とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

『千と千尋の神隠し』の分析的読解5「カオナシ」

2023-01-31 07:38:45 | 千と千尋の神隠し
 国語の授業で『千と千尋の神隠し』の分析的読解をやってみようと思い、準備しています。キーワードごとに分析していこうと考えています。まだ構想段階ですがメモ的に書いていきます。

 5つ目のキーワードは「カオナシ」。

 『千と千尋の神隠し』で印象に残るキャラクターの一番手はカオナシでしょう。カオナシは何だったのでしょう。


 カオナシが最初に出てくる場面はかなり初めのほうです。千尋がハクとお湯屋に繋がる橋まで来た時、千尋が息をとめながら橋をわたっているときに、カオナシは千尋とハクをじっと見おっくていたのです。


 ここで注意が必要なのは、カオナシは透明になりかけていたということです。この世界では人間は透明になります。千尋が透明にならずに済んだのはハクから赤い玉を食べさせられたからです。この意味については今、考えている最中です。いずれにしても人間は透明になってしまう世界だと考えられます。ですからカオナシは人間です。

 人間であるカオナシは千尋のことが好きになります。千尋と近づくために欲が生まれ、あらゆるものを「消費」して、どんどん自らを大きくしていきます。おそらく大きくなっていくカオナシはバブル経済を表しているのだと思います。


 しかし千尋はそんな幻想を信じていません。カオナシが与える砂金にには興味を示しません。子供は金銭的な欲はありません。しかし人間は大人になるに従ってお金に支配されてしまいます。子供のころは純粋に愛や正義を信じていられます。しかし大人になるとそれができなくなります。千尋は子供だからまだ純粋に愛と正義を信じていられたのです。カオナシは大人です。純粋な心を失い、愛情をお金で考えてしまうのです。

 さて、もとに戻ったカオナシは千尋と電車に乗ります。電車は「銀河鉄道」と同じです。死者を運びます。千尋はハクによって戻ってきますが、カオナシはそのまま死の世界にとどまります。


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映画『ドリーム・ホース』を見ました。

2023-01-29 10:05:43 | どう思いますか
 映画『ドリーム・ホース』を見ました。夢をもつことのすばらしさを描く、気持ちが明るくなる映画でした。

 イギリス・ウェールズが舞台です。毎日が刺激がないまま過ごしている中年女性ジャンが主人公です。ジャンは自分の生きがいを競走馬に見出します。牝馬を貯金をはたいて買い、その牝馬に子供を産ませ競走馬にしようとします。その資金まではないために、地域の人たちを巻き込んで、共同馬主となろうとします。本当に集まるかと思われましたが、地域の人たちも刺激をもとめていたのでしょう、意外にたくさんの協力者が集まります。残念ながら牝馬は仔馬を生んだ時に死んでしまいます。しかし子馬は順調に成長します。ジャンたちはいよいよ競走馬にする行動にでます。知らないことは何でもできます。どんどん無理を実現していきます。そして「ドリームアライアンス」と名付けられたその子馬の快進撃が始まります。

 ジャンたちはただの共同馬主ではありません。母親の馬を育て、その牝馬に仔馬を生ませ、その馬を子供のころから育てています。だからこそ馬に愛情をもっています。だから単なる「夢」ではないのです。馬と一体となり、一緒に戦うことができたのです。

 夢を持つことは人生を豊かにしてくれます。そしてそれはみんなと協力することによって実現します。人生が前向きになる、さわやかな映画でした。

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『千と千尋の神隠し』の分析的読解4「山の神々」

2023-01-28 08:23:38 | 千と千尋の神隠し
 国語の授業で『千と千尋の神隠し』の分析的読解をやってみようと思い、準備しています。キーワードごとに分析していこうと考えています。まだ構想段階ですがメモ的に書いていきます。

 四つ目のキーワードは「山の神々」。

 千尋の一家は引っ越しをしてきます。場所は郊外の丘陵地帯にできたニュータウンのようです。なぜ引っ越したのか。映画を見る限り特に隠された事情があるとは思えません。車のナンバーは多摩ナンバーです。おそらく、貸家暮らしだった家族が少し不便な郊外の丘陵地帯のニュータウンに一軒家を買って引っ越したのでしょう。


 さて、自動車は道を一本間違えて、舗装されていない道に迷い込みます。その道には鳥居があったのですが、邪魔になるからなのか、道のわきに移動させられています。そこには神様の祠があります。その山は神々が住む山だったのでしょう。しかし今は新しい住宅街ができ、さらにはテーマパークまでもできていました。しかしそのテーマパークも今は閉園し廃墟となっています。つまり山の自然は、人間によって破壊されたのです。


 家族は行き止まりで車を降り、荒廃した建物を通り抜けます。通り抜けた先はテーマパークの残骸があります。父と母はそこで食事を始め、食べ過ぎて豚になります。バブル時代の日本人を表しているようです。

 夜になると、神々が船に乗って人間の世界から、この山に集まってきます。人間の世界では透明だった神々は、この世界では姿を現します。そして「油屋」という名の「湯屋」で疲れをいやします。その「油屋」を仕切っているのが湯婆婆です。


 本来、この山は神々の居場所でした。しかし人間が奪い去り自分たちのものにしてしまい、神々の居場所が奪われたのです。人間は川を生みたて人間の住処にしたように、山を削って人間の住処にしたのです。人間は神々にとっては迷惑な存在です。ここに作品のテーマが明確に表れています。

 湯婆婆は悪人のように描かれます。しかし以上のことを考えてみると、この湯屋を経営している湯婆婆は正しい行いをしていると考えることができます。神々のために湯屋を経営し、しかもその湯屋に人間が入ることを許しません。湯婆婆は悪者扱いされがちですが、冷静に見てみれば筋の通ったことをしているように思われるのです。
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『千と千尋の神隠し』の分析的読解3「銀河鉄道の夜」

2023-01-25 13:56:50 | 千と千尋の神隠し
 国語の授業で『千と千尋の神隠し』の分析的読解をやってみようと思い、準備しています。キーワードごとに分析していこうと考えています。まだ構想段階ですがメモ的に書いていきます。

 三つ目のキーワードは「銀河鉄道の夜」。

 はじめて『千と千尋の神隠し』を見たとき、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」とイメージが重なりました。もちろん電車で銭婆の家に行く場面です。片道切符しかなく、それに鋏を入れる車掌、そして透明な乗客など、死の世界に運ぶ汽車のように感じられました。天の川を流れるように、静寂の中で電車が進んでいきます。明らかに「銀河鉄道の夜」の世界です。


 最近になってネットで調べてみると、やはり宮崎監督自身が「銀河鉄道の夜」の世界を意識していたことがわかりました。以下は書籍『ジブリの森とポニョの海』より、ロバート・ホワイティングさんとの対談からの引用です。

 千が電車に乗るシーンがあるでしょ。なぜ、電車に乗せたかったかというと、電車の中で寝ちゃうシーンを入れたかったんです。ハッと目が覚めると、いつのまにか夜になって、周囲が暗くなって、影しか見えないような暗い街の広場が窓の下をよぎっていく。電車が駅を離れたところなんです。いったい何番目の駅なのか、自分がどこにいるのかわからなくなっていて、あわてて立ち上がって外を見ると、町が闇の中に消えていく。不安になって、電車の車掌室へ駆けていって、ドアをたたくけれど、返事がない。勇気を振り絞って、扉を開けてみると、真っ暗な空に街の光が闇の中の星雲のように浮いていて、しかも寝かせたガラスに描いたように平らなやつが、ゆっくりと回りながら遠ざかっていく。それは『銀河鉄道の夜』の僕のイメージなんですよ。

 「銀河鉄度の夜」は、主人公ジョバンニの友人カンパネルラが、川でザネリという学校のいじめっ子が溺れそうになっているのを助け、自分は溺れて死んでしまうという話です。死んでしまったカンパネルラと主人公ジョバンニは銀河鉄道で死の世界に向かいます。ジョバンニは最後にカンパネルラと別れ、現実の世界にもどってきます。ストーリーとしても共通するところがあることがわかります。


 「銀河鉄道の夜」と「千と千尋」の違う点は何でしょう。ジョバンニが現実の世界にもどるのには理由がありません。単純に死んでいないからです。しかし千尋は自分の力で自分の名前を取り戻したことによって帰ることができます。そしてそこにはハクの力も必要でした。協力して努力したことによって戻ってくることができたのです。この能動性が大きな違いです。

 
 『千と千尋の神隠し』は「愛と勇気の物語」ということができると思います。
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『吾輩は猫である』の読書メモ④「第四章」

2023-01-24 08:13:11 | 夏目漱石
【金田家の刺客】
 「吾輩」は金田家に偵察にいく。探偵のようであるが、「吾輩」は「凡そ世の中に何が賤しい家業だと云って探偵と高利貸程下等な職はないと思っている。」と言う。矛盾していておもしろい。夏目漱石の資本主義に対する反感も出ている。

 金田家に苦沙弥先生と知り合いの鈴木藤十郎が来ている。金田家では、鈴木君に苦沙弥と話をしてもらい、娘と寒月の結婚話を前にすすめるように願う。鈴木君は苦沙弥の家に来てその話をする。そこに迷亭がやってくるからやはり話は混乱する。しかし、迷亭から寒月が論文を書き始めたことが明かされる。論文を書くという事は博士になるということであり、生活が安定しそうだ。結婚話が進展していきそうな気配が生まれる。

【会話の書き方の変化】
 この章から会話文で、カギカッコごとに改行が行われている。これは現在の小説では当たり前のことなのだが、『吾輩は猫である』ではこの場面まではカギカッコも改行がおこなわれず書かれていたのである。どういう事情なのか。

【極楽主義】
 「極楽主義」という言葉が出てくる。引用する。

 「鈴木君は利口者である。いらざる抵抗は避けらるるだけ避けるのが当世で、無要の口論は封建時代の遺物と心得ている。人生の目的は口舌ではない実行にある。自己の思い通りに着々事件が進捗すれば、それで人生の目的は達せられたのである。苦労と心配と争論とがなくて事件が進捗すれば人生の目的は極楽流に達せられるのである。鈴木君は卒業後この極楽主義によって成功し、この極楽主義によって金時計をぶら下げ、極楽主義で金田夫妻の依頼をうけ、同じくこの極楽主義でまんまと首尾よく苦沙弥君を説き落として当該事件が十中八九まで成就したところへ、「迷亭」なる常軌をもってりっすべかららざる、普通の人間以外の心理作用を有するかと怪しまるる風来坊が飛び込んできたので少々その突然なるに面食らったのである。」

 現代を見ていると「極楽主義」がはびこっている。誰がどう考えても間違っていることでも議論をしない。とにかく事を運べばいい。真面目に考える人が阻害される時代だ。当時の状況と現代は同じだ。個人主義の時代に全体主義が幅をきかせている。漱石にとって苦痛だったにちがいない。

 今私たちは「快楽主義」に陥っている。大切なことは議論されず、「お上」の言いなりだ。そして「空気」が言論の自由を奪うという仕掛けが出来上がる。本当に大丈夫なのだろうか。

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