気ままに

大船での気ままな生活日誌

千の風になって

2007-01-31 11:39:38 | Weblog
昨日、元職場の人から、ひとつの悲しい知らせが届きました。まだ38才です、大腸癌で亡くなったというのです。彼は、背が180センチぐらいで、がっちりした体格で、病気などとは一生縁がないだろうと思わせるような人でした。また、「変人」が多い職場でしたが、彼は明るい人柄で、ときどき冗談を言ったりして、皆にとても好かれていました。加えて、仕事もよくでき、その分野では将来大御所になるのではと期待されていました。そんな、前途洋々たる若者が、愛する妻や小学生の子供たちを残して、あっけなく逝ってしまったのです。

この文章を書きながら、K君と全く同じケースだということに気づきました。K君は私の小学校時代からの親友でした。彼はやはり、180センチぐらいの背丈で、病気などしたことのない頑強な人でした。頭も良く、いつでも成績は1,2番という秀才でした。その上、性格がよく、親分肌で皆から慕われていました。大学を出て、彼が徳島の方に就職してからも、つきあいは続き、徳島で会ったり、三鷹で飲んだりしていました。その楽しいつきあいが突如暗転しました。

僕らがちょうど37、8才になった頃です。彼のお姉さんから電話がありました。弟が大腸癌になって、先生からあと2ヶ月の命だと言われている、今家で療養しているので、会ってくれないか、余命のことは本人に知らせていない、という内容でした。

その日、私はどぎまぎしていました。自分の性格からして、本心を隠せ通せないのではないか、へたすると、涙をみせてしまうのではないか、そんなことばかりが頭をよぎり、落ち着きませんでした。でも、K君は、私の心を見透かしてるように、明るい、楽しい話題ばかりをもちだしてきました。最後の、15分ばかりの会話でしたが、なんとか、もちこたえることができました。ただ、お別れの握手だけは心を込めて、ありがとうと、強く握りました。K君も強く、にぎり返してくれました。

K君の奥さんとお姉さんとは、今でも、年賀状を交換していますが、当時小学生だった子供さんも今ではすっかり、立派な社会人に成長されています。ひとりで頑張りつづけた奥さん、ほんとうにすごいと思います。

元職場のM君の奥さんや子供さん、しばらくつらいでしょうが、がんばってくださいね。最近はやっている歌のように、M君は、千の風になって、すぐそばまできて、見守っていますよ。

・・・・・

千の風になって

 作詞 不詳
 訳詞 新井満
 作曲 新井満
 歌唱 秋川雅史

私のお墓の前で 泣かないでください
 そこに私はいません 眠ってなんかいません

千の風に
 千の風になって
  あの大きな空を
   吹き渡っています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
 冬はダイヤのように きらめく雪になる
  朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
   夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
 そこに私はいません 死んでなんかいません

千の風に
 千の風になって
  あの大きな空を
   吹き渡っています

千の風に
 千の風になって
  あの大きな空を
   吹き渡っています

あの大きな空を
 吹き渡っています

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

砂の器

2007-01-30 10:56:48 | Weblog
先日、鎌倉芸術館で、野村芳太郎監督の1974年作品、「砂の器」をみてきました。30年以上前の映画ですが、今回のは、デジタルリマスター版で封切り当時のクリアーな映像を楽しめます。加えて、ステレオもグレードアップしてありますので、この映画で重要な役割をもつ音楽もハイレベルの音質で聴くことができます。

この映画は、以前、テレビの名画鑑賞番組などで観たことはありますが、松本清張の推理小説的な面ばかりが印象に残っていました。すなわち、被害者が東北なまりで話していた、そして、カメダという言葉を何度も使っていた、それにこだわり、東北の羽後亀田で捜査をするが、一向に進まない、しかし、島根県出雲地方に東北なまりで話す地域があり、近辺にカメダケという地名がある、ということに気づき、捜査が急進展する、そういったストリーばかりが記憶に残っていました。

ところが、この映画のみせどころは、そんな筋にではなく、映画後半の、殺人犯である、天才音楽家和賀英良(加藤剛)のピアノと彼が指揮するオーケストラの協奏曲(ピアノと管弦楽のための組曲「宿命」)の、哀しみを帯びた音楽にあったのです。そしてその音楽に連動させた、和賀英良の悲しい子供時代の回想シーンにあったのです。

・・・加藤剛とよく似た目をもつ子役(春田和秀)と、らい病の父親(加藤嘉)が、追われるように故郷を離れる、巡礼姿で、その日暮らしを続けて行く、海辺の村、山里、どこに行っても安住の地はない、石を投げられ、泣きべそをかく子供の目、楽しそうに校庭で遊ぶ小学生をみる塀越しの子供の目、病気になった父親と別れるときの子供の目が痛々しい、そして、それぞれの目が、今「宿命」を演奏している加藤剛の目に重なっていく・・・。

・・・流浪の旅を続ける親子の前に、ひとりの心やさしい巡査(緒形拳)が現れる。病気になった父親を入院させ、そして子供を養育する、しかし、しばらくして、子供は父親に会いたいためかどこかに失踪する。そして時が経ち、引退した元巡査が伊勢参りに出かけたときに、渥美清館主の映画館で、ある写真を見つけて驚く、あの少年の成人した姿だ、それが天才音楽家であった、彼は音楽家と東京で二度会う、父親はまだ生きている、是非会ってくれと懇願する、しかし、音楽家はすでに戦後の混乱期に籍の詐称をしていて、現在は有力政治家(佐分利信)の娘(山口果林)と婚約をしている、今更戻ることはできない、殺意がうまれる・・・

・・・天才音楽家が作曲し、今、演奏しているピアノと管弦楽の組曲「宿命」は、まさに自分自身の過去であり、現在であった、溢れるような思いが、ピアノの高いひびきに、管弦楽の怒濤の音色の河に乗り移っていく、演奏会場には逮捕状をもった二人の捜査官(丹波哲朗と森田健作)の姿がみえる、そして演奏が終わる、万雷の拍手、婚約者と父親の笑顔、そして音楽家のずっと遠くをみているような目・・・

すばらしい映画でした。犯罪の動機を重視する社会派推理小説家、松本清張の原作の意図を、音楽を効果的に使うことによって、見事に、観客の心に染みこませることに成功したと思います。その意味で、この映画は音楽映画だといっても言い過ぎではないと思いました。音楽監督は芥川也寸志さんで、映画の中の演奏会の実際の指揮は、加藤剛さんの後ろでしていたそうです。「宿命」の作曲は新進作曲者の菅野光亮さんでした。しかし、10年ほどあと、44才の若さでこの世を去ります。

むかしの、いい映画が、映像だけではなく、音までがきれいになって生まれ変わってきてくれて、今の若い人に、そして、むかしの若い人にも同じ感動を与えてくれる、いい時代になりましたね。

・・・・・
写真は大磯の海岸です。「砂」と「親子」ということで。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

方代さんと瑞泉寺

2007-01-29 11:47:49 | Weblog
皆さんは、山崎方代さんという歌人をご存知ですか。和歌をたしなむ方の間ではよく知られていると思いますが、私は、2年ほど前に、こちらに越して来るまでは、この歌人について何も知りませんでした。

瑞泉寺の山門の手前の空き地に、松陰・留跡碑や吉野秀雄の歌碑と並んで、方代さんの小さな歌碑が建っています。「手のひらに 豆腐をのせて いそいそと いつもの角を 曲りて帰る」の和歌が刻まれています。この歌碑の存在をはっきり意識するようになったのは、地元出版社の伊藤玄二郎さんの随筆集「風のかたみ」で方代さんのことを知ったときからでした。

伊藤玄二郎さんが方代さんに初めて会ったのは鎌倉八幡宮の段葛の参道でした。どちらもほろ酔い加減で歩いてきて出くわしたようです。ねーこれ食べないか、これもあるんだと、餃子とお酒の四合瓶を出してきました。友達を含め3人で酒盛りが始まったのです。この出会いがきっかけで、伊藤さんは鎌倉山の山裾のようやく一人が寝られるような広さのプレハブの「方代草庵」を尋ねたりして、方代さんのことを次第に知るようになりました。そして、すっかりファンになってしまったようです。

「生まれは 甲斐の国 鶯宿峠(おうしゅくとうげ)に 立っている なんじゃもんじゃの 木の股からですよ」と伊藤さんに和歌で自己紹介したそうです。山梨県右左口村(うばぐちむら)で生まれ、そこで育ちました。故郷を離れてからは、定職にはつかず、生涯独身で、気ままな放浪生活を送りながら、歌をつくり続けます。鎌倉に来てからは、方代草庵に「定住」し、当地にお住まいだった歌人の吉野秀雄さんを師匠として仰ぐようになります。

瑞泉寺とのつながりは、大下豊道和尚との出会いから始まっています。和尚は、ご自分でも和歌をたしなみ、歌人をとても大事にされた方です。方代さんの和歌に「瑞泉寺の 和尚がくれし 小遣いを 確かめおれば 雪が降りける」とありますが、物心両面で支援してもらっていた時期もあったようです。方代さんがこのお寺に親近感があるもうひとつの理由は、開山された夢窓国師が幼少年時代を、自分の故郷、山梨県、右左口村のお寺ですごしたことです。方代さんは歌人でありますが、私が思うに、同時に、ほとんど宗教家ではなかったかと思うのです。毎日の質素な、しかし真善美を追求する生活が、お坊さんの修行となんら変らないと思うからです。それ故、「同郷」の夢窓国師に特別な思いをもっていたに違いないと思うのです。

私はブログを始める前は、結構こまめに日記をつけていました。1年以上も前のことですが、八幡様の第三鳥居(境内前の鳥居のこと)近くの中華料理屋さんで、そこの奥さんから方代さんのことを伺ったことをその日記につづっています。修業時代のご主人は、方代さんより二回りも下の年齢でしたが、とても気があって、自分が独立したときは、方代さんの家も建ててやるよ、と約束したそうです。そして、ご主人は現在の中華料理屋を開店し、鎌倉手広に家も建てます。そして、約束どおり自宅の庭に、前述の方代草庵をつくってあげたのです。

味噌ラーメンを頼んでから、いろいろお話を伺いました。とても人懐っこい人でね、近所の人ともすぐ仲良くなるんですよ。お酒は好きでしたね、朝からコップ酒でしたね、でも人に迷惑をかけるようなことはなかったですよ、度を過ぎるということはなく、ひとりですたすた帰ってしまう、この山梨のお酒、右左口(うばぐち)というのですが、この字は方代さんが書いたものです。私はそのお酒を、コップ酒でいただきました。そしておつまみは餃子にしました。あーあのときの(前述の)餃子と同じものだな、と直感しました。奥の方からご主人がちらりと顔をみせてくれました。とても穏やかな顔つきの方でした。こんないいご夫婦にも支えられ、方代さんは果報者だったなと思いました。

方代さんが昭和60年に、70才で亡くなられたあとも、毎年夏に、瑞泉寺で方代忌が営まれています。

・・・・・
私が好きな方代さんの和歌をいくつかあげておきます。もっと詳しく知りたい方は、青じその花(山崎方代著)かまくら春秋社 をごらんください。

・・・

母の名は 山崎けさのと 申します 日の暮方の 今日のおもいよ     

一度だけ 本当の恋がありまして 南天の実が 知っております

こんなにも 湯飲茶碗は あたたかく しどろもどろに 吾はおるなり

こんなところに 釘が一本打たれいて いじればほとりと 落ちてしもうた

死ぬほどの 幸せもなく ひっそりと 障子の穴を つくろっている 

寂しくて ひとり笑えば 茶ぶ台の上の 茶碗が 笑いだしたり       

茶碗の底に 梅干の種 二つ並びおる ああこれが 愛と云うものだ

広告の ちらしの裏に 書きためし 涙の歌よ わが泪なり







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天心もみた日の出

2007-01-28 14:52:25 | Weblog
その日の朝、私達は北茨城の五浦海岸沿いに建つホテルの屋上で、太平洋の日の出をみようと待機していました。6時45分の予定でしたが、水平線の上に少し、雲がかかっていましたので、お日様が、その雲の上に出るまで、少しの時間待たなければなりませんでした。

茨城県にいた頃に、ここを一度訪れていますので、今回は二度目となります。ワイフが、是非一度、本場の、冬のアンコウ鍋を食べたいというので、寒い中、出かけてきたというわけです。近くに平潟漁港があり、そこで水揚げされたアンコウの鍋料理を前の晩に頂きました。アンコウの肉、肝、とも、ぬの、水袋、えら、皮など色々の食材の入った鍋の他、蒸しアンコウの肝のポン酢おろし、土佐揚げ、共酢などアンコウづくしのお料理でした。しこしこ、ぐにゃぐにゃ、くしゃくしゃ、いろいろな食感で味わえます。とてもおいしかったです、とくに日本酒にはぴったりでした。

日の出を待つ間、こう思いました。岡倉天心もきっと、波音しか聞こえない、夜のしじまに佇む天心宅で、大観、観山、春草、武山の弟子たちと共に、熱いアンコウ鍋をつっつきながら、酒を酌み交わし、明け方近くまで、芸術論をたたかわせていただろう、そして、翌朝は、眠い目をこすりながら、五浦海岸に出て、太平洋の向こうから、ぬっと出てくる日の出を、今の私達のように待っていたであろうと思いました

天心は明治に入るちょっと前の1862年に石川屋という生糸貿易商の次男として、横浜で生まれ、そこで育ちます。12才で東京開成学校(東大の前身)に入り、17才で大学を卒業(間違いではありませんよ)、文部省に入ります。26才で新設の東京美術学校(今の芸大)の校長になります。35才で美校を辞め、日本美術院を創設、41才でボストン美術館の中国日本美術担当の職も併任します。そして43才のとき(明治39年)、美術院の第一部(絵画)を五浦に移転したのでした。当時、美術院の都落ちと揶揄されたそうですが、前述の、錚々たる人材が行動を共にし、名作を次々と発表し、日本絵画の礎をつくったのでした。

ボストンで半年、残りを五浦でという生活が続きました。また、インド、中国、ヨーロッパにもしばしば赴き、世界的視野は晩年まで持ち続けました。50才で亡くなりますが、その最後の1,2年、インドの女流詩人ブリヤンバダ・デービ・ハネルジーと出会い、まるでラブレターのような手紙を交換します。最後まで情熱は途切れませんでした。その「ラブレター」の実物が天心記念五浦美術館に展示してあります。英文の手紙ですが、それを詩人の大岡信さんが翻訳しています。それをちょっとメモしてきましたので紹介します。

・・・親愛なる友人へ 今日は美しい1日でした やわらかい光が空に射し、ほしいだけの陽光があり、けれども決して ぎらつく光ではなく 地平線全体を やさしいもやが うっすらと ぼかしていました・・・微風はすずしく 軽やかで いたずらっぽいので 私は心が軽くなり 長い間感じなかった開放感をかんじました 物思いの中の幸福というようなことを考えていました・・・

真っ赤な太陽の上端がちらりと雲の上に顔を出しました。海鳥たちが日の出を祝福するように、何十羽も空に飛び立ちます。数隻の漁船が右から、左から、嬉しそうに、太陽に向かって、波跡を残しながら進んでいきます。

そして、太陽は太平洋のかなたに、すべての姿を現わしたのでした。そのとき、太陽の赤い光が海上をまっすぐに進み、私のところに届きました。光の道ができたのです。太陽と私が繋がったのです。天心や若き天才たちも、この光の道を、そして、その道の先の輝くばかりの朝日をみているはずです。そして、自分たちの熱い胸の中に生まれた、溢れるような思いやきらめく夢を、何度も何度も、登ってくる朝日に向かって、語りかけていたに違いありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅原龍三郎展

2007-01-26 06:15:55 | Weblog
横浜高島屋で梅原龍三郎展が開催されているというのでワイフと行ってきました。これまで、どちらかというと、日本画の方が好みでしたので、洋画家の展覧会をみにいくことはめったにありませんでした。気まま生活に入ってからは、なんでもみてやろうの気持ちが強くなりました。

画集などで梅原さんの作品はみていましたが、これほど沢山の実物の作品を目の前にして、さすが日本を代表する洋画家だと思いました。感動しました。

どの絵にも、私の好きな緑色が光り輝いていましたし、2、3番目ぐらいに好きな(笑)赤色も、ふんだんにキャンパスに塗られていて、ふたつの色のかがやきだけで圧倒されてしまいました。緑、赤といっても、それぞれ、うすい色から濃い色まで、融通無碍の無限の色合いでした。

私が気に入った作品は、唐三彩壺という小さな絵でした。その壺の、緑色を基調とした色彩の模様がうっとりするほどいいのです。もしかして実物の壺より素敵な色合いかもしれない、と思ってしまいました。バックは真っ赤に塗られ、緑の壺を見事に引き立てています。もう一つ、小品ですが、椿の絵も気に入りました。これも、真っ赤な花に緑の葉で、赤と緑の絶妙な組合わせでした。

浅井忠、ルノワールの両先生のもとでの修行時代の作品から晩年のまで順を追って展示されていましたが、やはり、後半の作品の方が、特徴がよく出ていて良かったと思いました。ルノワールから手でなく、目で描けと言われたそうです。そういう感じが晩年の作によく出ているように思いました。

人物画も結構ありましたので、高峰秀子さんをモデルにした絵を探したのですが、この中にはありませんでした。「私の梅原龍三郎」というエッセイを秀子さんが書いていて、その中に、先生に秀子像を描いてもらったという記述があるのです。先生は秀子さんにその絵をプレゼントしてくれましたが、何年か後にお返し、今は近代美術館の梅原コーナーにあるそうです。それが、もしかして、ここに展示されていないかと思ったのです。

秀子さんは先生を大変尊敬していましたから、自宅に今は亡き先生の仏壇コーナーを設けています。変った仏壇です。古いイタリア製のテーブルの上に、線香立て、ろうそく立ての代わりに、先生の使い古しのパレット(やはり赤色と緑色の絵の具のあとが大きな面積をとっています)、そして先生の愛用の絵の具筆を持ったブロンズの手首、それとマジョリカの花瓶(緑と赤の模様です、私が気に入った絵の壺によく似ています)を並べてあるだけです。

このマジョリカの花瓶は、先生が昭和40年のパリ旅行から帰ってきたとき、おみやげにいただいたものだそうです。珍しく対のマジョリカがあったから、きみと半分こしようと思って買ってきた、きみに良い方をあげようと、持ってきて下さったそうです。
・・・・・

展示会場を出ると、となりの会場で、横浜洋ラン展をやっていました(写真)。こちらも、梅原龍三郎展に負けないくらいの華やかさでしたよ。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北鎌倉 ろうばいの歌声が

2007-01-25 14:53:35 | Weblog
蝋梅の季節になりました。北鎌倉の三つのお寺の、蝋梅の花見をしてきました。ろうばいからの歌声がきこえるようでしたよ。

北鎌倉駅を降りて、まず、明月院に向かいました。総門を入るとすぐに、蝋細工のような、うすい黄色の蝋梅の花を咲かせた木が何本も目に入ります。嬉しいです、ちょうど見頃です。そばに近づくと、ほのかな甘い香りが漂ってきます。方丈に向かって、小径を登っていきますと、あちこちで黄色の花が、目に触れます。てっぺんにある方丈の前に立ち、見下ろすと、広い境内を埋め尽くす、枯草色の紫陽花や落葉樹の枯れ枝、そしてところどころの常緑樹や竹や笹の緑を背景にして、控えめな色だけれど、この季節には十分目立つ、黄色の花をいっぱいつけた蝋梅の木が点々とあります。全部で20本くらいでしょうか。そして、登ってくるもう一方の小径の真ん中あたりには、ほかの蝋梅の若木とは、ちょっと格の違う、おそらく北鎌倉一の大きな蝋梅の木が、誇らしげに沢山の花をつけているのがみえます。

どの、蝋梅の木も、めいっぱいおしゃれをして、それぞれが、美しい声で歌っているようでした。たとえて言うと、この境内が飾り付けをした舞台で、蝋梅の木の一つひとつが、一人ひとりのミュージュカル俳優さんです。去年、横浜の関内ホールでみた、ミュージュカル「江利チエミ物語」を思い出しました。大きな蝋梅の木の下に行き、あなたが、主役の島田歌穂さんですね、と尋ねましたら、そうよというように、花のついた先っぽの枝を少し揺らしました。そして、・・去りにし夢 あのテネシーワルツ なつかし 愛の歌 面影しのんで 今宵も歌う うるわし テネシーワルツ・・ の歌声が、20人の蝋梅たちのバックコーラスと共に流れてきました。

次は浄智寺に向かいます。山門に入る前から、参道沿いの民家の蝋梅の花に驚かされます。5,6軒の家が、それぞれ立派な蝋梅の木を植えておられ、見事な黄色い花をつけているのです。そこだけ見学して帰っても良いくらいです。山門を入って、境内をぐるっと回って、出口の近くに、やっと蝋梅の姿をみることができました。お堂の前に、同じぐらいの脊の高さの、3本の蝋梅が仲良く、これもちょうど見頃の黄色い花をたくさんつけていました(写真)。とてもさまになっていました。キャンデーズみたいですね、と語りかけましたら、嬉しそうに、・・もうすぐ春ですね・・の歌を歌ってくれました。解散するときの歌、「微笑み返し」もリクエストしましたら、私の好きなワンコーラス・・おかしくって、おかしくって、涙がでそう・・のところだけ心を込めて歌ってくれました。

東慶寺では2本の蝋梅を見つけましたが、境内の中央の道沿いにある木は、もう咲き終えて、たそがれ状態でした。蝋梅の五木ひろしさんが、「よこはまたそがれ」の替え歌の「かまくらたそがれ」を歌っていました。身振り手振りなども面白く、ひょうきんな人だなと思ってよくみると、物まね名人のコロッケさんでした。あなたの大フアンです、と言いましたら、喜んで、今度は、顔にほくろをつけて、ちあきなおみさんになり、私の好きな歌「喝采」を歌ってくれました。・・いつものように 幕があき 恋の歌うたう私に 届いた報せは 黒いふちどりが ありましたあれは三年前 止めるあなた駅に残し 動きはじめた汽車に ひとり飛び乗った ひなびた町の 昼さがり 教会の前に たたずみ 喪服の わたしは 祈る言葉さえ 失くしてた・・・墓地の近くで、ぴったりの歌でした。

もう少し先を行くと、小林秀雄さんのお墓の方に入る小径があります。その小径に一本、小さな蝋梅の木がありますが、これは、まだ花が十分残っていました。まだまだ、元気で音大の声楽科を出たような感じの、ろうろうとしたテノールの歌声が聞こえてきました。今回の紅白歌合戦に出て、人気のでている蝋梅の秋川雅史さんです。「千の風になって」でした。・・・私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています・・これもここにぴったりの歌だと思いました。

小林秀雄さんの五輪塔には、生前お好きだった、桜の枝(冬桜でしょうか)とお酒が供えられていました。お参りして戻る途には、紅梅、白梅が花開き、そして、まんさくの花もいくつか開いていました。うっとりみていましたら、もうすぐ春ですね・・・の歌声が、千の風にのって聞こえてきたような気がしました。











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある広場の現在過去未来

2007-01-23 18:36:59 | Weblog
今日も寒い朝でした。小百合さんの歌をくちずさみながら、いつものように朝散歩に出かけました。そして折り返し点のいわせこども広場で自己流体操をし、ベンチで一休みしました。そこで、しばらく、ぼおっと、この広場の現在過去未来のことを思っていました。

現在、この広場は名前の通り、近所のこどもたちのために大変役立っています。夏休みの早朝には、たくさんの、眠そうな顔したこども達が集まってきて、ラジオ体操をしていきます。私も、うしろの方で一緒に固くなった身体を動かすときもありました。春や秋には近くの幼稚園生の運動会や少年野球大会の会場になります。

こどもだけではありません、大人たちにも役だっていますよ。夏の盆踊り大会や町内会の運動会、そしてお正月明けのどんと焼きまでここでやっているのです。それに、もうひとつ、広場として利用しているのではないのですが、ご近所の人たちに大変喜ばれていることがあります。

広場の西の片隅に、湧き水井戸があり、年中、そこから豊富な湧き水が流れ出ているのです。真冬の朝はさすがに、少ないですが、暖かい季節では、このお水をタンクやペットボトルに詰めて、持ち帰る人でいっぱいです。私もすいているときは、手ですくって飲んだことがありますが、とてもおいしいですよ。5年ほど前に、伝統的な井戸堀り手法である上総堀りで掘った井戸で、水温16℃、毎分6リットルの流量です。このあふれ出す水は、隣の池に溜められ、うるおいとやすらぎの水辺(写真)になり、こどもたちの遊び場にもなっています。

こんなにみんなを楽しませてくれている、この広場も80年ぐらい前(大正10年(1921))日本で最初の食用蛙(ウシガエル)の養殖場だったのです(1/14のブログ)。そして、蛙のえさとして輸入したアメリカザリガニがここで育ち、養殖場が閉鎖されたのち、逃げ出して繁殖し、全国に拡がっていきました。こどもたちのアイドルの発祥地はここだったのです。この広場は、輝かしい過去をもっているのです。

そのもっと前は、この辺の大地主のKさんの水田でした。Kさんは代々、鎌倉郡、三浦郡を中心に現在の大和、厚木、座間までの約200か村を治めていた郡長の家柄で、今もこの広場のすぐ近くに、大きな古い立派な家を構えています。想像ですが、この広場の水田時代は、少なくとも鎌倉時代から始まっているのではないかと思います。

それ以前となると、縄文後期(3千年前)では葦が生えている湿地帯だったと思います。そしてもっと前はといいますと、縄文前期(8~6千年前)は間違いなく、海の底でした。私が座っているベンチのあたりに、鰺とかしらすとか相模湾のお魚が泳いでいました。

現在、過去と思いをはせていましたら、さて、これからどうなるのだろうと、ふと思いました。へんな政治家が出てきて、こんな良い場所を空き地にしておくのはもったいないとか言い出さないだろうか。そして、自分の親戚の不動産屋さんに安く払い下げ、そこに豪華マンションを建てて、リベートもたくさんもらって、そのマンションの一番高い部屋に愛人を住まわす、なんて考えないともかぎらない、ちょっと不安になってきました。

この公園くんの未来、ひとつ曲り角 ひとつまちがえて 迷い道くねくね にならないで欲しいと思います。でも、きっと、この公園くんは、迷い道に入らず、こどもたちのアイドルを量産したプライドを忘れずに、一生、こどもたちと遊んでくれる、と私は確信しています。

・・・・・・
迷い道

渡辺真知子 作詞/作曲

現在過去未来 あの人に逢ったなら
 私はいつまでも待ってると 誰か伝えて
  まるで喜劇じゃないの
   ひとりでいい気になって
    さめかけたあの人に 意地をはってたなんて
     ひとつ曲り角 ひとつまちがえて
      迷い道くねくね


今さらカードに 愛の奇跡求めて
 いかさま占いは続く スペードをハートに
  あれからどうしてるの
   いまごろどこにいるの
    ひとりのままでいると 噂できいたけれど
     ひとつ曲り角 ひとつまちがえて
      迷い道くねくね


捨ててしまったわ 昔のプライドなんて
 もしも許されるものなら
  きっと生まれかわる
   まるで喜劇じゃないの
    ひとりでいい気になって
     扉をあけているの 今もあなたのために
      ひとつ曲り角 ひとつまちがえて
       迷い道くねくね





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日があるさ

2007-01-22 09:25:49 | Weblog
稀勢の里、千秋楽の一戦、あと一歩でしたね。土俵際まで安馬を追い込んで、勝ったと思いましたが、よもやの逆転負けでした。また詰めの甘さを露呈してしまいました。7勝8敗の負け越し。目の前まで来ていた関脇昇進が、夢と消えました。それどころか、4場所守り続けた小結の地位も失うことになるでしょう。

先日のブログで、もし負け越したら、天覧相撲敗戦の罰として提案した、裸踊りの刑や栗きんとんの刑以上の重い刑を与えることを宣言しました。それで、いろいろ考えてみました。くすぐりの刑(初日に立ち会いの変化で負けた憎っき琴欧州に羽交い締めさせ、安馬に脇の下や足の裏をくすぐり続けさせ、笑いで失神させる)や、百けたぐりの刑(朝青龍に先場所のけたぐりを100回つづけてやってもらい失神させる)なんかはどうでしょうか。

でも若い人を育てるには、けなして、たたくばかりではいけませんね。ほめて、ほめて、ほめあげる方が効果的かもしれません。

きせちゃんよくやったね、ほんとうによくやった、ママうれしい。七つも勝ったんだもんね、えらいよ。からすなぜなくの、七つの子があったからだもんね、七ってえんぎもいいのよ、ラッキーセブンというくらいだもんね、しちふくじんもあるし、こんなすごいことない。でもセブンスターはすっちゃだめよ、からだにわるいからね、セブンブリッジもだめよ、くせになるから、シチやさんもだめ。あれ、だめだめばかりいっているとだめね。そうだ、ななこちゃんといえば、まつしまななこ、ずしのひろーやまにすんでいる、だいスターだもんね、いまに、よこずなになりましょうね、そうなれば、きせちゃんもだいスターね、うれしいわママ、そのときはおいわいに、ママのすきな、みどりいろのまわしをプレゼントするからね。ほんとに、いいこ、いいこ、どうでもいいこ ・・・

これでは誉めごろしになってしまいますね。稀勢の里関は、やはり千秋楽で負け越した豊真将関と共に次代を担ってもらいたいと思います。豊稀時代の到来をこころ待ちにしています。そして、箒(ほうき)でだらしのない5大関をはき出してください。くれぐれも稀豊(気泡)のようにあっけなく消えないでくださいね。

おわりに、稀勢の里関の、今年中の初優勝と大関昇進を祈念して、九ちゃんの「明日があるさ」を贈る言葉とさせていただきます。

・・・・・・・

明日があるさ


青島幸男 作詞
中村八大 作曲
坂本 九 歌唱


いつもの駅でいつも逢う
 セーラー服のお下げ髪
  もうくる頃もうくる頃
   今日も待ちぼうけ
 明日がある明日がある
  明日があるさ

はじめて行った喫茶店
 たった一言好きですと
  ここまで出てここまで出て
   とうとう言えぬ僕
 明日がある明日がある
  明日があるさ

明日があるさ明日がある
 若い僕には夢がある
  いつかきっといつかきっと
   わかってくれるだろ
 明日がある明日がある
  明日があるさ


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真冬の散歩道

2007-01-21 10:32:24 | Weblog
昨日は大寒だったのですね。たしかに、午前中、雪が舞ったりして、寒かったですね。文字通り、「おお寒む」の日でした。 さすがの私も、おとなしく、家で年賀状の整理をしたり、テレビをみたり、本を読んだりしていました。ワイフが今日は寒いから早風呂にしない?(理由になるかどうか)と言うので、3時にはもう湯につかっていました。風呂から出て、身体が暖まりましたら、なんだか、身体がうずうずしてきて、お相撲の後半戦の始まる5時くらいまではと、散歩に出てしまいました。

いつもの散歩道を歩きながら、今は真冬だというのに、ここは真冬みたいじゃないな、と思いました。道すがら、住宅の生け垣や庭で咲き乱れる、サザンカの赤い花やつばきのピンク色の花や蕾、愛らしい黄色い口をふくらましている白い水仙の花、もういっぱいの花を咲かせている早咲きの白梅、名残りの十月桜、黄色い実をたわわにつけている蜜柑類の木々、結構色とりどりなのです。「冬しらず」なんて名札をつけたオレンジ色の小さな草花までありました。北国の人からみたら、こんなの真冬じゃない、出直してこい、と言われそうですね。

真冬の散歩道というと、私のイメージでは・・・プラタナスの並木道に寒風が吹き抜け、わずかに残っている枯れ葉がひらひらと舞散る、そこを赤いコートの襟をたててた若い女性(50代でもいいんですが)が物思いにふけりながら歩いていく・・です。・・あなたの肩さきに ひらひらこぼれてる プラタナスの枯葉 さむそな枯葉・・ですね(ロマンチックですね、私にもそんな一面(1%くらいかな、年齢を重ねるごとに減少)もあるのです)

住宅街を抜けて、いたち川沿いのプロムナードに入りましたら、この寒さで、いつもはいっぱいの散歩人が、ほとんどいませんでした。人ばかりでなく、いたち川常連のこさぎ、かるがも等の水鳥たちもすっかり姿を隠していました。ここだけは真冬の散歩道でした。


・・・・・
真冬の帰り道

水島 哲 作詞
喜多嶋修作 作曲
ザ ランチャーズ

あなたの肩さきに
 ひらひらこぼれてる
  プラタナスの枯葉
   さむそな枯葉


どこまでおくろか
 真冬の帰り道
  このままどこまでも
   歩いていたい


大好きだけど
 言い出せなくて
  心で燃えて
   唇かむだけ
わかってほしいんだ
 せつない僕の胸
  あなたがいつの日か
   おとなになれば


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天覧相撲の結果は・・

2007-01-20 13:05:21 | Weblog
朝の散歩の途中、雪がぱらついてきました。今日は寒い1日になりそうですね。昨日、両国の国技館に、大相撲初場所の13日目をみに行ってきました。なんとその日は、運良く、天覧相撲の日でした。両陛下が入場してこられるところ、貴賓席にお着きになられるところ、しっかりこの目でみてきましたよ。私の席が東二階の椅子席で、貴賓席がよく見渡せる位置でしたので、中入りの相撲が始まってからも、ときどき目をそちらに向けていました。

天覧相撲を直接、国技館でみるのは初めての経験でしたから、わくわくしていました。中入りが始まると、まず中入り土俵入りという儀式があります。大関以下幕内力士が色とりどりの化粧まわしをつけ、東と西に分け、全員が土俵の中に入りお披露目するのです。普段は、一人ひとりの力士が紹介されながら、土俵に登り、円陣をつくり観客席に向かいあいさつするという形をとります。しかし、この日は違っていました。まず、全員が土俵に登り、両陛下の方を向き、整列します(写真)。そして、一人ひとり、幕の内だれそれ、何県出身と紹介され、土俵から離れていきます。化粧まわしもきれいですし、お相撲さんもお人形のようで、初春歌舞伎の一場面をみているようでした。

ただ、相撲の結果にはがっかりしてしまいました。私のひいきの稀勢の里が、攻め込んでいながら、ちょん掛けで、時天空に逆転負けしてしまったのです。弱点の詰めの甘さがもろに出てしまいました。十分勝機のあったはずの前日の栃東戦を落とし、そして格下の時天空に負け、私は怒り心頭です(青筋2本)。私の計算では、この二戦を連勝し、勝ち越しを決め、そして関脇昇進を決定的にする(関脇雅山が負け越しているので間違いないのです)、そして、その晩、祝杯をあげるという手筈だったのです。

ところが、最悪の結果になってしまいました。負け越しで小結転落の可能性の方が高くなってきたのです。私は相撲が終わってから、東京駅八重洲口地下の黒塀横町のうなぎの宮川で、ひとり残念会を開くはめになってしまったのです。ワイフは相撲が好きでないので連れてきていません。飲んでいるうちに、私をこんな、みじめな気持ちにさせた稀勢の里になんらかの罰を与えなければ気がすまなくなりました。


関脇昇進がちらついて平常心を失うような弱い心ではだめだ、もっと図太い神経に鍛え直さなければいけない、で・・・稀勢の里の大きいおなかの真ん中にペコちゃんの顔を描いて、その下に「ごめんなさい、もうしません、私をぶって」と緑のマジックで書いて、両国駅の前で裸踊りをさせる、そういう罰を与えます。

また、どんな苦手な相手でも平然と自分の相撲をとれるように鍛える、で・・・栗きんとんに餃子のたれをたっぷりかけ、七色唐辛子を一瓶山盛りにのせ、平然とした顔しながら食べなければならない、あるいは、栗きんとんの代わりに、不○家のプリンとシュークリームでもいいかもしれない、そういう罰を与えます。

・・・・・

ずいぶん、ひどいこと書いてしまって、稀勢の里関に怒られそうですね。でも、スポーツ観戦は、無礼講で、どんなひどいことを言ってもいいことになっていますから許してくださいね。ばかたれ何してる、へたくそ引っ込め、どつかれたいんか!など言って応援しているベイスターズファンの貴婦人を目撃したこともありますからね。

稀勢関には、まだまだ、可能性はあります。今日、明日と連勝さえすればいいのです。そして、是非関脇昇進を決めてください。そのときは、このブログ上で、お祝いの宴を開きたいと思っています。楽しみに待っていてくださいね。でも負け越したら、もっとひどい罰を考えたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする