とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

語用論3 対人関係の距離感

2016-11-30 16:09:12 | 国語
 先週末「語用論」勉強をした。そこで学んだことのまとめの3回目。忘れないうちにアウトプットするのが勉強の鉄則。だから「とにかく書いておかないと」。

〈挨拶〉
 今は、挨拶をする習慣を教育されているが、この習慣ができたのはつい最近のことである。

 宮沢賢治の「風の又三郎」では、転校してきた三郎が、同級生に「お早う。」と挨拶をするが、誰も返事をしない。当時は子供たちが学校では挨拶をしないのが普通だったのだ。また、江戸後期の式亭三馬「浮世風呂」においても、日常的には挨拶をしていない。

 挨拶の習慣がつくように学校教育がなされたのはここ20~30年のこと。その前は、明確な挨拶をしないのが普通であった。相手とその日最初にあったときは、

 「よう、太郎、きょう宿題あったけ。」
などというように
  感動詞等 + 呼称 + トピック
というパターンが普通であったようだ。

 挨拶というのは、尊称に近いものであり、相手との一定の距離をしめすものである。昔は生活範囲が狭く、日常的に顔を合わせる人の数も比較的少なかった。だからみんなが顔見知りであった。挨拶をすると距離感が生まれ、逆に失礼になるという意識が働いていたのではないかと考えられる。

〈遠近の距離感〉
 指示詞コソアは
   コ(近称) < ソ(中称) < ア(遠称)
の順に遠くなると一般的には言われている。しかしそれは間違いである。「コ」「ア」と「ソ」は意味合いの(次元の)違う指示詞なのである。「自分」の世界から近いものが「コ」で、遠いものが「ア」である。それとは別に「自分」の範疇にないものを示す指示詞が「ソ」である。

 例えば、自分が若い女性だとして:彼氏と待ち合わせをした店で、彼氏が知らない女の人と一緒にやってきた。テーブルで向かい合った状況で、彼氏に
 「え? 誰、この人?」
 「え? 誰、その人?」
のどちらが自然に感じられるか。これはすぐ近くにいる人なのに「その人」のほうがより自然に感じられる。女性としては、知らない女性を自分の範疇にない人と表明したいのである。

 もうひとつの例。
 「そこはカツオがとれる港で、どこ行ってもカツオが出てくるんだけど、いやあ、これが本当においしくてね。」
 「そこはカツオがとれる港で、どこ行ってもカツオが出てくるんだけど、いやあ、それが本当においしくてね。」
 「これ」を用いると、その場にいるような感覚を示し、「それ」を用いると自分の範疇からはずれ、客観的な説明をしているように感じられる。

 以上のように言葉の用いられ方で、対人関係の距離を示すことができる。

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ASKA再逮捕

2016-11-29 16:43:00 | 社会
 ASKAが覚せい剤で再逮捕された。残念だ。

 以前、清原が逮捕されたとき、誉田哲也さんが書いた、『ドルチェ』という本からの引用をした。もう一度引用する。
 
 「覚醒剤を断った人の多くは言う。もうやめた、大丈夫、という状態はあり得ない。ただひたすら、毎日やめ続ける。もうそれしかない。クスリを打たない日を、一日一日積み重ねていく。死ぬまでそうしていくしかないのだと」。

 ASUKAも精一杯がんばったのだと思う。しかし、並たいていの努力では克服はできないのだ。覚せい剤に手を染めたことは彼の罪である。だからそれは反省し償わなければならない。しかしここまで依存してしまったら、薬物からの脱却はもはや本人に任せることはできないのだ。ここからはチーム戦なのだ。

 薬物に関しては単なる刑法の処罰ではなんの解決にもならない。薬物依存から脱却することがやるべきことだ。そのためには彼の周りのみんなが協力していかなければならないのだ。これからも彼は地獄の苦しみを味わうのだ。彼の歌に心躍らされてきたみんなは、今度は彼を助けてあげなければならないのだと思う。
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語用論2〈ポライトネス〉

2016-11-28 09:18:09 | 国語
 先週末「語用論」の勉強をした。そのまとめの2回目。忘れないうちにアウトプットするのが勉強の鉄則。だから「とにかく書いておかないと」。

 「協調の原理」から逸脱したものに「レトリック」と「ポライトネス」がある。「レトリック」は発話効果をねらったものである。それに対して「ポライトネス」は対人関係を配慮した表現である。

 ポライトネスの人類学的・社科学的背景としてデュルケームの〈儀礼〉の考察がある。

 儀礼には2種類ある。タブーや、禁欲などのように聖なるものに「触れない」ことによって聖性を示す消極的儀礼と、祈りや、供物、祝祭などのように聖なるものに近づこうとすることによって聖性が強まる積極的儀礼である。

 ポライトネスとは、〈儀礼〉の考え方を一般の人間関係に応用したものである。聖性に変わって「フェイス」という概念を導入する。「フェイス」とは「面子」のことである。「フェイス」にも〈儀礼〉と同じように2種類ある。「ネガティブ・フェイス」と「ポジティブ・ファイス」である。「ネガティブ・フェイス」の言語的配慮が「「ネガティブ・ポライトネス」、「ポジティブ・フェイス」の言語的配慮が「ポジティブ・ポライトネス」である。2つを整理すると以下のようになる。

  ○ネガティブ・フェイス=面子を守るために遠隔化すること
              「邪魔されたくない」「踏み込まれたくない」欲求
   ・ネガティブ・ポライトネス=間接的表現、ほのめかし、言及回避
                 例、敬語、謝る(詫び)、丁寧な呼称

  ○ポジティブ・ファイス=面子を立てるために近接化すること
              「受け入れられたい」「よく思われたい」欲求
   ・ポジティブ・ポライトネス=直接的表現、直言
                 例、ほめる、ため語、配慮なしの表現

 ポライトネスの表現は呼称などに表れる。

 例えば外国語の2人称の敬称は、2人称複数形や3人称からの転用であり、間接的表現からの転用と言える。これは「ネガティブ・ポライトネス」の例と言える。

 穂積重信は『諱に関する疑』で、日本の呼称を研究し敬称は実名を避け間接的表現になり、相手をそのまま呼ぶ直称は、近い関係、もしくは賤しみを示すことになると論じた。

 ポライトネスは依頼の表現でも表れる。直性的な表現は近い関係を示し、間接的表現は遠い関係を示している。
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「語用論」

2016-11-27 07:43:17 | 国語
 きのう「語用論」を勉強した。すぐに忘れてしまうので重要な点を復習。

 私たちはきちんと文法通りに、しかも過不足なく発話しているわけではない。自分の日常会話を録音して文字におこしてみると、まったく意味不明になっている。実際の発話において、言外の意味も含めて、どのような情報が伝達されるのかを研究するのが「語用論」である。

 具体的には以下の点が対象になる。
 ・発話者の意味
 ・文脈的意味
 ・言外の意味
 ・相対的な対人関係(ポレイトネス)

 以上のことを考えるために会話における「協調の原理」というものを想定する。「協調の原理」とは、「情報を効率的に伝えるだけと想定した場合の『理想的な』発話」ということになる。「協調の原理」には4つの実践原則がある。

 ・質  嘘を言わない
 ・量  過不足ない情報量
 ・関係 関係のないことは言わない
 ・機能 わかりやすいように言う

 これらを逸脱していれば、そこには何かの言外の意味があると考え、そこに「語用論」の題材があるのである。

 今回はここまで。

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ブラックフライデー?

2016-11-26 07:27:25 | 社会
 突然「ブラックフライデー」という言葉が出てきた。11月の第4木曜日の「感謝祭」の翌日、アメリカでの年末セールの始まりの日をそう呼ぶそうになったという。それが日本で突然始まったのだ。なんとも節操のないこと。

 最近になってハロウィンも日本にいつの間にか輸入され、そして「ブラックフライデー」である。キリスト教文化とはほとんど縁のなかったものが、突然輸入され、定着していく。こんなになんでもありでいいのだろうか。そもそも日本には感謝祭もない。それなのに「ブラックフライデー」だけが輸入されるのは、なんの脈絡もない。「年末大バーゲン」で十分ではないか。

 政府や経済界はこの「ブラックフライデー」はその後の買い控えにつながると否定的だ。その代り、毎月末の金曜日の仕事を早く終わらせるという「プレミアムフライデー」を創設するという。節操のない「ブラックフライデー」をまねをして、さらに節操のない消費刺激策を考える。こんな「思い付き」程度のことしかできない日本のトップって本当に大丈夫なのか。
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