英語の不規則さを心得ておこう:
前回も触れたが、アルファベットの“a”の読み方一つを採り上げても、我が国に生まれ育って学校教育だけで英語を教えらえた方々にとっては、その不規則さには呆れるか驚くかの何れだろうと思う。要するに、ローマ字式やカタカナ英語にしてしまった読み方乃至は発音は、本家本元の英語とは似ても似つかないものになっているということ。とは言ったが、ここにはUKのLondon cockneyやオーストラリアとニュージーランド独特の訛りは含まれていないと思って頂いて良いだろう。
即ち、英語という言葉は至る所に「不規則さ」があって、動詞のように規則動詞よりも不規則動詞の方が多いという現象すら生じているのだ。ここで一寸脱線するが、不規則動詞は“irregular verb”とされているのだが、これは勿論“regular”の反対語として出来たものだと思う。そこを真似たのか、我が国の野球用語には「イレギュラー・バウンド」というのがある。私に言わせれば「では、規則正しいバウンドというのがあるのか」なのだが、アメリかではぶっきらぼうに“bad hop”と言われているようだが、あちらの中継放送でこういう表現があったのを聞いた記憶がない。
話を戻そう。“a”の読み方(または発音でも良いか)の不規則さの例を挙げてみよう。先ずは我が国独特の開発商品の如きローマ字読みはそのままというか、我が国で通用している読み方はされないということ。例えば、青木功という初めてアメリカのトーナメントで優勝したプロゴルファーは、勿論“Isao Aoki”と表記されていた。だが、アメリカには「エイオキ」という名字のプロゴルファーしか存在していなかった。私は寡聞にして“Isao”がどう読まれたか確認していないが、どう考えても「アイサオ」となるしかないと思っている。
“A”という字が入る人名がどう読まれるかと言えば、先ず「ア」となることは極めて希で、殆どの場合「エイ」にされてしまうのである。だから、テニス界の新女王・大坂なおみ(Naomi Osaka)さんはちゃんと「ネイオミ・オサカ」にされていた。何処かで聞いたことがある気がする「前田」もこちらから「マエダ」と読んでくれと予め通告しない限り、「メイダ」か「メイエダ」なることがあった。難儀なことなのである。
英語本来の発音でも単なる「ア」となっている例よりも発音記号で aとeをくっつけたような「エア」にも似た読み方になっている例が多い。例えば“cat”を「カット」とは言わず「キャット」言うし、カタカナ語では「カジュアル」にされてしまった“casual”は「キャジュアル」に近いのが本当の発音である。一寸捻った例だが、“caterpillar”だって「カタピラー」とはなっておらずに「キャタピラー」だし、何故かカタカナ語でも「キャタピラー」となっている。
カタカナ語に「カオス」というのがあって、これは“chaos”のことだと思うが、この読み方は「ケイアス」とする方が原語に近いと思う。以前にも採り上げた「パトリオット」も先人は“patriot”という綴りを見てローマ字式に「パトリオット」にしてしまったようだが、言語は「ペイトウリアット」が近いと思う発音だ。従って「パトリオティズム」というのも、カタカナ語の分類するしかないのだ。
私はこういう英語の不規則性を無視したのか、あるいは知らなかったのか知らないが、ローマ字読み方等でカタカナ語を作って定着させてしまったことを、学校教育の何処かの時点でハッキリと教えて、私の持論でもある「こういう読み方や発音の仕方は通用しないことがあるから要注意と認識させておく必要がある」とあらためて主張したいのである。外国人の中には察しの良い人もいて、カタカナ語でもローマ字読み方でも「多分こういうことを言いたいのだろう」と理解されることも偶にはあるが、経験的には「???」となっていた例が多かったのである。
ここまででは年来の主張である「カタカナ語排斥論」を展開していると思われそうだが、狙いはそこにはない。言いたいことは「長い年月の学校教育における至らなさがあるから、我が国独特のカタカナ語が出来てしまったのだ」という点であり、英語教育改革論のほんの一頁のつもりなのである。
前回も触れたが、アルファベットの“a”の読み方一つを採り上げても、我が国に生まれ育って学校教育だけで英語を教えらえた方々にとっては、その不規則さには呆れるか驚くかの何れだろうと思う。要するに、ローマ字式やカタカナ英語にしてしまった読み方乃至は発音は、本家本元の英語とは似ても似つかないものになっているということ。とは言ったが、ここにはUKのLondon cockneyやオーストラリアとニュージーランド独特の訛りは含まれていないと思って頂いて良いだろう。
即ち、英語という言葉は至る所に「不規則さ」があって、動詞のように規則動詞よりも不規則動詞の方が多いという現象すら生じているのだ。ここで一寸脱線するが、不規則動詞は“irregular verb”とされているのだが、これは勿論“regular”の反対語として出来たものだと思う。そこを真似たのか、我が国の野球用語には「イレギュラー・バウンド」というのがある。私に言わせれば「では、規則正しいバウンドというのがあるのか」なのだが、アメリかではぶっきらぼうに“bad hop”と言われているようだが、あちらの中継放送でこういう表現があったのを聞いた記憶がない。
話を戻そう。“a”の読み方(または発音でも良いか)の不規則さの例を挙げてみよう。先ずは我が国独特の開発商品の如きローマ字読みはそのままというか、我が国で通用している読み方はされないということ。例えば、青木功という初めてアメリカのトーナメントで優勝したプロゴルファーは、勿論“Isao Aoki”と表記されていた。だが、アメリカには「エイオキ」という名字のプロゴルファーしか存在していなかった。私は寡聞にして“Isao”がどう読まれたか確認していないが、どう考えても「アイサオ」となるしかないと思っている。
“A”という字が入る人名がどう読まれるかと言えば、先ず「ア」となることは極めて希で、殆どの場合「エイ」にされてしまうのである。だから、テニス界の新女王・大坂なおみ(Naomi Osaka)さんはちゃんと「ネイオミ・オサカ」にされていた。何処かで聞いたことがある気がする「前田」もこちらから「マエダ」と読んでくれと予め通告しない限り、「メイダ」か「メイエダ」なることがあった。難儀なことなのである。
英語本来の発音でも単なる「ア」となっている例よりも発音記号で aとeをくっつけたような「エア」にも似た読み方になっている例が多い。例えば“cat”を「カット」とは言わず「キャット」言うし、カタカナ語では「カジュアル」にされてしまった“casual”は「キャジュアル」に近いのが本当の発音である。一寸捻った例だが、“caterpillar”だって「カタピラー」とはなっておらずに「キャタピラー」だし、何故かカタカナ語でも「キャタピラー」となっている。
カタカナ語に「カオス」というのがあって、これは“chaos”のことだと思うが、この読み方は「ケイアス」とする方が原語に近いと思う。以前にも採り上げた「パトリオット」も先人は“patriot”という綴りを見てローマ字式に「パトリオット」にしてしまったようだが、言語は「ペイトウリアット」が近いと思う発音だ。従って「パトリオティズム」というのも、カタカナ語の分類するしかないのだ。
私はこういう英語の不規則性を無視したのか、あるいは知らなかったのか知らないが、ローマ字読み方等でカタカナ語を作って定着させてしまったことを、学校教育の何処かの時点でハッキリと教えて、私の持論でもある「こういう読み方や発音の仕方は通用しないことがあるから要注意と認識させておく必要がある」とあらためて主張したいのである。外国人の中には察しの良い人もいて、カタカナ語でもローマ字読み方でも「多分こういうことを言いたいのだろう」と理解されることも偶にはあるが、経験的には「???」となっていた例が多かったのである。
ここまででは年来の主張である「カタカナ語排斥論」を展開していると思われそうだが、狙いはそこにはない。言いたいことは「長い年月の学校教育における至らなさがあるから、我が国独特のカタカナ語が出来てしまったのだ」という点であり、英語教育改革論のほんの一頁のつもりなのである。