気ままに

大船での気ままな生活日誌

ライプツィヒは音楽の街 (東ドイツ旅#8)

2013-12-02 06:39:02 | Weblog
音楽の父と称されるバッハ、そして音楽の母はヘンデル、ふたりともドイツ人。それもライプツィヒにほど近い、アイゼナハとハレに生まれ、育ち、とくにバッハはライプツィヒを本拠地として活躍した。加えて、ワグナーはライプツィヒ生まれだし、メンデルスゾーンもシューマンもライプツィヒに住み、活動した。このように、ライプツィヒは世界的な音楽の街だ。

というわけで、今日は、ライプツィヒの音楽史跡巡りの旅におつきあいください。

まず、シューマンと妻クララの住んだ家。シューマンはライプツィヒ大学法学部に入学したが、音楽家への夢を捨てきれず、ピアノ教師、ヴィークのもとに弟子入りする。彼の娘さんで、名ピアニストのクララの美貌についクラクラとなりシューマンは、ヴィークの大反対を押切り、結婚。

1840年、結婚式翌日から4年間、この建物の2階に住んだ。メンデルスゾーン、リスト、ワーグナー、アンデルセンらが訪問したという。


シューマン(1810~1856)と妻クララ


メンデルスゾーン(1809~1847)の家。1845~47年に住み、終焉の場所でもある。家族と共に建物2階の一画に住んだ。メンデルスゾーンは、長年にわたりゲヴァントハウス楽長を務め、ライプツィヒ音楽院の創立者でもある。現在、メンデルスゾーン博物館として公開されている。




博物館設立にはツジイエミコさんを中心とする日本人の資金援助に依るところが大きい。取り壊し寸前だったという。


さて、そのゲヴァントハウス・コンサートホール。世界最古(1743)の民間オーケストラといわれるゲヴァントハウス管弦楽団の本拠地。時代を代表する音楽家たちが楽長(常任指揮者)を務めてきた。


ライプツィヒ歌劇場もすぐ隣り。


音楽の父、バッハ(1685~1750)はどこに住んでいたか。現在のバッハ博物館とトーマス教会の間のトーマス学校校舎兼寄宿舎です。バッハ(1685~1750)はトーマス教会音楽監督としてでその創作活動期間の後半を過ごす。博物館のあるボーゼ館はバッハ一家と家族ぐるみの親交があったゲオルク・ハインリヒ・ボーゼの旧邸とのこと。

バッハ博物館




そのトーマス教会


その教会内にバッハお墓がある。


トーマス教会の前に建つバッハ像


その夜、バッハが音楽監督をしていて、彼のお墓もあるトーマス教会内で、彼の最高傑作といわれるミサ曲 ”ロ短調 BWV232”を聞くことができたのは、めったにない幸運だった。




そうそう、滝廉太郎は1901年(明治34年)にメンデルスゾーンの設立したライプツィヒ音楽院に留学してるんですよ。でも、わずか2ヶ月後に肺結核となり、1年で帰国。1903年に大分で亡くなるという悲しい晩年だった。

街中に滝廉太郎の住んだ場所辺りに碑が建っている。日本語とドイツ語で彼の紹介文が書かれている。

【碑文】
日本で敬愛されている作曲家、滝廉太郎(1879-1903)は
1901年から1902年の間、フェルディナンド・ローデ通り7番に
住み、ライプツィヒ音楽院で学んだ。
短い一生の中で数々の名曲を残し、日本の近代音楽の扉を開
いた業績は永遠に輝き続ける。






(旅先からの投稿です)
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師走の朝富士

2013-12-01 07:14:19 | Weblog
もう、師走ですね。いつも(遊びに)走り回っているおいらでござんすが(汗)、12月は、師に負けず、もっと走りまわらねばならぬ、と思ってますダ。というわけで、早速、これから夫婦旅に出ます。行先は、まだまだ紅葉の京都です!・・・・でなくて、だいぶ前から予定を入れてしまっていた東北方面へ。初冬の風景や地元のお料理やお酒が楽しみ。

紅葉見納めで、11月、最後の日は、地元、北鎌倉に遊ぶ。

東慶寺

山門前


本堂前




鐘楼前


高台墓地前


明月院

本堂奥の庭園内。午後3時頃で光りが足らなかった。






むしろ、庭園外の方が、光りがあった。




ゆく河の流れをみている明月院の兎と亀。


明月院通りの紅葉が最高だったかもしれない。電線も輝いていた晩秋のあの日。


円覚寺、まだまだいけるゼ総門前。


では、行ってきます。旅先で、まだまだ、旅の途中の(汗)、東ドイツ旅日誌をスマホ投稿するつもりです。
。。。。。

師走の夜明け


見事な師走の朝富士でやんした。
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