とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

夏目漱石の『草枕』を読む。13

2024-06-11 16:10:40 | 夏目漱石
第十三章

久一の出征の見送りに舟で街まで行く。行くのは送られる久一、送る老人、那美、那美の兄、荷物の世話をする源兵衛、そして画工である。

那美は画工に自分を描いてくれと願うが、画工は「少し足りない所がある」と言う。那美に足りなかったものは何か。「憐れ」ということは最後に明かされるが「憐れ」とはなんなのか。

那美は那古井の世界の人間であり、那古井の世界の規則に縛られていた。だから那古井の中では気違いという役割を演じなければならなかったのだ。人間社会の必然である。所属する社会の中で、自分の所属する社会の中の共同幻想の中で役割を果たさなければいけない。自分では自由だと思いながらも、実は縛られている。那美は那古井の中にいるかぎり、出戻りの気違いである。「憐れ」はない。

この舟下りの場面から加速度的に流れていく。序破急の「急」ということになろう。第十二章の別れた夫の場面が「破」と言うことになるだろうか。「草枕」全体の流れは能の構成を踏まえている。

那古井から抜け出すと、そこは「現実社会」である。

いよいよ現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界と云う。汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸気の恩沢に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。一人前何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇かすのが現今の文明である。何坪何合のうちで自由を擅にしたものが、この鉄柵外にも自由を擅にしたくなるのは自然の勢である。憐むべき文明の国民は日夜にこの鉄柵に噛みついて咆哮している。

厳しい近代文明批判が繰り広げられる。近代が人間から個性を奪い去るさまを厳しく非難している。しかし、実は那古井も同じように自由を奪っていたのである。

ここでこの小説の冒頭の語りがよみがえる。

 どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

どこへ行っても同じなのだ。那古井という閉鎖的な共同幻想から抜け出せば、那古井の閉鎖性からは自由になるかもしれない。しかしそれは一瞬にすぎない。すぐそこには「現実社会」の共同幻想が待っている。どこへ行っても同じなのだ。

現代文明は蒸気機関に目がくらんだ。パラダイムチェンジが起こった。蒸気機関をはじめとする産業革命は、貨幣経済を発展させ、資本主義が世界の意識をさらに変化させる。資本主義が世界に広まり、世界中の国々が同じ価値観になってしまった。いまや人間は蒸気機関を手にした資本主義に支配されてしまっている。画工にとっては敗北を目前にしている。その時に那美の表情に「憐れ」という人間の根源的な心を見た。それは戦いの糸口であり、画工はその糸口を手に戦いにでるしかない。
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夏目漱石の『草枕』を読む。12

2024-06-07 17:28:08 | 夏目漱石
第十二章

 画工は和尚を、最高度に芸術家の態度を具足していると評価する。自分は場所を選ぶが、和尚は場所を選ばず同化できるというのだ。時と場所を選ぶ画工は、画工は気に入った山の端を描こうと外に出る。

 場所を決めてそこに寝そべると、視界に男が入って来る。するともう一人女が登場する。女は那美である。画工はふたりを遠くに見ている。画工はその日の朝、那美が短刀をもっている姿を見ていたので、その短刀でその男を斬るのではないかと想像し、冷や冷やしている。男と女は何やら話をしている。男が踵を返す。すると女が呼び止めたのか男が女のほうに再度振り向く。女は帯の間に手を入れる。画工は刀を出すのではないかとひやりとするが、女が出したのは財布であった。男は那美の元亭主であった。勤めていた銀行がつぶれて貧乏になったので、満州に渡ろうとしていたのだ。那美は元亭主に渡航の資金を援助したのである。日露戦争の最中に満州に渡航しようとしているのである。これは大変な決断であろう。

 那美は画工を誘い、従妹の久一の住む家にいく。久一は戦争に行くことになっていた。那美は久一に「御伯父さんの餞別」だと言って短刀を投げ渡す。那美が短刀を持っていた理由がここでわかる。

 さて、この章で画工は那美を次のように語る。

 あの女を役者にしたら、立派な女形が出来る。普通の役者は、舞台へ出ると、よそ行きの芸をする。あの女は家のなかで、常住芝居をしている。しかも芝居をしているとは気がつかん。自然天然に芝居をしている。あんなのを美的生活とでも云うのだろう。あの女の御蔭で画の修業がだいぶ出来た。

 那美は芝居をしているというのである。しかし那美自身は自分が芝居しているとは気がついていない。これこそが社会化した人間の姿である。社会の中では役割を演じることが求められ、その要求を知らず知らずに受け入れているのである。それは美的生活を目指す人間にとっては死に等しい。社会というのは人間の必然である。だから美的生活を目指す画工にとってはどこに行っても行きにくいのであり、それが分かった時が画の完成になるのであろう。

 とは言え、それは理屈である。その理屈を超えなければ真の完成にはならないのは明らかだ。
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夏目漱石の『草枕』を読む。11

2024-05-31 08:32:16 | 夏目漱石
第十一章

 すでに日は暮れている。画工は観海寺に行く。月の光で、眼下に海が開け、眺めがいい。

 和尚は東京をうらやましがり、電車に乗ってみたいと言うが、画工はつまらないし、うるさいという。しかも東京は探偵に「屁の勘定」をされると言う。東京は誰かに監視されるような社会のなのだという。和尚は那美について語る。那美は嫁ぎ先から帰ってきてから、色々なことに気になるようになり、和尚のところに法を聞きにきて、「訳のわかった女」になったという。

 那古井の住民たちが那美を気違い扱いをしているのに対し、和尚は那美をまともな判断のできる女だと判断しているのである。ということは那美の奇抜な行動には何らかの裏の意味を匂わせることになる。

 和尚のところに修行に来ていた泰安という若僧に「大事を窮明せんならん因縁に逢着」させて、よい智識(仏法の指導者)になりそうだと言う。この泰安は床屋で話題なった僧である。床屋は那美を気違いだと言ったが、和尚の話を聞くと泰安を目覚めさせた女だということになる。これを聞くと那美は画工に対しても同じように接しているのではないかと感じる。画工に何かを悟らせようとしているように見えるのだ。
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夏目漱石の『草枕』を読む。10

2024-05-21 10:18:23 | 夏目漱石
第十章
鏡が池の場面である。

画工は鏡が池に来る。画工の興味深い「自然論」が語られる。

余は草を茵に太平の尻をそろりと卸した。ここならば、五六日こうしたなり動かないでも、誰も苦情を持ち出す気遣はない。自然のありがたいところはここにある。いざとなると容赦も未練もない代りには、人に因って取り扱をかえるような軽薄な態度はすこしも見せない。岩崎や三井を眼中に置かぬものは、いくらでもいる。冷然として古今帝王の権威を風馬牛し得るものは自然のみであろう。自然の徳は高く塵界を超越して、絶対の平等観を無辺際に樹立している。天下の羣小を麾いで、いたずらにタイモンの憤りを招くよりは、蘭を九畹に滋き、蕙を百畦に樹えて、独りその裏に起臥する方が遥かに得策である。世は公平と云い無私と云う。さほど大事なものならば、日に千人の小賊を戮して、満圃の草花を彼らの屍に培養うがよかろう。

自然に対して、現実の人間社会を比べている。明らかに現実社会を批判的に見ている。最後の「世は公平と云い無私と云う。さほど大事なものならば、日に千人の小賊を戮して、満圃の草花を彼らの屍に培養うがよかろう」は、戦争の大量殺戮をイメージさせる表現である。

「草枕」が執筆されたのは1906年7月26日である。日露戦争の終戦が1905年9月である。「草枕」の中でも戦争が背景になっていることが明確にしめされている。「草枕」は戦時中を描く小説でもあったことは明らかなのだ。だからここの部分は戦争への批判意識があらわれているものと考えるのが自然であろう。

すぐあとに「何だか考が理に落ちていっこうつまらなくなった。こんな中学程度の観想を練りにわざわざ、鏡が池まで来はせぬ。」と断っているが、青臭いことをあえてわざわざ書かなければいけないということを証明しているわけであるから、意識的に戦争批判していることが窺われる。

 戦争のイメージは、池に落ちる椿のイメージでさらに強調される。椿の花は「沈んだ赤色」であり、「黒ずんだ、毒気があり、恐ろし味を帯び」ている「異様な赤」である。つまり血の色と言っていい。その椿の赤い花が水の上に次々落ちていく。そして水の上に浮くのだ。

また一つ大きいのが血を塗った、人魂のように落ちる。また落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。

死のイメージであり、日露戦争の旅順攻略における多くの戦死者を想像せずにはいられない。

画工はこの椿の花が大量に浮かぶ中に、那美を浮かばせようと考える。ミレーのオフェリアのイメージを再現しようというのである。戦争の死のイメージを、花の浮かぶ池に浮かぶ女のイメージへ変換するのだ。まさに「薤露行」の変奏である。しかし、那美には何かが足りないという。画工はそれは「憐れ」だと言う。

あの女の顔に普段充満しているものは、人を馬鹿にする微と、勝とう、勝とうと焦る八の字のみである。あれだけでは、とても物にならない。

那美は画工に親切にしているつもりである。しかし画工は、那美には現代社会の不人情があると見ているようだ。しかし考えてみれば画工は那美を利用しようとしているわけであり、画工も那美に対して不人情である。お互いがお互いを利用している関係である。非人情に徹し切れていない画工が非人情になるきっかけはげんどこにあるのか。

そこへ、馬子の源兵衛が通りかかる。源兵衛は昔この池に女が身を投げたことを詳しく説明する。この女は茶店の婆さんが「長良の乙女」と言っていた女のようである。その女がこの池に鏡を持って身を投げた。そこからその池が「鏡が池」という名前がつけられたという。女はなぜ鏡を持っていたのであろう。「時空」を超えるという鏡のイメージを使っているのではなかろうか。

すると画工は那美が、天狗巌から飛び降りようとしているのを発見する。那美は飛び降りる。画工は飛び上がって驚く。帯の間に赤いものが見える。那美は池ではなく向う側に飛び降りたのだ。なぜそこまで那美はしなければいけないのか。そこまでするということは、那美は画工に何かを期待しているはずである。那美は画工に何を期待しているのか。那美は画になりたかったのである。自分を書いてもらいたかったのである。なぜ書いてもらいたかったのか。死者の魂を残す事である。イメージの連鎖はそれを示唆している。
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夏目漱石の『草枕』を読む。9

2024-05-08 16:10:35 | 夏目漱石
第九章

画工が部屋で本を読んでいる。那美が来て雑談を始める。画工は開いたところをいい加減に読むという。那美は理解できない。画工は筋なんかなくても面白いのだという。非人情に読むのだという。逆に筋を読むというのは探偵になるということであるという。

漱石にとって探偵は忌み嫌う存在である。探偵は無理に筋をつける。しかし筋のないところに人間の真実がある。筋はあとからつけるものであり、無理な筋は人間の心を捻じ曲げるものなのだということかもしれない。人間は自分たちの行動に意味をもたせようとする。生きることに意味を持たせることによって何とか毎日を乗り切っているとも言えよう。しかしそれは「意味」に取り込まれるということになろう。社会にとっての「意味」とは「社会」にとっての都合によって作り上げられた虚像にすぎない。食事をとるのは本能であり、「意味」があるわけではない。しかし、その食事にも「感謝」とか「団欒」とか、あるいは「美食」とか何らかの「社会的意味」を与えることによって、価値を生み出すのが社会である。それはそれで悪いことではあるまいが、逆に考える自由を失うのも事実であろう。漱石が夢に興味を抱くのもそこに理由がある。

画工は昨日の振袖姿について聞く。那美は画工が見たいと言ったから見せたのだと答える。風呂に入ってきたのも親切からかと画工は攻めると、那美は「どうも済みません。お礼に何を上げましょう」と逆に攻めてくる。刺激のある会話が解放感を生む。

画工が茶に呼ばれたときどこにいたのかと那美に聞くと、「鏡の池」にいたという。「鏡が池」ならば固有名詞に聞こえるが、「鏡の池」というと普通名詞のように聞こえる。さらに那美は「身を投げるに好い所」だと言い、「私は近々投げるかも知れません」とも言う。さらに

「私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いてるところじゃないんです――やすやすと往生して浮いているところを――奇麗な画にかいて下さい」

とまで言う。ここまでくると、那美には何らかの意図があるように感じられる。那美と画工はお互いに攻め合いながら、協力して進んでいく関係である。ただし、そこに死を忍ばせているところが、意味深さもあり、逆にあざとさも感じられる。
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