今、算数とアートサイエンスクラスを教えている放課後スクール。
ベテランスタッフに囲まれ、私ほど、準備に時間のかかる人はいないと思う。
教え始めは、1週間前から資料に目を通し、言葉のハンディがあるためと与えられるビジュアルエイドの倍のエイドを揃え、何をどの順序でどう話すか、どこで模型を見せ、どこにどんな質問をはさみ、どのタイミングで見本を示し、どこで絵の具を配りと計画し、インストラクションや説明文のひとつひとつにいくつかの言い回しを用意し、発音しにくい単語を文脈の中でさらりと言えるよう何度かリハーサルし、出そうな質問をシミュレートし、やんちゃな子達への対処法を考え、我が家の子供たちの前で授業をしてみせ、また練り直し、その後も一人で何度か授業演習をし、リズミカルにテンポよく進められるようにしていく。そして授業直前は、イメージトレーニング。気持ちを盛り上げ、やんちゃな子達に萎えない勢いを湧き上がらせ、気合をいれ、いざ、学校へ!
私の場合、これでようやく、よくやった!と何とか認めていただける授業ができている。
ところが、周りの皆さん、子供たちの集まる講堂で、授業の何分前かにさっと資料に目を通し、「ああ今日はこんな感じね」と、さらりと授業に向かわれる。
それでもちろん授業は、よくやった!と認められるものに仕上がっている。
この差・・・。
それで思う。
「持てる条件」が全く違う中で、
一直線に並べられ比較されることの
しんどさを。
私の場合は仕事だから、
何が何でもある程度のレベルまで仕上げる必要があり、
私自身それにとてもやりがいを感じていて大変ながらも喜びの方が大きいのだけれど、
それでもこれが、今の教育システムの中で、
子供達が普段突き付けられる評価や成績だとするならば・・・。
私にとっては、
小学校で教えるという経験の積み重ねの違い、
文化や言語の違いなどが、
こうした「きつさ」を生み出している。
それを子供にとっての、
特性や、脳の特徴、発達の凸凹に置き換える時、
その「きつさ」が、ありありと迫ってきやしないだろうか。
「手持ちのカード」が全く違うのに、
一直線に並べられ比較されるきつさ。
日々続く学校生活の中で、
ぜいぜいと息を切らし立ち止まったところ、
「なんでこんなこともできないの?」と評価され、
次第に自信を失い、自分はダメだと思い込み、やる気もそがれ・・・。
その子の「手持ちのカード」をみてやること、
そして周りとではなく、
その子の昨日と比べ、
その子のやり方やペースで上達していくサポートをしてやることの大切さを思う。
その子に適した工夫をして、その子なりのペースで進むうちに、
少しずつかもしれないけれど、必ずその子なりの上達をしていく。
私自身、まだまだベテラン先生方の「授業前の5分で準備」には及ばないけれど、
今では教え始めに比べ10分の1くらいの準備で、
これまで以上の成果を出せるようになってきているように。
めげそうになったときは、
「まあね、こんな『手持ちカード』で、
今まで想像もしなかったような環境の中、
私なりによくやってるよ」
そんな言葉を自分にかけてやることで、
ちょっと楽になったもの。
その子なりに頑張れるよう、
励ましてやりたい。
一直線紋切り型の評価に焦らず、
周りより時間がかかってもしょうがないと腹を据え、
その子にできる限りの、能力やスキルを磨くサポートをしていくこと。
子供達一人一人の「手持ちのカード」が考慮され、
特性や凸凹にじっくりと取り組めるカリキュラム、
多様な教育スタイルを選択できるシステムの大切さを、
強く思いつつ。