気ままに

大船での気ままな生活日誌

終わらない夏

2010-08-31 19:31:30 | Weblog
8月31日。夏の終わりの日のはずだが、今日も猛暑、明日も猛暑で、モウショうがない、と思うしかない。終わらない夏になってしまった。今日は、ふたりで三菱一号館美術館に行ってきた。あの、曜変天目が展示されているので、お茶をやっているワイフも是非にというので、一緒に行ってきたのだ。これだけだはなく、他にも、すばらしい展示物が山ほどあり、さすが、三菱だと思った。これについては、のちほど感想文を書いてみたい。

三菱は、”龍馬伝”ではみっともない男に描かれているが(爆)(前回も、見回り組に拷問を受け、薩長連合策に龍馬がかかわっていることを白状してしまう、という情けない場面があった)、岩崎弥太郎によって明治に入って創建された。そして二代目社長、弥之助が、英国の建築家、コンドルに設計を依頼し、丸の内に三菱一号館を建てたのだ。その頃は、あたり一面、草ぼうぼうという感じだったらしい。その頃の丸の内の風景画も展示されていた。

そのとき、丸の内に美術館を建築する予定もあり、設計図が残っているそうだ。ようやく、110年ぶりにその夢が実現したというわけだ。だから展覧会も”三菱が夢みた美術館”と銘打っているのだ。今回は開館記念第2弾となる。もちろん、第1弾も行っている。

というわけで、8月おわりの日は、我が家の電化製品は、クーラーは3台ともナショナルで、冷蔵庫は日立で、三菱のは15年前買った扇風機だけだけど(汗)、こんなりっぱな美術館をつくってくれて、三菱さん、どうもありがとう、と頭を下げた、”終わらない夏”の一日だったのだ。
。。。。。

旧一号館の面影


(一号館中庭風景)

腰かける女 ムーア作


弁当を食べる女


本を読む女


(日比谷界隈)
両手を挙げる女


ゴジラな女
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軽井沢での文士と画家たちの交流

2010-08-31 09:01:11 | Weblog

先日、軽井沢で遊んだときに、中軽井沢方面にある”軽井沢タリアセン”という名の文学館や美術館の集まった公園がある。その中のひとつ、軽井沢高原文庫があるが、その休憩室に置かれている”感想ノート”を何気なく開いた。最初のページに、こんな感想文が書かれていた。

私は立原道造さんが好きで、軽井沢に来るようになりました。また深沢紅子さんの絵も好きでした。堀辰雄さんの別荘で紅子さんが絵を描き、岩手県の紅子さんの家で立原さんが療養されたと伺い、私の好きな人が、皆、軽井沢で交流があったことを知り、軽井沢に家をたてて良かったと思います。

立原道造の記念館が、東大の弥生門の近くにあり、訪れたことがある。そこで知ったことだが、彼は、東大建築科を出て、建築の辰野賞を3年連続受賞するなど、建築家として将来を嘱望されていたが、堀辰雄に才能を見出され、詩人として活躍した。さらに画才もあり、その絵も展示されている。だが、24歳の若さで夭折してしまうのだ。

さきほどの感想文を読んで、軽井沢での堀辰雄そして画家の深沢紅子との交流があったことを知り、しみじみとした思いがした。ここに堀辰雄の山荘もあり、深沢紅子の美術館もある。

堀辰雄山荘:堀辰雄没後、深沢紅子夫妻が住み、その後、ここに移築された。

立原道造詩碑:”のちのおもひに”の冒頭部の詩文が刻まれている。


軽井沢タリアセンには、野上弥生子、有島武郎らの別荘も移築されている。

野上弥生子山荘:自ら”山姥”と称し、”鬼女山房”と名付けた(笑)。

有島武郎の別荘、内部は資料室になっている。



睡鳩荘(旧朝吹山荘)も面白かった。元三越社長の別荘で、長女の仏文学者、朝吹登水子が別荘として使用した。資料室となっている。サルトル夫妻との写真なども展示されていた。




子供たちはこんな遊びをしていた。

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夕顔の君 東慶寺

2010-08-30 18:42:14 | Weblog
横浜のそごう美術館の帰途、横須賀線の大船駅で下車せず、ひとつ先の北鎌倉で降りました。午後4時を過ぎていましたので、東慶寺の夕顔の花がもう開いているかもしれないと思ったのです。

ちゃんと案内もありました。午後3時過ぎから開き始めるようです。


茶室の前です。もういくつか咲いてました。

蕾はたくさん。
 
純白の花です。径10センチくらいあるでしょうか。意外と大きな花です。

後ろ姿も夕顔の君のように、うつくしいです。

近くには、仙人草の花が咲いていました。仙人ですから夕顔の君に近づくことはないでしょう(笑)。


源氏の題にて
夕がほや男結の垣にさく 一茶



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江戸絵画への視線

2010-08-30 11:39:07 | Weblog

”スーパーよさこい”見物の前に、湘南新宿ライン、恵比寿駅で降りて、山種美術館に向かった。又兵衛さんの”官女観菊図”をぜひ観たかったからだ。この絵が、重要文化財に指定された記念に表記の展覧会が開催されているのだ。山種というと、松園さんや速水御舟らの近代日本画の蒐集で有名だが、江戸期の絵画も70点ほど所蔵しているとのことだ。種二が米問屋の小僧をしていたときに、蔵でみた酒井抱一の絵に魅せられたのが、美術品収集のきっかけだったという。でも、はじめ偽物をつかまされ、間違いのない当時の現代画家の作品の蒐集が中心となったということだ。それでも、専門家の協力も得て、江戸絵画もちょこちょこ集め、70点にもなり、今回のような展覧会も開けるのだ。

岩佐又兵衛の”官女観菊図”。もともとは”金谷屏風”6曲1双の左隻の2番目だったそうだ。現在は、12に分割され、それぞれ、美術館や個人蔵になっている。二つは行方不明だそうだが、その復元屏風の写真もあり、参考になった。その中に、以前、出光でみた”野々宮図”もあった。面白いのは重文は3点で、出光のは”重要美術品”と下のランクにされている。そのうち、すべて重文になるのだろう。又兵衛さんの評価が上がるのはうれしいことだ。後藤又兵衛の再評価もしてほしい。

侍女が簾をあげ、官女が咲き乱れる菊を観賞する図だ。官女は、MOAの”官女図”と同じ顔をしていた。ふっくらした頬と長い下あご、それに細い目。現代なら美人といえるかどうか(笑)。よくみていると、頬にかかる髪が一本、一本がていねいに描かれている。余程、女性の髪が好きなのだろう(笑)。髪だけではない、着物の文様、牛車の文様なども実に詳細に描かれている。今年は、いくつも又兵衛さんを観させてもらった。次はどこで展覧会があるか楽しみだ。



展示場に入るとすぐ、”琳派”コーナーで、宗達と光悦のコラボ作品、2点、酒井抱一、鈴木基一らの作品が続く。琳派はもともと好きだから、十分楽しませてもらった。そして、”やまと絵”コーナー。ここに又兵衛さんの作品が展示されている。ここの、作者不詳”源平合戦図”(六曲一双屏風)は面白かった。平家物語の合戦名場面がちりばめられていて、楽しませてもらった。そのあと、”狩野派”、”文人画”、”緒派”と続く。はじめてみるものが多かったが、一つひとつ、それなりに良かった。可愛い子供がいたり、花や鳥がうつくしく描かれていたり、床の間に飾りたいような、ゆったりとした風景画があったりと、あっという間に時間が過ぎてしまった。

もうお腹がいっぱいなのに、第二会場にも、山種ご自慢の名作を揃え、お腹がぱんぱんになってしまった。なかなか69キロを切れない(汗)。御舟の”名樹散椿”や福田平八郎の”芥子花”等が展示されていた。次回は村上華岳の”裸婦図”がおでましのようだ。また来よう。そのときまで、裸で68キロ台に戻したい。

秋草鶉図(酒井抱一)月が黒くなっているが、はじめは銀色だったそうです。

新古今集鹿下絵和歌巻断簡(宗達・光悦)

四季花鳥図(鈴木基一)部分

唐子遊び図(伝 長沢芦雪)琴、碁、書、画、等ずいぶんませた子だな。
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スーパーよさこい2010

2010-08-29 21:42:24 | Weblog




うっかり、昨日の浅草サンバカーニバルを見逃してしまったので、今日は是非にと、原宿のスーパーよさこい2010へ(汗)。数年前、本場、土佐の高知のよさこい祭りをみて以来、ここのも、何度か訪ねている。阿波踊りと同様、全国に”よさこい踊り連”が、たくさん出来て、今回の催しにも300を越す、グループが参加しているそうだ。たしか、曲の一部に、よさこい節を入れれば、自由に曲もつくれるし、踊りも、自由な創作でいいので、むしろ阿波踊りよりも面白いかも知れない。

会場はいくつもあるが、やっぱり一番は表参道での踊り巡行で、その他、明治神宮前の舞台の踊り等も観ることができる。舞台会場からまず観た。プログラムが、ちょうどぼくの一人前で、もうなくなりました、と言うので、もう行き当たりばったりに、見学した。やっぱり、本場の連(隊といったりもするが)がみたいので、うまく当たればいいなと、暑さの中(でも表参道の並木の日陰のおかげで、わりと楽だった、しかし、踊っている人のことを思えば、ぜいたくを言っていられない)歩き回った。

運がいいというか、お目当ての土佐の有名連”十人十彩(じゅうにんといろ)に表参道ですぐ出会うことができた。男踊りと編み笠をつけた女踊りが入り混じり、阿波踊りの風情もあり、ぼくの好きな連だ。衣装も前が赤地、うしろが白地なので、踊り手の向きが変わるたびの色彩的な変化が面白い。歌舞伎役者の衣装の早変わりのようだ。








そして、帯屋町筋も。たしか広末涼子さんの町内だ。土佐ではいつも踊っているらしい。妹さんも美人らしい(汗)。表参道でも踊れば、人気が出るだろうにな、と思った。さすが、本場はいいね。何度も写真を撮ったぜよ。




そして、龍馬の出た、上町からも来てくれたぜよ。今日の”龍馬伝”では薩長連合が龍馬のおかげで成立したぜよ。龍馬の心意気が伝わってくる、いい踊りだったぜよ。目がしらが熱くなってしまったよ。








今日はこれくらいにして、まだ、いっぱい写真があるので、明日以降、東京、神奈川、静岡等いろんな連の写真を紹介してみたい。元気をいっぱいもらったよ、ありがとう。もう少し、若ければ、一緒におどりたかったよ。

”踊る阿呆に観る阿呆”というけれど(汗)、政財界やマスコミのばかやろうどもにも見せてあげたかったぜよ(爆)。



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柏尾川夕景

2010-08-29 07:45:19 | Weblog
この猛暑で、夕方5時ころから7時ころまで散歩することが多い。昨日は5時まで大船の図書館に居て、それから、散歩に出た。駅を渡り、大船観音さまの前を流れる柏尾川沿いを、藤沢方面に向かって大分、歩いた。日がまだ沈まぬうちに出かけたが、夕陽も落ちて、薄暮の大船に戻ってきた。これで、1万歩は十分稼げた。

観音様は、いつみても”美男(美女)におわす”が横顔はそうでもないな、と思っていたら、あっ、飛行機が突撃を、そ、それだけはやめてください。大船のシンボルです。今日(昨日)は8・20です。9・11ではありません。あああ・・

あぶないところでした。観音様は、ご無事でした。どんなことがあっても、顔色ひとつ変えません。さすがです。いつも通りのおうつくしいお顔で下界を見下ろしておられました。

お日さまは山影に隠れ、木々の隙間から顔を出していました。ねぼけた顔をしていました。ビールを飲みすぎて、日の入りまで、もたなかったようです。

日が落ちると、夕空もうすいピンク色に染まり、柏尾川の川面にうつしていました。まるで、川瀬巴水の風情でした。

河岸の柵の、鯉の模様は杉山寧の風情でした。

川面の漣は、福田平八郎の風情でした。

このにゃんこには、なんの風情もありませんでした。

家に帰って、ビールを飲みながら、大曲の花火中継をみました。山下清の風情でした。

テレビをみている途中、この日は浅草サンバカーニバルの日だったことを思い出しました。すっかり忘れっぽくなってしまった、手帳に書いておいたのに(汗)。後悔しました。ああ、これであと1年待たねばならぬ。お祭りは2日間、やってほしいです。
代わりに、今日は代々木のよさこい祭りに行ってくるかな(大汗)。
(去年のカーニバル)
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碓氷峠の帽子

2010-08-28 13:59:22 | Weblog
旧軽井沢宿場町(現、旧軽銀座)は碓氷峠の麓にある。中山道はここから碓氷峠を登ってゆく。この峠の”頂上”に、長野県と群馬県の県境がある。そこからの眺めが良いというので、ホテルから赤い小さなバスに乗って出掛けた。因みにこの峠は自転車で登ることは危険なので、禁止されている。

終点は、熊野皇大神社前。この神社は日本武尊の勧請といわれる古社である。面白いことに、この神社は県境をまたいで建っているので、社の左半分が長野県、右半分が群馬県の住所となっている。だから、この神社の狛犬は、片方は長野犬で、もうひとつのは群馬犬なのだ(爆)。

県境を示す本殿。

ここの狛犬は珍しい形をしていたので、説明板を読んだら、室町中期の作で長野県でも一番古い狛犬だそうだ。群馬犬はどうなのだろうか、説明がなかった(笑)。で、写真は長野犬のだけ載せる。

樹齢800年と伝えられる、りっぱなご神木があった。シナノキだった。これは名前の通りシナノ(信濃)側にあった(笑)。

峠の茶屋ではないけれど、力餅家さんが、5,6軒あった。神社の前のお店は、県境を示す煉瓦まで置いていた。どっち側で食べれば、力が出るのだろうか。総理大臣になりたい人は群馬県側がいいかもしれない。全員アホだったけど、4名も出している。かかあ殿下になりたい人も群馬側がいいだろう。理屈っぽくなりたい人は長野県側へどうぞ。でも出世はしません。

マラソンの好きな人は、群馬県側がいいです。むかし安政遠足(マラソン)というのが、あってここがゴールなのです。安政二年、(現群馬県)安中藩藩主が、藩士たちに安中城から碓氷峠山頂の熊野権現(この神社のこと)まで七里強の行程を走るように命じたのです。その証拠が、昭和30年に碓氷峠の茶屋から発見されて、”安政遠足保存会”が組織され、毎年5月の第2日曜日に、同じコースを走るマラソンが行われているそうです。

見晴らし台まで県境が。石の真ん中に穴があいている。むかしは綱が通してあったのだろうか。

見晴らしが良かった。天気の良い日は群馬側の両毛三山、長野側の日本アルプスもみえるそうだ。

あ、そうそう、(ぼくもそうだけど)帽子の失くしやすい人は、群馬側の見晴らし台には行かないでください。霧積温泉が近くなのです。
。。。。。

帽子  (西條八十)

母さん、僕のあの帽子、どうしたんでしょうねえ
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ

母さん、あれは好きな帽子でしたよ
僕はあのときずいぶんくやしかった
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから

母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね
紺の脚絆 に手甲をした
そして拾おうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね
けれど、とうとう駄目だった
なにしろ深い谷で、それに草が
背たけぐらい伸びていたんですもの

母さん、ほんとにあの帽子どうなったでしょう
そのとき傍らに咲いていた車百合の花は
もうとうに枯れちゃったでしょうね、そして
秋には、灰色の霧があの丘をこめ
あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ

母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは
あの谷間に、静かに雪がつもっているでしょう
昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と
その裏に僕が書いたY・S という頭文字を
埋めるように、静かに、寂しく
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今日は何の日 ミツバチの日

2010-08-28 09:23:04 | Weblog
今日は何の日?
ミツバチの日です。

何で?
8月28日。

分解すると
82でハニー(蜜)
8でハチ(蜂)

で、蜜蜂の日というわけです。

で、朝散歩は桜の木の洞に巣をつくっている
ミツバチ君(でも働きバチはみんな雌だから君というより、さんかな)、
ミツバチさんにお祝いに行きました。

ちなみに、雄バチは、なまけもので遊んでばかりいるそうです(汗)
こうゆう見方もあります。女王バチとの交尾を楽しみに体力を温存しているのです



今日も元気に巣の回りで、いよいよ出勤しようかと準備体操をしていました。

今日は、お祝いに花粉や蜜がいっぱいありそうな、花を贈ろうかな。

最近咲き始めた、若々しい酔芙蓉の花。でも、花粉や蜜を集めているうちに、酔っぱらってしまっては困るかな。早々と仕事をしているムシがいた。無視しよう。

おまえは、もう二日酔いで、つかいものにならないので、おつかいものには使えないかな。

おまえは、清々しい。朝の顔にふさわしい。ゲゲゲ夫妻のようだ。贈り物に採用しよう。

絵もプレゼントするかな。”プチファーブル”熊田千佳慕さんの絵だ。ミツバチさんも入ってるよ。

写真もプレゼントしよう。軽井沢で撮ってきたんだよ。ぼくにもなついてね。

桜の木も今日がミツバチの日だといことを知っていたみたいだった。


それでは、みなさん、今日も猛暑にまけて、ぐったりしましょう。
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旧軽銀座は中山道の宿場町だった

2010-08-27 20:11:38 | Weblog
前回述べたように、ぼくは軽井沢にはほとんど縁がなく、2か月ほど前、軽井沢の星野温泉に泊り、その周辺を歩いただけで、旧軽銀座あたりの”中心部”については何も知らなかった。それで、行く前に、とんぼの本の”軽井沢ものがたり(桐山秀樹ら)”に目を通しておいた。その中で、一番、関心をもったのが、旧軽銀座が、旧中山道の宿場町だったということだった。宿場町は結構、好きで、旧東海道の宿場町は品川から箱根まですべて歩いている。

宿場町のはじまりは、旧軽井沢ロータリーから始まり、碓氷峠の麓、二手橋まで、ちょうど、いわゆる旧軽銀座の700メートルの通りがそれだ。ここに本陣一軒、脇本陣四軒、そのほか旅籠屋、茶屋などが軒を連ねていた。そんな目で旧軽銀座を歩くのも楽しいものである。


ぼくらは、群馬県との県境にある碓氷峠の見晴らし台から、小型バスで、二手橋まで降りてきて、そこから、”宿場町”を歩いたので、そちら方面から下り、紹介してみたい。その橋の近くに、芭蕉の句碑が建っている。天保14年(1843年)に土地の俳人によって芭蕉の150回忌を記念して建てられたもので、”野ざらし紀行”中の一句である、”馬をさえ ながむる雪の あしたかな”の句が刻まれている。これは、”旅人をみる”という前書きがついていて、もちろんここでの作ではなく、熱田で詠まれたものであるが、宿場町の風情にも合う句である。

二手橋

芭蕉の句碑


皇女和宮の下向は文久元年(1861年)に行われ、中山道から江戸に向かったので、すでにこの句碑はあり、お目を通されたに違いない。そのすぐ横に旧中山道の面影を残す道が残されている。ここから碓氷峠を越えられて行ったのだ、どんなお気持ちであっただろうか。


明治に入ると、もちろん参勤交代もなくなるし、軽井沢は宿場町としての存在価値が低くなり、急速にさびれるが、避暑地としての軽井沢に復興させたのが、明治時代(19年頃)の英国人のショー宣教師であった。ショー礼拝堂が、芭蕉碑の前にあるが、当時ここにあった、宿場町の旅籠屋を別荘にしたのが始まりだそうだ。旅人が旅籠屋と間違えて、たびたび訪ねて来るので別の場所に移築したそうだ。昭和61年に軽井沢100年祭にこの教会の裏にショーハウスとして再建した。この教会は大正11年につくられている。

礼拝堂

ショーハウス


ここから、すぐの処に、有名人が訪れる名旅館”つる屋”があるが、江戸時代は茶屋で、二八蕎麦、煮しめ、強飯などを旅人用に提供していたということだ。大分”出世”したというところだろうか(笑)。

数分歩くと、むかし脇本陣”江戸屋”だったのだろうか。今はカフェーになっている。

一方、旅籠屋”白木屋”の子孫の方は、現在、写真屋さんになっている。




宿場町の通りの2/3ほど進んだところに郵便局があり、ここに、脇本陣”亀屋”があり、その子孫の方、佐藤萬平が少し離れた閑静なところに万平ホテルを創業した。ジョンレノン、オノヨーコご夫妻と子供もここに宿泊した。恐れ多くも(笑)、ぼくらも、今回ここに泊らせていただいた。



さて、本陣跡は?、と探したが、みつからなかった。たぶん、宿場町のほぼ中央にある、現在の軽井沢観光会館のあたりにあったのではないかと想像している。


それとも、この”どんぐり共和国”の辺りかな。福島原発から疎開してきたかも(笑)。となりのととろ。♪トトロ トトロ トトロ トトロ♪トロトロトロトロあるきつかれたわい。その晩、生ビールがうまかったこと(汗)。

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避暑地も暑かった

2010-08-27 10:18:38 | Weblog


”三日見ぬ間の桜かな”ということわざがあるが、今日の朝散歩で、たった3日みない間に、酔芙蓉が咲き始めていた。今朝咲き始めた、白い、まだ”しらふ”の花の他に、”二日酔い”でピンク色の、寝込んでいた花もいくつかあったから、どうも昨日が開花日だったらしい。

3日間、軽井沢に行っていた。避暑地の代表格といっていいところだから、いくら猛暑列島といっても、猛暑軍団も、この地だけは、はずしてくれるだろう、と思っていた。ところがどうして、朝夕はともかく、昼は、もうほとんど、こちらと変わらないといった陽気で、なんのために避暑地に行ったのか、疑問に思ったほどだった(笑)。

ぼくらが軽井沢に、入る前日、鳩山別荘に小沢軍団が集結し、ますます、この地を暑くしてしまったのかもしれない。鶴田浩二の”傷だらけの人生”じゃないけど、♪何から何まで真っ暗闇よ 筋の通らぬことばかり 右を向いても左を見ても 馬鹿と阿呆(あほう)の絡み合い どこに男の夢がある♪というところだろうか(爆)。でも、政治家のみならず、どの世界でも権力争いはあたりまえだし、そう目くじらたてることもないだろう。通常は”あほ世論の裏に道あり花の山”だけど、今回はどっちもどっちだ。政界も”世の中は三日みぬまの桜かな”だった。

ぼくらはミーハーなので、その暑さの震源地、鳩山別荘をまず探しに行った。旧軽銀座の輪島漆のお店のおばさんが場所を教えてくれたのだ。ついでに、今日午前中、陛下ご夫妻が思い出のテニスコートでテニスをしてたのよ、と教えてくれた。さらに、聞きもしないのに、あのお店がジョンレノンがよく買いに来たパン屋さんなのとも、ご教示いただいた。で、猛暑の中、ぼくらはミーハー路線で歩き回ったのだ。

旧軽銀座の始点の三叉路までくると、離山通りがあり(大船にも同じ通りがあるが月とすっぽん)、そちらへ進むと、高級別荘街に入る。並木道も生い茂り、日陰に入ると、ああ避暑地に来たんだな、という感じが少しはした。おばさんが”鳩山通り”があるからすぐわかるわよと言ったけど、軽井沢なんて二回しか来たことはないし、この辺りは初めてで、なかなか見つからなかった。離山通りを、横切る道が何本もあり、3本目か4本目で”鳩山通り”をやっとみつけた。

ところがである。その通りを丹念に探し、豪華な別荘はいくつもあったけれど、”鳩山”の表札は、とうとうみつからなかったのだ。田園調布の自宅は一発で見つかったんだけど(汗)。警備のため、別名の表札にしてあるのだろうか。まあ、でも、ぼくらには縁のない、高級別荘地風景をながめることができ、結構楽しめた。

また、旧軽銀座通りに戻り、ジョンレノンお気に入りのパン屋さんで、パンと紅茶で一休みして、近くの写真館に入り、なんと、その日の御夫妻のテニスの写真を観たり、あちこち散策して、テニスコート通りの横を通り、ホテルに帰ってきたのだった。(つづく)

旧軽銀座 

ジャム屋さんや蜂蜜屋さんが多い

輪島塗りのお店。ここのおばさんが、いろいろ教えてくれた。店内に鳩山夫妻と一緒の撮った写真が飾ってあった。

ようやくみつけた鳩山通りの看板

鳩山別荘はみつからなかったけど、こんな雰囲気の道

ジョンレノンがよく買いに来たパン屋さん

写真館もいくつかある。むかしからの古い写真もいっぱい。最新の写真は、本日の天皇、皇后ご夫妻のテニス。



思い出のテニスコート。もう半世紀になるのだろうか。ぼくも生まれて初めてみた。
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