。

争いをやめさせるために音楽を続けるという勇気は無謀ではあるのですが、その姿は人々に力を与えます。そしてそこで生まれた音楽は生き続けるのです。ボブ・マーリーハ死にましたが、彼の音楽はいまだに世界中で流れ続けています。音楽の偉大さ、芸術の時間を超えた力をあらためて感じました。

映画としてはボブ・マーリーのマイナス面をかなり隠している印象を受けました。家族がプロデユーサーに加わっていたためにしょうがないとは思いますが、ちょっと残念です。
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朝日新聞はつぶれてほしい。

2024-05-23 15:08:19 | 社会
我が家は朝日新聞をとっている。特に大きな理由はないのだが、学生時代からずっととっているので惰性でとっていた。内容に関しても「天声人語」が癖があり過ぎていやらしい点や、なんでもかんでも自民党を批判すればいいような態度に嫌気がさす点などあるが、かといって権力に媚びるよりはましだと思っていた。しかしこの度、朝日新聞をやめることにした。理由は地方の記事がほとんどなくなったということである。

朝日新聞は全国紙なので、地方の記事は従来あまり多くない。しかし最近はほとんどない状態になってしまったのである。他の県はまだ大丈夫なのかもしらないが、山形県版の地方欄にはほとんどニュースが載らなくなった。載るとすれば全国欄にも載るような記事、そして高校野球の結果と、お悔やみ欄ぐらいなのである。

以前はこれほどひどくなかった。最近になってこういう状態になってしまった。理由は明らかだ。記者がいないのである。つまり朝日新聞は山形県を切り捨てたのである。山形県は朝日新聞という新聞社に切り捨てられたのである。中央と地方の格差に対して偉そうに批判をしている新聞社が、実際は先頭を切って地方を切り捨てているのである。ひどい新聞社だ。

まあ、新聞じたいが購読者が急激に減っている状態で、経営的に厳しいのではあろう。その事情は理解する。しかし地方の経済はもはや死に直面している状態だ。これを正面から取り組む姿勢がないで、政治家だけを批判している姿はみじめである。我が身を振り返りなさい。

朝日新聞社は弱者切り捨ての新聞社である。はやくつぶれてほしい。
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夏目漱石の『草枕』を読む。10

2024-05-21 10:18:23 | 夏目漱石
第十章
鏡が池の場面である。

画工は鏡が池に来る。画工の興味深い「自然論」が語られる。

余は草を茵に太平の尻をそろりと卸した。ここならば、五六日こうしたなり動かないでも、誰も苦情を持ち出す気遣はない。自然のありがたいところはここにある。いざとなると容赦も未練もない代りには、人に因って取り扱をかえるような軽薄な態度はすこしも見せない。岩崎や三井を眼中に置かぬものは、いくらでもいる。冷然として古今帝王の権威を風馬牛し得るものは自然のみであろう。自然の徳は高く塵界を超越して、絶対の平等観を無辺際に樹立している。天下の羣小を麾いで、いたずらにタイモンの憤りを招くよりは、蘭を九畹に滋き、蕙を百畦に樹えて、独りその裏に起臥する方が遥かに得策である。世は公平と云い無私と云う。さほど大事なものならば、日に千人の小賊を戮して、満圃の草花を彼らの屍に培養うがよかろう。

自然に対して、現実の人間社会を比べている。明らかに現実社会を批判的に見ている。最後の「世は公平と云い無私と云う。さほど大事なものならば、日に千人の小賊を戮して、満圃の草花を彼らの屍に培養うがよかろう」は、戦争の大量殺戮をイメージさせる表現である。

「草枕」が執筆されたのは1906年7月26日である。日露戦争の終戦が1905年9月である。「草枕」の中でも戦争が背景になっていることが明確にしめされている。「草枕」は戦時中を描く小説でもあったことは明らかなのだ。だからここの部分は戦争への批判意識があらわれているものと考えるのが自然であろう。

すぐあとに「何だか考が理に落ちていっこうつまらなくなった。こんな中学程度の観想を練りにわざわざ、鏡が池まで来はせぬ。」と断っているが、青臭いことをあえてわざわざ書かなければいけないということを証明しているわけであるから、意識的に戦争批判していることが窺われる。

 戦争のイメージは、池に落ちる椿のイメージでさらに強調される。椿の花は「沈んだ赤色」であり、「黒ずんだ、毒気があり、恐ろし味を帯び」ている「異様な赤」である。つまり血の色と言っていい。その椿の赤い花が水の上に次々落ちていく。そして水の上に浮くのだ。

また一つ大きいのが血を塗った、人魂のように落ちる。また落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。

死のイメージであり、日露戦争の旅順攻略における多くの戦死者を想像せずにはいられない。

画工はこの椿の花が大量に浮かぶ中に、那美を浮かばせようと考える。ミレーのオフェリアのイメージを再現しようというのである。戦争の死のイメージを、花の浮かぶ池に浮かぶ女のイメージへ変換するのだ。まさに「薤露行」の変奏である。しかし、那美には何かが足りないという。画工はそれは「憐れ」だと言う。

あの女の顔に普段充満しているものは、人を馬鹿にする微と、勝とう、勝とうと焦る八の字のみである。あれだけでは、とても物にならない。

那美は画工に親切にしているつもりである。しかし画工は、那美には現代社会の不人情があると見ているようだ。しかし考えてみれば画工は那美を利用しようとしているわけであり、画工も那美に対して不人情である。お互いがお互いを利用している関係である。非人情に徹し切れていない画工が非人情になるきっかけはげんどこにあるのか。

そこへ、馬子の源兵衛が通りかかる。源兵衛は昔この池に女が身を投げたことを詳しく説明する。この女は茶店の婆さんが「長良の乙女」と言っていた女のようである。その女がこの池に鏡を持って身を投げた。そこからその池が「鏡が池」という名前がつけられたという。女はなぜ鏡を持っていたのであろう。「時空」を超えるという鏡のイメージを使っているのではなかろうか。

すると画工は那美が、天狗巌から飛び降りようとしているのを発見する。那美は飛び降りる。画工は飛び上がって驚く。帯の間に赤いものが見える。那美は池ではなく向う側に飛び降りたのだ。なぜそこまで那美はしなければいけないのか。そこまでするということは、那美は画工に何かを期待しているはずである。那美は画工に何を期待しているのか。那美は画になりたかったのである。自分を書いてもらいたかったのである。なぜ書いてもらいたかったのか。死者の魂を残す事である。イメージの連鎖はそれを示唆している。
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