気ままに

大船での気ままな生活日誌

国宝 一品経懐紙(西行ら14枚)附・紅梅図(土佐光起筆)

2013-08-03 11:04:04 | Weblog
この夏、祇園祭に行ったときに京都国立博物館の特別展”遊び”を観てきた。展示品の中に国宝が一点あって、それは、土佐光起の”紅葉図”。朱色も鮮やかで、枝振りの良い紅葉の絵にみとれてしまい、さすが国宝、と感心した。しかし、この絵そのものが国宝というわけではなく、一品経懐紙(西行・寂蓮等14枚)が帖装に仕立てられた時期に表紙の裏に描かれていたもので、国宝指定はセットとしてのものであることを京博の案内で知った。

寂蓮・西行をはじめ平安時代末期を代表する歌人や名筆たちが、法華経二十八品の一品ずつを首題として詠んだ和歌懐紙。各人の位署書から、治承四年(1180)から寿永二年(1183)までのものと推定される。名だたる歌人たちの筆跡がまとまっているおり非常に重要。現在、西行の懐紙は剥がされ掛幅装となっている。本帖には、土佐光起(1617~91)の筆になる紅葉図が附属しており、もともと表紙の裏に描かれていたものとされている。これら一連の懐紙が帖装に仕立てられた時期もこの頃までさかのぼることになる

そうなると、一品経懐紙をみて観たいと思うのが人情。ふと、明日行く予定にしている東博の特別展「和様の書」のことを思いついた。もしかしてと、作品リストを上から順に目を下していくと、なななんと、第3章/信仰と書の中にあるではないか。

73 国宝 一品経懐紙 西行筆 1幅 平安時代・12世紀 京都国立博物館 ~8/4

それも、8/4、明日まで展示!!あぶないとこだった。美術の神様はぼくをみていてくださる。それも、ぼくの好きな西行の書だ。

東と西で、同時期に一品経懐紙の書と絵画を観ている人は、そうはいないだろう。えへんえへんと、ぼくは明日、上野に行くのデアル。

一品経懐紙附・紅葉図(土佐光起)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あと一歩の悔しさ

2013-08-03 09:36:35 | Weblog
今日も午前3時過ぎまで、テレビで世界水泳を観ていた。メダル有望種目が多く、まず、ふたつは頂きかなと思っていたが、すべて、あと一歩の悔しさで、4,5位に終わった。ぼくらが残念、悔しいと思う、その何百倍も悔しい思いをしているのは選手の方である。

インタビューでも心のうちをあまり明かさず、淡々とした受け答えをする選手が多い中、二百平で、タッチの差で銅メタルに届かなかった金藤利恵選手は違った。胸に込み上げるものを抑えきれず、大粒の涙がぼろぼろと頬を伝わった。これまで支援して下さった方に形として(メダルのことか)お返ししたかった、という意味のことを絞り出すように声にした。この大会を自分自身の水泳人生の集大成としたいと思っていたのかもしれない。

あと一歩の悔しさは、どんな人生にもつきものである。ノーベル賞候補といわれて何年も経つのに声がかからない科学者。芥川賞候補には何度も挙がったのに、いつも落選の人気作家。なんで、あいつが課長にと悔しがる同期の係長。なんで、あんな女がもてるのよ、と悔しがる同室の仕事のできる女。

どちらも、あと一歩の悔しさ。でもその悔しさの中身には、かなりの隔たりがある。水泳選手の悔しさは内に向く。順位とかタイムとか厳然たる数字がつきつけられ、それに文句をつけるわけにはいかない。それに到達できなかった自分の努力不足あるいは調整不備等、すべて自分の中に非を求める。

一方、一般社会。これは、もともと厳然たる数字がない、基準がない。人の数だけ物差しの種類がある。ある人が褒めても、別の人は貶す。大多数の人が認めても、その道の権威が、あいつは気にくわんと言えば昇進も受賞もおじゃんになることは普通のこと。だから、一般人は、非を自分に求めず、他人の物差しの不正確さを嗤う人が多い。あるいは、社会の評価を無視し、自分の物差しだけで世を渡る。

ただひとつの物差しで勝負できる水泳競技。それに青春のすべてを捧げ、世界選手権にまで出場し、上位入賞する。それだけで、ぼくらはうらやましくってしょうがないんだよ、ともらい泣きしてしまった。



800リレーもあと一歩の悔しさだった。銅メタルを狙い、三チームがほぼ同時ゴール。タッチの差で5位に。


200背泳も入江、萩野も、4,5位に。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする