とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

書評「『集団主義』という錯覚」(高野陽太郎著)

2015-12-31 14:10:12 | 書評
 アメリカ人は個人主義で日本人は集団主義だというのが通説だが、事実は異なり、日本人が集団主義であるということは全くないことを、心理学の実験結果などをもとに明らかにしていく書。戦後ベネディクトの『菊と刀』の言説を社会全体で思い込み、それが「対応バイアス」となり、さらに社会全般に誤解が浸透していくことが暴かれていく。目からウロコ。刺激的であり、私自身がどれだけ事実と違うことを信じてきたのだろうかと反省させられる。勉強になった。

 最近になり、TPPやイスラム諸国に対するアメリカの対応などを見ると、アメリカのほうが保守的であり集団主義的であり、「アメリカ株式会社」と呼んでいいのではないかと思っていた。この本を読むとそれが証明されたような気がして、よろこばしく感じた。一方では日本人は集団主義的だということをいろいろなところで自分でも言っているので、かなりショックを受ける内容であもある。

いずれにしてもアメリカが個人主義で、日本が集団主義だという思い込みはもうやめなければいけないし、さまざまな通説に対してはもっと懐疑的にならなければならないのだ。間違った認識で議論をしてはいけない。

 ただし、いくつかの点でもう少し考えてみなければいけないことがあるように感じられた。

「集団主義」という言葉がどういう意味で使われているのか。以前「KY」という言葉が流行ったが、日本人は「空気を読む」行動をとるのは事実ではないだろうか。会議では誰も発言しないのだが、みんなが「空気を読ん」で、発言しないことが賛成の意であったり、逆にそれが反対の意であったりすることがある。これはアメリカではありえないことなのではないだろうか。また、その「空気の読め」ない行動をとれば、仲間外れの対象になって「いじめ」の対象になる。言葉のないまま仲間外れが成立する。このような陰湿さが日本の「いじめ」の特徴であり、だからこそ特異な社会問題となっているのである。日本人の「集団主義」とは、このような「他者の視線を気にし」て、自己の主張をはっきりと言わない国民性のことを言っているという一面もある。はたして、「他人の目を気にする」というのも他の国の人も同じようにあるのだろうか。もう一度検証していきたい。

た、筆者は「文化の影響力は小さい」と主張するが、小さくても影響力があるのは事実であることも認めている。人間の個性も他国の人と大きくは違わないのは人間であるかぎりは当たり前である。しかし、共通しているものがあればあるほど、その違いが重要に見えてくるのではないか。小さな違いが実際の生活の中では大きいのではないか。このあたりも言語相対主義の問題とからめて検証が必要に感じる。

 もうひとつ別の面からの疑問。よく言われる日本の企業の「系列神話」について、実際は日本には系列企業の結びつきは特筆すべきほど強いものではないというのが筆者の主張である。それは事実として正しいというのは、実証的に説明されている。すると逆に不思議に思われるのは、なぜ日本政府や日本の企業は「系列神話」を受け入れているのかということだ。アメリカから批判されたとき、そんな事実はないことは企業の人が一番よくわかるのではないだろうか。それなのにそれに対して何も言えなかったのはなぜなのか。なぜアメリカの言いなりになってしまったのか。そこに何があったのかは戦後史の問題としても検証すべきことである。

 以上の点以外にも、様々な点で疑問に感じることがあった。もちろん、これはこの本を批判しているわけではない。この本が刺激的で面白かったから感じるものである。

さまざまなことを注意しながら今後、いろいろなことを考えていかなければいけないし、発言するときに気を付けていこうと感じた。
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夫婦別姓

2015-12-29 04:31:18 | 社会
〔判決は妥当である〕
 夫婦別姓の裁判のことが話題になっています。夫婦別姓の問題は現代の日本社会で重要な問題だとは思います。しかしこの裁判に対する意見は混乱しています。

 この裁判は夫婦同姓を規定した民法が合憲か違憲かで争っていたものです。夫婦同姓がいいのか、夫婦別姓も認めるほうがいいのかを争っている裁判ではないのです。それなのにそういう議論になってしまっているケースが多く見られます。ここにこの議論の混乱の一因があります。

 もちろん現代社会では夫婦別姓を認めるべきだという意見はよくわかります。私自身もそのほうがいいと思います。しかし、それと夫婦同姓が憲法違反であるという意見は次元の違う問題なのです。

 夫婦同姓は日本の伝統的な『家』という制度を前提としたものです。しかし時代は変わりました。夫婦同姓のせいで日本人の未婚化、晩婚化を推進している現実もあります。少子化が進む中、娘しかいない家族も増えなかなか娘を手放せなくなっています。あるいは逆に自分の親の面倒を見たいという女性も多く、昔ながらの男性の家に嫁ぐという形に抵抗があるのであります。夫婦同姓は現代日本社会にそぐわないものとなっているのは事実です。もう日本も夫婦別姓を認めるべきです。

 しかし、この家制度をひとつの柱として日本社会が成立してきたのは事実です。夫婦同姓というのも日本の伝統的な社会通念から言えば合理的な方法でもあるのです。だから違憲であるとまでは言えないという今回の判決は妥当だと思います。だから批判されるべきものではありません。

 だからこの判決を批判するのはおかしな話だと思います。議論を混乱させてはいけません。


〔時代にあった法律を〕
 それにもかかわらず、この合憲判決に批判的な意見が多くあります。また、最高裁判事の15人中5人が違憲判断をしているという事実もあります。

 私はこのあたりに日本社会の大きな変化を感じずにはおれません。

 わたしも古い世代の人間になってしまったため、これまでの大きな変化を好まないような日本の風潮に慣れてしまっています。だからこの合憲判断を当たり前だと感じているのかもしれません。しかし、このような変化の乏しい社会では現代の大きな変化についていけなくなってきているという主張もよく理解できます。変わるべきものはすみやかに変わらなければならないという風潮に変わってきたのかもしれないのです。

 安倍政権による安全保障にかかわる憲法解釈の変更も、時代の変化の節目としてとらえられるのかもしれません。もちろん、解釈改憲は許すべきものではなく、憲法改正をするのが筋だと思います。しかしの時代に必要なルールを作るべきだというのは、当たり前すぎる考え方です。

 伝統は大切です。しかし、時代にそった考え方も重要です。変化を恐れずに新しい時代を切り開くことが今求められています。

 夫婦別姓に話をもどせば、必要なのは判決を批判するのではなく、早く夫婦別姓を認める法律を作ることです。判決批判という筋違いなことをしていれば、逆に反感をかってしまうだけです。夫婦別姓を認めることはより「合理的」なことなのだから、前向きに活動することが本筋であり、正々堂々と主張していくべきです。
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書評「ヒート」(堂場瞬一作)

2015-12-28 09:58:38 | 書評
 元箱根駅伝のランナーであった神奈川県知事が、マラソンの世界最高記録を作りたいとの想いから「東海道マラソン」を新設する。その仕事をまかされたのが、やはり元箱根駅伝のランナーの神奈川県公務員である音無。音無は高速レースにするためにコースの選定、風よけの設置などできることをすべてやろうとする。しかし一番重要なランナーがきまらない。

 知事は山城を選手として考えていた。というよりも山城を想定しての新設マラソン大会だったため、山城抜きでは成立しなかった。山城は日本人としては圧倒的な力を持っていた。しかし、山城は他人の意見には絶対に耳をかさない男であった。だからその大会に出ることを断り続ける。

 もうひとつ問題があった。音無はペースメーカーが大切だと考えていた。そこでハーフの日本記録を持っていた甲本が最適だと考えた。しかし甲本もプライドがゆるさない。音無の依頼を受ける気にはなれないでいた。

 結局、山城も甲本も走ることにはなるのだが、・・・・

 大会の成功のためにあらゆることを計画し準備する音無と、自分の生き方を曲げられないふたりのランナーのそれぞれの思いが交錯し、大きなうねりを作りだす。

 ストーリーはわかりやすく誰でも楽しめるものであるが、そこに描かれている心情は、きっちりと準備をすることも、自分を貫こうとすることも、両者とも誰の心の中にもあるものである。その人間らしい心の動きが加速度をつけて小説を大きく運動させている。

 世界には数えきれないほど多くの人間がいて、それぞれの人が自分の思い通りに人生をおくれるように計画を立て必死に準備をする。しかし、一方ではそれぞれの人は準備された生き方を嫌い、自分らしい生き様のために必死にもがく。人生のおもしろさはその衝突の中から、全く新しいもっと魅力的な世界が生まれことにある。

 スポーツ観戦のおもしろさはそこにある。小説も作者の手を離れるような作品ができた時名作になる。

 もちろんそんなドラマはめったにない。
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「いじめはなくならない」

2015-12-04 08:19:16 | 教育
 ある大学の先生の講演があった。その先生は次のように言った。
 「いじめは絶対になくならない。しかし、いじめによる自殺をなくすことはできる。いじめの問題にはそういう態度で立ち向かうべきである。」
 同感である。

 直接的ないやがらせや、暴力だけならばそれは戒めることによってなくしていくことは可能かもしれない。当然そうしなければいけないということは異論ないであろう。

 しかし、今の「いじめ」の問題はそう言う次元の話でなくなっている。

 例えばテレビのワイドショーを見ていても、誰かが問題を起すとその人に集中砲火を浴びせる場面が頻繁にある。確かにその人には何らかの落ち度があるのだからそういう立場に立たされるわけではあるが、しかしいくらなんでもやりすぎではないかと思われるように感じることがある。これは「いじめ」と言ってもいいのではないか。大人だってそうなのだから、まだ善悪の基準が揺れている子供たちに、常に的確な判断を求めることはむずかしいに決まっている。

 もう一つ典型的な例をあげる。その子は人づきあいが苦手なタイプだったのだろう。グループに入るために「ダメキャラ」を演じることを覚えた。当然、その子は「いじられ」ることになる。もちろんその子はそれを喜ぶわけである。そうすることによって仲間を得ることになるわけであるから当然である。「いじ」っている方の人たちも、その子が喜んでいるわけであるから、どんどん「いじ」ってあげたくなる。エスカレートしていき、いつのまにか取り返しのつかない事故が生じる。みんなこの事故が事件であることに気が付かない。

 はっきりと表に出ないケースもある。

 人間である以上、競争心があるし嫉妬心もある。もちろん好き嫌いもある。それはどうしようもない。嫌いな人、苦手な人に対してうまく接することができないのは誰でも同じであろう。嫌な人とは口を聞きたくないし、自分の精神安定上どうしても陰で愚痴をいってしまうことがある。気づかれないようにやってもそれはいつか当事者はきづいてしまう。得体のしれない自分を避けている雰囲気を感じたら、それはつらいであろう。思考は悪循環を始める。

 「いじめ」の定義が「その人がいじめを受けているという意識がある場合にはいじめである」というものになってしまった以上、世の中の多くの言動が「いじめ」になる可能性がある。それらをすべてやめさせることは不可能である。

 もし無理やりこの定義のいじめをなくすとなってしまえば、怖くて普通の会話もできやしなくなってしまう。これでは人間社会が逆にストレスのるつぼになってしまう。

 本当の意味で「いじめ」をなくすならば、一度この「いじめ」のレッテルをはがしてみる必要がある。「いじめ」は悪いに決まっている。しかし、なんでも「いじめ」になってしまうならば「いじめ」はなくなるはずはない。個別のケースを検証していくなかで、多くの人が「いじめ」について正確で共通した認識を構築していく作業が必要である。もちろんそれは常に検証を繰り返していく作業であろう。そのために各地の大学、あるいは放送大学などが、公開講座として多くの参加者を呼びかけ研究をしていくことを提案したい。

 また、もっと大切なのは「いじめ」で苦しんでいる人をどうやって見つけ、どうやって手を差し伸べていくかの研究である。さまざまな試みが始まっているいるようなのでそれを学ぶ場に積極的に参加していきたい。

 「いじめ」の問題は、どこかの学校の問題なのではない。自分自身の問題なのだ。

(とてもいい話だったので、本来ならばその先生の名前を出してもいいのかもしれないが、「いじめ」はデリケートな問題であり、過剰な反応をしめすケースがあるようなので、ここでは差し控えたい。
 ここでも私自身が周りを気にしながら、本来ならばしなくてもいいような気の回しすぎをしてしまっている。本音で議論することなどできやしなくなっているのだ。)
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劇評『スポケーンの左手』

2015-12-01 04:46:30 | 劇評
11月21日(土)シアタートラムで観劇。
作:M・マクドナー、演出:小川絵梨子、出演:蒼井優、岡本健一、成河、中嶋しゅう

探し物は見つからない。
だから必死に探し求める。時には脅し、時には暴力。

探し物はすぐそこにある。
しかし、それが見つかった瞬間にそれは大したものではないことがわかる。なぜこだわっていたのか。

探し物は探すことが目的だった。
欲しい物よりもお金自体が目的となるように、物よりもそれを探すことが目的となる。手段が目的となり、いつか戦争が目的となる。

人間は愚かであり、その愚かな中で戯れている。

自分の愚かさを映し出してくれるようなお芝居であった。
あとからじわりじわりとそのおもしろさが湧き出てくる。


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