とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

劇評『ピアフ』

2016-02-29 15:42:40 | 演劇
 2016年2月27日(土)夜、シアタークリエ。

 作・パム・ジェムス、演出・栗山民也、主演・大竹しのぶ

 日本に岸洋子というシャンソン歌手がいる。岸洋子のことを調べているうちに、エディット・ピアフに興味が出てきた。もちろん名前はよく知っていたが、どういう人生を送ったのかまでは知らなかった。たまたま放送大学を聞いていたら、エディット・ピアフの生涯を解説した特別講義があり、すごい人生を送っていた人だとわかった。今回、その興味から是非観劇したいと思って足を運んだ。

 エディット・ピアフにとって歌が人生であり、人生はそのまま歌であった。今の人には理解できない生き方であろう。歌は職業であり、いくら歌が好きな人でも人生そのものが歌だという感覚まではいかない。たとえ口ではそう言ってても、演じているだけにすぎない。しかし、60年代のロックスター、かつての日本の歌手、そしてエディットピアフ、みんな「歌こそわが人生」だった。生きるために歌い、歌うために命を削っていった。多くの若者がその生き方にあこがれ、しかしその生き方はできず、挫折し、妥協し、元気な年寄りになっていった。

 自分の人生を後悔してはいけない。つらくても後悔のない人生を送らなければならない。そんな弱さの中の強さをピアフは生き続けた。大竹しのぶはそんなピアフを見事に演じきった。すばらしい役者だ。同時代にこんな役者がいたことを喜ぶべきだ。
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大相撲の日本人力士びいきについて

2016-02-27 05:39:21 | 社会
 今年の1月場所で琴奨菊が優勝しました。10年ぶりの日本人力士の優勝で大いに盛り上がりました。そのことについて、日本人力士へのひいきはおかしいという意見が聞かれます。多くの外国出身の力士は日本人以上に努力を重ねてきたから強くなったのであり、日本人だからと言って大きく取り上げるのはおかしいという意見です。

 この意見はもっともだと思います。琴奨菊に対する熱狂ぶりは他の外国人力士に対して失礼にも思えます。日本人力士の優勝が10年ぶりだということは、ここ10年は外国出身力士が大相撲を支えてきたわけです。だから外国出身力士に敬意を示し、琴奨菊への過度の熱狂は控えるべきにも思えます。

 しかし、別の視点もあるように思われます。

 例えばテニスで私たち日本人の多くは錦織を応援しています。これは悪いことなのでしょうか。錦織を応援しているからと言って、ジョコビッチを嫌っているわけではありません。ジョコビッチの強さを認め、尊敬しながらも、錦織を応援しているのです。

 ACミランの本田を応援します。サッカーのスターはほかにもたくさんいます。正直言って本田よりもすごいプレーヤーはたくさんいます。しかし、私たち日本人の多くは本田を応援しています。これは自然な感情です。悪いことであるとは思えません。

 もし日本人選手を応援して外国人選手に対して失礼な態度をとるのならば大きな問題です。しかし、外国人のトッププレーヤーに対しての尊敬の気持ちは失っているようには思えません。レベルの高い場であるからこそ日本人の活躍を応援したくなるのです。

 大相撲でも同じでしょう。白鵬は偉大な横綱でありみんなが応援しています。日本人よりも努力したからこそ、いまこれだけの優勝回数を重ねているのです。白鵬を尊敬、応援してない日本人はいません。その上で日本人である琴奨菊の優勝を自然な気持ちとして喜んでいるのです。これは大相撲が国際化するなかでの過程で当然のように起きることなのではないでしょうか。

 国際化が叫ばれています。広く大きな世界的な視点が必要な時代になってきています。しかし、無理をしてまで「身びいき」を否定してしまったら自分の「拠り所」を見失い社会は大きく乱れ始めます。差別はいけませんが、「ひいき」は否定しなくてもいい。これが私の意見です。
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書評『2020年の大学入試問題』

2016-02-25 12:13:43 | 読書
 大学入試改革が話題になっています。それと同時に「アクティブラーニング」という生徒が主体となる問題解決型の授業の必要性が大きくクローズアップされています。この本は、その大学入試改革、授業改革の必要性を解説し、具体的にどのようになっていくのかという改革の方向性を示しています。とても刺激的で、意欲をかきたててくれる本です。

 大きな方向性については賛成します。ただし、この改革があまりに急いで行われてしまっているので、混乱が生じるは必至です。

 例えば現状では「アクティブラーニング」という言葉だけが独り歩きし、なんでもかんでも「アクティブラーニング」で括られてしまっています。にぎやかであればそれでいいという勘違いがまかり通る危険性は常にあります。授業の効果を評価できるような能力を持った教師がまだほとんどいないというのが現状ではないでしょうか。

 あるいは入試改革においても今だに全体像が見えてきません。これで2020年に開始できるとは思えませんし、もし無理やり行えば改悪になってしまう危険性が高い。新傾向の試験問題の評価方法はどうなるのかはまだよくわかりません。一方では、一部の超優秀な生徒が集まる学校ならいいかもしれませんが、そこまでいかない学校にとっては、やはり基礎的な知識、能力も大切です。それなのにそれを無視した入試になってしまっていいのでしょうか。基礎学力をはかるテストはどうなるのか。ほとんどわからないことだらけです。学校からの強い反発が予想されます。

 筆者は若干我田引水的なところがあり、強い反発に対して丁寧に説明できるのかはこの本を読んでいるかぎりわかりません。

 大きな改革に向けて冷静で丁寧で前向きな議論の必要性を強く感じました。
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高校国語改革

2016-02-20 13:35:07 | 国語
 高校国語の科目改定案が文部科学省から提出された。現在、必修科目である「国語総合」がなくなり「現代の国語」「言語文化」というふたつの必修科目になるという。また現在は選択科目として「国語表現」「現代文」「古典」などの科目があるが、新たに「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」という科目になるという。ただし、科目名はまだ仮称だということだ。かなり大きな改定である。

〔現在の国語教育の問題点〕
 改定の意図は明らかである。現在の高校の国語教育にいくつかの大きな問題点があるからである。私が感じる3つだけあげておく。

〔1.評論がむずかしすぎる〕
 1つ目の問題は、現代文の評論が非常に難解なものが多く、授業がその内容の解説に終始してしまうということである。評論の内容が現代思想といってもいいものまであり、とてもではないが高校生のレベルを超えている。なぜこのようなものばかりになったのか。センター試験にその原因がある。マーク式ではその問題文の内容が難解なものにしないと平均点が上がりすぎる。平均点があがりすぎると入学試験としての意味がない。だから問題文がどんどん難解なものになっていった。それに伴い教科書の内容も難しくなっていったのである。生徒は内容理解で精一杯となり、真の読解力がつくわけではい。さらに自分で自分の意見を書く能力にも直結しなくなっている。これはもはや「国語」ではない。

〔2.小説は100年前のものばかり〕
 2つ目の問題は、現代文の小説教材が「羅生門」「山月記」「こころ」などの定番が依然として残っている。それらの一時代前の作品だけが授業で取り上げられ、現代の小説がほとんど取り上げられないということである。これは国語教師の怠慢のせいである。新たな教材よりも定番のほうが教材研究の必要がなく楽だからなのだ。教科書会社もせっかく新たな教材を開発しても、教師に受けがよくないので教科書改訂の際に外してしまう。定番さえ入れておけばいい、という教科書が多くなり、新たな小説教材を開発する努力も乏しくなってしまったような気がする。これでは生徒は本を読む楽しみを感じられなくなる。

〔3.漢文訓読って必要なの?〕
 3つ目の問題は「漢文」にある。「漢文」は日本の古典の重要な部分を占めており、思想的にも大切なものであり、しっかりと学ぶべきものである。しかし、返り点とか句形とかはそんなに大切なものではない。それなのにそれを説明するだけでかなりの時間が必要になり、その時点で生徒もいやになってしまう。漢文の訓読の仕方は現代において特に重要なものではない。それに時間をかけざるをえないのは、やはりセンター試験のせいであろう。今のままでは逆に漢文の良さがわからなくなってしまう。
 
〔改革のためのハードル〕
 以上のように現状の高校国語教育は問題点が大きく、改革しなければいけないのは明らかだ。しかし、その改革はうまくいくのかというと大きなハードルが待ち受けている。2点あげる。

〔大学入試は変化するのか〕
 センター試験が廃止になり、新テストになるということである。おそらく今回の国語改革もその大学入試改革と一体のものであろうと考える。しかし、その新テストがうまくいくのか心配である。先日新テストの問題例が公開された。この一部の問題で評価することはできないが、何を国語力ととらえているのかよくわからない内容のものであった。しかも、その採点はどうするのだろうか。客観性の保持は困難であろう。さまざまな批判にさらされながら維持することは可能なのであろうか。結局は妥協に妥協を重ねてとてもいい加減な問題になってしまうのではないかと危惧する。

〔国語科教員は変化するのか〕
 国語教員はこれまでどのような改革をしてきてもほとんど変化してこなかった。またこのような改革をしても国語教師は変化しないのではないかと思うのである。教師が変化しないのはもちろん教師の怠慢である。しかし、一方ではどの教師も自分が受けた教育の真似をすることからスタートするのだから、大きく変化できないのも当たり前のことなのである。だから理念は理解できてもそれに対応できないという状況は容易に想像できる。

〔改革のために〕
 現在、高校の国語教師はやる気を失っている。英語や社会科、あるいは理系の科目は改革が進み、改革の努力をやってきている。しかし国語は改革の波には取り残されており、一方では小論文指導、作文指導に借りだされ、試験の時は人一倍作成にも採点にも時間がかかり、多忙な中にいる。自分の存在意義を見失っている状況なのである。
 改革のためには国語教育の改革の重要性を広く世間に認めてもらい、大きなムーブメントを起す必要がある。政治家やマスコミの人々がもっと国語教育の応援をしてほしい。そして、国語教師を一時的にでも増加させ、みんなで研修できるようにしてほしい。国語教師は基本的には真面目な努力家がほとんどである。そういう状況にさえなればみんなが競うように努力しはじめるはずである。
 ことばは人間社会の基本的で最も重要な存在である。その教育は国にとって最も重要なものである。ぜひこの改革を成功させたい。
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書評『月光川の魚研究所』

2016-02-18 20:04:32 | 読書
 アメリカの作家にチャールズバクスターという人がいます。何気ない日常を描いていながら、いつの間にか平衡感覚を失い、不思議な世界につれていかれる。当たり前が当たり前でなくなるそんな感覚を描くことができる小説家です。この星野青という作家の『月光川の魚研究所』という連作短編小説集もそういう感覚を味わうことができます。

 「月光川の魚研究所」という変わった名前のバーはバーテンダーがひとりでやっています。そのバーに様々な人が訪れ、自分の体験を語ります。どの話も日常のバランスが微妙に傾き始め、その世界はいつもの風景でありながら、いつもとは違う現実のむごさと美しさをそなえた幻想的な世界と変化していきます。いつしか読者は自分の日常を振り返らざるを得なくなります。

 作者の人間洞察の鋭さと、空想力の豊かさを感じさせる作品です。今後の活躍が期待されます。
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