気ままに

大船での気ままな生活日誌

藤沢宿の飯盛り女

2006-10-31 11:25:59 | Weblog
暑くもなく、寒くもなく、歩くのにとても良い気候になりました。大船ルミネの「つばめ」でパスタランチを食べてから、東海道線に乗り、湘南方面に向かいました。はじめ大磯に行くつもりでしたが、急に気が変わって、藤沢で降りてしまいました。気ままです。

藤沢の旧東海道辺りは、2度ほどウオーキング大会で歩いていますが、ゆっくりみて回ったことはありませんでした。藤沢駅北口から銀座通りに入り、オデオン座を過ぎ、20分ほど歩くと、白旗交差点に到着します。さらに真っ直ぐ行くと義経を祀る白旗神社方面で、左右に伸びる道が旧東海道で、右に行くと遊行寺方面です。

この交差点の辺りは、江戸時代は藤沢宿のあったところですが、今はその面影は全くありません。どこを訪ねようかと、思案していますと、目の前に案内板がありました。この近くにお寺がいくつもあることが分かりましたが、その中のひとつのお寺の脇に小さく書かれていた「飯盛女の墓」という文字に目がとまりました。

飯盛女(めしもりおんな)が、宿場町の旅籠屋で旅人の身の回りの世話をする女のひとで、ときには遊女のような役割も担っていたことぐらいは知っていましたので、おどろきました。以前、京都だったか、どこかのお寺で、遊女のお墓をお参りしたことがありますが、なかなかそういうお寺はありません。

早速訪ねてみました。浄土真宗の永勝寺というお寺で山門をくぐると、すぐのところにその墓所はありました。たくさんの、小さな石のお墓が、四角い場所を囲むように建っています。数えてみると39基もありました。端が欠けている墓石もありましたが、大部分はしっかりしていました。

表面に法名の、釈・・が、側面には俗名が彫られていました。カタカナでかかれているものや、与八娘と名前のないものもありました。また、当時の地名はよく分かりませんが、遠州、伊豆といった文字が見られましたので、神奈川だけではなく近県からも来ていたことが分かります。亡くなられた日付も記されています。宝暦、安永、明和、享和等の江戸時代の年号がみられます。1700年代後半です。

案内板によりますと、当時藤沢宿には49軒の旅籠屋があり、そのうち、27軒が飯盛女をかかえていたそうです。その飯盛旅籠のひとつを営んでいた小松屋源蔵という人が、このお墓をつくりました。当時の、この種の女のひとのほとんどは、両親の借金のかたに、あるいは口減らしのために、売られてきていたのです。無念にも、悲しい一生を終えていった女性たちに、小松屋源蔵があわれに思い、宿場町に近いこのお寺に、次の世では幸せに生きてね、とりっぱな墓所をつくりました。

墓所の真ん中に立ち、手を合わせお参りしました。ふと前をみると、一段高いところにある、大きな墓石が目に入りました。小松屋源蔵のお墓でした。ここで見守っていたのです。そこにもお参りし、帰ろうとしましら、ボトッと音が聞こえました。また、ボトッと。何だと思って、よくみると、熟したギンナンが落ちていました。その音だったのです。顔を上げると、向こう側に太い幹の大イチョウがそびえていました。今まで気づきませんでした。

この大イチョウは、その幹の太さから判断して、きっとこの墓所が出来るときに植えられたのではないかと思います。そして、現在まで、250年近く、もう絶対に不幸せにさせないぞ、と弁慶のように仁王立ちして、彼女達を守ってきたのでしょう。




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いたち川の早朝散歩でみた

2006-10-30 10:35:36 | Weblog
私は毎朝、約1時間の散歩をします。コースは定まっていてますが、たまに、いたち川沿いを歩くことがあります。今日はそれでした。花の木橋まで来たとき、あっと驚きました。住宅と道路の間の斜面に、黄色い花を咲かせていた、あのセイタカアワダチソウが、きれいさっぱりに刈られているのです。

私は、この雑草はあまり好みませんが、10日ほど前にみた、ここのアワダチソウは脊も低くそろい、花もそろい、とても美しい景観をつくっていました(10/18記事)。そろそろ花盛りも過ぎ、老醜をさらすよりと、管理している方が刈ったのだと思います。夏に刈り、秋に脊のそろった黄花の景観をつくり、盛りを過ぎると、刈り取る、見事な管理だと、感心しました。

刈り取ったあとを観察しますと、斜面の上部にわずかに芝が生えていました。なるほど、この斜面は、はじめは芝が一面に張ってあったのです。それが、長い年月のうち、雑草が優勢となり、とくに、セイタカアワダチソウに占拠されたという歴史がかいま見られました。先日観察したときには、橋の手前側の斜面は、この植物の他に、すすき、くず、野菊、イネ科の雑草など、日本在来の植物も観察され、共存していました。いや、共存ではなく、はじめは、これらの雑草が優勢だったのに、アワダチソウに攻められてここまで衰退したのかもしれませんね。来年も注意してみましょう。

芝で思い出しました。一軒家時代には、うちも庭に芝を張っていました。1,2年目はていねいに芝刈りをしたり、生えてくる草をこまめに引き抜いたりしていたのですが、そのうち、手抜きが始まり、ねじ花は、まだ、可愛くていいのですが、すぎなとか、いろいろの雑草が入りはじめました。加えて、私がゴルフの練習に使い、アイアンで芝をたたき、5年もたつと、めちゃめちゃになってしまいました。あまりにみっともないので、代わりに、お隣りから分けてもらった龍のひげを植えましたら、なんとか格好がつくようになりました。本当に芝の管理は大変です。

昨日、ワイフが、この川沿いの十月桜が大分咲いてたよと言っていましたので、そちらまで足を伸ばしました。10月12日に開花したのを観察していますから(10/12記事)もう20日近くなります。また今日も、警察学校の守衛さんに元気に挨拶され、2本の十月桜を見上げました。見事に咲いていました。見頃です。十月末の締め切りぎりぎりになって面目をほどこしました。11月桜とからかわれるところでしたね。いつも締め切りぎりぎりに仕事を仕上げていた現役時代の私みたいですね。たいしたもんだと、桜の幹をなでてあげました。

帰り道、ときどきお見かけする、本当に双子みたいにそっくりな、手をつないだ母娘(おやこ)連れに会いました。娘さんは小学校低学年でしょうか、丸顔の、とてもかわいい顔をしています。ついにっこりしましたら、けげんな顔をされてしまいした。

いくつかの発見のあった楽しい早朝散歩でした。



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ジェラシックツリー

2006-10-29 17:57:33 | Weblog
朝日新聞の地方面の記事で、ジェラシックツリーという恐竜時代の化石植物が、大船フラワーセンターに来ているというのを知って、早速見に行きました。門を入ってすぐのところに、それらしき鉢植えの植物と立て札がありましたので、すぐ分かりました。

その化石植物は、オーストラリアのウォレマイ国立公園で1994年に発見されたそうで、またの名を、ウォレマイ松とよばれています。松とは言っても、学術的にはナンヨウスギ(南洋杉)科に属します。約2億年前の、恐竜が栄えていたジュラ紀からの生き続けている、まさに化石の植物だそうです。

愛知万博や浜名湖花博にも出ましたが、県内は初登場だそうです。恐竜時代の植物なんていうと、なんだか、恐ろしげな形をしているのかと想像してしまいますが、そうではありませんでした。むしろ親しげに感じました。濃い緑のごわごわした葉が、馬のたてがみ状に小枝にびっしりとついていました。全体の容姿もよく、我が家の観葉植物にしたいくらいでした。実際、これを増殖して、観葉植物として普及させ、絶滅の危機を救おうという運動もあるようです。

ただ、野生の植物の幹の直径は1m を越え、高さは40m まで達するそうですから、鉢植えのとは、大分印象は違うかもしれませんね。現地に行って、一度見てみたいですね。まだ1000本ほど自生しているらしいです。自生林に入ると、2億年を生き延びた、ど迫力が伝わってくることでしょう。あるいは、意外と、ブナ林みたいに、やさしい雰囲気かもしれませんね。そんなことを思いながら、しばらく、ジェラシックツリーを眺めたり、なでたりしていました。

ちょうどその日は、フラワーパークのお祭りの日で、神奈川県菊花大会や、さまざまなイベントをやっていました。それらを見学して、最盛期を少し過ぎたバラ園をみたりして帰ろうと、東側の道を歩いていると、少し色づきはじめた大きなイチョウの木に呼び止められました。

「俺だって、1億年生き延びた化石植物だ、なんで、俺を無視して、あの新参者のジェラシックツリーばかり、ちやほやするんだ」と、言いましたので、私は、こう言い返しました。「そんなことばかり言っていると、あんた、ジェラシーツリーとあだ名がつくよ」。そのとき、そのイチョウの木は、くっくっと、おかしそうに大きく揺れました。









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季節はずれのツツジの花

2006-10-28 09:53:48 | Weblog
その日の朝、日光金谷ホテルの庭園を散歩しているときに、ツツジの植え込みの中にぽつんと白い花が咲いているのに気づきました(写真)。近づいてみると、それは確かにつつじの花でした。その白い花の脇の花芽も大きくふくらんでいて、今にも咲きそうな雰囲気でした。名札には、ヤシオツツジとかかれていました。季節はずれのつつじの花をみられて嬉しくなりました。その上、今度は赤い花を咲かせているツツジも発見しました。ちょっと小振りの花でしたが、ふたつありました。

ワイフが、フロントの前に新聞記事のコピーが貼ってあったけれど、このことじゃない?と、言いましたので、戻ってから、それをみてみました。確かにそうでした。朝日新聞の地方版と地元の新聞の前日の記事でした。いずれも見出しは「季節はずれのツツジの花が咲いています」というものでした。白い花の写真と簡単な紹介、識者のコメントが載っていました。それによると、ヤシオツツジはわりと出やすいそうです。こういうニュースはほのぼのしていいですね、平和です。

昨夕、二階堂から鎌倉駅まで歩いてきました。途中、八幡宮の段葛を歩きました。ここは桜だけではなく、つつじも、結構植えられています。もしかしたらと思ったのです。半分以上歩いても発見できません。やはりダメかと思って、ひょいと右を向いたら、なんと、にっこりと白い花が一輪、顔を向けていうではありませんか。急いで近寄り、観察しました。間違いありません、ツツジの花でした。わきの花芽もふくらんでいました。ちょうど日光でみたものと似た風情でした。

あまりの幸運に嬉しくなり、しばらく佇んでいました。場所を教えますね。鳩サブレのお店の前辺りです。「写真は撮っても、花は採らないで」という立て札が、大巧寺にありますが、行かれる方は、是非、このマナーを守ってくださいね(笑)。

ワイフに帰ってから、その話しをしましたら、あら、そう、それがどうしたの、という顔をしていました。のんきに、おみやげの金谷ホテル製のチーズケーキを食べていました。花より団子とはこのことですね。
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階段の赤いランプ

2006-10-27 11:25:58 | Weblog
そのホテルのダイニングルームの入り口手前の階段の手すりの赤いランプの灯りに目を奪われました。夕暮れ時に、この赤いランプがひとつだけ、暖かい、おだやかな、ほっとするような、ひかりを発していたのです。

懐かしいような気持ちになり、思わず近寄って、その、人の頭ぐらいの赤いランプをそっと何度もなでてしまいました。ランプは、茶系の筒状の陶器の台で支えられていて、それは、ちょうど私の脊くらいの高さでした。

赤いランプの表面に金属板で描かれた唐草とか三つ葉葵のような模様や、陶器の台をていねいに眺めたり、触ったりしているうち、陶器の裏側に、かなり目立つ亀裂が一本、上から下まで入っているのに気づきました。その傷跡もそうですが、全体的にいかにも年期が入っているという印象を受けました。

たまたま、近くを通りかかった従業員の人に聞いたみましたら、このランプは創業以来のものです、と教えてくれました。この日光金谷ホテルは、創業が明治6年ですから、130余年になります。なんと、このランプは130才を越えていたのです。

130才といえば、原節子さんと吉永小百合さんを加えて、それでは行きすぎるので、純情きらりの宮崎あおいさんを引く、といった年齢です。日本の代表的な美女をいきつ、もどりつして、ようやく達する年月です。

昭和11年までこのダイニングルームの位置にロビーがあったのですが、そのときも、この階段の赤いランプは今と変わらぬひかりを灯していたそうです。

このホテルに古い「宿帳」が残っていて、ヘレンケラー、アインシュタイン、リンドバーグ、ガンジー、ヘボン等著名人のサインがみられます。この赤いランプは、こんな、すごい歴史的な人々も優しく照らし続けていたのです。子供や孫の成長をやさしく見守る、おばあちゃんのまなざしだったのです。懐かしいような気になるわけですね。

赤いランプだけではなく、このホテルでは、本館廊下の電灯、壁の大きな飾り鏡、飾りだな、格天井(ごうてんじょう)の絵模様や柱頭の彫刻などが、当時のそのままに使われいます。また創業当時使用した、バカラの模様つきグラスや色とりどりの食器類、おかしな格好の電話機、お食事を知らせるへんてこな形のチャイム、ぼろぼろの崩壊寸前のブルタニカの百科事典等もロビーに展示してあります。こういうのを眺めていると、自然と、懐かしさがこみあげるような気持ちになります。

歴史がいっぱいのダイニングルームで、昼にみてきた紅葉を思い浮かべながらいただいたフランス料理はとてもおいしく、また、赤ワインはマイルドで、階段の赤いランプの味がしました。




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風の小町通りを歩く

2006-10-25 05:02:12 | Weblog
今日は朝から結構強い風が吹いていました。昨日は、「雨の鎌倉大町を歩く」でしたので、今日はそれに対抗して、風の小町通りを歩くことにしました。平日というのに、かなりの人出でした。中高生の団体がいくつも来ていました。修学旅行でしょうか。

小町通りの入り口付近の小さな花屋さんには、いつも、つい、立ち止まってしまいます。楽しいものが多いのです。いろいろな模様のついた、小さなかぼちゃ、真っ赤な唐辛子の実がいっぱいついた枝、蓮の実ヘッド、小さな赤い実を沢山つけた野バラの枝、フウセントウワタ(風船唐綿)などインテリアや生け花などに使うものが多いです。苗もあります。先日、野川の川縁に生えていたアキノウナギツカミに似た、小さなピンクのボールのような花をつけている植物がありました、ヒメツルソバという名札がつけられていました。茎をさわってみましたが、つるつるしていませんでした(ウナギツカミと比べてみたのです)。リンドウも青紫の花をいくつもつけていました。

少し歩くと、絵美屋という婦人洋品店の前に、経20センチぐらいの大きな柚(ゆず)が飾ってありました。鬼柚と書いてあり、触らないでくださいという注意書きがありました。誰も見ていなかったのでちょっと触ってみました。普通の柚の感触でした。ちょっと咬んでみたかったのですが、それは止めました。桃栗3年柿8年、柚の大馬鹿18年といいますが、鬼柚の超馬鹿28年(また、江夏の背番号です)でしょうか。でも洋品店とどういう関係があるのでしょうか。

鎌倉五郎というお菓子屋さんには中高生が群がっていました。「花のこぶた」というお菓子が人気でした。いかにも中学生が好きそうな名前ですね。ネーミングも大事ですね。私は、月とか桜とかいう名前に弱いです。「鎌倉半月」の小さな包みの方をつい、買ってしまいました。

横浜甘栗では中高生ではなく、中高年の女性が行列していました。半額セールと書かれた紙が何枚もはってありました。525円のが、262円になっていました。うちのワイフは栗が大好物ですので、もし今日一緒だったら、確実に並びます。ワイフは芋栗なんきんです。私はイカタコ中トロ、おでんに湯豆腐です。

いも吉館も中高生がいっぱいです。紫いもソフトをほおばっています。三色芋羊羹もおみやげに買っているようです。花丸マーケットに紹介されたと、宣伝していました。ここもワイフがひっかかりそうな所です。

小町通りの脇道に芸林荘という古本屋さんを見つけました。店頭に1冊100円の文庫本の古本が並んでいます。私はときどき、こういうところから掘出し物を見つけます。不思議とピンとくるのです。この前も西口の古本屋さんで、貴重な本を見つけました。今回買った本は、川端康成さんがノーベル賞授賞式で講演したものをまとめた「美しい日本の私」という文庫本です。ちょっと全文をみてみたいなと思っていたのです。安部さんの似たような名前の本には食欲がわきませんね。

小町通り歩きもそろそろ終わりに近づき、最後は休憩も兼ねて、鏑木清方記念美術館に寄りました。樋口一葉関連の展示でした。清方さんが19才のとき、一葉さんが25才で亡くなっていますので、実際、出会ったことはないそうです。でも、彼は、一葉さんのフアンで、そっくりな妹さんや、近くの人の話を参考にしながら、名作「一葉」を仕上げます。記念切手にもなった、この作品が飾られていました。絵の中の一葉さんがつけている、羽織、帯、前掛け、そして膝の前の畳紙(たとうがみ、ちょっとしたものを包むもの、布きれや千代紙で模様をつけている)などもその時代に沿ったものになっています。そのスケッチ段階のものも展示してあり、ていねいにつくられていることがよく分かります。また、記念館には、清方さんのエッセイ集が10冊ぐらいあり、こちらの方もとても面白かったです。ついつい長居してしまいました。

鏑木記念館を出て、覆いがとれたいう八幡宮の舞殿を見に行こうと、黒塀の川喜多邸の方角に歩き始めたとき、誰かがおいと、呼んでいるような気がしました。振り返ってみましたが、そこには、ただ風が吹いているだけでした。

ーーーーーー
この記事の最後のフレーズがどこかで聞いたような感じがしたので、28秒ほど、考えていましたら、思い出しました。はしだのりひことシューベルツの「風」の歌詞の一部でした。昨日も歌詞を載せましたので、対抗上、今日もそうしたいと思います。

・・・・・
人は誰も ただ一人旅に出て
 人は誰も ふるさとを振りかえる
  ちょっぴり淋しくて 振りかえっても
   そこにはただ風が 吹いているだけ
    人は誰も 人生につまずいて
     人は誰も 夢やぶれ振りかえる


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雨の鎌倉大町を歩く

2006-10-24 09:01:52 | Weblog
朝から雨でした。昼食をとっているとき、・・・こぬか雨降る御堂筋♪・・・欧陽菲菲さんの歌が突然、頭の中で流れたのです。雨の鎌倉の御堂筋を歩いてみたいと、急遽、出かけました。普段あまり足を向けない大町のお寺の道、すなわち御堂筋を歩きました。花を中心にみてきました。以下、その寸描です。

ーーーーー
大巧寺(だいぎょうじ)。紫色の実が見事な紫式部が何本も出迎え。椿の、曙だけが、1,2輪咲き始め。ここの椿は品種が多い、蕾がいっぱい、これからのお楽しみ。秋明菊は白いのだけが少し残っている。ほととぎすも。ぼけの赤い花がもう咲きはじめ。岩藤、ツワブキが咲いている。赤ちゃん抱いた若い夫婦がお礼参りか。

本覚寺。明日(24日)、お会式らしい。準備万端。さるすべりは、さすがにもう終わる。ツワブキがぽつんと。

妙本寺。いつも静かなお寺、今日はさらに静か、誰ひとりいない境内。海棠はまだ葉をつけ、冬支度前。海棠の前で、中原中也と小林秀雄は「和解」した。二人はひとりの女性にほんろうされる、それから8年後ここで会う、二人とも別の女性と結婚している、「晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた、花びらは死んだような空気の中を、真っ直ぐ間断なく、落ちていた、樹影の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた・・・その時、黙って見ていた中原が、突然、もういいよ、帰ろうよ、と言った(中原中也の思い出、小林著)」・・・そのときの海棠はもう枯死している。その前年、見事な花を咲かせたらしい、死に花でなかったかと小林は言っている。海棠の向こうに白と赤の椿が咲いている。山門の近くにツワブキが黄色い花を咲かせている。

ぼたもち寺。萩もジンジャーも終わり。ほととすぎが、ひとつ、ふたつ。

八雲神社。紫式部が出迎え。大きな御輿が数台みえる、ちょうど倉庫の修理中。ツワブキが10株ほど花を咲かせている。地植えの菊、4,5本。

上行寺。ツワブキひとつ。

安養寺。ツワブキ、ツワブキ、ツワブキでいっぱい。境内だけでなく、垣根までツワブキ。ツワブキ寺と言っても良いくらい。黄色い花が、咲き始めから見頃まで、グラデーション。大きな、らかん槇の下でしばらく見物。山門前のススキはまるで鑑賞用みたい。門を出て、石垣の上を見る、数十の水仙が10センチくらい首を出している、出番を待っている。

安国論寺。門を閉ざしている。帰ろうとして下をみると、ピンクの花びら。見上げると、大きなさざんかが、門前で花を咲かせている。

妙法寺。今日もふられる。いつもそうだ、まだ一度も入っていない。閉ざされた山門の隙間から覗く。苔寺で有名だが、なにも見えない。案内板に句碑の紹介あり、「美しき 苔石段に 春惜しむ 星野立子」。石段が苔むしているらしい。隣の民家にツワブキひとつ。

ーーーーーー
小ぬか雨降る中、ツワブキをたずねて南へ歩いた。大町御堂筋はツワブキの道であった。欧陽菲菲さんの「雨の御堂筋」の歌詞にこじつけてみた。「あなた」をツワブキに、2行目は、各人の人生経験に応じ自由解釈で。

小ぬか雨降る 御堂筋
 こころ変わりな 夜の雨
  あなた・・・ あなたは何処よ
   あなたをたずねて 南へ歩く











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江利チエミの声

2006-10-23 09:21:59 | Weblog
この9月に、島田歌穂さん主演のミュージカル「テネシーワルツ、江利チエミ物語」を観て、その感想をこのブログに書いたことがあります(テネシーワルツ、9/6)。その時、ひょんなところから、小林秀雄さんが江利チエミさんについての評論を発表していることを知り、是非それを読んでみたいと思いました。しかし、それは、私の本箱にある小林秀雄さんの著書(いくつもありませんが)の中には入っていませんし、いくつかの図書館で探索したのですが、今まで見つかりませんでした。それが、先日、またひょんなところから、見つかりました。新潮社の小林秀雄全作品第24巻の中に入っていたのです。短いエッセイですが、小林さんが歌手の評論しているのは、おそらくこれだけだと思いますので、紹介したいと思います。

それは、昭和37年に朝日新聞に掲載された「江利チエミの声」と題された、短い文章です。内容を要約するとこうです。・・・自分は江利チエミさんのフアンで、レコードもよく聴く、そんな事を話したら、ファンになった理由を書けという、ファンはファンであってそれで十分だと思うのだが・・・と続き・・・・私は江利チエミさんの歌で一番感心しているのは、言葉の発音の正確である、この正確な発音から、正確な旋律が流れ出すのが、聞いていてまことに気持ちがいい・・・と述べます。

確かにチエミさんのテネシーワルツ、カモンナ・マイハウス等どの歌を聞いても、まるで英語圏の人が歌っているように聞こえます。そこまでなるには、大変な努力があったようです。レコードがすり減るまで、何度も何度も聞いて、徹底的に模倣したようです。文字で覚えるのでなく、まさに音で覚えたそうです。優れた音感の持ち主にはそういう覚え方が出来るのですね。米人が聞いても、すんなり、心地よく聞けたようです。もちろん、ただの物まねではありません。江利チエミさん独特の情感あふれる表現力があったからこそ、米人の心にも響き、人気も出たのだと思います。

模倣をばかにしてはいけません。どんな芸術でも科学でも模倣が始まりです。小林秀雄さんは、評論「モーツアルト」の中で、・・・模倣は独創の母である、ただひとりの本当の母親である、模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか、僕は他人の歌を模倣する、他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい、してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身のかけがえのない歌を模倣するに至る・・・と述べています。

小林秀雄さんは、「江利チエミの声」の中で、さらにこういいます。・・・歌を絵に例えるなら、節回しは色で、歌詞はデッサンのようなものだ、デッサンの拙さを、色でごまかしている画家が多いように、歌詞の発音の曖昧さを、節回しでごまかす歌手が実に多い・・・のみならず、逆の考えさえもっているようだ、あまり正確に言葉を発音すると、歌の魅力を損なうと思っている歌手もいる・・・

確かにそうですね、耳の痛いプロ歌手も大勢いるでしょうね。やっぱりデッサンが基本なんですね。デッサンがしっかりしていて、それを土台にして、初めて豊かな表現力、個性が生まれるのですね。ピカソの若いときのデッサンなんかみると、そのことがよくわかりますね。

さらに、小林秀雄さんは、こう結びます。・・・日本の伝統的な歌でも、節にかまけて歌う易きを嫌う、語るように歌えという教えは古くからあるそうだが、名人でなければなかなか出来ないものらしい・・・・

語るように歌え、ですか。チエミさん、ひばりさん、確かにそういう感じですね。お二人とも、誰がみても、歌唱の名人です。

短い文章の中に、チエミさんの特質が凝縮され、的確に表現されています。さすが小林秀雄さんは文章家の名人ですね。


















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野川の道はいつか来た道

2006-10-22 15:17:50 | Weblog
JR東日本主催の「駅からハイキング」に参加しました。今回は「野川ハケの道と深大寺そば祭り」というテーマで、国分寺駅から武蔵野公園、野川公園を経て深大寺までの約10キロを歩きます。とても、すばらしい散策コースでした。

駅から20分ほど歩きますと、貫井神社に着きます。水の神を祭っています。お堂の後ろは崖のようになっていて、その上は雑木林です。その崖の下の岩の隙間から、今でもこんこんと水が湧き出ています。この崖がずっと世田谷の方まで、20キロくらい続いていて、この崖線をハケと呼んでいます。武蔵野台地の雨水が染みこみ、それが、崖下で湧き水とし生まれ変わっているのです。今日歩く、野川は、そういう水によってつくられた川なのです。生まれたの水は、小さなさざ波をたてて恥ずかしそうに流れていました。指を入れてみました。かなり冷たいです。次に飲料水不適ですという立て札を、みてみない振りして、少し飲んでみました。新潟銘酒、上善如水のようにすっきりした味でした。

少し歩くと、貫井大橋に出ます。この下に野川が流れています。一級河川ですが、小さな川です。大船のいたち川程度です。鴨が泳いでいます。近くの前原小学校の生徒がつくった掲示板には、野川には、カワセミとかノゲラも生息していると、ありました。うまくすると、最近いたち川で見つからない幸せの青い鳥が、みれるかもしれないと、楽しみが増えました(残念ながら、最後までみられませんでした)。

小金井神社、大岡昇平の「武蔵野夫人」の舞台となった辺りを過ぎて、「ハケの道」の案内板がありましたので見てみました。よくみると、ハケがハゲになっていました。”を誰かが、黒マジックで加えているのです。ごていねいに、表題だけではなく、説明文の、その文字全部につけていました。ハゲの道になってしまったのです。おかしくって、ワイフに教えようと、右を向いたら、ちょうど、ハゲの親子(歩き方がそっくりなのでそう判断しました、ひとりは若禿でした)が、おそろいのリックサックをしょって、通り過ぎる所でした。本当に禿の道になっていました。

しばらくすると武蔵野公園に入ります。野川をはさんで、武蔵野の面影を残す雑木林の、とても落ち着く公園です。桜の木もたくさんありました。あちこちで、家族やいろいろなグループが、のんびりくつろいでいます。野川もここまでくると、河川敷にこれまで目立っていた、あつくるしいセイタカアワダチソウが少なくなり、うすいピンクの花をつけた、かわいらしい植物が目につくようになりました。あとで自然観察員の人に聞きましたら、アキノウナギツカミだと教えてくれました。ウナギツカミというので、茎でもつるつるしているのですか、と聞きましたら、これは、ざらざらで、別の近い種のなんとかいう植物がつるつるしているそうです。どういうことでしょうか。

連続して野川公園に入ります。入り口に車の焼き芋屋さんが大きなボリュームで三橋美智也さんの歌を流していました。題名は忘れましたが、・・・呼んでいる 呼んでいる 赤い夕陽の 故郷が うらぶれの 旅をゆく 渡り鳥を 呼んでいる 馬鹿な俺だが あの山川の 呼ぶ声だけは おーい聞こえるぜ・・・私の小学生時代に流行った懐かしい歌です。ついつい、これに唱和してしまいました。焼き芋屋さんは、私がこの時間に来ること知っていて、この音楽を流してくれたのかなと思ってしまいました。というのは、野川公園は、まさに私の「赤い夕陽の 故郷」なのです。

私は中学生の頃まで、三鷹に住んでいて、この辺り一体は、私の幼少年時代の、少し遠出の遊び場だったのです。野川公園のがけの上は、現在国際キリスト教大学の敷地になっていますが、10才くらいまでは、そこも自由に出入りできて、山ではカブトムシをとったり、小川では、ザリガニ、カニ、タニシ、ドジョウをとったりして遊びました。下の方まで降りていくと、湧き水が豊富にあふれている地帯があり、大抵、そこには、わさび田がありました。子供にとっては天国のような遊び場で、赤い夕陽が落ちるまで存分遊んだところなのです。

何十年ぶりに訪れて、野川のやさしい流れや、周辺の湿地帯の小川や、なつかしい植物、一部復元されていたわさび田などをみていて、じわりじわりと、遠いむかしの風景、幼友達の元気な顔、声が思い出されてきて、しみじみとした気持ちになりました。あの当時の友達の中には、もう早々とこの世を去っていった人もいます。ワイフは疲れたと言っていたので、休ませて、ひとりで30分ほど「赤い夕陽の故郷」の中に入りこみ、あちこち歩き回って帰ってきました。思い出ぼろぼろでした。ちょっと長すぎるわよと、ワイフがふくれっつらをしていました。

ゴール地点の深大寺は、蕎麦まつりでにぎわっていました。隣接している植物園のバラ園も人人人でいっぱいでした。ここも、だるま市に家族そろって歩いて来たり、自転車に乗れるようになった頃には、たびたび訪ねたりした、思い出いっぱいのお寺です。ゴールの証しの小さなバッジをもらったあと、ゆっくりみて回りました。

いつか来た道は、また何度でも来てみたい道になりました。





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原節子さんの麦秋

2006-10-20 10:15:43 | Weblog
近くの鎌倉芸術館で上映された、原節子さんの「麦秋」をみてきました。昭和26年、名匠小津安二郎監督の作品です。しみじみとした感慨が、みている時だけではなく、みた後までずっと続く、そういう第一級の映画でした。

原節子さんは、私の父母の世代ですから、もちろん、封切りの映画はみたことはありません。しかし、テレビなどで、ときどき放映される名画劇場などをみているうちに、すっかり、フアンになっていました。今は、私の同世代のチャンピオン、吉永小百合さんより好きなくらいです。

北鎌倉駅を降り、路地を抜けて5分ほど歩いたところにある、古い家が舞台です。そこに、婚期の遅れた28才(今なら普通ですが)の、丸の内の会社に秘書として勤める原節子が住んでいます。兄(笠智衆 )、兄嫁(三宅邦子)、父(菅井一郎 )、母(東山千栄子 )そして兄夫婦の2人の小学校低学年の二人の子供と一緒に暮らしています。近所の妻を亡くした子持ちの貧乏医学者(二本柳寛 )、彼の母(杉村春子)、そして、友人(淡島千景)、上司(佐野周二)もこの物語に関わります。

ストーリーは、シンプルです。適齢期を過ぎた原節子に縁談が舞い込みます。相手は40才を過ぎた旧家のお金持ちです。しかし、あるきっかけから、自分は、近々秋田に転勤する、近所の貧乏医学者にひかれていることに気づき、結婚を決意します。それだけの物語です。

それも、どこの家庭にも似たようなことがある、あった物語です。彼女を巡る人々の日常を、時々ユーモア、時々ペーソス、といろいろ織り交ぜ、2時間を飽きさせず、淡々と描いていきます。要所要所には、いかにも小津調といった音楽が、穏やかに、しかし太く流れ、感慨を深めてくれます。大げさなところはひとつもなく、ごく普通の、等身大の、笑いと涙を誘います。小津監督流の下から撮るという、カメラアングルも関係しているかもしれませんが、まるで映画の中の家族の一員に自分がなっているような錯覚さえ覚えます。

杉村春子が、息子の転勤のための引っ越し準備をしているときに、原節子が訪ねてきます。杉村が口を開きます。・・怒らないでね、笑っちゃだめよ、私ね、いつも思っていたことがあるのよ、あなたがもし、息子のお嫁さんにきてくれたら、どんなに嬉しいかと、・・怒った?こんなこと言ってごめんね、ゆるしてね。・・少しの沈黙のあと、・・いいわよ、私・・思いがけない返事に目を白黒させる杉村。結婚を決意した、原節子の凛とした美しい横顔。映画後半に向けてのクライマックスシーンです。ジーンときます。

兄嫁の三宅邦子と原節子が海岸を歩くシーンがあります。翻意させようと願う三宅に対して、原節子はこういいます。・・・私、40にもなって、まだ一人でぶらぶらしているような人ってあまり信用できないの(今はいっぱい、いますね)、子供くらいある人の方が信用できるの・・と言って、意思の固いことを知らせます。

この台詞は、小津監督(脚本も担当している)が、原節子さんが実際そう言ったのを参考にして作ったそうです、そのあとこう続くんだろう、と監督は言って笑ったらしいです、「でも小津さんだけは別よ」。ちょうどこの頃、お二人のロマンスが噂になっていました。私は、絶対に相思相愛だったと確信しています。結局、小津監督は生涯独身を通します。監督が亡くなったとき、原節子さんは、棺の前で、あたりをはばからず号泣していたそうです。そのあと、彼女は、きっぱりと映画界から姿を消します。

ラストシーンは、実りの時期を迎えた麦畑が背景です。娘の結婚を機に、父と母は、鎌倉の家族を離れ、大和(奈良)に移っています。麦畑の向こうを花嫁さんの行列が通り過ぎて行きます。ふたりの会話が、ぼっそぼっそと、しかし、しみじみとした情感をのせて流れます。

・・どんなところに嫁ぐんでしょうね・・ウーム・・紀子、どうしてるでしょうね・・ウーム、みんな、離ればなれになっちゃたけど、しかし、まだあたし達、いい方だよ・・いろんなことがあって、長い間・・ウーム、欲をいえばきりがない・・ええ、でもほんとうに幸せでした・・ウーム・・・・・・・・麦の穂をゆっくり、ゆらして風が通りすぎます。

エンドマークが出てから映画が始まるんだと、小津さんは言われたそうです。本当に、そういう映画でした。原節子さんも、とてもきれいでした。


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