とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「私」の世界に繋留(けいりゅう)点をもたない思想は、いかにはなばなしく権力にあらがっているようにみえても、しょせん一時の流行におわる。(「折々のことば」より)

2021-12-08 17:24:00 | 折々のことば
 朝日新聞の12月7日の「折々のことば」を引用する。

「私」の世界に繋留(けいりゅう)点をもたない思想は、いかにはなばなしく権力にあらがっているようにみえても、しょせん一時の流行におわる。(野田宣雄)

 私たちは、他人のことばをそのまま自分のものにしてしまうことがある。そうならないように自分を厳しく戒めながらも、結局は世の中に「忖度」してしまい、世の中に迎合した言動をとってしまう。そのほうが楽だ。しかしそれによって自分を失っていくのだ。

 鷲田清一さんは次のように言う。

 1960年代末、政治意識の熱っぽかったこの季節に、西洋史家は「私的領域のはらむ問題のきびしさ」との緊張関係の中にない社会科学的思考は「薄っぺら」だとした。自分ぬきで語らないこと。それは、自分がどのような場所から語りだしているかを強く意識することでもある。

 自分のない言説によって世の中ができてしまったら、それはコンピューターの世界よりも味気ない。

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「折々のことば」より「胡蝶の夢」

2021-10-03 09:45:42 | 折々のことば
 朝日新聞に鷲田清一さんが連載している「折々のことば」で、有名な「荘子」の「胡蝶の夢」が紹介されていた。引用させていただく。

 知らず、周の夢に胡蝶(こちょう)為(な)るか、胡蝶の夢に周為るか(荘子)

 「いったい荘周が胡蝶の夢を見ていたのか、それとも胡蝶が荘周の夢を見ていたのか、私にはわからない」と、古代中国の思想家は言う。私の存在もしょせんは夢なのか、夢ならそれを見ているのは誰か。人はつい、自身もまた動物の一種であることを忘れるように、夢の語りもまた現実を仕立てる不可欠のパーツであることを忘れる。『荘子(内篇〈ないへん〉)』(森三樹三郎訳)から。

 小説における「語り」を勉強しているうちに、自分自身を語るもうひとりの「私」に文学的な発明があるように思うようになった。近代とは「個人の時代」である。「個人」の生き方、考え方が小説の主題となる。作家は小説を書くときに自身をモデルに書くことが多い。自分の心理の動きが一番よく見えるからである。しかし自身の視点から自身を描くことは難しい。ひとりよがりになるからである。だから一度自分自身を離れなければならない。作家はその時、自身を客観的に見ることができる「もうひとりの自分」を探し出す努力を始める。夢の中の自分というのはその結果の一つの発明である。それは深層心理の自分であり、本当の自分である。夢の中の自分を探し求め、そこから自分を見つめなおすことによって、本当の「私」を描くことができる。

 近代小説とは「私」を作り出すことが最大の使命であった。その意味で「荘子」の「胡蝶の夢」は興味深い。現代に生きる知恵は古代にあった。
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朝日新聞「折々のことば」より「嫉妬するわたしは四度苦しむ。(ロラン・バルト)」

2021-07-31 07:53:52 | 折々のことば
 朝日新聞の「折々のことば」より引用します。

「嫉妬するわたしは四度苦しむ。(ロラン・バルト)」

このことばについて鷲田清一さんが次のように説明します。

 嫉妬している人は、自分が排除されたことに苦しみ、自分が嫉妬という攻撃的な感情に囚(とら)われていることに苦しみ、その感情が愛する人を傷つけることに苦しみ、そして自分がそういう凡庸な感情に負ける「並みの人間」であることに苦しむ。いずれの局面でも自分を外せない。人であるとは難儀なことだ。フランスの批評家の『恋愛のディスクール・断章』(三好郁朗訳)から。

 「嫉妬」というのは人間の、あるいは動物の特有の心です。これほど厄介なものはありません。なぜ「嫉妬」はあるのでしょう。「嫉妬」がなければどんなに人間は幸せになれるだろう、そんなことを考えながら、「嫉妬」との戦いにつかれながら人間は生きています。

 しかし、考えてみれば「嫉妬」がない世界は人間の世界ではありません。「嫉妬」とともに生きていくのが人間なのです。「嫉妬」に苦しみながら生きていく、それこそが人生なのです。

 「嫉妬」は「自分」を大切にしたいという心の表れです。「自分」ほど厄介なものはないのです。
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朝日新聞『折々のことば』より

2021-07-19 18:39:42 | 折々のことば
 しばらくお休みしていた「折々のことば」が再開された。考えさせられることばばかりで、楽しみにしている。同時にことばのむずかしさを感じずにいられない。
今日のことば。

なにかを知るということは、身軽に飛ぶことではなく、重荷を負って背をかがめることになるのです。(福田恆存〈つねあり〉)

 人は何かを知ることでもっと遠くへ行ける、もっと新しい世界が開けると思うが、それはいま以上に「大きな未知の世界を、眼前にひきすえた」ということなのだと、劇作家・評論家は言う。人はそこに開けてくる光景に無関心でいないと心に刻んだのであり、だから他人の言葉にも深く耳を傾けるようになると。『私の幸福論』から。

 私たちは世の中のことがわかりたくて一生懸命勉強するす。しかし、ひとつのことが理解できた瞬間に次のわからないことが生まれる。そして、そのわからないことが次元の違うわからなさであることがよくある。

 宇宙のことも、原子のことも、命のことも、言葉のことも、人間のこともわかったと思ったことが次の苦しみを生み出す。

 その重荷は人間の宿命なのかもしれない。
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朝日新聞「折々のことば」より「真夜中、携帯で話しながら通り過ぎてゆく声を見送りながら、彼もしくは彼女は孤独なのか、孤独でないのか、判らなくなる。(神崎繁)」

2020-10-30 16:48:52 | 折々のことば
 10月30日付朝日新聞「折々のことば」より。続けて引用します。
 
 高度情報化の時代は「隠棲(いんせい)」もまた難しい。「隠者」として身を潜める場所はもはや地上のどこにもない。引きこもるべき所は田舎や山奥ではなく、おのが魂の内だとも言えようが、そこさえ「不安と焦りが渦巻(うずま)」いている。引きこもること自体が困難な時代に、古代ギリシャ哲学研究者は心を震わせる。随想集『人生のレシピ』から。
 
 高校生に「スマホなんか捨てちまえ。」と言うと、「本当にそうしたい。」と言います。高校生もスマホに縛られていることが面倒くさくて、つらいのです。「つながる」という言葉が流行りましたが、「つながっていない」といけないと思わされて、追い詰められているのです。
 
 人間には孤独に自分と向かい合う時間があるべきだと思います。しかし現代の子供たちは「孤独」であることが「死」を意味するような状況の中にいます。いや、これは子供だけではありません。大人も同じです。だれかとつながっていないと悪いことをしているように思ってしまうのです。
 
 情報の意味を孤独に自分と向かい合いながら考えてみる必要があります。
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