先日、葉山小学校の隣りのつつじの公園を訪れたとき、葉山つつじちゃんと話をしました。そのとき、葉山つつじちゃんが、”日々是好日”の禅の奥義を自然に体得していることを知って、ボクはもう本当にたまげてしまいました。
このつつじ山の入り口付近に小さな池があり、そこに絶滅しかけたという葉山メダカが増やされ、元気に泳いでいました。ふと、ボクは、このメダカちゃん達はどういう人(魚)生観をもっているのだろうか、気になりました。つつじちゃんたちは、生まれたときから同じ場所を動かず、座禅をしているようなものですから、禅の極意をなんなく体得しています。でも、メダカちゃんは暇さえあれば、動きまわっていて、まるでボクそっくりです。もしかしたら、ボクらと同じように、悩んだり、迷ったり、落ち着かない毎日を送っているのではないか、少なくとも、つつじちゃんの禅の境地にはほど遠いのではないかと、思いました。
そこで、ボクは、池の縁に頭を向けて休んでいる、幾匹かのメダカちゃんのうち、一番大きな目のメダカちゃんに、声をかけたのでした。本当は、目玉ばかり大きくて、茶川一郎さんみたいでおかしい、と思っていたのですが、外交辞令で、とても、美しいパッチリした澄んだ目ですね、とあいさつしました。めだかちゃんはくるりとこちらに目を向け、「どうもありがとう、嬉しいわ」と答えてくれました。
いきなり、人(魚)生観について聞くわけにはいきませんから、まず、当たり障りのない趣味のことを聞いてみました。「桜見物よ」という答えでしたので、ボクは、この池の回りのつつじ見物なら話はわかりますが、この辺に桜の木は1本もありませんよ、と反論しました。すると「私の目は、だてに大きくはないのよ、遠くまで良く見える目なの、そう千里眼なの」。ボクはびっくりして、千里といえば、4000キロ、ほとんど日本中の桜が見えるのですか、と尋ねました。
「千里と言っても、遠くにいくほど霞んでくるの、でも吉野の山桜や弘前の桜ぐらいまではばっちりよ、もう弘前も見頃よ。あなたが、砂押川の桜を毎日のように観察していたり、数日前、白石蔵王の一目千本桜を家族で観に行っていたのも全部、お見通しよ」という答えが返ってきました。ボクと同じ桜好きということが分かって、なんだか友達になったような気がして、次ぎはちょっとぶしつけな質問をしてしみました。
一生をこんな狭い池ですごして飽きませんか、いらいらして、ぎゃーと叫びたくなるようなことはないのですか、と聞いてみました。めだかちゃんは、きょとんとした顔をして、「ゼンゼン」と短く答えました。つつじちゃんと同じ禅かと、一瞬思いました。でもメダカちゃんは座禅など生まれてこの方、一度もやったことがありません、暇さえあれば動き回っています。こんな生活をしているメダカちゃんが禅の極意を会得しているはずありません、何故そんな平安な気持ちでいられるのだろうか。
ボクは不思議に思って、桜見物などの趣味に”ぼっとう”しているとき以外の”ぼーっと”しているときにいろいろ不平不満が出てきませんかと尋ねました。メダカちゃんは「趣味以外のときは、お念仏を唱えてただ泳ぎ回っているのよ、”水にながれて つーぃつい 、みんながそろって つーぃつい”ていうお念仏よ、そうするとね、とってもいい気分なの」
その言葉を聞いて、ボクははっと思い当たる人がひとりいました。一遍上人です。上人は、南無阿弥陀仏と念仏を唱えながら踊れば、一切救われると、全国を遊行して教えを広めた方です。捨ててこそ、に徹して生きた方で、自分が世を去るときには全著作まで燃やしてしまったそうです。藤沢に総本山の遊行寺があり、一遍上人の遊行姿の像があります。
なるほど、捨聖の境地かと、思いました。めだかちゃんは踊り念仏遊行をしていたのです。そういえば、めだかちゃんは無一文だし、首飾りもイヤリングも、もちろんピアスもつけていないし、パンツだってはいていません。そして、とろのお刺身も、鰻の蒲焼きも天ぷらも食べないで、わずかばかりのプランクトンの粗食をみんなで分け合って食べ、毎日、列をつくってお遊戯してそれだけで、歓喜の日々を送っているのです。
ボクは、メダカちゃんにもうひとつだけ質問をしてみました。こういう境地になるために、どなたか偉いお坊さんについて修行されたのですか、と聞いてみましたら、「いいえ、私達、生まれるとすぐ、メダカの学校に入るの、義務教育なの、そこでいろいろ教わるの、それだけよ」と答えました。
ボクは、葉山つつじちゃんの時に感じたときと同じような感慨で胸がいっぱいになってしまいました。葉山メダカちゃんも、つつじちゃんに負けず、すごいと思います。一遍上人が愛と憎しみの中の底知れない苦悩のはてに、財産を捨て、妻子を捨て、我が身まで捨て、諸国をさまよいようやく会得した平安の境地を、このメダカちゃんたちは、誰が生徒か先生か、分らないような、自分たちのめだかの学校で、いとも自然に会得しているのですから。
ボクは、池で楽しそうに泳いでいる、メダカちゃんたちの「水にながれて つーぃつい みんながそろって つーぃつい 」の”お念仏に、心を込めて唱和してあげたのでした。
・・・・・
めだかの学校
作詞 茶木 滋
作曲 中田喜直
めだかの学校は 川のなか
そっとのぞいて みてごらん
そっとのぞいて みてごらん
みんなでおゆうぎ しているよ
めだかの学校の めだかたち
だれが生徒か 先生か
だれが生徒か 先生か
みんなでげんきに あそんでる
めだかの学校は うれしそう
水にながれて つーぃつい
水にながれて つーぃつい
みんながそろって つーぃつい
このつつじ山の入り口付近に小さな池があり、そこに絶滅しかけたという葉山メダカが増やされ、元気に泳いでいました。ふと、ボクは、このメダカちゃん達はどういう人(魚)生観をもっているのだろうか、気になりました。つつじちゃんたちは、生まれたときから同じ場所を動かず、座禅をしているようなものですから、禅の極意をなんなく体得しています。でも、メダカちゃんは暇さえあれば、動きまわっていて、まるでボクそっくりです。もしかしたら、ボクらと同じように、悩んだり、迷ったり、落ち着かない毎日を送っているのではないか、少なくとも、つつじちゃんの禅の境地にはほど遠いのではないかと、思いました。
そこで、ボクは、池の縁に頭を向けて休んでいる、幾匹かのメダカちゃんのうち、一番大きな目のメダカちゃんに、声をかけたのでした。本当は、目玉ばかり大きくて、茶川一郎さんみたいでおかしい、と思っていたのですが、外交辞令で、とても、美しいパッチリした澄んだ目ですね、とあいさつしました。めだかちゃんはくるりとこちらに目を向け、「どうもありがとう、嬉しいわ」と答えてくれました。
いきなり、人(魚)生観について聞くわけにはいきませんから、まず、当たり障りのない趣味のことを聞いてみました。「桜見物よ」という答えでしたので、ボクは、この池の回りのつつじ見物なら話はわかりますが、この辺に桜の木は1本もありませんよ、と反論しました。すると「私の目は、だてに大きくはないのよ、遠くまで良く見える目なの、そう千里眼なの」。ボクはびっくりして、千里といえば、4000キロ、ほとんど日本中の桜が見えるのですか、と尋ねました。
「千里と言っても、遠くにいくほど霞んでくるの、でも吉野の山桜や弘前の桜ぐらいまではばっちりよ、もう弘前も見頃よ。あなたが、砂押川の桜を毎日のように観察していたり、数日前、白石蔵王の一目千本桜を家族で観に行っていたのも全部、お見通しよ」という答えが返ってきました。ボクと同じ桜好きということが分かって、なんだか友達になったような気がして、次ぎはちょっとぶしつけな質問をしてしみました。
一生をこんな狭い池ですごして飽きませんか、いらいらして、ぎゃーと叫びたくなるようなことはないのですか、と聞いてみました。めだかちゃんは、きょとんとした顔をして、「ゼンゼン」と短く答えました。つつじちゃんと同じ禅かと、一瞬思いました。でもメダカちゃんは座禅など生まれてこの方、一度もやったことがありません、暇さえあれば動き回っています。こんな生活をしているメダカちゃんが禅の極意を会得しているはずありません、何故そんな平安な気持ちでいられるのだろうか。
ボクは不思議に思って、桜見物などの趣味に”ぼっとう”しているとき以外の”ぼーっと”しているときにいろいろ不平不満が出てきませんかと尋ねました。メダカちゃんは「趣味以外のときは、お念仏を唱えてただ泳ぎ回っているのよ、”水にながれて つーぃつい 、みんながそろって つーぃつい”ていうお念仏よ、そうするとね、とってもいい気分なの」
その言葉を聞いて、ボクははっと思い当たる人がひとりいました。一遍上人です。上人は、南無阿弥陀仏と念仏を唱えながら踊れば、一切救われると、全国を遊行して教えを広めた方です。捨ててこそ、に徹して生きた方で、自分が世を去るときには全著作まで燃やしてしまったそうです。藤沢に総本山の遊行寺があり、一遍上人の遊行姿の像があります。
なるほど、捨聖の境地かと、思いました。めだかちゃんは踊り念仏遊行をしていたのです。そういえば、めだかちゃんは無一文だし、首飾りもイヤリングも、もちろんピアスもつけていないし、パンツだってはいていません。そして、とろのお刺身も、鰻の蒲焼きも天ぷらも食べないで、わずかばかりのプランクトンの粗食をみんなで分け合って食べ、毎日、列をつくってお遊戯してそれだけで、歓喜の日々を送っているのです。
ボクは、メダカちゃんにもうひとつだけ質問をしてみました。こういう境地になるために、どなたか偉いお坊さんについて修行されたのですか、と聞いてみましたら、「いいえ、私達、生まれるとすぐ、メダカの学校に入るの、義務教育なの、そこでいろいろ教わるの、それだけよ」と答えました。
ボクは、葉山つつじちゃんの時に感じたときと同じような感慨で胸がいっぱいになってしまいました。葉山メダカちゃんも、つつじちゃんに負けず、すごいと思います。一遍上人が愛と憎しみの中の底知れない苦悩のはてに、財産を捨て、妻子を捨て、我が身まで捨て、諸国をさまよいようやく会得した平安の境地を、このメダカちゃんたちは、誰が生徒か先生か、分らないような、自分たちのめだかの学校で、いとも自然に会得しているのですから。
ボクは、池で楽しそうに泳いでいる、メダカちゃんたちの「水にながれて つーぃつい みんながそろって つーぃつい 」の”お念仏に、心を込めて唱和してあげたのでした。
・・・・・
めだかの学校
作詞 茶木 滋
作曲 中田喜直
めだかの学校は 川のなか
そっとのぞいて みてごらん
そっとのぞいて みてごらん
みんなでおゆうぎ しているよ
めだかの学校の めだかたち
だれが生徒か 先生か
だれが生徒か 先生か
みんなでげんきに あそんでる
めだかの学校は うれしそう
水にながれて つーぃつい
水にながれて つーぃつい
みんながそろって つーぃつい