
鎌倉文学館、開館25周年記念特別展として表記の展覧会が開かれている。川端は生粋の鎌倉文人で、日本人初のノーベル文学賞受賞者、そして三島は、川端の推挙で世に出、名作”春の雪”で、侯爵邸として、この鎌倉文学館をモデルにしている。同館記念の展覧会としては、これ以上の企画はないだろう。加えて、庭園の秋薔薇は見頃になっている。
三部構成になっていて、第一部は”日本文学のノーベル賞”で、川端の同賞受賞関連の資料が展示されている。当時の毎日新聞の記事もあったが、その祝辞の解説記事は三島が書いている。当時、三島もノーベル賞の有力候補で、どちらかというところだったらしい。翌日、長谷の川端邸に、お祝いに駆けつけるが、車の中で、次のノーベル賞は10年はないな、と述べていたそうだから、半分残念な思いもあったのだろう。
ノーベル賞をすでにとっていた、湯川秀樹と朝永振一郎の、お祝いの言葉も新聞に載っていた。お二人の性格がよく出ているコメントで面白かった。湯川は、日本文学は紫式部以来、世界の先進国なのだから、受賞は遅いくらいだった、若いとき”雪国”を読んでから、ずっと愛読しているとも述べていた。朝永は、自分が受賞したとき風呂場で転んだので、転ばないようにと、語っていた(笑)。お二人の随筆は好きで、よく読んだものだ。今も本棚にある。
祝電がいくつもあった。その中に小百合ちゃんからのもあった。きっと、映画、”伊豆の踊子”に出演したからだろうと、推測した。ノーベル賞の実物のメタルもあった。はじめてみたが、金色に輝く”金メタル”だった。ぼくも持っている、受賞講演の”美しい日本の私”、そしてその生原稿もみることができる。
昭和43年10月18日毎日新聞 翌日、川端邸での川端と三島


ノーベル賞委員会が、とくにすぐれた作品としてあげた三つの小説

第二部は”鎌倉文庫からの出発”。戦後の有名な鎌倉文士による貸本屋さんから始まった鎌倉文庫は、出版社となり、文芸誌”人間”を発刊する。川端はここの重役、そして三島はここから”煙草”の掲載を認められ、ふたりの戦後の活躍が始まる。ここでは、互いに認め合った、両者間の書簡や、それぞれの名作の初版本や原稿が並ぶ。三島の”花ざかりの森”、”仮面の告白”、”潮騒”等、川端の”雪国”、”名人”(川端はこの作品を自分では一番評価している)、”山の音”、”千羽鶴”等である。
”山の音”の舞台となった甘縄神明神社(ぼくの写真)。この下に川端邸がある。

第三部は”伝統へ、世界へ”。昭和31年頃、米国で潮騒がベストセラーとなり、雪国も翻訳され、二人の作品は各国で翻訳されるようになり、前述のように、二人とも、ノーベル賞候補となっていくのだ。川端の受賞後、三島は次第に民族主義的行動をとるようになり、楯の会に入り、昭和45年11月25日、豊穣の海、四部作の最終原稿を書き終えた、その日、自衛隊の市ヶ谷駐屯地で演説し、割腹自殺をはかる。
川端は”三島君の死から私は横光君が思い出されてならない。二人の天才作家の悲劇や思想が似ているとするのではない。横光君が私と同年の無二の師友であり、三島君が私とは年少の無二の師友だったからである・・・豊穣の海は源氏物語以来の日本小説の名作かと思った、三島君の死の行動については、今私はただ無言でいたい”と述べている。
そして、一年半後、川端も逗子の仕事場で自殺する。
翻訳本

金閣寺 豊穣の海



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