気ままに

大船での気ままな生活日誌

光琳アート展(5)現代アート

2015-02-28 08:40:17 | Weblog

光琳300年忌記念特別展の感想も、いよいよ、これが最後となります。300年の年月を経て、なおも、現代作家の中に光琳が脈々と息づいている、そんな作品が展覧会の終盤を飾ります。ぼくも好きな、平松礼二、会田誠、福田美蘭、楽吉左衛門らの作品がずらり。光琳は日本美術の源流ですね!では、図録からの写真をなるべくたくさん載せて、フィナーレとします。

第4章 光琳を現代に生かす(後半)

田中一光グラフィックアート植物図鑑


ミュージックトゥデイ 田中一光

池の梅 平松礼二 池に浮かぶ冬枯れの睡蓮を模様に。

梅花樹 平松礼二


鶏梅蒔絵文庫 浅井忠(図案) 杉林古香(作)

友禅振袖 流水 森口華弘

友禅訪問着 ”白地位相割り付け文 実り” 森口邦彦(華弘の次男) 平成25年4月から、この文様が三越のショッピングバッグに採用された。たわわに実るリンゴを幾何学模様で表現しているという。三越の前文様は猪熊弦一郎の”華ひらく”。華から実りへ発展ということだそうだ。光琳も白梅図香包(香木を収めるための裏に金箔を貼った絹地の包み)など調度品のデザインをしている。

飾筥 菖蒲(ガラス工芸) 藤田喬平

色絵雪花墨色墨はじき菊文花瓶 14代今泉今右衛門

蝋型朧銀金彩扁鉢 北村眞一

焼貫黒楽茶碗”砕動風鬼” 楽吉左衛門(平成2年作) 琳派とひとくくりするが、さまざまです。その装飾の彼方に何がみえるかは、見る人に与えられた問いかけであると思います(本人の言)。

第5章 現代アート

月下紅白梅図 杉本博司 プラチナ・パラディウム・プリント 紅白梅図を撮り、黒はあくまでも黒く、また、諧調表現が豊富なこの手法で制作。まるで、月光に当たる紅白梅のよう。この部屋の照明は落とされていて、もうひとつの彼の作品、華厳滝図もまた、月光に照らされているような雰囲気になっている。

ルイ・ヴィトンのお花畑 村上隆

美しい旗 会田誠 日韓の女子高生。光琳の紅白梅図は宗達の風神雷神図のオマージュ。これもそのオマージュ。会田誠展にも出ていた3点がここに出展されている。


紐育空爆之図 会田誠 ゼロ戦の編隊は螺鈿のように光る。

群娘図 会田誠 東京の女子中学生と修学旅行中の地方の女子中学生。ぼくは光琳の群鶴図屏風(これは、ホイッスラーのピーコックルームのあるフリーア美術館に所蔵されているようですね)を念頭においているのかと思ったら、燕子花図だそうだ。群娘を群青と読ませる。

風神雷神図 福田美蘭 フランシスベーコンが風神雷神図を描いたらこうなる。ベーコンは好みではないが、美蘭さんに、こうアレンジされるとイイね。

レース(燕子花) 高田安規子・政子 平成26年作 万博記念切手を刺繍、レース編みを施し、レースに見立てた。作品も切手の大きさ。双子姉妹の天才技。  

第1章の光琳三大作品の対面はもちろんのこと、各章それぞれ、とても素晴らしかったので、各章ごとに紹介してしまいました。今回で仕舞いといたします。

さて、根津美術館ではどうゆう展示構成になるのか、とても楽しみ。MOA対根津の風神雷神対決、どちらが勝つか(笑)。

 

 

 

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光琳アート展(4)光琳を現代に生かす

2015-02-27 09:36:14 | Weblog

展覧会は、第1~3章の光琳展から、いよいよ第4章、”光琳を現代に生かす”に入る。MOA美術館を創立した岡田茂吉が、五浦の天心を訪ねたときに、”光琳を現代に生かす”という話を伺ったそうである。実際、大観、春草、観山らは琳派風の画面構成を取り入れて、名作を生んでいる。本展でも、この章のはじめに、春草、観山の名作が、前後期入れ替えで登場する。以下、大正、昭和さらに平成と光琳は受け継がれていく。

この章だけでも、単独の展覧会が開けるほど、充実した内容で大満足。名作ずらりです。では、はじまり、はじまり。

光琳アート展 第4章 光琳を現代に生かす

落葉 菱田春草 (福井県立美術館)光琳の槇楓図屏風に着想を得ているとのこと。東近美の春草展にもきてましたね、たしか。


弱法師 下村観山
 (東博) 琳派風の白梅。三溪園の臥龍梅がモデル。重要文化財

風神雷神 今村紫紅(東博)琳派のモチーフ。大正期。

杜若図屏風 神坂雪佳 (個人蔵) 雪佳は純粋の日本画といえるのは光琳の絵をおいてはない、とまで言った。琳派の主題や意匠を積極的に取り入れた。


皇居造営下絵 竹内栖鳳 (東博) 光琳を彷彿させる連続した色面構成。

八重の花 速水御舟 (MOA) 江戸琳派を研究した成果。

紅蜀葵と猫 小林古径 (MOA)琳派の造形的特徴を参考にしている。

漣 福田平八郎 (大阪新美術館建設準備室)琳派風の波の抽象化。これも好きな作品。

花菖蒲 福田平八郎 (京都近美)光琳の八橋図屏風を参考にする。色彩に新味を出したようだ。


八つ橋 川端龍子 (山種) 前の記事でも書いたが、遠くから見ると、本物と見紛うばかりのカキツバタで驚いた。写実性を加え、光琳とは異なる特徴を出すことに成功とのこと。山種でもみているが、こうゆうところで観ると、一段と映える。

紅白梅 加山又造 (リベラ社)又造は光琳の、とくに紅白梅図屏風が好きだったようだ。自分なりの表現で紅白梅を描いた。

群鶴図 加山又造 (キリンホールディングス) 光琳、抱一、基一と継承された又造の”群鶴図”。

蓮池 小泉淳作 (東大寺)大広間の16面の襖絵として描かれた。淳作といえば、雲竜図のような水墨画だが、最晩年にたどりついた日本美の境地。

群鶴図と蓮池は、同じ部屋のはす向かいに展示してあるが、それらを出入り口から、振り向いてみた光景に息をのんだ、群鶴のガラスに蓮が写り、まるで蓮池に鶴が遊んでいるような、景色になっていた。計算した展示配置なのだろうか。

まだ、この章、つづきます。ポスターの下段の作品を次回、紹介します。三越の新包装紙のデザイナーも。

 

 

 



 

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真っ赤な大風船

2015-02-26 22:26:01 | Weblog

真っ赤な大風船をみつけた!

ありゃ!あっちにも!

よくみると、自転車の車輪も一緒!

ここは、茅ヶ崎の高砂緑地の松林。真っ赤な大風船のあとを追った。

ありゃま!茅ヶ崎美術館に連れてこられた!

二階に上がれという。

赤い風船とちゃりんこがいっぱい!

そうか。力五山による、ちがさきチャリンコアートプロジエクトの芸術作品だったんだ

いつも四角い顔ばかりしてないで

たまには、まあるい顔しなさい!って言ってるのカナ。

つい浅田美代子の赤い風船をハミングしてしまった。

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光琳アート展(3)光琳200年忌

2015-02-26 10:10:41 | Weblog

それから100年が経過し、大正4年に三越呉服店において、追善法会と光琳遺作展が開催された。このときも紅白梅図屏風と燕子花図屏風が同時に展示された。そのときの展示品が十数点、熱海に再集合した。さあ、100年前の三越呉服店に参りましょう。

第3章 光琳200年忌

槇楓図屏風(東京芸大)重文 宗達”槇楓図”(山種)の摸写であるが、随所に光琳の個性が現れている。

佐野渡図 新古今集の定家 ”駒止めて袖打ちはらふかけもなし佐野のわたりの雪の夕暮”の絵画化。

伊勢物語 武蔵野・河内越図
 

琴高仙人図 鯉に乗って水中より現れる琴高(きんこう)仙人

雪中大黒天図

寿老人図

白百合図扇面

山水・寿老人図団扇

松山茶花蒔絵硯箱(個人蔵)

佐野渡蒔絵図硯箱(五島美術館)

そして、4章は光琳を現代に生かす。これがまたすごい。次回にお届けします。

(つづく)

 

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光琳アート展(2)光琳100年忌

2015-02-26 08:38:59 | Weblog

二大国宝の展示室の、壁のないつづきの部屋に光琳100年忌、すなわち200年前に酒井抱一が主宰した遺墨展に出展された作品が並んでいる。文化12年(1815)の展示作品40点余りのうち、何と15点も、ここに集結しているのである。

根岸の自宅の庵で光琳100年忌の法要を行い、近くの寺院で光琳遺墨展が開かれた。そのとき、若き日の鈴木基一ら江戸琳派の面々も集まったことだろう。そして、彼らは、懐かしさの余り、また、この熱海の展覧会にも、天上からやってきているにちがいない。そう思うと、もうそれだけで感動的で、個々の作品の鑑賞なぞは二の次になってしまう。

光琳遺墨展の作品をなるべく、たくさんここに載せ、のちに、時々、覗いて楽しめるようにしておこうと思う。

第2章光琳百年忌

白楽天図屏風(根津美術館) 謡曲”白楽天”に取材。唐の白楽天が漁夫に姿を変えた和歌の神、住吉明神と詩歌の問答をする場面。

紫式部図(MOA)石山寺で源氏物語の着想を得たという伝説をもとに、描く。花頭窓、池に月。

秋野中宮図(MOA)源氏物語21帖の少女(おとめ)に取材。大振りの唐草模様と十二単の中宮。

業平天下り図(五島美術館) 伊勢物語第九段”東下り”から。富士を仰ぐ業平。

波上飛燕図 二羽の燕と波

寒山拾得図 巻物を読む寒山と箒をもってこれを聞く拾得

朱達磨図 南宋時代の達磨像(畠山記念館)を手本に。

船子夾山図 船子(せんす)と夾山(かっさん)の禅問答。

兼好法師図 ひとり灯の下にて文をひろげて、見ぬ世の人を友とする

唐子に犬図(宗達写) 迷惑そうな犬の顔

銹絵寿老人図角皿 乾山の焼き物に光琳の銹絵。

絖地秋草模様描絵小袖 菊、桔梗、萩、芒などの秋草模様

 (つづく)

 

 

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光琳アート展(1)二大国宝/燕子花と紅白梅

2015-02-25 10:05:51 | Weblog

待ちに待ったMOA美術館の、尾形光琳の二大国宝、同時公開!2月4日の初日狙いは、急用ができてはずしてしまったが、しっかり2月6日に観てきた。そして、後期も2月22日とぞろめの日を狙って(汗)、じっくり観てきた。これで前後期、併せて、尾形光琳300年忌記念特別展を観たことになる。というわけで、満を持して(笑)、展覧会の感想文を書きたい。近来にない、素晴らしい展覧会であったので、一回で終わらすわけにはいかない。何回かにわけて、紹介したいと思う。

展覧会場に入ると、いきなり、目玉展示の登場だ。これにはびっくり。ふつう、こうゆうのは、もったいぶって、中程や終盤に出てくるもの。紅白梅図屏風(MOA美術館)と燕子花図屛風(根津美術館)が向かい合っている景色は感動的だ。なんと、同時展示は、現天皇、皇后両陛下のご結婚を記念した1959年4月以来、56年振りというから、この景色をみたものは数えるほどしかいないということ。

両作品とも、それぞれの美術館で、梅の季節、カキツバタの季節に必ず展示があるので、ぼくも何度も観ている。そのたびに感想文を書いているから、今回は書かない(笑)。しかし、1+1が2でなくて、3になり、4,5にもなっていた。まさに相乗効果。両作品に宿る光琳の魂が互いに呼び合っているのが聞こえてくるような、と言っていいかもしれない。

前期3日目ではまだ、観客も少なく、その呼び合う声がよく聞こえた。先日は日曜日ということもあって、まるでトーハクで観ているような錯覚。MOAでは、はじめてみる混雑。このときは人のざわめきが、光琳の声を消してしまっていたが、一方、こんなにたくさん来て下さってありがとう、という光琳のつぶやきが聞こえてくるようで、それはそれでよかった。

ふたつの作品のことばかりについ目がいってしまうが、もうひとつ、両横綱が仕切る、行司さんの位置に、”四季草花図巻”が控えている。これも、重要な作品だそうで、かって、紅白梅図と共に津軽家に伝来していたが、むしろ、什物としては、こちらの方に軍配が上がっていたとのこと。なんと、光琳三大作品が一室に揃ったということなのだ。制作年が、またバランスがとれている。河合正朝氏に依れば(図録/光琳アート)、光琳は元禄14年(1702)、44歳で法橋に叙任されるが、本格的に絵画に取り組んだのも、その少し前とされる。その後、正徳6年59歳で没するまでの活動期を三期に分けられるという。その第一期/画風高揚期(元禄十年代)の代表作が”燕子花”で、第二期/画風転換期(宝永年間)が”四季草花図巻”、そして、第三期/画風大成期(正徳年間)の傑作が”紅白梅”という。

第1章 光琳の名品

燕子花図屏風 伊勢物語”八つ橋”に取材。同じ花群を反復して使用、右隻の根本、左隻の花先でリズム感を出している。

四季草花図巻 濃淡の墨に淡い彩色。23種の四季折々の草花を描く。たらしこみ、彫り塗りの技法を駆使し、宗達の水墨画を倣いながら独自の境地に到達した。 

紅白梅図屏風 左の白梅の幹は画面外に出し、右の紅梅は画面いっぱいにして左右対称の妙を。ユニークな水紋をつくる水流を中央に。

前期では気付かなかったが、紅白梅図屏風の下に梅花と花びらが散っていた。現代作家、須田悦弘の木彫りの”梅の花”だった。

これだけで大満足だが、まだまだ、あとがすごい。向かいの部屋から第2章光悦100年忌がはじまる。そこへ向かう途中の出入口の先に、あっと驚くカキツバタが見えた。この展覧会のため特別に栽培したのかと思ったが、それは、第4章光琳を現代に生かす川端龍子の”八つ橋”だった。これも、のちほど紹介します。今回はここで、中締めとします。

(つづく)

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早春 瑞泉寺の黄梅 浄妙寺のサンシュユ(山茱萸)

2015-02-24 22:50:11 | Weblog

そろそろかなと、向かった先は、瑞泉寺と浄妙寺。

瑞泉寺では牧野富太郎博士が命名したという黄梅。咲きはじめていましたよ。

そして、マンサクの花。ここのは、たぶん鎌倉一の”大木”です。

新しく造成中の庭には福寿草。

もちろん梅も。

たまには、大河ドラマの関係もあるし、吉田松陰留跡の碑を紹介しましょう。母方の伯父にあたる瑞泉寺第二十五世住職をしていた竹院和尚に会いきた。この記事もどうぞ。

おまけに。

そして、浄妙寺まで歩く。ここでは、サンシュユ(山茱萸)の花。

マンサク。黄色と赤と。


古い葉をつけたまま

もちろん梅も

椿三十郎


おまけにモモコ。サンシュユの木の下にいて、思わず踏みつけるところだった。

報国寺は緑の苔と紅一点が素晴らしかった。


 
のどかな早春の、かまくら散歩だった。

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熱海桜散り始め 大寒桜咲き始め 

2015-02-24 10:47:56 | Weblog

2月23日。熱海梅園のあとは、もちろん、熱海桜。1月31日の花見では糸川沿いのが、四、五分咲だったが、十分見頃だった。さて、もう、満開だろうと、楽しみにしていた。

ホテルバスが梅園の入り口を少し過ぎてとまった。そこは、いつか紹介したことのある丹那トンネル工事で亡くなった方々の慰霊碑のある近く。殉職碑は大通りを降りたところにあるが、その大通りに熱海桜の並木があるのだ。

それらが、見た目には満開で、見事なものだった。でも、一陣の風が吹くと、桜吹雪となり、もう”散り始め”となっていることを知る。昨年も二度ほど訪ね、二度目の2月11日には、まさに満開となっていたっけ。

丹那トンネル殉職碑。この下がトンネルになっていて、熱海梅園の真下を通る。事故の起こった場所の真上地点には供養梅が植えられている。今年も咲いていたが、だいぶ弱ってきているようだった。

丹那神社。トンネル工事の犠牲者の英霊の鎮魂のため、また工事の守り神として建立された。当初”隧道神社”と命名されたが、後に”丹那神社”と改称された。この小さな神社は、大通りからの崖の途中に建っていて、上の写真(ここから撮影)のように、殉職碑と鉄道線路を見守ることができる。

さて、熱海梅園内にも立派な熱海桜がある。澤田政廣美術館の屋外彫刻”傷つける武人”の前の熱海桜。1月31日には、まだ咲き始め程度だった。

さて、梅園から定期バスで市役所前まで下りる。市役所は今、取り壊し中だが、その前にも熱海桜がある。その下の彫刻”木花咲くや姫”も澤田政廣の作品であることを初めて知った。ここのも散り始めだった。

そして、糸川沿いの桜並木。これまでのより、さらに進んでいる!葉桜になっているものもある。それでも、まだまだという木もあり、メジロやヒヨドリもみながら、河口まで桜散歩。


ヒヨドリがメジロを追っ払っていた。

花筏


散るもよし

基準木はこんな感じ

ここはもう渚町。お昼は前回、長蛇の列であきらめた洋食屋さんにしようと思っていた。12時頃なのに列がない。えっ!休みかな?まず、スコット旧館を覗いたら、満席です、と。はす向かいの本館をのぞくと、なんと、ひとつだけテーブルが空いていた。運が良かった。ランチメニューを頼んで、ビールとワインもいただき、ゆっくりする。家内が本物の味だワとほめていた。ハウスワインは、マイ・ハウスワインの方がぼくの好み。では、コースをご覧いただきます(笑)。メインは、家内(カニコロッケ)とぼく(ビーフシチュー)の分、両方、入れてあります。

1時半頃出たら、やっぱり、行列になっていた。隣りの、わんたんやさんも午前中からの行列で、人気があるようだ。次はここにしよう。

そのあと、浜辺に出て、春のような陽気の中をぶらぶら歩き。

浜辺の大寒桜は、もう咲き始め!伊豆高原駅前の大寒桜並木も、そのうち観に行かねば。河津桜とセットでね。


昭和46年春、喜寿・澤田政廣制作、釜鳴屋平七の像。うしろに熱海桜。釜鳴屋平七は熱海漁民一揆の指導者。

ヨットハーバー

サンビーチ

お宮と貫一

熱海のジャカランダ。花の季節にまた、来るね。

熱海はイイね!

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熱海梅園 満開

2015-02-23 18:23:07 | Weblog

1月31日、”愛妻の日”に、妻を連れずに熱海梅園に行ったときには、早咲きの梅だけが見頃を迎えていた。今日、2月23日、”夫婦で見よ!”と、お天道様から厳命があり、しかたなく、ふたりで梅見に出掛けた(爆)。カミさまのおかげかどうか、早咲きも、中咲きも、遅咲きもすべてが勢ぞろい、満開の見頃を迎えていた。

おまけに、お天気も最高。熱海の温泉宿に泊まった前夜は、雨もぱらついていたが、翌朝、こんなに晴れあがってくるとは!気温もどんどん上がって、ホテルバスで梅園に着いた時には、もう上着を脱いでいた。まるで桜のお花見の陽気!

では、2月23日、熱海梅園の風景をお届けします。

梅見の滝

滝の裏側からの梅観

呉服枝垂れ

足湯しだれ

兄弟虎枝垂れ

紅白梅。前日、MOAで紅白梅観てきましたよ。

ぼけもちらほら吾もなり

馬酔木も満開 吾酔う人也

めずらしいペチコート水仙

すばらしい熱海梅園だった。

熱海桜については、次回の報告となります。

ホテルのロビーに飾ってあった雛壇。二月は逃げる、もうすぐ、雛祭りですね。

 

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ラッフルズ卿とシンガポール川 (シンガポール旅#6)

2015-02-22 10:47:57 | Weblog

ぼくらの泊まったホテルの、通りを挟んだ向かいにラッフルズホテルがある。シンガポールでも随一の名門ホテルで、サマセットモームやチャーリーチャップリンら名士が宿泊している。ホテルだけではなく、ラッフルズの名を冠した場所(プレイス)、ショッピングセンター、学校、駅などもある。シンガポール人にとってはラッフルズは国の建設者として、特別な人なのだ。

田村慶子著の”シンガポールを知るための62章”から、ラッフルズの生い立ちを少しメモしておこうと思う。彼は1781年にロンドンと西インドを往復する小さな定期船の船長の子として船の中で生まれた。家庭は貧しく、14歳で学校を離れ、英国東インド会社の臨時職として就職した。満足な教育を受けられなかったラッフルズは、職務を忠実にこなした仕事の余暇をすべて学問に費やした。上司に認められ、正社員に抜擢され、さらに、ジャワ副総督など重要なポストに就き、英国のアジア植民地政策遂行の一翼を担った。

そして、1819年1月、ラッフルズはシンガポールに上陸した。シンガポール河口にその記念碑がある。当時のシンガポールは、マレー漁民数百人が住む、淡路島程度の面積の寂れた漁村であったが、彼は地政学的な重要性を見抜いていた。マレー半島の南端にあり、インド洋と太平洋を左右にみて、また大陸と島々を結ぶ十字路的な位置にあったからだ。そして、その考えは見事に当たり、世界に開かれた中継貿易港として発展するのである。

さて、19世紀末になると、英国がゴムのプランテーションと錫鉱山開発のためにマラヤに本格的に介入するようになる。中国、インドから労働者が大量に移入してきて、中継基地としてのシンガポールは発展する。そして、貿易関係者や港湾労働者がシンガポールに居住するようになり、人口も急増する。1931年には、人口55万人となり、そのうち、華人が75%、マレー人12%、インド系9%という比率であった。因みに現在の人口は500万人を超している。ただ人種の比率は当時と変化はないようである。

そして太平洋戦争が勃発し、英国極東軍はあっけなく敗退し、1942年から3年間、日本統治となり、シンガポールは、”昭南島”というに名に変わる。官僚組織の中では、マレー人、インド人が優遇され、華人は冷遇されたという。

戦後、シンガポールは1963年、英国から独立し、マレーシアに組み込まれるが、さらに、1965年8月9日、リー・クアンユー(初代首相)はマレーシアからの分離独立を宣言する。そして今年が50年目となるのである。

独立当時は貧乏国で、人々が国外に逃げないようにと、持ち家制度を推進したんですよ、とガイドさんが教えてくれる。持ち家率、90%だそうだ。ジャングルは水資源確保のため残し、畑もなく、食料はすべて輸入、園芸品として蘭だけは輸出しているとのこと。衛生管理も徹底していて、ボウフラが湧くような水溜まりは一切つくらない。抜き打ち検査があり、屋根に水がたまっていれば罰金刑。ゴミはもちろん、落葉も、毎朝掃除する。水道水も安心して飲めるし、街はきれいだ。

なお、ラッフルズは植物学、動物学にも造詣が深く、自分が隊長となり密林を探検し、マレー半島と東南アジア島嶼部に分布する、世界一大きな花をつける寄生植物を発見した。のちに、その学名は、彼の名に因んで、ラフレシア(Rafflesia)と名付けられたそうだ。その実物大模型が上野の科博にあるようなので、その内、見に行きたい。

今朝はちょっと、シンガポールの歴史的なことをメモしてみた。この文章に相応しい写真といえば、ラッフルズ卿上陸地点の碑なのだが、撮ってこられなかった。ぼくらのホテルから真っ直ぐ行くと、シンガポール川に着く。川の上流側にその記念碑があるのだが、てっきり河口方面にあると勘違いし、見逃してしまったのだ。

でも、シンガポール川の遊覧船で、その地点は観た。そこからの景色でラッフルズ卿を偲んでみたい。

では、クラークキーから出発

クラークキーのカラフルな建物

クラークキーから2つの橋をくぐりぬけ、ボート・キーに入る。ここは、シンガポール川の河口に位置する。アジア文明博物館がみえる。ラッフルズ卿上陸地点はここより、少し、上流側。

そして、河口にはシンガポール観光のランドマーク、マーライオンが。

新ランドマーク、マリーナベイサンズも向かいに。

ラッフルズ卿が礎を築いたシンガポールは、現在、世界第4位の金融センター、世界最繁忙の5港の一つ、世界三位の一人当たり国民所得という国家に成長した。
 

 

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