気ままに

大船での気ままな生活日誌

続・年のおわりに

2006-12-30 08:11:25 | Weblog
昨夕、あまりに美しい富士山を江ノ島でみてしまったものですから。
昨晩、真央ちゃんが、涙の全日本初優勝したものですから。
どうしても、今年のブログに残しておきたくて、続編を出してしまいました。
武士の情けでお許しを。

・・・・・

では・・
続続編は、年内に余程、ぞくぞくするニュースが入らない限り、出さないことをお約束します。

・・・・・
では、では、出羽桜 このお酒は、小津監督が・・
なかなか切れない。おしゃべりワイフが、じゃーねと言ってから始まる電話のようになってきた。いい川柳が浮かんだ、「じゃーねと 言って始まる 長電話」朝日川柳に投稿してみよう

・・・・・・
では、では、出羽錦 このお相撲さんは、お腹のぽっこり出た・・・
なかなかきれない。ここは、どうしてもキムタクのように、武士の一分で切らねばならぬ、切らねばならぬのだ・・・

・・・・・・
では、では、では。・・・武士は散り際が肝心。インパクトのように、中田のように、新庄のように、シーちゃん(荒川静香)のように、余力を残して、その時期がきたら辞める、それが男だ(女もだ)。

・・・・・・
では、関東一本締めで。

良いお年を!




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年のおわりに

2006-12-29 10:33:42 | Weblog
ご無沙汰しております。今頃になって、よく遊び、よく学べ、を実践しています。知らないところ、知らないことばかりです。皆様のご健勝を心からお祈り申し上げます。

私のこんどの年賀状の添え書きです。正直な気持ちです。気まま生活に入って2年目、第二の人生もそれなりに軌道にのってきたかなという感じがします。

よく遊びました。1月には、タイの古都アユタヤ、6月にはシチリア島巡り。弘前の桜、三春の滝桜、高知のよさこい、八甲田のぶな林、皆、はじめて訪れたところでした。近いところでも、知らないところがたくさんありました。鎌倉、湘南方面、横浜方面とずいぶん、知らない道を歩き回りました。 

よく学びました。大船は映画の街でした。そして鎌倉は歴史の街です。地の利を生かし、図書館で関係の本を読みあさり、そして、歩いて、その実地見聞したり、映画をみたりしました。そうそう、近くの女子大の市民講座にもよく参加しました。古文書や平家物語を読んだり、奥の細道やモンテニューまで勉強しました。もちろん、その知識は、お腹の脂肪のようには蓄積してくれませんでしたが、生徒になって教室で学ぶということが、とても新鮮に感じました。

まだまだ、知らないところ、知らないことばかりです。100才まで生きても足りないでしょう。でも、こういう楽しみも、家族のみんなが健康であってはじめて成り立つものです。80才を越えた母が元気で暮らしていてくれるので、成り立っているのです。こういう状況にあることに、お天道様に感謝したいと思います。

・・・・・
写真は、大船商店街の歳末風景です。よく、ここを歩きました。買い物はしなくても、人人人でいっぱいの、あのざわめきの中を歩くだけで楽しかったです。ショーちゃんありがとう。

近くの鎌倉芸術館にもよく入りました。市民の文化祭や映画、落語、音楽会、等々楽しみがいっぱいでした。ゲイちゃんありがとう。

図書館もずいぶん利用させてもらいました。地元の鎌倉中央図書館、そしてその支所(大船、玉縄、そしてたまに深沢)。茅ヶ崎、大磯、辻堂も居心地の良い図書館だった。逗子図書館も充実している。そうそう、いたち川散歩の途中でよる栄図書館もよかった。それぞれ特徴があった。トッつあん、ありがとう。

そして○○ちゃんありがとう。・・・○○はワイフの名前。毎日ごはん食べさせてもらっているから、いれないとまずいね。そして、ついでに(笑)、この駄文をみてくれた、あなたの名前。(男性はのぞく)

ではよいお年を。




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稲村ヶ崎にて

2006-12-28 17:31:45 | Weblog
昨日は、ぽかぽか陽気の,春のような日でした。空気も澄んでいて、これなら富士山もきれいにみえるだろうと、大船からモノレールで江ノ島に向かいました。江ノ島に渡る橋の上から、予想したとおりの、流れるような稜線の美しい真っ白な富士をみることが出来ました。ただ、前景の湘南海岸の海が、前日の大雨のせいか、濁流のような土色で、おまけに荒い波が打ち寄せていました。やはり、富士には青い静かな海が似合うようです。

別のアングルでも見てみたいと、江ノ電に乗って、稲村ヶ崎に向かいました。素晴らしい光景が待っていました。やわらかな曲線の七里ヶ浜に区切られた海の向こうに、緑の江ノ島が浮かんでいるように見えます。そして、その右側には雪に覆われた富士の嶺が、箱根や丹沢の山々を従えながら、ひかり輝いています。ここから見る、江ノ島と富士山の位置関係が、構図的にちょうど良く納まっています。鎌倉○景(数字は忘れました)に入るはずですね。冨士の頭に少し雲がかかり、それが厚くなったり、薄くなったり、途切れたり、と、短時間に変幻自在に動くのが面白くて、ずいぶん長い時間、目が冨士に釘付けになっていました。

ここ稲村ヶ崎は、ほんとに小さな岬ですが、ここにまつわる歴史を語る石碑がいくつもあります。入り口付近には、「稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地」という石碑とそれに関連した明治天皇の歌碑が建っています。先日の由紀さおりさんのデナーショーの中でも歌われた唱歌「かまくら」の中にも出てきます・・・七里ヶ浜の磯ずたい 稲村ヶ崎 名将の剣投ぜじ 古戦場・・・。

そして、海側には、あの逗子開成中学生のボート遭難を語る碑とブロンズ像が、建っています。明治43年(1910)1月23日のことでした。その日は、寒く、風もありましたが、生徒たちは、予定通り逗子と江ノ島の往復航海を実行に移したのでした。江ノ島までは無事の航海でしたが、帰りの航路で、七里ヶ浜にさしかかったときに、突風がきて遭難します。懸命の救助活動にもかかわらず、12名の犠牲者が出てしまいました。その中で、とくに涙を誘った遺体がありました、小学生の弟をしっかり抱きしめていた中学生の姿でした。ここに建っているブロンズ像は、弟を抱いて、手を振り、必死に助けを求めている姿です。「真白き富士の嶺」は、私達の世代では誰でも知っている唱歌です。以前、ここを訪れた修学旅行生は、この像の前で、必ずこの歌を歌ったそうです。今の子は、この遭難事件のことを知っているのでしょうか。

丘の上に登ると、コッホ博士の記念碑がありました。なつかしいです。学生時代、「微生物の狩人」が好きで、わくわくして読みましたが、とくに、パスツールとコッホのところは、何度も読みかえしたものでした。パスツールが動の人なら、コッホは静の人という印象でした。この二人は、微生物学界の両横綱といったところです。コッホは結核菌やコレラ菌の発見で有名ですが、近代細菌学の基礎をつくった大先生です。明治41年に、お弟子さんだった北里柴三郎博士が日本に招待し、その時、一緒に鎌倉も見物しました。コッホは、このあたりから見た富士山をとても気に入られたようです。

こちらに引っ越してきてから、はじめてこの岬を訪れました。春風のような浜風に吹かれながら、富士山と江ノ島と七里ヶ浜と青空、の素晴らしい景観を堪能しました。そして、同時に、過去のいくさ、悲話、大博士のことなどに思いを馳せ、いつまでも、いつまでも佇んでいました。

志賀直哉の名作「城の崎にて」をまねて、このタイトルを「稲村ヶ崎にて 」としゃれてみました。でもこれでは、かっこつけすぎですね、やっぱり「真白き富士の嶺」あたりが無難でしょうか。それとも、「ひま親父のお富士さん追っかけ日誌、稲村ヶ崎編」ぐらいが妥当なところでしょうか。ご判断を仰ぎたいと思います。


・・・・・・・・・・・・
真白き富士の嶺

作詞 三角錫子
作曲 ガードン   

真白き富士の嶺 緑の江ノ島
 仰ぎ見るも 今は涙
  帰らぬ十二の 雄雄しき御霊に
   捧げまつる 胸と心

ボートは沈みぬ 千尋の海原
 風も波も 小さき腕に
  力も尽き果て 呼ぶ名は父母
   恨みは深し 七里ヶ浜

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ノロちゃんありがとう

2006-12-27 10:18:40 | Weblog
ノロウイルスが猛威をふるっています。私もワイフも罹りました。お医者さんにみてもらったわけではないのですが、報道される症状と同じなので間違いないと思います。先日、雪見の混浴露天風呂めぐりから帰ってから、突然それは起こりました。嘔吐と下痢です。しばらく続き、食欲もなく、お酒を飲む元気もありませんでした。でも、うじうじ長引かず、3日ですっきり直りました。

みなさん、ノロウイルスを目の敵にしていますが、私は、むしろ好感をもっています。その理由の第一は、ノロという名前が可愛いからです。ノロは「のろま」に通じます。むかしから、のろまな顔をした子供が大好きでした。こういう子は、大人になってから、どんな悪いことをしても、あの人は、憎めない人ねと言われ、みんなから愛されます。ノロウイルスものろまな顔をした子供にみえるのです。それで、私はノロウイルスをノロちゃんと呼んでいるのです。

ノロちゃんが好きになった、もうひとつの理由は、私がこれまで、どんなに努力して到達できなかったある目標を、ノロちゃんの手助けで、軽々と達成できたからです。その目標とは、666というゾロメの数値です。1日2万歩平均歩いたりして努力しているんですが、ここ1年ほど、これまでの最低記録の体重、66.6キロを更新できないでいたのです。それがです、とうとう、下痢が止った3日目に更新できたのです。66.5です。嬉しかったです。そして、それがきっかけとなり、このレベルを維持したいと、食事もお酒の量も控えるようになりました。そして、今朝の測定値は66.0でした。実はワイフもある目標値があり、それもノロちゃんのおかげで今回達成しました。ノロちゃん、ほんとうに、どうもありがとう。

・・・

この25日にマリンタワーが閉鎖になりました。私はその前々日の夕方に、港の見える丘公園からフランス山に向かう途中で、最後の輝きを魅せていた、マリンタワーの写真を偶然撮っていました。氷川丸の閉鎖については知っていましたが、まさかあのマリンタワーが閉鎖するとは夢にも思っていませんでした。この写真を是非、記録して残しておきたいと思い、ここに掲げることにしました。

浜のマリちゃんも氷川くんも、ほんとうに長い間、楽しませてくれてどうもありがとう。

ノロちゃんと浜のマリちゃん、氷川くんは、遠い親戚にあたります。

ノロちゃんー吐くー掃くー箒ーほうき星ー月ー月餅ー中華街ー山下公園ー氷川くんとマリちゃん
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由紀さおりワールド

2006-12-26 09:26:23 | Weblog
クリスマスイブの日、早々と、私は七里ヶ浜を見下ろす丘に建つホテルにチェックインしました。どうしても、3時からの、有馬記念のテレビ中継を観たかったからです。

ディープインパクトはやってくれました。パリでの惨敗の鬱憤を晴らすかのように、はじめ、後方につけていて、最終コーナーで一気に抜き去る、いつもの勝ちパターンで、見事に優勝してくれました。まだ4才で絶頂期ですが、余力を残して、この日で、潔く引退です。有終の美を飾ってくれました。この馬の誕生日が3月25日で、私と1日違いだけなのでとくに親近感があるのです。また、普段は、おとなしくて、人なつっこく、厩舎の人から「お坊ちゃま」と呼ばれているそうです。私も4才の頃はそうでした。

遅れてやってきたワイフと、クリスマスディナーショーの会場に向かいました。おいしい赤ワインをグラスで3杯半ぐらい(時々ついでくれるので、正確に定量できません)頂きながら、コース料理を楽しみました。相模湾の海の幸・スープ仕立て七里ヶ浜風とか、牛フィレ肉のパイ包み焼き・トリュフソース・聖夜に鐘が鳴るとか、一部意味不明な言葉が入る名前のお料理が出てきました。おいしかったですが、体重コントロールのため、牛肉は半分食べ残しました。

由紀さおりさんの歌声が突然流れてきて、ショーは始まります。舞台には楽団の人しかいないのに、おかしいなと思っていますと、客席のうしろの方にスポットライトが当り、そこに真っ白のドレスに身を包んだ由紀さんの姿が浮かびあがります。拍手の中、歌いながら、中央の通路をゆっくりと舞台に向かって進んでいきます。私の、ちょうど目の前を通り、目と目も合いました。にっこり笑ってくれました。相変わらずおきれいです。背中を大きく開けたドレスで、白い肌がまぶしいほどです(笑)。

夜明けのスキャット、手紙、ルームライトなどのご自分のヒット曲だけでなく、鎌倉、故郷などの唱歌や、お客のリクエストに応えて、様々のジャンルの懐かしい歌を次々とよどみなく歌ってくれました。透き通るような、それでいて暖かい、由紀さん独特の歌声が心に染みわたります。目標の歌手だった、美空ひばりさんの愛燦々、越路吹雪さんの愛の讃歌も、ろうろうと歌われました。偉大な両先輩歌手に負けない歌いぶりで、さすがだと思いました。

「ファイト」という朝ドラに温泉宿のおかみとして出ていたそうですね(ワイフは覚えていました)。そこでは毎回、ドラマの中で歌うそうですが、最初に歌ったという、ここに幸あり、を心をこめて歌っていました。由紀さんはひょうきんなところもあり、時々面白いことをしゃべっていました。そういえば、NHKのコメデー「お江戸でござる」に出ていましたね(あのとき江戸文化の解説をしていた、蕎麦好きの杉浦日向子さんは若くしてお亡くなりましたね、思い出します)。

今回も特別ゲストとしてお姉さんの安田祥子さんも出演していました。お話によると、お二人で「由紀さおり・安田祥子童謡コンサート」今年で20年、なんと2000回も続けてこられたそうです。並大抵のことではありませんね。季節のうつろい、命のはかなさを歌う、童謡、唱歌をひとつでも多く、次代に残していきたい、そういう気持ちから活動してきたとのことです。そして、21年目を期に、これをさらに発展させたいと思い、来年「由紀さおり・安田祥子こどもの歌を考える会・・ソレアード」を発足させる予定だということです。最近、いじめ問題や親子のきずなの揺らぎなど、心を痛めることが多いですね。これもきっかけになったようです。素晴らしい計画ですね。私も友の会に入ろうと思っています。

ラストソングは、「花 ~すべての人の心に花を~」でした。由紀さおりワールドを堪能したクリスマスイブでした。そして、由紀さおりワールド(安田シスターズ・ワールド)が、さらにふくらむ気配を感じ、心温まるイブでした。

・・・・・・

花 ~すべての人の心に花を~

作詞 喜納 昌吉
作曲 喜納 昌吉

川は流れて どこどこ行くの
 人も流れて どこどこ行くの
  そんな流れが つくころには
   花として 花として 咲かせてあげたい
    泣きなさい 笑いなさい
     いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ

涙流れて どこどこ行くの
 愛も流れて どこどこ行くの
  そんな流れを この胸に
   花として 花として 迎えてあげたい
    泣きなさい 笑いなさい
     いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ

花は花として 笑いもできる
 人は人として 涙も流す
  それが自然の 歌なのさ
   心の中に 心の中に 花を咲かそうよ
    泣きなさい 笑いなさい
     いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ
     
いつの日か いつの日か 花をつかもうよ

     (ワイフも大好きな歌です)
















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たそがれ清兵衛 あれこれ

2006-12-24 10:53:05 | Weblog
おととい、テレビで山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」を観ました。この作品が数年前の日本アカデミー賞を総なめした名作であることは知っていましたが、これまでこの映画をみる機会を逸していました。貧乏侍を主人公にした藤沢周平ワールドがていねいに描かれていて、しんみりした情感溢れるとてもいい映画になっていました。

たそがれ清兵衛の娘、以登が晩年になって、昔の父との貧しい生活を追憶するというかたちで物語が進行していきます。その晩年の以登役に岸恵子さんが扮しています。ラストシーンのお墓参りのところで、今も変わらぬ美貌の姿をみせてくれますが、そのほとんどが、ナレーターとしての声だけの出演となっています。しかし、このナレーションが、この作品の中で、極めて重要な役割をもっていると、私は感じたのです。

たとえて言いますと、この映画は雪舟の水墨画だと思うのです。山や川や小さな人物が、濃淡のある、どちらかというと薄い墨で柔らかく描かれています。それらは、貧乏侍の真田広之さんや彼の友人の妹で、幼なじみの宮沢りえさんの演技に当ります。一方、山や川の輪郭が、シンプルな直線をつなぐようにして描かれています。この輪郭の墨の線こそが、岸恵子のナレーションに当ります。雪舟の水墨画がこの輪郭線がなければ成り立たないように、この映画も岸恵子さんの、少し抑えた落ち着いた声のナレーションによって、はじめて、全体が生き生きとしてくるのだと思うのです。

もちろん、真田広之さんや宮沢りえさん、そして子役の子供も、適材で演技も文句なくすばらしかったのですが、それ以上に、この映画のキーパーソンは岸恵子さんだと私には思えたのでした。

・・・・・・
少し、本筋から離れますが、小津安二郎監督が原節子さんの後継者に岸恵子さんを考えていたことをご存じですか。小津さんは、1956年の「早春」に岸さんを起用し、すっかり気に入り、次回作の「東京暮色」の主演に予定していましたが、彼女は突然、イブ・シャンピ監督と結婚し、パリにとんでしまいます。その代役には有馬稲子さんがなります。最近、この映画を観ましたが、それまでの小津作品とは違い、主役は汚れ役で、最後は亡くなるという、暗いイメージのものでした。

原節子さんも岸恵子さんも横浜生まれで、浜っこらしく、おしゃれで、ユーモアもある理知的な美人です。小津さんはこうい人が好きだったんですね(でも嫌いな人はいませんね)。行きつけの、石川町の飲み屋で、寂しくなると、「恵子ちゃん出てこないか」と近くに住む岸さんによく電話をかけたそうです。

先日のブログで紹介しましたように、山田監督は、昭和29年(1954)に大船撮影所に助監督として入っています。そのときに、全盛期の小津安二郎監督がいて、前年に原節子さん主演の不朽の名作「東京物語」をつくっています。若い山田さんは、小津監督を神様のように尊敬していましたし、そのころ、すでに大女優であった原節子さんや「君の名は」でスターの座を獲得していた、岸恵子さんも彼にとっては、雲の上みたいな人だったはずです。

生年月日を調べてみますと、山田監督は、1931年9月で、岸恵子さんは、1932年8月です。1才違いです。私の想像ですが(げすの勘ぐり?(汗))・・・若い山田さんは才色兼備の岸恵子さんに、ぽーとしていた(もちろん片想い)のではないか、そして1957年に岸さんの結婚で失恋したと、私は考えるのです。そして、将来自分がえらくなったら(映画監督になったら)、岸恵子さんを重要な役でお迎えしたい、(そしてそれが尊敬する小津監督への恩返しにもなる)と心に誓ったのでした。それが、今回の映画で実現したということではないでしょうか。

また山田監督の講演を聴く機会がありましたら、この仮説が正しいかどうか、是非質問してみたいと思っています。

・・・・・
昨日、ワイフと一緒に、若き日の岸恵子さんの遊び場だったでしょう、石川町界隈を散歩しました。山手の西洋館のクリスマスの飾りをみたり、たそがれの、せいべいじゃない、もとまちを歩いたりしていました。

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ボストンで撮った一枚の写真

2006-12-22 10:22:03 | Weblog
今、朝日新聞の夕刊の一面で、「ニッポン人脈記;数学するヒトビト」が連載されています。いつも面白く読ませてもらっています。今日は、第9回目で、数学のノーベル賞と言われれる、フィールズ賞の受賞者3人の方が紹介されていました。その中の一人、広中平祐さんのお元気そうな笑顔の写真を拝見し、30年近く前の、5月のある日を懐かしく思い出しました。

私達夫婦は、その日、ニューヨークからボストンに入り、荷物をホテルに預け、米国の建国当時を思わせるような、落ち着いたヨーロッパ風の町並みを通り抜けて、緑がいっぱいで、公園のような、ハーバード大学のキャンパス内を散歩していました。

ワイフが、あれ広中先生じゃない、とすっとんきょうな声をあげます。先生は当時、ハーバード大学の教授で、すでにフィールズ賞をとっておられ、日本のテレビや新聞によく出ていましたので、我々のような、数学の素人でも十分、お顔は存じ上げていたのでした。

私はどちらかというと、シャイな方なので、めったなことではこういう行動をとらないのですが、近づいてきた先生に対し、「広中先生、写真を一緒に撮らしていただけますか」と言ってしまったのです(やはり当時からミーハーだったのですね)。

先生は「ああ、いいですよ」とにっこり笑って、私の横でポーズをとってくれました。ワイフがあわててカメラを取り出し、シャッターを押しました。そのあと、先生は、どこから来たの、と気さくに声をかけてくれました。今、西海岸の大学に1年間、職場から派遣されて来ています、ワイフが休みをとってきましたので、東海岸を旅行しているのです、と答えますと、あの少しかん高い声で、「そりゃいいね、楽しい旅行だね、僕の友人がその大学にいるよ、がんばってね」と言って立ち去りました。同じ理系のあこがれの人と会話(とも言えませんが)を交わし、一緒に写真まで撮れたことが、とても嬉しくて、しばらく呆然としていました。

今も、そのときのサービス判の写真が小さな額縁に入って、私の部屋の書棚の上に飾ってあります。先生は、新聞によると、現在75才だそうですから、その時は、まだ40代半ばでした。長めの黒髪を七三に右分けし、若々しいハンサムな笑顔が正面を向いています。両腕を腰にあて、自信満々といった感じがよく出ています。服装は、茶色のジャケットに、茶系の縞のネクタイで、ズボンはグレーです。今、気づいたのですが、私の現役時代の服装とそっくりです。茶系が好きでした。もしかしたら、このときの影響だったのかもしれませんね、やっぱりミーハー(汗)。

一方、私は、まだ30代前半。ノーネクタイで、白地にグレーの縞の半袖シャツに明るいグレーのズボン、手には黒い掛けカバンをさげています。このころはお腹が出ていませんね(先生も出ていません)。髪は先生と反対分けですが、体つきはそっくりです。当時の私は、170cm60キロぐらい(今の数値は言えません)。顔まで似ています、ハンサムということです。証拠写真はアップしませんので、どうにでも言えます(うふふ)。大先生の前で、ちょっと、照れている、まじめそうな顔が懐かしいです。当時は純真そのものだったのです。

改めて、この写真をみると、まるで、うぶな星の王子さまと、自信まんまんの数学の王さまが並んでいるようです。現在は、先生はじょうずにお年をとられているようですが、私の方は、お腹も出て、頭の中にまで脂肪がたまって、ろくでもない親父になってしまいました。時の流れを感じます。






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ベニスの商人

2006-12-21 10:20:23 | Weblog
鎌倉芸術館で映画「ベニスの商人」を観てきました。シェイクスピアの有名な戯曲で、日本でも舞台劇として上演されたことがあります。ただ、映画化はこれが最初だそうです。私は原作は読んだこともありませんし、劇もみたこともありません。ただ、ちょっと、人肉裁判のことを知っている程度でした。なかなか面白かったですよ。

・・・舞台は、16世紀末の貿易都市のベニス。貿易商のアントニオのところに、親友バッサーニオが来て、借金の申し込みをする。ベルモントに住むお金持ちの令嬢ポーシャにプロポーズをするためだ。全財産が貿易船上にあったアントニオはお金がない。自らが保証人となり、ユダヤ人の高利貸し、シャイロックを紹介する。アントニオを憎むシャイロックが出した条件は、「もしも3カ月の期限内に返金できなければ、アントニオの肉1ポンドをもらう」というもの。お金を借り、ベルモントへ旅立ったバッサーニオは、ポーシャと結ばれる。しかし、アントニオの貿易船が難破し、借金が返せなくなる。そして、法廷の場。約束どおり1ポンドの肉を要求するシャイロック。裁判はシャイロックが優勢で推移。そこにベラーリオ博士の推薦状をもつ若い法学博士(実はポーシャが変装してきた)が到着。裁判は彼を中心に進められる。博士がシャイロックを諭すが、受けいれない。そしてついに、アントニオの肉が切り取られようとしたとき、博士はこう言い放つ。「切り取る肉は正確に1ポンド、一滴たりとも血を流してはいけない」。シャイロックは呆然とする。さらに、キリスト教徒を殺害しようとした罪は重いとして、全財産の没収とキリスト教への改宗という判決。よろめくように立ち去るシャイロック。・・・おおよそ、こんな筋です。そのあと、もうひとつ面白い話しが付け加えられるのですが、ここでは省略します。

アル・パチーノ、ジョセフ・ファインズ、ジェレミー・アイアンズといった演技派スターが出演しています。でも、これは映画より、やはり舞台劇としてみた方が迫力があるかなと思いました。その場合、シャイロック役が要ですね。日本では、滝澤修(1968)とか平幹二郎(1994)がやっていたようです。憎々しげで、ぴったりですね。シェイクスピアは、この悪役のせりふ(当時のユダヤ人がキリスト教徒に迫害されていたことの理不尽)を観客の心に刻み込まそうとしたのでは、と思いました。劇でも一度みてみたいです。

見終わってから、近くの「もっこす」(熊本弁で頑固者の意味です)で煮魚定食を食べながら、ワイフと映画の感想会をもちました。本筋から離れた感想ばかりでした。ロンドンからエジンバラに行く途中、ストラトフォードエイボンのシェイクスピアの生家(写真)に寄ったときのこととか、ベニスの運河を観ながら食べた食事(ワイフ)やワイン(私)がおいしかったね、とか、そんな話しばかりしていました。

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夢工場

2006-12-20 18:15:31 | Weblog
山田洋次さんは昭和29年に大船撮影所に入りましたが、当時撮影所には10のステージがあり、音楽室、現像室、スタッフ室、事務室、宿泊施設とあり、1000人を越える人々が働いていました。年間、50本の映画をつくり、常時、4,5本の映画が撮影中でした。まるで、映画という夢を作り出す工場、いうなれば、夢工場のようだった、と山田さんは述懐しています。

二人の巨匠がばりばり仕事をしていました。ひとりは小津安二郎監督です。前年(28年)に、名作「東京物語」を発表したばかりです。この映画は、当時から評判で、今でも世界の歴代映画ベストテンを選ぶイベントには、必ず上位に入ってくるそうでする。日本映画ではあと黒澤監督の七人の侍だそうです。当時の若い山田さんには、そんな小津さんが神様のようにみえたそうです。

もう一人の巨匠は木下恵介監督です。この年(29年)に高峰美枝子主演の代表作「二十四の瞳」をつくっています。木下さんは、小津さんと違って、毎回撮り方を変えるなど、常に変化を求めていましたので、演出技術を学ぶ若手にはとても勉強になったそうです。木下学校と呼ばれるほど、木下さんの回りに人が集まっていたそうです。人材育成のこつはなんですかと尋ねましたら、えこひいきすることだ、と答えたそうです。才能を認めた人には徹底的に教えるということでしょうか。現在は、お二人とも、円覚寺の同じ墓地で仲良く眠っています。

助監督で修行を続けていた山田さんたちが、ある日、監督昇進はどういう基準で決めるのかと撮影所の所長さんに聞きにいきました。所長さんは、弱ったね、うーん、と言ってしばらく考えて、出てきた言葉はこうでした。「顔つきだな」。多くの人は、ぎゃふんとしましたが、山田さんは、納得しました。監督という仕事は大勢の人をオーガナイズしていかなければならない、そのためには、一人ひとりの個性を見極め、ていねいに接していかなければならない、そういうことを厭わない人格でなければならない、そういう人格は顔つきに表れる、そういうことだと、すぐ感じたのです。

そして、山田さんは監督に昇進し、昭和36年に「二階の他人」でデビューを果たします。そして、昭和44年には、「男はつらいよ」の第1作ができあがりました。そのあと平成8年まで27年間、実に48作という、世界の映画史上、例をみない、空前の、そしておそらく絶後の長期シリーズになったのでした。

1970年代は我が国が高度成長期に入り、まさに、どの会社、どの職場でも、皆目をつりあげて、進歩とか発展とか言いながら、休みもとらず、仕事を進めている時代でした、こんな時代に逆行するような、のんきなひとりの風来坊が何故こんなに受けたのか、山田さんはこう分析しています。

会社人間、組織人間として、自分の意にそぐわない仕事でも、必死になってこなしてきた人たちが、寅さんをみて、安心したのではないかと言うのです。こんな、すっとぼけた、進歩とか発展とかに全く無縁な、のんきな男を愛してしまった、そんな自分も見捨てたもんじゃない、ほっとする、のではないかと言うのです。

もちろん、渥美清さんのキャラクターがこの映画を支えてきたのは言うまでもありません。そして、御前様役の笠智衆さんも、重しのような役割で、この作品になくてはならない俳優さんだったそうです。実際もお坊さんのようで、渥美さんが、85才頃の笠さんを、半分仏様だよと言って笑ったそうです。渥美さんのお別れ会は、大船撮影所の中に、映画と同じ柴又の団子屋のセットをつくり、そこで「葬儀」をしたそうです。暑い日でしたが、なんと3万5千人の人々が、長い列をつくってお別れにきてくれたそうです。寅さん人気のすさまじさを実感したそうです。

元撮影所の一画に大きな寅さんのモザイク画が飾ってあります(写真)。寅さんの寝ころんでいる絵の上に「夢をありがとう」の言葉がみえます。あんなにもたくさんの、あんなにも楽しい夢をつくり続けてこられた寅さん、そして山田洋次監督に、改めて「夢をありがとうございました」と言わせていただきます。
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山田さんの修行時代

2006-12-19 20:53:19 | Weblog
山田さんは、その日のことをとてもよく覚えています。昭和29年の4月、よく晴れた暖かい日でした。大船駅を降りて、松竹通りを歩いています。目の前には、しゃれたジャケットを着た40才ぐらいの男の人と、春らしい柄のワンピースの若い女性が、談笑しながら、歩みを進めています。ふと振り向いた顔をみますと、よく知られた俳優さんでした。大学を卒業したばかりの若い山田さんは、これから、こんな素敵な人たちと一緒に仕事ができるんだ、と、とても晴れがましい気持ちで胸がいっぱいになりました。

山田さんは、松竹の助監督試験に合格し、その日、大船撮影所に採用手続きにきたのでした。当時、映画産業は全盛期でしたから、俳優さんは、もちろんのこと、映画監督になりたいという人もたくさんいました。わずか6人の助監督の募集に3000人もの応募がありました。山田さんがあとで聞いた話ですが、この試験に落ちた人の中に、のちに有名作家となられた五木寛之さんや遠藤周作さん、そして、今、都知事をしていばっている石原さんもいたそうです。そういう難関を突破でき、この日を迎えることができたことを、とても誇らしく、嬉しく思っていました。

監督さんから助監督の仕事は、どのスタッフの仕事にもあてはまらない用事を処理することだと言われました。いろいろありました。弁当やお茶を配ったり、機嫌の悪くなった女優さんをおだてたり、監督さんもときには怒鳴りたいときがあるので、その怒鳴られ役になったり、撮影の見物人にもう少しうしろに下がってください、とか、ありとあらゆる雑用をやりました。山田さんは、こういう仕事をやっている中で、映画監督という仕事は、俳優やスタッフの人たちの人間関係をじょうずにつくっていくことが、なによりも重要であることを知るようになります。

もちろん演出についても、勉強しますが、新米の頃はわからないことばかりでした。あの人は芸がうまい、とよく聞きますので、どこがうまいのか、その人に尋ねますと、うまいからよくない、一流になれないと言います、ますます山田さんは、分からなくなります。「芝居が書けていない」これも分かりませんでした。また、ある監督が、映画の一場面のテスト映写のとき、せりふの音が十分出ていないと、皆の前で録音技師を責めました。あとで、その技師は居酒屋で、山田さんにこう言います。聞こえないのは、演出が悪いからだ、演出がよければ、聞けない声も聞こえる、無声映画でも声のない声がよく聞こえるじゃないか、俺は言い訳はしないが、このことは君も覚えておけ、その言葉が若い山田さんの心に染みました。

また、こんなこともありました。ある監督が、ある場面のカメラポジションに悩んでいました。誰が見ても最適な位置と思いましたので、山田さんはその理由を尋ねました。「このポジションだと、あの右の階段が写らないんだよな、あの階段は、小道具さんが時間をかけて、こってつくっているんだ、それが、このアングルでは入らないんだ、どうしたらそれを入れられるか、考えているんだ」。監督はこういう心遣いも必要なんだ、ということを山田さんは心にしっかり刻んだのでした。

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すでにお気づきのように、「山田さん」とは寅さんシリーズで有名な山田洋次監督のことです。昨日、鎌倉商工会議所青年部主催で、鎌倉女子大の講堂で開催された、山田監督の講演「鎌倉と私」をもとにちょっと脚色して紹介してみました。私は寅さんシリーズはもちろんのこと、幸せの黄色いハンカチ、遙かなる山の呼び声、キネマの天地、など山田監督の作品はほとんど観ている監督のファンです。今回、直接お話をお伺いして、話しぶりやその内容から、まるで寅さんのように、心の温かい人だということがよく分かりました。ますますファンになりました。

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次回は、ポスト修行時代を紹介したいと思います。



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