とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

村上春樹「鏡」について⑥(2-6.作者は何を言いたいのか)

2022-09-23 09:09:34 | 村上春樹
2-6.作者は何を言いたいのか

 「鏡」の「語り」の構造については、以上のように作品との関連から明らかになる。しかしそれによって何が表現されているのか。つまり作品の意図は何なのかという問題が残っている。

 近代小説は「私」がテーマであった。近代になり、西洋においては神が支配していた時代が終わり、日本においては「家」という制度が崩壊し、個人が主役の時代となった。そして近代において人類が直面したのは「私」という存在である。近代は「私」と格闘している時代であるともいえる。

 近年「私」を客観的にみるメタ認知が重要になってきた。メタ認知によって「私」を客観的に見ることが可能になってきた。しかし「客観的」に見る「私」と主観的に見る「私」は同じであろうか。いや、私たちは他人が見る「私」とのずれを常に感じている。だから鏡を見ることによって安心する一方で、鏡を見ることを不安に思うのである。

 私はこの小説の根底にあるのは、「私」の不安定さだと考える。近代人は不安定な「私」を常に感じているのである。
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村上春樹「鏡」について⑤(2-4.「鏡」と「羊をめぐる冒険」との関連)

2022-09-21 14:26:48 | 村上春樹
2-4.「鏡」と「羊をめぐる冒険」との関連

 「鏡」と「納屋を焼く」の直前に書かれたのが「羊をめぐる冒険」である。その関連にも簡単に触れておく。

 第八章「羊をめぐる冒険Ⅲ」の「9鏡に映るもの・映らないもの」に次のような関連する記述がある。列挙して引用する。 

 「夕方になって鼠の部屋に新しい本を取りに行こうとして、階段の上りぐちにある大きな姿見がひどく汚れていることに気づき、雑巾とガラス磨きスプレイで磨いた。しかしどれだけ磨いても汚れは落ちなかった。(中略)
 磨き終わったあとにはくもりひとつ残らなかった。(中略)ただ鏡の中の像は必要以上にくっきりとしていた。そこには鏡に映った像特有の平板さが欠けていた。それは僕が鏡に映った像を眺めているというよりは、まるで僕が鏡に映った像で、像としての平板な僕が本物の僕を眺めているように見えた」

 「僕は台所に新しい缶ビールを取りに行った。階段の前を通る時に鏡が見えた。もう一人の僕もやはり新しいビールを取りに行くところだった。我々は顔を見合わせてため息をついた。我々は違う世界に住んで、同じようなことを考えている。(中略)
 僕は冷蔵庫から新しいローエンブロウの青い缶を取り出し、それを手に持ったまま帰りにもう一度鏡の中の居間を眺め、それから本物の居間を眺めた。羊男はソファーに座ってあいかわらずぼんやりと雪を眺めていた。
 僕は鏡の中の羊男の姿を確かめてみた。しかし羊男の姿は鏡の中にはなかった。」

 まどろっこしい解説は必要あるまい。あきらかに「鏡」と同じ構造がそこにはある。
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村上春樹「鏡」について④(2-3 「鏡」と「納屋を焼く」との関連)

2022-09-19 17:00:24 | 村上春樹
2-3 「鏡」と「納屋を焼く」との関連

 これまで書いてきた思い付きを、単なる思い付きでなく説得力のあるものに 知り合いの結婚パーティで「僕」するために、他の同時期の村上春樹の作品との関連性を見ていく。


 村上春樹が「鏡」とほぼ同時期に「納屋を焼く」が発表されている。この二つの作品に類似点、関連する点がある。

 「納屋を焼く」のあらすじは次の通りである。

 知り合いの結婚パーティで「僕」は広告モデルをしている「彼女」と知り合う。「彼女」はパントマイムが趣味だった。「彼女」は遺産を手に入れ、アルジェリアに行く。アルジェリアからは新しい恋人と帰ってくる。ある日、ふたりが「僕」の家に遊びに来る。三人は大麻を吸う。「僕」が小学校の芝居のことを思い出していると、突然、
「時々納屋を焼くんです」
と「彼女」の恋人が言う。彼は、実際に納屋へガソリンをかけて火をつけ焼いてしまうのが趣味だという。また近日中に辺りにある納屋を焼く予定だという。「僕」は近所にいくつかある納屋を見回るようになったが、焼け落ちた納屋はしばらくしても見つからなかった。「彼」と再び会うと、
「納屋ですか? もちろん焼きましたよ。きれいに焼きました」
と言う。焼かれた納屋はいまも見つからないが、「僕」はそれから「彼女」の姿を目にしていない。

 あらすじだけ読んでもまったくわからないかもしれない。ぜひ作品をお読みいただきたい。

 さて、「鏡」に話をいったん戻す。「鏡」でどうしても気になるところがあった。ラスト近く、鏡の中の自分を見つけ、鏡の中の自分のほうが自分を支配しているように感じた時である。引用する。

「僕はその時、最後の力をふりしぼって大声を出した。『うおう。』とか『ぐおう。』とか、そういう声だよ。それで金しばりがほんの少しゆるんだ。それから僕は鏡に向かって木刀を思い切り投げつけた。鏡の割れる音がした。僕は後も見ずに走って部屋に駆け込み、ドアに鍵をかけて布団をかぶった。玄関の床に落としてきた火のついた煙草のことが気になった。でも僕はもう一度そこに戻ることなんてとてもできなかった。風はずっと吹いていた。プールの仕切り戸の音は夜明け前までつづいた。うん、うん、いや、うん、いや、いや、いや・・・ってぐあいにさ。」

 この場面、火のついた煙草が、嵐の日の学校に残っていたのである。当然、火事になることの暗示である。実際は学校はすべて焼けて落ち、鏡も焼けてなくなったのだ。「僕」もその火事で死んでしまう。そう、「僕」はすでに死んでいるのだ。ではこの小説の語り手である「僕」は誰なのか。鏡の中の存在の「僕」である。「僕」は鏡の中に閉じ込められたのだ。もはや出口がない。だからこそこの世界には鏡が無くなってしまったのだ。

 「納屋を焼く」も同じ構造がある。「僕」の生きている世界のパラレルな世界では、納屋が焼けてしまい「彼女」は死んでいるのだ。おそらく「彼女」は「彼」の納屋を焼くことを好む性癖を知っていて、「彼」が納屋を焼き、その納屋の中で死のうとしていたのである。「彼女」の死の存在しない世界と、「彼女」の死が存在する二つのパラレルワールドがそこにはあるのである。それはちょうど「鏡」において、学校が焼けて「僕」が死に、「僕」が存在しない世界と、鏡の中に「僕」が残されているという状況と同じなのだ。
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村上春樹「鏡」について③

2022-09-15 11:30:31 | 村上春樹
2-2 「鏡」の読解

 以上のことを念頭において「鏡」を読んでみる。(ここから先の説明は「鏡」を読んでいないとまったくわからなくなるので、先にお読みいただきたい。)

 当然のごとくこの小説の「語り手」の「僕」に焦点をあてることになる。そしてこの「僕」は誰なのかを考えることになる。


 仮説を立てる。

 この小説における「僕」は実在の人物ではなく、鏡の中の虚像である。つまり、鏡を見ている「僕」の元存在こそが存在しているのであり、この小説の「僕」は「僕」の現存在が鏡に映されたものである。

 この仮説の一番の根拠となるのは次の記述である

 僕はそこにしばらくのあいだ呆然として立ちすくんでいた。煙草が指のあいだから床に落ちた。鏡の中の煙草も床に落ちた。我々は同じようにお互いの姿を眺めていた。僕の体は金しばりになったみたいに動かなかった。

 やがて奴のほうの手が動き出した。右手の指先がゆっくりと顎に触れ、それから少しずつ、まるで虫みたいに顔を這いあがっていた。気がつくと僕も同じことをしていた。まるで僕のほうが鏡の中の像であるみたいにさ。つまり奴のほうが僕を支配しようとしていたんだね。(傍線は筆者)

 この傍線部で明確に「僕」が鏡に映された「僕」であることを示唆している。

 また、ここに出てくる「金しばり」という言葉も示唆的である。金しばりは経験したことがある人ならばわかるだろうが、意識ははっきりしているのに意識通りに動きがとれずに体中が固まったように感じる状態だ。自分の意識通りに自分の意志通りに動けないような状態である。これは鏡の中の存在であることを暗示している。

 「相手が心の底から僕を憎んでいる」という記述もこれで説明できる。鏡をみている「僕」は「僕」に対する感情を持つことができる。しかし鏡の中の「僕」、つまりこの小説の語り手の「僕」は、鏡を見ている「僕」に対する感情を持ちえないのである。

 鏡の中の「僕」、つまりこの小説の語り手である「僕」は、鏡を見ている「僕」の存在を認めた瞬間、直感的に自分は実在しない存在なのではないという真実に接し、自分が実在しないということに恐怖を感じたのである。自分が存在しないということは恐怖に違いあるまい。
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村上春樹「鏡」について②

2022-09-14 07:41:25 | 村上春樹
2.「鏡」を読解する

2―1.村上春樹の初期作品の語り手
 「鏡」について語る前に、村上春樹の初期の作品について私の考えを述べておく。

 「鏡」における語り手は「僕」である。これは「鏡」だけではなく、『風の歌を聴け』『1930年のピンボール』『羊をめぐる冒険』のいわゆる村上春樹の「初期三部作」(あるいは「鼠三部作」)でも同じである。

 私は、以前まで村上春樹の「初期三部作」がどうしても好きになれなかった。「おしゃれな小説」のようにしか思えなかったのである。しかし、様々な講義や本を読んでいる中で、村上春樹が時代に抵抗し、社会に戦いを挑みながら、さまざまな工夫をしていたということが読み取れるようになった。そう考えれば確かにおもしろい。

 村上春樹を読む中で、村上春樹の小説における語り手のことが気になるようになった。語り手である「僕」は誰なのか。実は「僕」は「鼠」と同一人物なのではないかと思われたのである。「僕」は「鼠」の分身なのではないか。調べてみたらそういう考えを述べている人もいる。もちろん「鼠」と「僕」が同一人物であるとすると、つじつまが合わなくなるところはたくさん出てくる。しかしそのつじつまは表面的なつじつまであり、本質的には「僕」と「鼠」が表裏一体であるという説は無理なものではない。

 このように考えると、語り手の「僕」は、「鼠」が作り出した「もうひとりの自分」なのではないかと思われてくるのである。もちろん小説なのだからすべては虚構であり、その意味で「僕」が「虚像」であるというのは言うまでもないことであるが、ここで申し上げたいのは小説内のレベルでの話であり、「鼠」が実在しているという前提での話であるので誤解のないように断っておく。「僕」は「鼠」を客観的に記述するために「鼠」が想定した「語り手」なのだという仮説を提示したいのだ。

 これ以上の説明は本論の趣旨とはずれていくばかりなので、別の場所でおこないたい。しかし、村上春樹論で「パラレルワールド」という言葉がよく聞かれるが、それは同じ人物のふたつの視点と考えると一番説明がつくのである。

 近代小説は「私」という主体との闘いであり、その主体を描くためにさまざまな方法がとられてきた。それこそが「近代小説」の本質であり、その優れた方法論として「村上春樹方式」を生み出したというのが、私の仮説である。
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