気ままに

大船での気ままな生活日誌

明治のこころ展 モースが見た庶民のくらし

2013-10-31 12:47:36 | Weblog
モースといえば大森貝塚。なんと来日3日目、横浜から東京へ向かう列車の窓からみつけたそうだ。この展覧会で知った。ぼくの散歩道、江の島の橋のたもとに”モース記念碑/日本動物学発祥の地”の石碑が建っている。彼はシャミセン貝の専門家で、江の島の海岸に、それが豊富に生息していたので、研究施設をここに建てた。古い漁師小屋を改築したちゃちなものだったらしい。東大動物学の初代教授として、多くの次代を担う生物学者を育てたことでよく知られている科学者だ。

江ノ島のモース記念碑


海洋生物の研究のかたわら、モースは”博物学者の目”で、日本人、日本の文化をもみていたようだ(笑)。当時の人々が日常生活で使用していた品々を大量に蒐集して、米国に持ち帰った。それらは現在もピーボディー・エセックス博物館とボストン美術館に大事に保管されている。それらの中から厳選された320点の品々が140年の時を経てお里帰りし、ぼくらの前に現れてくれたのだからうれしい。

はじめに、第1章、”モースという人”において、科学者としてのモースの”蒐集品”が展示されている。江の島で採集した貝殻と大森貝塚出土品の数々だ。出土品は縄文後期のもので、いずれも重要文化財となっている。

そして、第二章が”日本と日本人/130年前の暮らしを彩る品々”。モースは、本郷キャンパス内の加賀屋敷第5番に住んでいたが、旅行も随分している。何度かに分けて、日光方面、北海道、瀬戸内海(気に入ったらしく2回)、京都などを訪ねた。本郷界隈や旅行先の風物を観察すると共に、写真もたくさん撮り、それらが着色写真として展示されている。

明治時代の生活用品が、いくつかに仕分けされて展示されている。よそおうでは、まず、歯に土がついている、使い古した下駄。からんころんと音を出す履物に惹かれたようだ。ぼくらも子供時代は下駄だったから、そう珍しくはないが、そういうものも結構あって、なつかしい。着物、前掛けや、赤い腰巻まで蒐集していた。女性の簪がいくつも。明治だからお歯黒の道具まで。お歯黒をつけた女性をみて、外国人にはぞっとするものだったと感想を述べている。やなぎ小枝の先端をつぶして房状に裂き歯ブラシにしたものははじめてみた。そして、足袋は手袋みたいだとの感想。丸い眼鏡も。

たべるでは、海苔、鰹節、いなごの佃煮がそのまま保存されているのにはびっくり。台所用品も面白い。しゃくし、皮剥き、すりこ木、まな板、たわしと集め、片手鍋は、何度も鋳鐵の修繕のあとがある。ところてんつき、菓子型、腰弁当なども。

すまい。全体的に簡素だが、清潔で掃除が行き届いていると感じていたようだ。まず、木綿の布に糸を刺した雑巾が登場。花をよく生けていることや、障子の穴を花形の紙でふさいだりするのにも感心したようだ(笑)。だから竹製の花入れや、とんぼ、ばった、きのこの形をした花生けも随分、蒐集したようだ。日本人ほど自然のあらゆる形状を愛する国民はいないと述べているが、こういうデザインをみての感想だろうか。飾り金具、襖引手などにも強い関心を示した。

こどもそしてあそぶ。日本人ほど子供を大切にしている国はない、日本は子供の天国であると絶賛。にこにこしている子供の写真がいっぱい。貝あそび(おはじき)、コマ、すごろく、かるた、そして虫かご。西洋人がカナリヤを飼うように、日本人は虫を飼い、虫の声を楽しむと感心する。



さらに、いのる。縁起熊手、散華、数珠、おみくじ、御幣、お守り袋まで。あきないでは、下駄屋、八百屋、蠟燭屋などさまざまなお店の看板が。なりわいでは、大工道具や花鋏、へら、ハケ、ろくろ、と手当たり次第のコレクション(笑)。博物学者の面目躍如だ。

第3章は”モースを巡る人々”で、日本人の監修を受けながらの、モースの陶器コレクションの一部が展示されている。そして、等身大の生人形が三体、特別展示されている。

人々が正直である国にいることは、実に気持がよい、と語っていたというモースさん。


ありがとうございます。モースさん。

えど博常設館では大奥展。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉄の井と鉄観音さま物語

2013-10-30 09:30:40 | Weblog
人形町を歩いた時、そこの大観音寺のご本尊、鉄造菩薩頭が鎌倉の鉄の井(くろがねのい)から掘り出された仏頭だったことを知り驚いた。それで、その翌日、早速、鎌倉での調査に向かったのでござった。

まず、”鉄の井”の捜査。八幡さまのそばということで、すぐぴんときた。小町通りのゴールの辺りに井戸があったはず。鎌倉十井のひとつ。やっぱりそうだった。




鎌倉町青年団による石碑に由来が記されている。


要約すると、この井戸は鎌倉十井のひとつである。水質は清らかで甘く、真夏でも水が涸れることはなかった。 その昔、この井戸から高さ5尺余りの鉄観音(くろがねかんのん)の首を掘り出したことにより、 この井戸を鉄の井と名付けた。 正嘉二年(1258)正月17日丑の時に安達泰盛の甘縄(長谷)の屋敷から出火し、南風にあおられて火は薬師堂の裏山を越えて寿福寺に燃え広がり、 総門・仏殿・庫裏・方丈など全てを焼き尽くし、さらに新清水寺・窟堂(いわやどう)とその周辺の民家、 若宮の宝物殿及び別当坊などを焼失したと吾妻鏡にある。この井戸から掘出された観音像の首は、この火災のときに土中に埋められたのを、掘り出したもので、新清水寺の観音像と伝えられ、 この井戸の西方の観音堂に安置された。明治初年、東京に移ったと云われている。

この記述から判断すると、新清水寺の位置は、寿福寺から八幡宮に向かう道沿いと推察される。たぶん、こんな位置ではないか。そうすると、鉄の井との距離はわずかで、火災後、ご本尊の仏頭を運び、土中に埋めることは容易である。


掘り出されて、西方の観音堂に安置されたとあるが、それも現存していない。ここから西方というと、幅広くとって、今の小町通りを駅方面に向かうか、川喜多映画記念館を右にみて、寿福寺方面に向かう道のどちらかだろう。

前者だとすると、現在工事前の調査を行っているここかもしれない(笑)。観音堂の遺跡が出るかも。


後者だとすると、この黒塀の川喜多映画記念館の庭園の可能性も。裏山はあるし、”古寺巡礼”の和辻哲郎旧邸もあることだし。この縁で和辻邸が東京から移されたかもしれないし。(カメラを向けている姿が写っているが、私メです


記念館のもう少し、先を行くと、雰囲気がいかにも観音堂らしい、小さなお堂がある。明治の廃仏毀釈で追いだされた鉄観音の後を襲ったのかも(笑)。崖の朝顔が見事!


さて、もう少し、詳しく知りたいなと思って、たぶん鉄観音さまが運ばれた道を行き、寿福寺から鎌倉駅方面へ。目指した先は図書館です、ここには他ではみられない鎌倉関連の資料がいっぱい。いきなりつかんだ本に、まさにこの鉄の井のことが、詳しくかつ面白く書かれていたのだ。長峯五幸著 ”鎌倉・趣味の史跡巡り”

まず、この鉄観音さま。原材料は砂鉄で、刀鍛冶も供養のため、協力したのではないかのこと。戦場に捨てられた刀、薙刀、槍も材料に使われたらしい。お首だけでも5尺もあるので、関東はおろか日本一の鉄仏であった。お顔も穏やかな、ハンサムな仏像さまで、鎌倉でも人気があったようだ。17日に人形町に行けば、拝めます。


こういう伝説がある。火災のとき、新清水寺のお堂から紫金色の光芒が立ち上がり、巨大な流星となって飛び去るのがみえた。そして、そこには首のなくなった観音様が倒れていた。時が経ち、雪ノ下の井戸の水がたいそうおいしくなり、また眼病、胃腸病などにも効果があり、たいそうな評判となった。かすかに鉄の匂いがするので、ひょっして鉄観音さまのお首が入っているのではと、井戸替えのとき、井の底を30センチほど掘ってみると、まさしくあの鉄観音さまが現れたのである。

井戸の西の方に、きれいな観音堂が建立され、お首は安置され、焼け崩れた胴も運ばれ、納められた。井戸は誰れいうともなく、鉄の井と名付けられた。観音堂と鉄の井は日増しに参拝者が多くなったのである。時が移り、江戸期に入っても、江の島・鎌倉遊覧ルートも整い、多くの旅人が訪れた。寛政9年には、あの谷文晁が訪れ、紀行文とスケッチを残している(文晁紀行鎌倉)。東大図書館所蔵とのこと。

さて、明治に入り、悪名高い神仏分離令。八幡宮寺は、ただの八幡宮となり膨大な仏像、経典などを放出した。東京から来たふたりの骨董屋さん、これは商売になると、鉄の観音様を縛り付け、由比ヶ浜に運ぶ。そして、舟で三浦半島を寄港しながら、お首を参拝させて銭儲けをしつつ、東京湾に入ったところで、仏罰で大嵐に会う。危機一髪のところ深川の御船蔵前の河岸に漂着したのだった。そして、現在の、人形町の大観音寺のご本尊になられたのであった。あの二人は、ほうほうのていで、どこかへ姿をくらましたそうな。すっかり悔い改めて、あくどい商売はやめたということだ。

以上、鉄の井と鉄観音さま物語でした。

鉄観音さまがいらっしゃる人形町の大観音寺。


。。。。。

上原、あとひとつのセーブでワールドチャンピオン!!!


むべなるかな。おんめさまのムベの実。すっかり熟れてきました。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あの素晴らしい浅草サンバをもう一度

2013-10-29 08:20:18 | Weblog
名曲、”あの素晴らしい愛をもう一度”をもじっていえば、”あの素晴らしい浅草サンバをもう一度”(笑)。8月末の浅草サンバカーニバルを楽しんだが、また、10月に、もう一度、あの素晴らしいサンバを湘南台で見物できるなんて、めったにない幸せ。

それも、出場するチームがすごい。数あるサンバチームのS1リーグ(サッカーと同じように、S1,S2リーグがある)の1,2,3位チームがやってくるのだ。はじめにチームの紹介を。

第32回浅草サンバカーニバル審査結果
1位 ウニアン(東京学生連合チーム)
2位 サウーヂ(横浜野毛チーム)
3位 仲見世バルバロス(浅草チーム)


さあ、早速、演舞開始。まずは、野毛のサウーヂ。
浅草のときのテーマは”お金が大好き”だったが。その衣装がちらりとありましたよ。

















そして、2番目は、優勝チーム、ウニアンの登場。あのときのテーマは”虫”。ここでもちらりと衣装に。

















そして、最後を飾るのが名門、仲見世バルバロス。夏のテーマは、”旅行”。ここでもちらりとその風情。



















どのチームも、浅草サンバカーニバルのときの1/10の人数、迫力だったけど、ダンサーは精鋭が勢ぞろい。十分、楽しめましたよ。また、来年の夏が楽しみ。

熱き心をしずめるために(爆)、その足で、江の島からの富士山を観に行ったが、雲隠れされていた。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

湘南台ファンタジア ステキなパレード

2013-10-28 09:57:00 | Weblog
秋晴れの、すがすがしい日曜日。平塚の薔薇フェスティバルのあとは、藤沢のフェスティバル、湘南台ファンタジア。もう15回目となるそうだが、はじめての見学だ。何故か?浅草サンバのチームがここのパレードに参加することを知ったから(汗)。はじめからおわりのサンバチームまで、すべてみさせてもらったが、とてもステキなパレードだった。一緒に行ったワイフも終始ニコニコ。

では、パレードのはじまり、はじまり。

はじめは地元幼稚園生の行進。かわいい!の声が飛ぶ。


そして、藤沢市消防音楽隊。さすがの演奏。


これには、おどろき。横浜ベイサイドのハーレークラブ。ハーレーダビットソンのオートバイが続々と。運転手は高齢の方が多い。めったにみられない最高級車。






湘南台商店街のゆるきゃらも応援


そして地元の高校生の演奏行進がつづく。






アメリカ第七艦隊音楽隊も力強い演奏。


そして琉球国祭り太鼓がどどんと。




なななんと、阿波踊りまで。相州大和あずま連。待ってました!
















阿波踊りまでみられるなんて、ラッキー。もしかして、よさこい、もと期待したが、そうはいかなかった。そのあとは、浅草サンバカーニバルに出場したベストチームが三組も!!!一組だけと思っていた、これも予想外! 詳しくは、次回の記事をお楽しみに。





コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋日和 ローズフェステバルに

2013-10-27 18:35:59 | Weblog
台風一過の秋日和。ふたりで出掛けた先は、平塚の花菜(かな)ガーデン。前回、はじめて行ったのが、8月の初め。ムクゲが見頃だったが、野生種から最新のバラまで約1,100品種1,600株もあるという薔薇はもうほとんど終わっていた。次は秋バラの頃と決めていた。

ローズフェスティバルが始まっていて、日曜でもあったし、駐車場は満杯に近い盛況。ぼくらは、平塚駅から秦野行のバスで20分。


入園してすぐに、薔薇園に直行。入口近くの裸体像の前のバラが目安。夏薔薇のときは一つふたつ咲いていたほどだったが、今回はこんなにもたくさん。でも欲張りだから、もうちょっと、わんさか咲いてて欲しかったけど。でも、10月としては珍しく、次々と台風が襲来したり、真夏の気候だったりして、薔薇だって、やっちゃいられないよ、と思うだろう。しょうがないよね。


でも、奥の方に行ったら、ずいぶん咲いているところがあったし、いろんな種類の薔薇をみせてもらい、大満足でしたよ、バラさん。




















花びらは散っても花は散らない


遠くに大山もみえて。ほうき草も色づいて。




西洋朝顔はまだまだ。


きのこも元気に。


梨の花は元気すぎて、くるい咲き。いいんだよ、お祭りのときは。何もかも忘れて、狂えばいい。


大山。 




富士山も。


朝、早く出たんで、ゆうゆうと平塚駅で食事。それから、藤沢の湘南台に向かい、湘南台ファンタジアのパレードを見学。これが、また。明日、報告します。

これも良かった。花も実もある、いいバラ園だった。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富士と酔芙蓉と水たまりの雲

2013-10-27 08:17:10 | Weblog
今朝の散歩で、久しぶりの富士山。冠雪は確認できなかった。


酔芙蓉はそろそろ終焉か。新しい花が咲き切れなくなっている。朝からピンクが混じっているのは2日かけて咲いたのかも。


水溜まりに白い雲。庭師・小川治兵衛は池にうつる雲も計算に入れていたという。散歩師気ままも、水溜りの雲も計算にいれて歩いている。


小さな小さな水たまりも計算に入れている。 そうそう今日は下弦の月じゃった。おまえはお月さまの回し者か。


主人がいないと散歩できない犬もいる。自由はいいぞ。飛び出せワンコ。


桜の幹から生まれたさくらんぼ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝夕安居 清方

2013-10-26 11:20:03 | Weblog
鎌倉の鏑木清方記念館で、”昭和に描いた明治の風情”展が開催されている。そこに、清方が昭和23年に、誰れのためでもなく、自分自身のために描いたという絵巻”朝夕安居”が展示されている。これは、物心覚えた頃、明治20年頃の築地あたりの夏の一日を描いたものだ。

清方フアンの野坂昭如さんが、市井の人々の生活を描いた清方の絵をみると、なつかしくて涙が出てくるよと、どこかで語っていた。きっと、こういう絵のことをいうのだろう。ぼくも大好きな絵だ。4メートルほどの絵巻だが、分断して5枚の絵ハガキにしたセットがあることを知り、買い求めた。

この絵巻にはりっぱな詞書もついていて、達筆な文字で、それぞれの風景の説明をしてくれている。実物展示には遠く及びませんが、お裾分け絵ハガキ展示をしたいと思います。

1)朝の風景。新聞配達をする少年。道を掃き清める奉公の娘さん。煮豆屋の車を呼び止めるおかみさん。


2)家の裏側では井戸端会議の真っ最中。元気のいい声が聞こえてきそう。水桶を運ぶおねいさん。朝顔、物干しに干された浴衣。


3)夏の昼。日差しを避けて、百日紅の木陰で一服する風鈴屋さん。ちりんちりんと涼やかな音が聞こえてきそう。


4)夕方。娘さんが行水で汗を流している。手前の女性は灯りの準備をしているのだろうか。


5)むぎゆ(麦茶のこと)、さくらゆを楽しむ人々。夏の夕方、涼み台を並べ、むぎゆやさくらゆを売るお店がかってあった。子供のかわいいこと。


明治まで遡らなくても、ぼくらの子供時代の昭和でもそういう雰囲気があった。新聞少年、豆腐売り、納豆売り、井戸端会議、行水などなど。なつかしさがよみがえる。

本展覧会では、清方が明治を偲んだ絵がいくつも。

慶喜恭順。清方が能を観劇したときに、隣りの桟敷に慶喜がいた、乱れのない姿に大政奉還後の恭順の姿を保ち続けているような印象をもったという。


女役者粂八、にごり絵の口絵、虫の音なども。

次回も楽しみ。


清方記念館


ご近所の見事な朱い木の実。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人形町の巨大仏頭

2013-10-25 09:22:02 | Weblog
先日、芸大美術館で興福寺の「銅造仏頭」をみてきたばかりだが、日本橋の人形町にも、(こちらは鉄造だが)、巨大な仏頭があることを知った。

久しぶりのぶらり人形町で、たまたま、はじめに入ったお寺が、大観音寺。案内板をみて、びっくり。ご本尊は鉄造菩薩頭で、興福寺のと同様、数奇な運命を辿って、ここに落ち着いたとのこと。

何と、故郷はわが鎌倉。な、なんとな、おいらの目はらんらんと輝く。もともとは鎌倉の扇ヶ谷にあった、政子の建てた新清水寺(現在はない)の本尊だったが、鎌倉時代の火災により寺は焼失、鉄観音菩薩像の行方もわからなくなっていた。それが、江戸時代になって、鶴岡八幡宮前の”鉄ノ井”から仏頭だけが掘り出され、しばらく鉄観音堂に安置されていた。その後、明治の廃仏毀釈の流れの中、由比ヶ浜に捨てられるところを助けられ、船で東京深川の御船蔵前に運ばれたようだ。そして、明治9年に現在地に安置されたという。

大きさは、総高170センチ、幅53センチというから、興福寺の仏頭、総高98.3センチよりも大きい。ご尊顔を拝みたかったが、お寺の方に、ご開帳は毎月、17日で、今日はみられません、と言われた。幕のうしろにいるはずの菩薩さまにも御参りした。そして、あと10年は元気に歩けるようにと韋駄天のお守りを買った(汗)。



そのあと、近くのご馳走居酒屋でお昼をいただく。はじめて入るお店。お酒もと思ったが、ランチタイムで飲んでる人もいないので、850円のおすすめランチだけを頼む。オーナーが三船敏郎の大フアンということらしく、店内は三船敏郎一色。店の名前まで”三船”。おいしかったので、今度、夕方、飲んでみよう。




人形町をぶらぶら。ここでお酒を飲んだことがある。有名な居酒屋。お惣菜の数が半端じゃない。


酉年で共食いになるけど、ここで親子丼を食べるつもりだった。でもこの行列じゃ。いつもすごい。玉ひで。


その前の喫茶店も人気。むかし、嵐山光三郎が、ここの美人姉妹がいい、と書いていたので、入ったら本当にそうだった(汗)。もう、だいぶふけただろう(爆)。今回は確認しなかった。


ワイフの好きな洋食屋さん。


水天宮が弁慶さんの近くに来ていたのにはびっくり。今、新社殿の建築中で、しばらくここで”営業”とのこと。しばらく来ないといろいろある。


変わらないのは弁慶さん。江戸三座のうち、市村座と中村座がここにあった。人形浄瑠璃も盛んで、人形師がいっぱい住んでいた。


小便小僧も変わらなかった。


いつ来てももイイネ。人形町!!! また来るよ。そうそう、菩薩頭のご開帳の日にね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カイユボット展

2013-10-24 12:38:39 | Weblog
ブリヂストン美術館で開催されているカイユボット展を観てきた。都市の印象派、日本初の回顧展というサブタイトルも付いている。ぼくがカイユボットを知ったのが昨年、パリのオルセー美術館で、彼の”床に鉋をかける人々”を観たとき。そのとき、ガイドさんから、この人は、お金持ちの人で、自分で絵を描くだけではなく、自分と同年輩の、当時は、貧乏な印象派の画家たちの絵を買ってあげたり、アパートの賃貸料を払ってあげたりの支援をしたえらい人だと聞いた。だから、このカイユボット展は見逃せないと思っていた。

はじめに、その”床に鉋をかける人々”。今回、来日はしていないけど、ぼくのきっかけの絵なので参考までに。


この絵のことだと思うけど、”床削り”と共に、第2回目の印象派展に初出品したのが”ピアノを弾く若い男”。両作品が画家デビューの作といっていいという解説があった。ブリヂストン美術館が最近購入した。その頃のピアノも展示室内に置いてあり、雰囲気を出していた。


どういう顔をした人かというと、自画像は5点ほどあるそうだが、そのうち3点が展示されている。20歳代のものから40代のものまで。167センチくらいの身長で、なかなかハンサムだったようだ。これはちょっと老いがはじまった40代の頃。45歳で亡くなっているから、もう晩年。


パリ八区に住んで、パリの都市風景をよく描いた。”ヨーロッパ橋”では、当時は珍しい鉄製の橋を中心に行き交う人々を、ブルジョア、労働者階級をそれぞれ描き入れている。他の絵でもそう。


街角の何気ない風景にも目を向ける。人々はやはり、それぞれの階級が登場。”建物のペンキ塗り”、第3回印象派展出品。


”パリの通り雨”シカゴの作品の習作とのこと。


そして、別荘のあったイエール川での風景。ベリソワール(一人乗りの平底のカヌー)で遊ぶ人々。12才の頃から夏休みを過ごした特別な地。舟の設計まで手がけたそうだ。5点ほどのボート作品がある。

イエール川のベリソワール(ワシントン・ナショナルギャラリー)


シルクハットをかぶったボート漕ぎ


酉年にとって、衝撃の静物画も。 あのシャルダンのような。


ちょうど、学芸員さんによるスライドトークもあり、楽しく観ることができた。カイユボットフアンになった日だった。














コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いろとりどり野葡萄の実 東慶寺

2013-10-23 18:41:15 | Weblog
東慶寺の野葡萄の実がいろとりどりに。まるで宝石みたい。






秋明菊もいろとりどり。八重も含めて5種類も。









東慶寺の門前にギャラリー&ショップもいつまにかオープン。いろとりどりのおみやげひんが。


禅寺らしく〇と△。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする