新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

4月24日 その2 新元号が何を変えると言うのか

2019-04-24 14:53:46 | コラム
軽佻浮薄に過ぎないか:

新元号が何を変えると言うのか。私は既に新元号「令和」を巡ってのマスコミの空騒ぎとビジネスの分野における新元号を過度に商業的にと言うか恰も販売促進の材料に使う有様を苦々しい思いで見て、批判をしてきた。マスコミは言ってみればあの程度の軽々しい輩の集団だと思えば腹も立たない。だが、「この機会を利用して売らんかな」と販促の材料に使う様子を見ると、あの連中はもしかして余りにも消費が一向に盛り上がらない状況下にあって「この機会に新元号利用で何とか盛り上げよう」とでも企図しているのかという視点で見てあげるべきかとも考えるようになった。

だが、仮にそのような手法で需要と消費を喚起できたとしても、新元号が始まって私がウンザリさせられているだけの10連休とやらが終われば「何だ。あの盛り上がりは一過性だったのか」という結果に終わってしまうだろうと危惧している。私がそれ以上に好ましくないと思っていることがある。それは方々で「令和となれば新時代が始まる」とか「新元号を機に世の中が大きく変化していくだろう」と言ったような「新元号頼み」とでも形容したいことをヌケヌケと囃し立てている連中がいることだ。

率直に言って元号が変わったくらいで我が国の中だけではなく、この広い世界に新風でも吹いて世界に大変動が起きるとでも言いたいのかと思う。現在の世界情勢を見よ。アメリカでの2年有余のトランプ政権下でアメリカ国内のみならず、世界の方々でどれほどの変化が生じて来たかを良く考えても見よ。中国に習近平政権が誕生して以来アジア、アフリカ、欧州、対アメリカの貿易戦争、一帯一路だのAIIB等々、あちこちで強引な進出、対立、紛争等々がどれほど生じていたか。金正恩委員長が如何なる行動を起こしてきたか。UKのBrexitがどれほど進展したか。

こういう大規模で急速に変化してきた世界では同じ指導者が、同じ手法で、それぞれの国を導いてきたものが、我が国の元号が変わったからといって新たな動きをするのかということだ。我が国にしたところで、5月1日からいきなり安倍政権が施政方針を一気に変えるというようなことがあり得るのか。枝野幸男と玉木雄一郎が「もしかしてダブル選挙が」と言って大合同でもすると言いたいのか。今日まで再三再四の総理の賃上げの要望をシカトしてきた経営担当者(現在の経営者などは本来の意味の経営などしておらず、単に経営を担当しているだけの器量の輩の集まりだ)がそれではとばかりに一気呵成に「所得倍増」にでも打って出るというのか。

私は4月30日までと同様な政治家と、経営担当者と、製造業界と、流通機構と、これまでと全く何の変化もしていない国民が、昭和から平成と続いた時代と同じ考え方と手法で動き続けていくだけだと思っている。それはAIだのEVだの5Gだのといった新時代の技術的変化やキャッシュレス化などは現実の事としては現れるだろう。だが、何が新たに出てこようとそれを操作するというか、使うのは同じ人間であり、同じ日本国民ではないか。西暦で考えれば世界の流れは昨日までと同じように流れていくだけではないのか。

私は如何なる変化にしても、それが斬新であろうとなかろうと、変えていくのは新元号ではなく、前日まで生きてきていた人が起こすものだと思っている。何となく沈滞気味だと感じさせてくれる我が国を変えていくのは「令和」ではなく、人だと思うべきだろう。そこを考えもせずに「令和になれば」などというような軽々しい論調を私は排除したい。


私も英語では何度も失敗していた

2019-04-24 07:53:42 | コラム
失敗は英語の勉強に役に立つ:

昨日は余所の方の“I can’t ~.”の失敗例を取り上げたのだが、実は私自身がこれと似たような失敗をして「なるほど、英語であるとksアメリカ人の思考回路はそうなっていたのか」と良い勉強になったので、恥を忍んで私の失敗例を紹介して諸賢のご参考にしようと思い立った次第だ。

運転の仕方を知らないのだ:
それは私は自動車の運転の仕方は知らないし、運転の免許を取ろうと試みたこともなかったので、アメリカにいる限りの間は同僚か上司の温情に縋って送り迎えをして頂いていたのだった。なお、その1970年代後半には未だ我が事業部はそれほど我が国の市場で認められていた存在ではなかったので、アメリカ出張も精々年間に1~2ど程度だった。本社でのある会議の席上で議題が終わった後で誰彼となく「何故、君は他の東京事務所の連中のようにレンタカーをして移動しないのか」との疑問を呈された。

そこで深い考えも無しに“I can’t drive a car.”と答えてしまった。すると「それでは君は免許停止でも食らっているのか、または国際免許を取得せずにアメリカに来たのか」と問い質された。そういうことではないので“No. That is not the case. I don’t drive.”と答えてみた。すると「君は運転が嫌いなのか」と追い打ちをかけられた。そうではないので、はたと行き詰まった。そこで数秒考えて“I don’t know how to drive. That’s all.”とやって漸く納得して貰えたのだった。

なお、我々兄弟は自動車の運転免許を取ろうとしたことはない。それは昭和12年12月に父親が東京の数寄屋橋も交差点を徒歩で横断していた時に黄色の信号で突っ込んできたタクシーの後部バンパーに引っかけられて転倒し、後頭部を打って病院に搬送されたが脳底骨折で死亡してしまっていた。そこで母親が我々4歳と2歳の2人の兄弟に「貴方方の父親が死んだだけでも十分に悲しいし辛いのだから、この苦しみを他人に与えることがないように、貴方たちは運転免許を取ろうとしないこと」と厳しく申し渡されていたのだった。

喫煙を止めたのでは:

私は体質的にもアルコール飲料は合わないので、殆ど飲まないし飲めない。事実、国際医療研究センター病院では注射などの際にアルコールで消毒するとかぶれてしまうほど不適合なのである。煙草も喫煙が見つかると最低でも停学である中学(後に新制高校にされてしまったが)に行っていたし、母親には吸いたければ吸えば良いがその分の小遣いは支給しないと言われたお陰で、喫煙とは縁遠かったのだ。

その件だが、矢張りアメリカ人たちの中で「酒を飲まないのは解ったが喫煙は」と尋ねられて、矢張り素直に“I don’t smoke.”と言ってしまった。すると「それは吸ったことがないのか、それとも“Have you quit smoking for good?”と切り返されて“for good”という慣用句(なのだろう)を「良いことの為に」と解釈して何気なく“Yes.”と答えてしまった。すると「それでは嘗ては吸っていたが永久に止めたということか」との疑問を呈された。そこで「しまった」と思い、慌てて“I have never smoked in my whole life time.”とやって理解して貰えた。

後で調べてみれば、“for good (and all)”とは「永遠に」か「永久に」という意味であって「良いことの為に」の意味ではないと知った。英語の勉強とはこのように失敗を重ねて初めて身に付くものなのだ。でが、残念ながらそれ以後に“for good”を使える場面に出会った記憶はない。