新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

4月4日 その2 マスメディアの新元号騒ぎ過ぎを批判:

2019-04-04 17:22:21 | コラム
要らざる波紋を巻き起こした騒ぎ過ぎ:

それにつけてもウンザリさせられたことは、例によって例のごときマスコミの「新元号を巡っての空騒ぎ」というか過剰報道です。彼らの舞い上がり振りは予想を遙かに超えていたのには呆れるだけでした。彼らが過剰に反応して囃し立て騒ぎ立てた為に「新手の詐欺」が出て来るし、政府が諸外国に向かって新元号の意味と意義をわざわざ説明しなければならないような事態が生じたのだと思っております。彼らが軽佻浮薄であることは今に始まった訳ではありませんが、付和雷同というか何というか、他国に向けてまでの恥曝しだと心中密かに嘆いております。

しかも騒動はそれだけに止まらず、市中にはこれこそが滅多にない稼ぎ時かと受け止めた商人たちの「あやかり商法」が一斉に始まって、瞬間的には需要が盛り上がるかも知れませんが、そんな商売のやり方が長続きするのでしょうか。私は「昭和」という元号が制定された時の根拠や背景などは知る由もないのですが、マスコミでは何故その辺りに切り込んで見せないのでしょうか。「平成」の時は天皇陛下の崩御の後ですから、平成の出所や解析も出ていなかった記憶がありますが、私は日本国がこれほど軽くなってしまったことの方が気になります。

テレビ局の過剰報道に思う

2019-04-04 08:15:01 | コラム
矢張りミーハーが彼らの最重要な対象だったと再確認:

故内田裕也氏の葬儀:

実は、何かと言えば「ロックンロール」と言っていた故人の歌うのを聞いた記憶がないのが残念だ。だが、昨日の葬儀の模様を各テレビ局が競って報じるのを見せられて、彼がどうやら一時代を築いた大歌手だったと言いたいのだと初めて認識できた。彼らが故内田裕也氏をどう扱おうと勝手だが、興味も関心もなかったような人たちにまで向かって「さー、悲しめ」、「さー、嘆けよ」と言わんばかりなのは、余計なお世話だと思っている。

私は彼にせよ、故樹木希林さんにせよ、一人のエンターテイナー(Oxfordには“a person whose job is amusing or interesting people, for example, by singing, telling, jokes or dancing”とある)として、彼または彼女のファンたちを楽しませてあげていたのであって、万人を楽しませていた訳ではないと思っている。また、彼らはテレビ局にとっては重要なタレントでもあったし、取材対象だったのだと理解している。だからと言って、朝から晩まで大勢の視聴者に押しつけるほどの出来事ではないと思うのだ。共に悲しみたい人だけが悲しめば良いことだと見ている。

専門の分野乃至は職業で実績を残している人たちを評価するが:
私はテレビという報道機関が現在のように広まってしまうと、彼らが勝手に彼らの評価の基準というか、彼らにとって有益か否かを判断して「サー、この芸能人を敬え」、「さー、この大歌手を歌を聴いて感動せよ」という具合、無関心なはずの視聴者に向かってまで押しつける傾向が余りにも著しくなってきたと、実は苦々しく思っている。何が言いたいのかと言えば、往年の評価とは全く異なる基準を勝手に作り出して「歌舞伎役者を天下の大スターだと思って崇め奉れ」と押しつけていると思えてならない。市川海老蔵などはその例の最たるものである。

私は年齢や地位や出自に関係なく、自分がお世話になっていた業界以外で名を為した方とか、立派な実績を挙げた方とか、私には手が出せなかったような学問や芸術やスポーツの世界で成功しておられる方に敬意を表するには吝かではない。だが、そうかと言ってそういう方々を何かのお手本のように崇め奉るとか、心の底からご尊敬申し上げる用意はない。それは「人は道によって賢し」であって、それぞれの人に向いた分野があれば、不向きな世界もあるのだから、立派に名を為しておられたからといって、万人が崇め奉る必要がある存在ではないと思うのだ。

要するに、テレビ局(新聞も入れるべきかな)に「勝手に自分たちの尺度で推し量って尊敬しているから、皆様も敬ったら如何ですかなどと言うな」と言いたいのだ。だが、ミーハーと言われている人たちは、嬉々としてマスメディアが押しつける手前勝手基準を受け入れて楽しんでおられるようだ。それも「この世を楽しむ一つの生き方かな」と思って黙って見てきたが、今回の故内田裕也氏や樹木希林さんの賞賛する様子を見て「あれは過剰ではないのか」と思っただけだ。人はそれぞれの好みで動けば良いのだろうと割り切っておく。