とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

なぜお墓にこだわるのか

2015-11-29 10:27:06 | 社会
 テレビでお墓の話をしている。

 日本人は宗教意識が薄いのに、なぜこんなにお墓にこだわるのだろう。

 お寺の経営的な戦略が働いているという可能性があるのではないだろうか。お寺としてはそのような意識はないと主張すると思うが、結果としてお墓は檀家をつなぎ留めておくための「人質」のような役割をはたしている。ご先祖様がそこにいるから、お寺との関係を壊すことはできない。私もお寺とのトラブルを経験したことがあるが、やはりとりあえずはこちら側が譲歩するしかない。墓文化は社会的無意識の中で、檀家をお寺につなぎとめておくための共同幻想として形成されてきたと考える。

 この発想は「思いつき」なので、もう少しじっくり今後考えてみたい。

 特に「社会的無意識が形成する共同幻想」は、今の社会を解くカギになるのではないか。
 

 

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劇評『オレアナ』

2015-11-28 03:16:13 | 演劇
主役は電話?
 
 11月21日(土)渋谷パルコ劇場で「オレアナ」観劇。
デイヴィッド・マメット作、栗山民也演出。出演、田中哲司、志田未来。

 登場人物は大学の先生と女子学生。

 大学の先生はタイプのむずかしい言葉を使いたがる人だが、理性的で常識が通じる普通の先生である。一方女子学生は大学生としては少し出来が悪そうで、単位を落としそう。レポートは的を射たものではなく、その一部が劇中先生役によって読まれるが、中身がないことは明白。これでは単位をあげられない。誰が聞いてもあきらかだ。

 それでも女子学生は先生の言葉が難しすぎると非難する。確かに大学の先生は難しい言葉を使いたがる傾向がある。しかも、それが新語だったりすると理解するのは難しくなる。日本の場合でも同じである。もっとわかりやすい表現をすべきなのに新しい外来語を使いたがる。いい加減にしてほしい。しかし、かと言ってそれが女子学生が単位を落とす直接の原因とは思われない。

 大学の先生は会話の中でかなりの譲歩をしている。女子学生が取り乱すことのないように、後で問題にならないようにできるだけ言葉を選び説得する。最後には補講をおこなうことまで提案する。学校に対するクレームがあることを十分意識した対応であり、一昔前の理不尽な教師の横暴な態度とは明らかに違う。この作品は一昔前のアメリカの作品であるが、内容的には現代の日本の教育社会と似ている。

 女子学生と先生の会話はかみ合わず、次第に女子学生は自分がセクハラを受けているものと思い始める。
 
 実はこのあたりから私はわからなくなった。どう考えても私には大学の先生がクレームが起きないように気を使いながら対応しているように思われる。単純なセクハラ、パワハラといった問題にはなりえないと感じるのである。しかしながら、部分部分を取り上げるとセクハラ、パワハラに見えなくもない。だとすれば普通の会話でもそうなる危険性があるということである。普通の生活をしていても訴えられそうなそんな社会である。
 
 この芝居の解説を見てみると、どちらの立場に立つかによってまるっきり違う見え方がすると書いてあった。女子学生の立場に立つ見方も可能だと言うのである。しかし、私にはそれはできない。「普通の会話までもが、セクハラ、パワハラと言われる危険性があるという不条理な現代を描いた作品」という評価ならば理解できるが、この先生が女子学生にセクハラをしていたという見方はどうしてもできない。これは私が男だからという理由ではないように感じられる。

 もしかしたら、女子学生の罠だったのではないかと思った。この先生を憎んでいる女子高生が先生を破滅させようとした罠。そう思わせる部分もあるが、だとすると単純な復讐劇になってしまい、もの足りない。コミュニケーションがなりたたない不安定さ、気持ち悪さにこの劇の主眼がある。

 ここではっとした。もしかしたら、この劇の主役は電話だったのではないかと。
 
 劇中ふたりの会話をぶった切るかのように電話がなる。この電話が見ている我々にとってもイラつく原因である。話が途切れてしまうのである。人と人が話をしていて、途中で電話が入ってこられると、いやな感じになる。しかもそれが何度か続くと、イライラが募ってしまう。さらに最近は携帯電話になり、それが頻繁におこるようになった。女子学生もイラついたはずである。話が進みそうなときに必ず電話で分断される。前向きだった気持ちも、知らず知らずに後ろ向きなる。女子学生も先生にただ単位のお願いに来ただけだったのに、先生もそれに誠実に対応したかったのに、頻繁にかかる電話によってお互いにイライラがつのり、女子学生が先生に悪意を感じ始めた、私はこれが正解なのではないかと思い始めている。

 しかも、電話の内容がわかるようでわからない。微妙なところを行き来している。電話の中身を構成しようと試み、どうもうまく行かないまま現実の場面にもどされ、そちらもかみ合わない。観客は登場人物と同じようにイライラが募っていく。電話の内容がわからないことを最初は私の注意力が散漫であったためかと思っていたが、作者のねらいだったのではなかろうか。

 電話は現代における大きな発明である。特に携帯電話の時代になり、もしかしたら近年の一番大きな発明と言ってもいいのではないか。しかし、それはどこにでも潜入することができ、目に見えぬ糸をすべて切っていく。ウイルスみないな大変危険な存在だ。

 ネットワークという言葉があるが、昔ながらの人間のネットワークは電話による、あるいはインターネットによるネットワークに大きな影響を受けている。昔ながらのネットワークは崩壊する場合もある。これは社会の大きな変化であることは明らかだ。

 もちろん、これは私の見方であり、他にも多様な見方ができるであろう。また、演出の仕方で別の見方になるかもしれない。そのことを申し添えておく。
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書評「殺人犯はそこにいる」(清水潔著)

2015-11-23 17:00:12 | 読書
 1990年栃木県足利市で起きた少女誘拐殺人事件。栃木県警は菅家利和さんを犯人として逮捕。裁判で無期懲役が確定した。しかし、取り調べでは自供した菅家さんは、裁判では無罪を主張していた。

 この事件に疑問を感じた著者は、足利市周辺で起きた事件、さらには群馬県で起きた事件の5つに類似性を感じ、真犯人は他にいるのではないかと考える。調べてみると捜査や取り調べに大きな問題があり、DNA鑑定も杜撰なものであったことが徐々に判明してくる。筆者が中心になり、再審請求が高まり、DNA再鑑定の結果菅家さんと犯人のDNAが不一致であることが判明し、菅家さんは釈放される。再審の結果も無罪となる。

 筆者は真犯人は他の証言から「ルパン3世」に似た、ある特定の人物と目星をつけ、警察に働きかける。しかし今現在警察は動きがない。筆者は真実の解明を最後まで要求する。

 以上が本書のだいたいの内容であり、筆者の行動が細かくリアルに表現され、冤罪の恐ろしさがひしひしと伝わってくる。圧倒される。すごい本である。

背景にあるのは権力者側の無能さだ。

 おそらく警察だって冤罪を作りたくて作っているわけではなかろう。誰もが真犯人を捕まえたくて努力していたはずだ。しかし、一度その流れができるとその流れしか見えなくなり、間違った結論でも正しいものと思いこんでしまう。これは何なのだろう。いつの間にか結論ありきの捜査に変わってしまうのだ。

 先日、地元劇団が井上ひさし作の『闇に咲く花』という芝居を上演して見に行った。とても素晴らしい劇だった。この中のセリフにこういうものがある。

「ついこの間あったことを忘れちゃいけない。
 忘れたふりはなおいけない。」

 戦争について語っているセリフである。まさにその通りである。私たちはすぐに忘れすぎている。東日本大震災の際の原発の問題などは、いまや忘れたふりと言ってもいい。

 権力者は過ちを忘れてはいけないし、忘れたふりをしてはいけない。権力者こそがつねに批判精神を持ち、過ちをを正そうとしなければこの世の中すぐにとんでもない方向に転がっていってしまう。

 そして、われわれ一般の人間はやはりしっかりとチェックしていかなければならない。すべてを権力者のせいにしてはいけない。たったひとりになろうが、正しいことを正しいと言い続ける勇気を持たなければならない。筆者はそう教えてくれている。

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書評 石原千秋著「生き延びるための作文教室」

2015-11-21 04:56:18 | 国語
 「学校空間はあるような内容中べーーガラスの壁に囲まれている。作文もその中で書かなければならないか学校空間はあるような内容中べーーガラスの壁に囲まれている。作文もその中で書かなければならないかを伝授することが、この本の目的だ。」

 「実はぼくの研究も、結局は研究というガラスの壁の中で、個性的に見える論文を書いているだけではないかと思う。ぼくはそうやって生き延びてきた。」

 「はじめに」の部分でこのように書かれている。随分とひねくれた人だなと思うと同時に、めちゃくちゃ正直な人だなと感じる。自分を認めながらこの世の中で生きていくための文章読本である。

 石原千秋さんは国語教育の問題、さらには教育全般の問題ににさまざまな意見を発している人であり、氏の本からはたくさんのことを学ばせていただいている。この本の中にも例えば法科大学院の崩壊のことについて文部科学省を批判して「『ロースクール』という流行語が人々の思考を停止させてしまった」というするどい指摘をしている。

 文部科学省は最近は「アクティブラーニング」という流行語を作りだした。しかし、その流行語が単なる流行語になり、なんでもかんでも「アクティブ」ならばいいというような風潮をつくりだしつつある。どういう意図で流行させようとしているのかわからないもま、にぎやかならばいい授業という勘違いが生まれている。覚えなければならないことを覚えるという勉強そのものが本質的に持っている地道な努力を無視しようとしているとしか思えない流行である。流行語を作りたがり、その成り行きを見物するのが文部科学省である。失敗すれば現場のせいにすればよいのだ。いい加減にしてもらいたい。

 私自身の実感として、教育の現場は年々息苦しくなってきており、その中で生きていくことはしんどいと考えることもくなってきた。石原氏の意見はひねくれているように一見見えるが、教育現場の息苦しさをよく映し出しているのかもしれない。

 しかし一方ではそこまでしなくても、もっと素直な読み書きでいいのではないかとも思う。戦うべき場所は人それぞれなのだから。
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一瞬でつじつま合わせ

2015-11-07 09:16:17 | 社会
 議論が分かれる際、誰でも自分では一生懸命考えている気持ちになっている。しかし本当は無意識に様子を見ているだけという場合が多い。最終的には自分にとって都合のいいほうにつくようになっている。問題は自分では自分で考えて結論を出したと思っていることである。

 テレビの番組、特にワイドショーを見ている人はその傾向が強い。自分では自分なりの意見を考えているつもりだが、実際はコメンテーターの意見に従っている。コメンテーターも心得たもので大衆の支持を得やすいことばかり言う。もちろん反権力的ではあるほうがいい。かと言ってあまりに極端なことを言うと逆に批判の矢面に立たされ降板させられる。だから世の中に批判的でなおかつ多数の賛同を得られる意見に集約されていく。その意見を聞いた視聴者は、それをあたかも自分の意見のように語り始める。

 「報道ステーション」を見ているとどうしても古館さんの顔色を見てしまう。古館さんの後ろに大衆がいるからである。自民党の人が「報道ステーション」を毛嫌いするのもわからなくもない。(もちろん、自民党が古館さんより正しいと言っているのではない。)

 なぜ人たちは多数派になびくのであろうか。そのほうが生きやすいからである。特に日本人は昔からムラ社会を形成し、そのムラから外れることができなかった。自分だけ目立つ行動をとれば村八分になり、社会から除外されてしまうのである。だから猫のように周囲に気を配りながら目立たないように生きる。

 その傾向は子どもにも伝わる。「いじめ」社会が形成される。個性を育てる教育をしているはずの日本の教育現場はどんどん個性を隠すこどもだらけになる。みんな表面上は健全で明るい人間関係を保ちながら、その裏では巨大な闇を抱えることになる。孤独と戦いながら孤高に人生を歩むか、妥協しながら楽に生きるか。結果は明らかに後者を選ぶ。一生生きにくい生き方を選ぶのはさすがに厳しい。生き延びるためには妥協も必要だと考えるようになる。

 このようにして日本人は空気を読みながら生きることになる。

 しかし、ただ周りに流されながら生きているという生き方には抵抗がある。自分がなくなるからである。そこで自分で判断する形をとりながら、実際には大衆の意見に従うことになるのである。しかも権力に対する批判ならばなおよし。権力に対して批判的なほうが、「権力に流されない自分」をアピールできるのである。

 このようなことを無意識に行われている。その人は自分は自分は自分で判断していると考えれいるが、実は様子を見ながらどっちにつくか判断し、一瞬で自分の理屈を形成し、勝ち組にのってしまうのである。

 この手の人はなかなか手ごわい。実際には自分では何にも考えていないのに、自分ではさまざまな情報を整理統合して自分で判断したと思いこんでいる。だから議論になっても議論の根拠となる他者の意見はしっかりと言えるが、そこから自分がその結論に至った論理がない。論理がないから、議論が議論にならないまま、折り合うこともできない。
「みんながそう言ってるじゃないか。」
 この一言で終わってしまう。

 議論が議論にならないのは日本の国会ばかりではない。あらゆるところでそれは起きている。本当に正しいのかどうかわからない大衆の意見が形成され、それは社会を押しつぶし、いつか来た道を歩み始める。

「なぜこうなってしまったんだ。」

 気づいた時にはもう遅い。
 本当に議論のできる社会になるためには何が必要なのか。
 本当に自分で考えることから始めるしかない。
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