とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

大谷翔平の活躍を期待はするが、テレビの取り上げ方は行き過ぎ

2024-02-29 10:13:38 | TV
大谷翔平選手の活躍は期待したい。しかしまだキャンプ中であり、プレシーズンマッチも始まったばかりなのに、テレビが大々的に取り上げている。これはやりすぎだ。

例えば松山英樹選手がツアーで優勝した時も、そのニュースよりも大谷選手のキャンプが大きく取り上げられていた。卓球の世界選手権の女子チームの活躍よりも大谷選手が大きく取りあげられていた。あるいはJリーグの開幕なんかほとんど無視している報道番組もあった。ここまでアンバランスになるのはおかしい。

テレビ局だって視聴率は大切であろう。大谷選手をとりあげたくなる気持ちもわからなくもない。しかし、スポーツというのはやはり競技の中で語られるものであり、実際の競技が優先されて報道されるべきものであろう。

大谷選手の扱い方はもはや芸能ネタのようにしか見えない。他の活躍しているアスリートに対して失礼だし、大谷選手に対しても失礼である。

ジャニーズ事務所への忖度が問題となったが、大谷選手だけを特別扱いしているテレビ局の姿勢は、まったく反省していないのではないかと感じられる。
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映画『エル・スール』を見ました。

2024-02-25 17:58:31 | 高校国語改革
今年日本で30年以上ぶりに新作が公開された『瞳をとじて』の監督ビクトル・エリセの2作目の監督作品『エル・スール』が、『瞳をとじて』の公開に合わせて映画館で上映されました。仙台の公開が東京に3週間遅れのため、昨日ようやく見ることができました。35年以上前にシネヴィヴァン六本木で見た記憶があります。その時も衝撃だったのですが、今回見て、ほとんど忘れていたことが悔しく思えました。とは言え、いくつかのシーンが強烈に印象に残っており、記憶通りのシーンがよみがえりました。そして、今だからこそわかることに心が引きちぎられるような感覚に襲われました。

この映画の背景にはスペインの内戦があります。左派と右派が戦い、結果右派のファシズム陣営が勝利します。右派のリーダーがフランコです。第二次世界大戦の同盟国側がおもに右派を支持します。女エストレーリャの父親アグスティンは左派を支援していて、右派を支持していた父親と仲違いをしてしまい、北に移住します。父親はかつての恋人とも離れ離れになり、秘密を抱えながら生きることになります。娘のエストレーリャはある時、偶然父の秘密に気付いてしまいます。そして大きくなってそれを父親に暴露してしまいます。

人生には避けて通れない困難があります。それに伴う苦悩があります。上手くいかないのが人生です。そしてうまく行かなかったことが重くのしかかる場合もあります。誰も助けてくれないような困難だってあるのです。父親の苦悩と家族のせつなさがひしひしと伝わってきます。

こんなにすごい人生ドラマがたんたんと描かれていくのです。たかだか90分あまりの映画なのに中身が濃く、神経を研ぎ澄ましてみる必要がある映画です。映画らしい映画と言っていいと思います。久しぶりに見て興奮してしまいました。

エリセ監督の『ミツバチのささやき』もすばらしい映画でした。今回上映される『瞳をとじて』も楽しみです。
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映画『夜明けのすべて』を見ました。

2024-02-23 14:02:13 | 映画
映画『夜明けのすべて』を見ました。生きづらい世の中を助け合って生きて行く意義を教える、心を軽くしてくれる映画でした。

障害を持っている男女が主人公です。女性の藤沢はPMS(月経前症候群)という障害をもっていて、月経が近くなると自己をうしなってしまい、信じられない言動をしてしまいます。気付いた時にはすべてが「終わ」ってしまっています。男性の山添はパニック障害です。電車に近づくこともできず、行動範囲は広がりません。この二人がお互いの障害に気付き、寄り添いながら心を解かせていきます。

考えてみれば障害のない人だって似たような経験をしていると思います。常に障害を気にして生きて行くつらさはないものの、多くの人は生涯忘れられないような失敗は何度かしていると思います。それを考えれば障害者の苦しみもある程度は理解できます。その苦しみを少しでも軽くできるようにできれば、すべての人が生きやすい社会ができるような気がします。

障害はたくさんありますし、すべてグラデーションがあり、さらに一つの障害のなかでも人それぞれの症状があります。少しでも多く知っておくことの必要性も感じます。

現在は多様性の時代であり、認め合う時代に大きく転換しつつあります。一方では多様性を認めようとしない人たちもいて、大きな対立も生まれています。多様性を認める社会の意義を訴えることは文化の担い手の使命です。意義のある映画です。

さらに言えばこのような映画をすべての中高生が見ることが必要な気もします。授業の中で見せてもいいし、そうすべきだとも感じました。
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『道草』論

2024-02-20 15:28:21 | 夏目漱石


 『道草』は夏目漱石の自伝的小説と言われている。夏目漱石自身がモデルであり、ロンドン留学から帰国した後、東大の教師をつとめていたころのことが題材となっているのは明らかであり否定のしようがない。もちろん虚構も交えてあり、完全に事実を書いていたわけではない。とは言え、夏目漱石という人間を考える上でどうしても気になる小説である。

 また、夏目漱石は自分でストーリーを作るのは苦手だったようである。だから夏目漱石の作品は同じ所をグルグル回っているような印象を受ける。しかし『道草』は具体的な場面が比較的によく伝わるような気がする。伝わるからなのだろうか余計なまどろっこしい描写が少ない。その分、乾いた描写の鋭さが印象に残る。

 自伝的小説といいながら、『道草』の文体は客観的描写に徹していて、自分をモデルにしていると言われる健三の描き方も突き放している。妻の御住(漱石の妻の「鏡子」をモデルにしていると思いわれる)を描く視点も客観的である。だからこそ、二人の関係が平等に捉えることができる。漱石の文体が完成したのは『道草』だという批評家がいるが、それも納得できる。

 世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変わるから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。

 『道草』の主人公健三が最後にこのように言う。人生というのはあらゆるものが「片付」かない。ひとつの心理であろうが、この小説で片付かないものとして一番目立つところにあるのは、養家問題であり、妻との関係である。夏目漱石は、生まれてすぐに養子に出されている。しかしその後実家にもどる。健三も同じである。生まれて間もなく預けられた養家が、後に夫婦間の不和からトラブルに見舞われ実家にもどる。この時の後始末がいつまでたっても「片付」かない。

 妻御住との関係もぎくしゃくしている。これも夏目漱石の妻の鏡子夫人が『漱石の思い出』で述べている「証言」とも一致している。

 小説で読む限り地獄のような苦しみのように感じられるが、実は我々の生活なんて似たり寄ったりと言っていい。いつも何かに追われている。ストレスまみれになりながら毎日毎日を繰り返しているというのが、多くの人間の実感である。健三が特殊なのではない。逆に健三はまだ若くて教師という職に就いている。十分とは言えなくとも、当時としては恵まれたほうであったと言っていいはずである。それでも片付かないのだ。

 漱石の作品はこういう「片付かない」世界で生きている人間を描いている。言い換えれば「閉ざされた」世界である。しかし「閉ざされた世界」から抜け出したいと思うのが人情であろう。ではどのように抜け出すのか。

 御住にとっては生まれた赤ん坊が抜け出す手段となっている。この小説の最後の場面を引用する。

 細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。
 「おお好い子だ好い子だ。御父さまの仰る事は何だかちっとも分かりゃしないわね」
 細君はこういいいい、幾度か赤い頬に接吻した。

 御住は様々な困難があっても、赤ん坊がいるから救われるのである。しかし健三はそうはいかない。子どもはまったく助けてくれないのだ。印象的なシーンがある。御住が陣痛を突然陣痛を起す。突然すぎて産婆が間に合わない。御住は「もう生まれます」と健三に宣言して、一人で産んでしまう。健三はどうしてうよいかわからず。その子どもを手に取る。そのときの描写が次の通り。

 彼の右手は忽ち一種異様の触覚をもって、今まで経験した事のない或物に触れた。その或物は寒天のようにぷりぷりしていた。そうして輪郭からいっても恰好の判然としない何かの塊に過ぎなかった。(中略)彼は恐ろしくなって急に手を引込めた。

 御住には子どもがいる。しかし健三には赤ん坊は得体のしれない物であり、自分とのつながりを感じることができない。それどころか御住さえ、遠くに逃げてしまうのだ。

 孤独はどこまで行ってもついてくる。それを解決する手段はない。しかし書くことによって見えない読者とつながることができる。そこに微かな希望を見る。
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二世議員ばかりだから、物価だけが上がり給料が上がらない日本になる

2024-02-18 18:36:56 | 社会
 最近物価はどんどん上がっている。しかし給料はなかなか上がらない。大企業だけが給料を上げることをPRしているが、中小企業はあがらない。結局地方はおいてけぼりになる。年金生活者も年金が増えないので支出を減らすしかない。いつもの如く弱者にとっては厳しい国となっている。

 今回の自民党の裏金問題も、大企業が自民党のパーティ券を大量に買って、裏金を作らせて選挙に勝たせたという構図であることは明らかである。そして大企業寄りの政策を行う。だから弱者は切り捨ては当然の結果なのだ。アベノミクスの失敗もこの流れにあると言っていいだろう。

 旧統一教会の問題だって同じだろう。旧統一教会の望む政策をとらせるために選挙の支援を行う。その結果自民党が勝つから、多様性社会に対して逆行する政治家ばかりになる。

 大企業も自民党も東京さえ栄えていればいいのだ。だからほとんどの議員は地方に住んでいない。加藤鮎子大臣の選挙区は山形県である。しかし山形県には住んでいない。加藤鮎子は加藤紘一の娘で地盤を引き継いだだけの二世議員なのだ。だから地方の現状なんかまったくわかっていない。岸田総理も同じだ。こういう東京育ちの二世議員だけなのだから、こういう国になる。

 野党も自民党を追求するのもいいが、もっと前向きな議論もしっかりとしてほしい。マスコミも「裏金」「裏金」とあおるばかりで、本当に何が問題なのかを論じようとしない。マスコミがしっかりして、そして国会でしっかりとした国にならなければ、結局は同じことが繰り返されるだけだ。
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