とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

一人称小説としての『こころ』(『こころ』シリーズ⑪)

2018-11-28 14:17:31 | 『こころ』
 夏目漱石の『こころ』を授業で扱いながら考えていることを書き続けているシリーズである。最近、一番考えるのはこの小説が一人称小説であることである。登場人物のひとりの視点による小説となっている。ただし、この小説は語り手が途中で交代している。「上」と「中」は東京帝大を卒業したばかりに青年であり、「下」は「上」と「中」においては「先生」と呼ばれていた男である。しかも「下」はその「先生」の遺書であり、「語り」というより文章である。書かれている内容は、時間的には「上」や「中」よりも昔である。一筋縄ではいかない小説である。

 さて、直感的に感じているのは「一人称小説」であることが、この小説においては重要であったのではないかということである。一人称小説では語り手の心理は描くことはできる。しかし、それ以外の人物の心理は推測するしかない。推測というよりも勝手な妄想に陥ってしまうことのほうが多い。しかも、次第に語り手の心理でさえ本当にそれが真実なのかがわからなくなってくる。

 心理描写というのは、後から考えたつじつま合わせにしかすぎない。この小説でも本当に「私」がそう考えていたのか、後から自分と折り合いをつけるためにつじつま合わせを心理たのかがわからないことが多い。つまり「こころ」はどんどん迷宮に陥るのである。

 なぜこの小説のタイトルが『こころ』なのか。その仕掛けが「一人称小説」だったのではないかと考えている。
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「人はほとんど自分に関するかぎり、その真の動機を知っていない。」

2018-11-25 12:02:06 | 折々のことば
 タイトルは今日の朝日新聞「折々のことば」より、色川大吉氏のことば。

 このことばに鷲田清一さんが続ける。

 人はある行為へと自らを動かしたものを見通せない。したかったのか、せざるをえなかったのかさえ不明なこともあれば、同時代人が共有する観念に沿って自身の動機を読み違えもする。個人の行為は、地下水のごとく「歴史を内側から脈打つもの」と切り離しては理解できない。だから「何を為(し)たか」以上に「いかに為たか」が重要だと民衆思想史家は言う。

 人間自分の心はわかっていると思いながら、実は何もわかっていない。わかっていない心をむりやり説明しようとすればつじつま合わせをせざるを得ない。これは無意識のうちに行ってしまうので、自分ではつじつま合わせだとは思っていない。だから厄介だ。自分では正しいと思いながら、実は間違った方向に心が向かってしまうことがあるのである。

 歴史も同じだ。歴史というのはたくさんの人間によって形成されたものだ。だから展開が読めるものではないし、展開に「必然」を求めると本質が見えなくなることが多い。無理やり筋をつくると歴史は捻じ曲げられる。

 日本が戦争に突入した理由と日本人だけのせいにしても無理が生じるし、状況のせいばかりにして日本人が悪くないとしても無理が生じる。どんな証拠があろうともその証拠は後から見つけたものであり、必ず別の物語は存在しているのである。

 ではどうすればいいのか。この問題が私に突き付けられる。
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桜田大臣がパソコンが使えなくたっていいじゃないか

2018-11-24 07:32:46 | 社会
 桜田五輪担当大臣の国会での答弁が危なっかしいので、野党は集中砲火である。しかし、例えば桜田大臣がパソコンを使えないことを何度も質問したり、スマホを持っているか聞いたり、どうでもいいことを聞きすぎている。時間の無駄である。桜田大臣がサイバーセキュリティ担当相でもあることからの質問であるが、サイバーセキュリティは本当の専門家でない限り、理解できないような世界である。普通にパソコンを使っている程度の人間が中途半端な知識で適当なことを言うより、逆に何も知らないほうがいいとも言える。この件に関して批判されるべきははこんな姑息な手段で政府のイメージダウンと審議期間の引き延ばしを図っている野党のほうである。桜田大臣はイメージダウンするどこらか日本ボクシング連盟の山根前会長のように逆に人気が出てきそうである。

 外国人労働者の受け入れ問題もそうだ。外国人労働者受け入れは喫緊の課題である。しっかりと議論しなければいけないのに、野党は審議に入ろうとしない。確かに政府の資料がいい加減であり、その点では野党の気持ちもわからなくはない。しかしそれを含めて国会議論の中で正していかなければならないはずだ。場外戦で盛り上げ、中身はなにもない。こんな国会なら意味はない。

 たくさんの問題が実は存在している。私にとっては教育改革の名のもとに、学校教育が民間の利権争奪戦になっている問題のほうが大きな問題である。国会でも地味ではあるが議論されているようである。しかしこれはマスコミではまったく報道されていない。そんな問題がたくさんあるのだ。

 国会もマスコミももっと大人になってもらわなければ困る。結局この国はこの程度の国なんだとみんなが思っていることに気づいてもらいたい。
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「志の輔らくごin yamagata」(11/15 山形市シベールアリーナ)

2018-11-23 12:35:53 | 落語評
山形市シベールアリーナで開催された立川志の輔の落語会に行った。素晴らしい落語会だった。

トリの演目は「大河への道」。伊能忠敬を大河ドラマにしたいと頑張る人たちの話である。今年が伊能忠敬没後200年ということもあり、さまざまなところで披露してきたとのこと。新作でありながら、プロットがしっかりとしている。伊能忠敬が死んでから、日本地図が完成するまで3年あり、そこに何があったのか、それがこの落語の肝となる。いい話だ。

それにしても伊能忠敬という人は凄い。55歳までは家業をしっかりとやり、地図測量を始めたのはそれからだという。今で言えば、定年後の仕事なのだ。第2の人生でひとつのことを成し遂げたのである。まだまだやれるという勇気をもらえる話だ。

私もまだまだこれからだ。本当に人のためになる仕事をこれから成し遂げたい。
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映画『ボヘミアン・ラプソディ』

2018-11-22 17:09:45 | 映画評
 映画『ボヘミアン・ラプソディ』が大ヒットだという。なぜこんなにヒットしているのか。とても不思議な気持ちになる。

 私は中学2年生のころ洋楽を聞くようになり、そのタイミングで「ボヘミアン・ラプソディ」が大ヒットした。6分を超える曲がラジオで流れるというのはありえないことであり、それがヒットすることも驚きだった。しかも曲調がどんどん変化し、本当のオペラなんか聞いたことはなかったが、オペラのようなスケールの大きさを感じていた。すごい曲だと思った。

 クイーンは私が聞き始めるより前に、渋谷陽一氏が積極的に紹介していたし、アイドル的な人気もあり、日本ではかなり人気のあるバンドであった。しかし、「ボヘミアン・ラプソディ」はクイーンをトップレベルのバンドに押し上げることになった。
 クイーンがすごいのは、その後も手を変え、品を変え、アイディアを駆使し、次々とヒット曲を出し続けたことである。これだけ長期間にわたってヒット曲を生み出したバンドも珍しいのではないか。正直言って当時私はクイーンが大好きなわけではなかった。一貫性がなく、「客に媚びる」軽いバンドで、核になるものがないように思われたのだのだ。しかしそれこそが「ロック」だったのだ。クイーンは「ロックの時代」の象徴のようなバンドなのだ。

 私は近年はクイーンをよく聞いている。ポップでありながら、ハードロックの激しさがあり、それにコーラスなどが加わり、聞いていて飽きない。同時代には嫌味に思えたものが、時代を超えた美しさのように思えてくるのだ。

 そう考えると映画『ボヘミアン・ラプソディ』がヒットしているのも納得できる。クイーンは「ロックの時代」であり、その時代が見事に描かれた映画なのだ。おもしろい映画だった。
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