とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

今年見た映画(2020年)

2020-12-31 11:14:24 | 映画
 今年は新型コロナの影響でほとんど舞台を見ることができませんでした。その分例年よりも多くの映画を見ることができました。いい映画がたくさんありました。以下は映画館で今年見た映画です。

1.廓文章吉田屋
2.パラサイト
3.ジョジョラビット
4.風の電話
5.オリマキの一番幸せな日
6.ナイブスアウト
7.シネマ歌舞伎 風の谷のナウシカ
8.グッドバイ
9。1917
10.春画と日本人
11.Fukushima50
12。星屑の町
13.ジョディ 虹の彼方に
14.レ。ミゼラブル
15.黒い司法
16.京鹿子娘二人道成寺
17.ラスト・ディール
18.シェイクスピアの庭
19.凱里ブルース
20.フィッシャーマンズソング
21.白い暴動
22.21世紀の資本
23 ストーリーオブマイライフ
24.レイニーデイインニューヨーク
25.カセットテープダイアリーズ
26.ストップメイキングセンス
27.ラストワルツ
28.パブリック 図書館の奇跡
29.はちどり
30。ハニーランド
31。17歳のウィーン
32.赤い闇
33.ようこそ映画音響の政界へ
34.はりぼて
35.ランブル
36.オフィシャルシークレット
37.ファヒム
38.ある画家の数奇な運命
39.本気のしるし
40.おもかげ
41.PLAY 25年分のラストシーン
42.キーパー
43.エイブのキッチンストーリー
44.娘は戦場で生まれた

 ベスト5を選ぶとしたら、見た順にあげると
・パラサイト
・ジョディ 虹の彼方に
・シェイクスピアの庭
・ある画家の数奇な運命
・キーパー
 以上です。順番はとても付けられませんし、明日選べば変わるかもしれません。どれも印象に残っていますし、刺激を受けました。

 今年一年、文化の意義を考えました。いやなことも多かった年ではありましたが、文化の火を絶やさないように頑張っている人の努力もたくさん目にしました。たくさんのいい映画に出合えたことを来年の希望にしたいと思います。
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現代文共通テスト対策特別講座⑥ 小説③[「ナラトロジー」のいくつかのトピック]

2020-12-29 21:34:13 | 国語
〔一人称小説と三人称小説〕
 「語り」に視点を置くと、小説にはふたつの種類があります。「羅生門」のような作品を三人称小説といいます。しかし小説にはもう一つの語りの小説があります。それは一人称小説です。これは語り手が「私」になる小説です。たとえば「おじいさん」が語り手だったらどうなるでしょう。

 妻は洗濯にでかけた。私は家にひとりになった。何もすることがない。ひまだ。ひまだからと言って、何もしないわけにはいかない。ひまなときに何もしないと、ひまが私を苦しめ始めるからだ。年を取るとその苦しみが一番つらい。だから無理やり仕事を見つける必要があった。山に柴刈りにいくことにした。とは言え、一冬分の柴はすでにある。これ以上の柴はもういらない。柴の山が夢に出てくるのもつらい。しかしそれは「ひま」よりはマシだ。「しば」は「ひま」よりまし。私の一日はそれを考えているだけだ。
 
 こういうのが一人称小説です。この一人称小説は視点がはっきりしているという特徴があります。右の場合、おじいさんが見えるものしか描けません。だからおばあさんの心情は書けなくなります。

 では三人称小説ではどうなるのでしょうか。三人称小説は神の視点です。ですからどの人物の心理も描くことは可能です。しかし「羅生門」を思い出してください。「羅生門」においては心理が描かれているのは下人だけで、老婆の心理は描かれていません。三人称小説においてはどの人物に視点を置くかは決まりはないのです。その視点の置かれている人物の心理を描くかも決まりはありません。どこに視点を置くかは作者の意図によっています。

 逆説的になりますが、小説がなぜおもしろいのか考えたとき、謎があるからです。謎というのは描かれていないことです。つまり語り手の視点が外れたところが謎になり、その謎を知りたいと思うから読者はその小説を読み進めるのです。だから小説において大切なのは見えないものをつくるとも言えます。

 作者はそれを考えて語りの形を作り上げているのです。

〔プロットとストーリー〕
 「ナラトロジー」でもう一つ大きなテーマとなるのは、時間と「語り」の関係です。例えば「山月記」を思い出してください。山月記では虎になった李徴と袁傪が出会った場面の中で、過去の李徴の思い出が語られます。語りの時間が現在だとすると、現在の時間の中で過去が語られ始めるのです。つまり出来事順と語りの順が違うのです。

 出来事順のことを「ストーリー」と言います。その「ストーリー」をより面白くするため順番を出来事順ではなくしたものを「プロット」といいます。小説では「ストーリー」がおもしろいものもありますし、「プロット」がおもしろいものもあります。もちろんどちらも優れているものもあります。小説の作者は「ストーリー」とともに「プロット」を考えます。

〔小説の時間〕
 そのように小説の時間を考えていくと面白いことがたくさん見えてきます。
 「こころ」の場合は、みなさんが教科書で読んだものは、「下 先生の遺書」の一部です。しかし「上」「中」は読んだでしょうか。まったく違う時間が流れていました。「先生」と出会った青年の手記であり、その手記はストーリーとしては、「下 先生の遺書」に書かれている部分よりも後の出来事が書かれているのです。「上」「中」と「下」の時間が逆転しているのです。これは何を意図しているのでしょう。興味のある人は考えてみてください。

 あるいは時間を省略する場合もあります。映画で言う「カットバック」ですね。場面の展開にとても効果的な技法です。

 あるいは同じ時間に起きたことを、別の人間がそれぞれ語るということもあります。推理小説でよく使われる手法です。一番有名なのは芥川龍之介の「藪の中」です。1つの事件を3人が語ります。そして3人がそれぞれ別の結論を言うのです。だから真相はわかりません。「真相は藪の中」という言葉を聞いたことがあると思いますが、この言葉の語源となっている小説なのです。
 
〔作者は総合プロデューサー〕
 時間も「語り手」が関わります。どのように「語り」を順序だてていくかが小説の面白さを作り上げていくのです。
 語り手が筋(ストーリー)にどのように介入していくかは、作者が決めているのです。小説家の作者というのは、語り手に筋(ストーリー)の語り方を演出していく総合プロデューサー的な役割をしていることがわかります。逆に言えば、語り手の介入の仕方に作者の意図が表れると言っていいのです。
 
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現代文共通テスト対策特別講座⑤ 小説②「『羅生門』は『作者』が目立ちすぎ」

2020-12-28 21:44:17 | 国語
[「羅生門」における「語り」の働き]
 「語り」について皆さんが読んだ「羅生門」を例にとって考えてみましよう。「羅生門」の特徴は「作者」の異様な介入です。高校生の初読の感想に多く見られるのが、
「作品のなかに『作者』が出てくるのがおもしろい。」
というものです。確かに「作者」が目立ちすぎます。

 「羅生門」の語り手の役割を考えます。「羅生門」では「語り手」は自分を「作者」と名乗り、視点は徐々に「下人」に絞られていきます。途中からは「下人」の内面に入り込みます。いつの間にか「語り手」の視点は「下人」の視点になります。この結果「下人」の心理を説明することができます。一方では「下人」の視点になってしまったから、「下人」が先を見通すことができないように、物語の展開が読めなくなります。この「わからないことをわかっていく謎解き」が物語を先に進める力となります。

 「老婆」が羅生門の上で何をしていたのかはわかりませんし、何のためにやっているのかもわかりません。そこにわからないものがあるからこそ、「語り手」は読者をひきつけることができるのです。楼の上で何をしているのかわからないという恐怖が、サスペンス効果を上げ読者をひきつけます。「老婆」が死人の髪の毛を抜く理由は「生きるため」です。一方では意外性があますが、一方では当たり前な理由です。当たり前が謎であるということがこの小説のおもしろさなのです。

[「羅生門」は語りすぎ]
 「羅生門」をセリフと「事実」だけ書きぬいた台本を作ってみました。これを読めば、この小説の中身がこんなに短い出来事だったということがわかると思います。つまり「語り手」が語りすぎていたのです。

       下人、梯子から上へ飛び上がる。
       聖柄の太刀に手をかけ、
       大股に老婆の前へ歩み寄る。
       老婆、驚く。逃げる。死骸につまづく。
       下人、老婆の行く手をふさぐ。
下人 「おのれ、どこへ行く。」
       ふたり、無言のまま、つかみ合う。
下人、老婆の腕をつかんで、ねじ倒す。
下人 「何をしていた。言え。言わぬと、これだぞよ。」
       下人は、老婆を突き放す。太刀の鞘を払って、
       老婆の目の前へ突きつける。
       老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、
       肩で息を切りながら、目を見開いて黙っている。
       下人は、老婆を、見下ろしながら、少し声を和らげて言う。
下人 「おれは検(け)非(び)違(い)使(し)の庁の役人などではない。
 今しがたこの門の下を通りかかった旅の者だ。
 だからおまえに縄をかけて、どうしようというようなことはない。
 ただ、今時分、この門の上で、何をしていたのだか、
 それをおれに話しさえ すればいいのだ。」
       老婆は、じっとその下人の顔を見守る。
老婆 「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、
 かつらにしょうと思うたのじゃ。」
       下人は老婆をにらみつける。
老婆 「なるほどな、死(し)人(びと)の髪の毛を抜くということは、
 なんぼう悪いことかもしれぬ。
 じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいなことを、
 されてもいい人間ばかりだぞよ。
 現に、わしが今、髪を抜いた女などはな、
 蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干し魚だと言うて、
 太刀帯の陣へ売りに往んだわ。
 疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいたことであろ。
 それもよ、この女の売る干し魚は、味がよいと言うて、
 太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。
 わしは、この女のしたことが悪いとは思うていぬ。
 せねば、飢え死にをするのじゃて、しかたがなくしたことであろ。
 されば、今また、わしのしていたことも悪いこととは思わぬぞよ。
 これとてもやはりせねば、飢え死にをするじゃて、
 しかたがなくすることじゃわいの。
 じゃて、そのしかたがないことを、よく知っていたこの女は、
 おおかたわしのすることも大目に見てくれるであろ。」
       この老婆の話を聞きながら、下人は、太刀を鞘におさめる。
       その後その太刀の柄(つか)を左の手で押さえる。
       そして、右の手は大きなにきびをさわる。
下人 「きっと、そうか。」
       下人は一足前へ出、不意に右の手をにきびから離して、
       老婆の襟がみをつかむ。
下人 「では、おれが引(ひ)剝(はぎ)をしようと恨むまいな。
 おれもそうしなければ、飢え死にをする体なのだ。」
       下人は、すばやく、老婆の着物を剝ぎとる。
       老婆は足にしがみつこうとする。
       下人は老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。
       下人は、剝ぎとった檜皮色の着物を脇にかかえて、
       急な梯子を駆け下りる。

 語りすぎた「語り手」がいたからこそ「羅生門」は印象的な小説になったのです。

 考えてみれば「羅生門」は「羅城門」という説話をもとにして作られていました。あるいは「山月記」も「人虎伝」をものに作られています。それぞれ「先行テクスト」がある小説です。ふたつとも「語り手」が「先行テクスト」の内容を語り直していることによって新たな作品になっているわけです。

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現代文共通テスト対策特別講座④ 小説①「ナラトロジー」

2020-12-27 08:34:40 | 国語
[小説の読解は特別なことはない]
 小説の読解に特別なことはありません。読心術、つまり人の心の中がわかるような超能力が必要なことはありません。根拠を求めて、そこから導き出される結論を読み取る力が問われているだけです。

 よく人の心理なんかわかるはずがないと言う人がいます。確かに他人の心の中はわかりません。しかし小説の場合、作者は登場人物の心理を(伝えられる範囲内で)描写しています。その描写をたよりに私たちは小説を読んでいるわけですから、その人物の心理が(伝えられた範囲内で)わからなければ小説としての意味はないのです。

 作者が表現しようとしていることを読み取ることが小説の試験問題なのです。

 以上のことが基本なのですが、近年小説の問題に大きな変化がおきつつあります。
 
[ナラトロジー」が共通テストのトレンドに]
 「ナラトロジー」が共通テストのトレンドになっています。「ナラトロジー」というのは「語り手」を意識した読解のことです。基礎的なことから説明します。

[「小説」って何?]
 いったい小説って何なのでしょうか。「語り手」と「作者」の関係を考えながら小説の構造をかんがえてみましょう。

《第1段階》
 小説の骨格には話の筋(ストーリー)があります。具体例として次の桃太郎の冒頭部分を使ってみましょう。

  むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがいました。
 ある日、おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ選択にいきました。

 この筋だけの話(ストーリーだけの話)を第1段階とします。いわゆる「物語」の状態です。

《第2段階》
 さて、この話を誰かが誰かに語り聞かせる場面を想像してみてください。そのとき「語り手」は少し聞き手を意識して語り始めます。

 きょうは花子ちゃんにおもしろいお話しをしてあげるね。
 むかしね、むかしっていうのはね、花子ちゃんが生まれるずっと前のことだよ。
 花子ちゃんが生まれるずっとずっと前にね、田舎の村にね、おじいさんとおばあさんが住んでいたんだ。
 おじいさんはね、おばあさんととっても仲良しでね、ふたりっきりで生活していたけど、毎日毎日働いて、幸せだったんだ。
 秋になってきてね寒くなってきたんだと思うんだけど、昔って枯木に火をつけてストーブにしてたんだけど、その枯木を準備しなければならなくなってね、おじいさんは山に枯木を探しに行ったんだ。
 おばあさんはね、今はどの家だって水道があるけど、昔はなかったから、洗濯しに川までいったんだ。

 なんて話をし始めます。これは語り手が聞き手を意識して聞き手に理解しやすいように筋(ストーリー)に介入しているわけです。これを第2段階とします。「語り」の段階です。

《第3段階》
 次第に語り手は介入の度合いを高めていきます。その具体例を書きます。

 トンビが輪を描いている。北からの風がゆるやかに流れている。風は山の上の木々を赤く染め始める。秋の空は高く澄んでいた。
 山のふもとに小さな家がある。その小さな家で老夫婦が生活をしていた。家といっても今の感覚から言えば小屋である。雨風を防げばそれでいいという建物である。その頃のそのあたりに住む人々はそれが当たり前の家であった。
 科学という言葉のなかったころである。誰もが神を信じていた。神の力で生かされていると信じていた時代だ。彼らは死は怖くなかった。いや、死は怖くないというのを建前として生きていた。かれらは静かに生きていた。子供のいない老夫婦にとってそれが生きるということであった。
 この時期になると冬を越す準備をしなければならない。年老いた男は山に枯木を取りにいく。男は年を経るにしたがって体が動かなくなることを感じていた。背中に痛みを感じて生きていくことに苦しさを覚え始めていた。体のいたみは心を締め付け始める。漠然とした不安。
 「ちくしょう。」
 男は山に向かって一言叫ぶ。その叫び声が返ってきたとき、涙があふれてくる。
 年老いた女は川に洗濯に行く。女にとって耐えることが生きることだった。この時期水が冷たいのは知っている。しかし、それを悔やんでいてはいけない。いつも自分を殺すことだけを心掛けてきた。

 例えばこのように語り手はどんどんストーリーに介入していきます。最初のほうでは聞き手に視点の誘導をしています。そしてストーリーを壊さない程度に勝手に設定を作り上げていきます。そして登場人物の心を描き始めます。

 このように、語り手はどんどん第一段階の筋(ストーリー)に介入して脚色していきます。ここまでくるとほとんど小説っぽくなってきます。

 小説の本質は「語り」にあると言ってもいいのです。「語り」を意識して読解することが小説の読解にはどうしても必要だと言うことがわかり始めました。
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安倍晋三さん、いい加減にして。

2020-12-25 17:22:24 | 政治
 安倍晋三氏にはもはや「うんざり」という言葉しかない。

 そもそも安倍氏の様々なスキャンダルについては、どれもが安倍氏が嘘をついているとしか思えないものであった。モリカケ問題も、明らかに安倍氏が嘘をついているとしか思えない。官僚が安倍氏のウソをウソにしないためにでたらめな証拠隠しをし、偽証をし、大きな混乱を国政にもたらしたのである。

 「桜を見る会」の問題も、税金を使った講演会への利益供与であるのは明らかなのだ。それなのに安倍氏は偉そうな態度でそれを否定してきた。今回、その嘘がばれたわけであるのだから当然、それなりの責任を取らなければいけない。

 それなりの責任というのは当然議員辞職である。一国の首相が国民を騙してきた責任はちょっとやそっとで果たせるものではない。これから安倍氏にそれができるのであれば、モリカケがあった後にさらに次なる問題が出てくるはずがないではないか。

 もはや顔を見るのもいやだ。はやく政治の世界から消えてほしい。嘘をついても偉そうにできるということがまかり通る社会があってはならない。
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