軽佻浮薄に過ぎないか:
新元号が何を変えると言うのか。私は既に新元号「令和」を巡ってのマスコミの空騒ぎとビジネスの分野における新元号を過度に商業的にと言うか恰も販売促進の材料に使う有様を苦々しい思いで見て、批判をしてきた。マスコミは言ってみればあの程度の軽々しい輩の集団だと思えば腹も立たない。だが、「この機会を利用して売らんかな」と販促の材料に使う様子を見ると、あの連中はもしかして余りにも消費が一向に盛り上がらない状況下にあって「この機会に新元号利用で何とか盛り上げよう」とでも企図しているのかという視点で見てあげるべきかとも考えるようになった。
だが、仮にそのような手法で需要と消費を喚起できたとしても、新元号が始まって私がウンザリさせられているだけの10連休とやらが終われば「何だ。あの盛り上がりは一過性だったのか」という結果に終わってしまうだろうと危惧している。私がそれ以上に好ましくないと思っていることがある。それは方々で「令和となれば新時代が始まる」とか「新元号を機に世の中が大きく変化していくだろう」と言ったような「新元号頼み」とでも形容したいことをヌケヌケと囃し立てている連中がいることだ。
率直に言って元号が変わったくらいで我が国の中だけではなく、この広い世界に新風でも吹いて世界に大変動が起きるとでも言いたいのかと思う。現在の世界情勢を見よ。アメリカでの2年有余のトランプ政権下でアメリカ国内のみならず、世界の方々でどれほどの変化が生じて来たかを良く考えても見よ。中国に習近平政権が誕生して以来アジア、アフリカ、欧州、対アメリカの貿易戦争、一帯一路だのAIIB等々、あちこちで強引な進出、対立、紛争等々がどれほど生じていたか。金正恩委員長が如何なる行動を起こしてきたか。UKのBrexitがどれほど進展したか。
こういう大規模で急速に変化してきた世界では同じ指導者が、同じ手法で、それぞれの国を導いてきたものが、我が国の元号が変わったからといって新たな動きをするのかということだ。我が国にしたところで、5月1日からいきなり安倍政権が施政方針を一気に変えるというようなことがあり得るのか。枝野幸男と玉木雄一郎が「もしかしてダブル選挙が」と言って大合同でもすると言いたいのか。今日まで再三再四の総理の賃上げの要望をシカトしてきた経営担当者(現在の経営者などは本来の意味の経営などしておらず、単に経営を担当しているだけの器量の輩の集まりだ)がそれではとばかりに一気呵成に「所得倍増」にでも打って出るというのか。
私は4月30日までと同様な政治家と、経営担当者と、製造業界と、流通機構と、これまでと全く何の変化もしていない国民が、昭和から平成と続いた時代と同じ考え方と手法で動き続けていくだけだと思っている。それはAIだのEVだの5Gだのといった新時代の技術的変化やキャッシュレス化などは現実の事としては現れるだろう。だが、何が新たに出てこようとそれを操作するというか、使うのは同じ人間であり、同じ日本国民ではないか。西暦で考えれば世界の流れは昨日までと同じように流れていくだけではないのか。
私は如何なる変化にしても、それが斬新であろうとなかろうと、変えていくのは新元号ではなく、前日まで生きてきていた人が起こすものだと思っている。何となく沈滞気味だと感じさせてくれる我が国を変えていくのは「令和」ではなく、人だと思うべきだろう。そこを考えもせずに「令和になれば」などというような軽々しい論調を私は排除したい。
新元号が何を変えると言うのか。私は既に新元号「令和」を巡ってのマスコミの空騒ぎとビジネスの分野における新元号を過度に商業的にと言うか恰も販売促進の材料に使う有様を苦々しい思いで見て、批判をしてきた。マスコミは言ってみればあの程度の軽々しい輩の集団だと思えば腹も立たない。だが、「この機会を利用して売らんかな」と販促の材料に使う様子を見ると、あの連中はもしかして余りにも消費が一向に盛り上がらない状況下にあって「この機会に新元号利用で何とか盛り上げよう」とでも企図しているのかという視点で見てあげるべきかとも考えるようになった。
だが、仮にそのような手法で需要と消費を喚起できたとしても、新元号が始まって私がウンザリさせられているだけの10連休とやらが終われば「何だ。あの盛り上がりは一過性だったのか」という結果に終わってしまうだろうと危惧している。私がそれ以上に好ましくないと思っていることがある。それは方々で「令和となれば新時代が始まる」とか「新元号を機に世の中が大きく変化していくだろう」と言ったような「新元号頼み」とでも形容したいことをヌケヌケと囃し立てている連中がいることだ。
率直に言って元号が変わったくらいで我が国の中だけではなく、この広い世界に新風でも吹いて世界に大変動が起きるとでも言いたいのかと思う。現在の世界情勢を見よ。アメリカでの2年有余のトランプ政権下でアメリカ国内のみならず、世界の方々でどれほどの変化が生じて来たかを良く考えても見よ。中国に習近平政権が誕生して以来アジア、アフリカ、欧州、対アメリカの貿易戦争、一帯一路だのAIIB等々、あちこちで強引な進出、対立、紛争等々がどれほど生じていたか。金正恩委員長が如何なる行動を起こしてきたか。UKのBrexitがどれほど進展したか。
こういう大規模で急速に変化してきた世界では同じ指導者が、同じ手法で、それぞれの国を導いてきたものが、我が国の元号が変わったからといって新たな動きをするのかということだ。我が国にしたところで、5月1日からいきなり安倍政権が施政方針を一気に変えるというようなことがあり得るのか。枝野幸男と玉木雄一郎が「もしかしてダブル選挙が」と言って大合同でもすると言いたいのか。今日まで再三再四の総理の賃上げの要望をシカトしてきた経営担当者(現在の経営者などは本来の意味の経営などしておらず、単に経営を担当しているだけの器量の輩の集まりだ)がそれではとばかりに一気呵成に「所得倍増」にでも打って出るというのか。
私は4月30日までと同様な政治家と、経営担当者と、製造業界と、流通機構と、これまでと全く何の変化もしていない国民が、昭和から平成と続いた時代と同じ考え方と手法で動き続けていくだけだと思っている。それはAIだのEVだの5Gだのといった新時代の技術的変化やキャッシュレス化などは現実の事としては現れるだろう。だが、何が新たに出てこようとそれを操作するというか、使うのは同じ人間であり、同じ日本国民ではないか。西暦で考えれば世界の流れは昨日までと同じように流れていくだけではないのか。
私は如何なる変化にしても、それが斬新であろうとなかろうと、変えていくのは新元号ではなく、前日まで生きてきていた人が起こすものだと思っている。何となく沈滞気味だと感じさせてくれる我が国を変えていくのは「令和」ではなく、人だと思うべきだろう。そこを考えもせずに「令和になれば」などというような軽々しい論調を私は排除したい。