goo blog サービス終了のお知らせ 

マイコー雑記

行き来するもの書き留め場

「手持ちのカード」が異なる中で一直線に評価されるきつさ

2016年01月05日 | 放課後スクール

今、算数とアートサイエンスクラスを教えている放課後スクール。

ベテランスタッフに囲まれ、私ほど、準備に時間のかかる人はいないと思う。

 

教え始めは、1週間前から資料に目を通し、言葉のハンディがあるためと与えられるビジュアルエイドの倍のエイドを揃え、何をどの順序でどう話すか、どこで模型を見せ、どこにどんな質問をはさみ、どのタイミングで見本を示し、どこで絵の具を配りと計画し、インストラクションや説明文のひとつひとつにいくつかの言い回しを用意し、発音しにくい単語を文脈の中でさらりと言えるよう何度かリハーサルし、出そうな質問をシミュレートし、やんちゃな子達への対処法を考え、我が家の子供たちの前で授業をしてみせ、また練り直し、その後も一人で何度か授業演習をし、リズミカルにテンポよく進められるようにしていく。そして授業直前は、イメージトレーニング。気持ちを盛り上げ、やんちゃな子達に萎えない勢いを湧き上がらせ、気合をいれ、いざ、学校へ!

 

私の場合、これでようやく、よくやった!と何とか認めていただける授業ができている。

 

ところが、周りの皆さん、子供たちの集まる講堂で、授業の何分前かにさっと資料に目を通し、「ああ今日はこんな感じね」と、さらりと授業に向かわれる。

それでもちろん授業は、よくやった!と認められるものに仕上がっている。

 

この差・・・。

 

それで思う。

 

「持てる条件」が全く違う中で、

一直線に並べられ比較されることの

しんどさを。

 

私の場合は仕事だから、

何が何でもある程度のレベルまで仕上げる必要があり、

私自身それにとてもやりがいを感じていて大変ながらも喜びの方が大きいのだけれど、

それでもこれが、今の教育システムの中で、

子供達が普段突き付けられる評価や成績だとするならば・・・。

 

私にとっては、

小学校で教えるという経験の積み重ねの違い、

文化や言語の違いなどが、

こうした「きつさ」を生み出している。

 

それを子供にとっての、

特性や、脳の特徴、発達の凸凹に置き換える時、

その「きつさ」が、ありありと迫ってきやしないだろうか。

 

 

「手持ちのカード」が全く違うのに、

一直線に並べられ比較されるきつさ。

 

日々続く学校生活の中で、

ぜいぜいと息を切らし立ち止まったところ、

「なんでこんなこともできないの?」と評価され、

次第に自信を失い、自分はダメだと思い込み、やる気もそがれ・・・。

 

 

その子の「手持ちのカード」をみてやること、

そして周りとではなく、

その子の昨日と比べ、

その子のやり方やペースで上達していくサポートをしてやることの大切さを思う。

 

その子に適した工夫をして、その子なりのペースで進むうちに、

少しずつかもしれないけれど、必ずその子なりの上達をしていく。

 

私自身、まだまだベテラン先生方の「授業前の5分で準備」には及ばないけれど、

今では教え始めに比べ10分の1くらいの準備で、

これまで以上の成果を出せるようになってきているように。

 

めげそうになったときは、

「まあね、こんな『手持ちカード』で、

今まで想像もしなかったような環境の中、

私なりによくやってるよ」

そんな言葉を自分にかけてやることで、

ちょっと楽になったもの。

 

その子なりに頑張れるよう、

励ましてやりたい。

 

 

 

一直線紋切り型の評価に焦らず、

周りより時間がかかってもしょうがないと腹を据え、

その子にできる限りの、能力やスキルを磨くサポートをしていくこと。

 

子供達一人一人の「手持ちのカード」が考慮され、

特性や凸凹にじっくりと取り組めるカリキュラム、

多様な教育スタイルを選択できるシステムの大切さを、

強く思いつつ。

 

 


「日本は悪い」と飛行機を折りながら、少しでも世界を広げるきっかけを

2015年12月15日 | 放課後スクール

昨日のアートサイエンスクラス。

課題が終わった子達と折り紙をしながら、

日本の話をしていたときのこと。

 

普段大人しくてあまり話すことのない男の子が、

「日本は悪い国なんだよ。日本のこと嫌い」と。

うつむいて、折り紙で作ったいつかの飛行機をテープでくっつけながら。

「そう?どうしてそう思うの?」と聞いてみる。

 

「日本はね、アメリカを攻撃したんだ。

飛行機で飛んできてね、爆弾を落とした」

「ああパールハーバーのことね。歴史をよく知ってるのね」

口を結んで、うつむいて手を動かし続ける男の子。

 

授業終わり時間も間近。

また少し目を離すと、

走り回ったり、

周りにちょっかいかけたり、

使うべきでない備品をいじってみたり、

「不適切な」歌を大声で歌い始めたりする子もいて、

常にあちらこちら動き回る必要もあり、

ゆっくり話すということもなかなかできなかったのだけれど。

 

・パールハーバーについては様々な説があり、

色々な立場からの意見に触れてみるといいということ。

・たとえ「国」として納得できない行為をしたとしても、

そこに暮らす人々には、様々な人がいるということ。

国を超えて、個々人と関係を築いていくことの大切さ。

 

そんなことをさらりと伝え。

 

こういった小学生の言葉は、

「親の意見」を聞いているようなものなのだろう。

普段からそんな親の態度や言葉を聞いていれば、

そうなっていく。

 

「よそ者」や「弱きもの」を激しく叩く人々の中には、

社会的に苦しい立場にある人々が多くいる。

虐げられ、搾取され、

その怒りの矛先が、移民や、他宗教や、「異質なもの」へと向かう。

 

男の子の家庭も厳しい状況にある。

本人も学業面で遅れ、普段教室の隅にいて、ほとんど発言することもなく。

「日本は悪い、嫌い」という言葉に込められた怒り・憎しみ。

 

 

問題の根は深く大きくも見え、

週に数時間接する私に一体何が出来るのだろうと、

途方に暮れてもしまう。

 

まあでも、目の前の一歩からできることをしていくしかない。

「悪い、嫌い」から、少しでも、世界を広げられる機会を作れたらと思う。

 


「アートサイエンスクラス」、思い出溢れるオーロラを描いて

2015年12月08日 | 放課後スクール

今週来週の「アートサイエンスクラス」はオーロラについて。

なぜオーロラが起こるのか?

 

昔の人々は、色々な理由を考えたんだね。

バイキングは、「戦士の幽霊」としたり、

ネイティブアラスカンは、「サーモンや動物の魂が夜空に舞っている」ととらえた。

 

科学的にはどう説明されるんだろう?

いくつかの層からなる太陽。

その一番外の層「コロナ」で起こる太陽風(プラズマ)が地球に届き、

大気中の粒子と衝突して光が放出されるんだね。

 

そう皆で太陽風やオーロラの仕組みについて話し合いつつ、

水彩絵の具とラバーセメント(Rubber Cement)とマーカーを用い、

オーロラを制作中!

 

まずは水彩絵の具をはじく「ラバーセメント」で、

画用紙に雪部分を描いて。

その後絵の具で塗り、

最後にマーカーで、

山や木々や動物や家の「シルエット」を描く。

 

夢中で取り組む生徒たち。

アラスカの思い出溢れるオーロラを、

こんな形で生徒と共有できて、

嬉しい。

 

写真:Wikipediaより。


アートサイエンスクラス、月の満ち欠けもぐもぐプロジェクト

2015年12月01日 | 放課後スクール

昨日の授業は、月について。

月は約28日かけて、地球を一周するんだね、などなど

皆で話し合い。

 

その後、

月の満ち欠け(phases of the moon)を、

クッキーで創った!

 

新月(new moon)

三日月(waxing crescent)

上弦(first quarter)

十三夜(waxing gibbous)

満月(full moon)

十八夜(waning gibbous)

下弦(last quarter)

二十六夜(waning crescent)


終わったらもぐもぐ。

美味しいプロジェクトに、

生徒たち大はしゃぎ。

 

言葉だけや、

写真を眺めているだけでなく、

自分の手や感覚を用いて実際作り、

この満ち方は十三夜にしては小さすぎるかな、

この欠け方は二十六夜にしては大きすぎるかな、

そう工夫してみることで、

知識もより自分のものとなる。

毎回の授業で実感している。

 

 

 


教える側が日々思い出していきたい大切なこと

2015年11月17日 | 放課後スクール

教えるという仕事はつくづく、

限りなく必要最低限で済ませられもすれば、

より良くするために限りなしと進むことも出来る。

 

中国の学校を視察したビルゲイツが、

アメリカの学校では、

先生へのフィードバックシステムがいかに欠けているかを指摘していたことがある。

 

先生同士が集まるなどして、

ミッションステイトメントのようなものを読んだり、

このやり方が効果的などといった意見交換をしたり、

教育関連の勉強会を持つことの大切さを思う。

 

給料や待遇やらも関わるわけだけれど、

今の仕事は、州で最大の補助金を受けているとされるだけあり、

放課後スクールとしては多分破格の給料だと思う。

 

保身のため、自らの評価のため、生活のため、

現実的にはそういうことも関わってくるのだけれど、

そうした様々な思いを持ちつつも、

「目の前の子供たちの成長のために何ができるか」

その根本的なところに日々立ち返る時を、

教える側が持つ大切さ。

 

ウォルドフルの学校などでは、

授業開始前に教師皆で集まり、

手をつないでインスパイヤリングな詩を読んだりすると聞くけれど、

そんな「今子供と過ごす根本的な意味」を思い出す時を、

大切にしていきたいと思う。


アフリカンアメリカンの掃除係りのお婆さんへ向ける子供たちの眼差し

2015年11月14日 | 放課後スクール

昨日の放課後スクールにて。

 

講堂に集まり、スナックを食べる子供達。

コーディネーターの方が、その日の予定を話し始めるのだけれど、一部の生徒がふざけあってなかなか耳を貸さない。迫力みなぎる怒鳴り声がこだまする。一瞬静まるものの、またくすくすけたけた。他のインストラクターの方が個別に注意するも、またすぐにふざけはじめる。

そこへ、モップとバケツを抱えた60代に見える小柄なアフリカンアメリカンの掃除係りの方が、いてもたってもいられないという様子で講堂へかけこんでくる。そして、その「聞かない子達」をにらみ付けながら、話し始めた。

「このプログラムがどれほどの機会を与えてくれているか、何であんたたちは分かんないんだね!あんたたちの家庭ではね、こういったことを学ぶことが出来ない、こういった楽しみを得ることができない、だからこそ、こうして皆さんが助けてくれてるんじゃないかい。それをなんでこうやって踏みにじるようなことばかりするんだい!いいかげんにせんかー!」

アフリカンアメリカン独特のアクセントで、わなわなと震えながら。

全然言うことを聞かなかったそのアフリカンアメリカンの子供達の表情が一気に引き締まり、それまで見たことのない、はっとするような真剣な目。

 

 

初老のベテラン教師が拍手を始め。会場が拍手に包まれた。

アフリカンアメリカンの掃除係りのお婆さんへ向ける、あの打って変わったような真摯な眼差し。

この子達は、きっと大丈夫、何だかそう安心する自分がいた。

 

 

飛びぬけた「問題児」のほとんどがアフリカンアメリカンの子供達。

飛びぬけて「いい子」には、コケージャンもアフリカンアメリカンもヒスパニックもいるのだけれど。

その大胆さ、傍若無人さ、ある意味「分かりやすい」問題の起こし方をするということなのだと思う。

 

 

 

こちらにきて、子供達も私も、アラスカでは感じたことのなかった人種問題の深さを肌で感じている。

「バルチモア暴動」の起こったバルチモアもここから一時間も行かないところにある。

 

長男など、「アラスカでは、どんな人種であろうとお互いの距離がもっと近かったよね。将来はそんな地に住みたいよ。こういう大都会近くの田舎町より、もっと街へ出た方がいいのかもしれないね」と。

長女も、「アラスカだとね、アフリカンアメリカンの子供たちはカッコイイーというような扱いを受けてたんだよね。こちらにきてぎょっとしたよ。それでね、確かに問題起こすのもアフリカンアメリカンの子達が多いんだけど、もう何もかも諦めたというか気にしてない感じなんだよね」と。

下のちびっ子たちには、肌の色によって何かが違ってくる、なんて発想はまだまだない。一緒にいて楽しいか楽しくないかだけ。この無邪気さを大切にしたい。

 

 

色々な血の混ざった我が家の子供達、どの人種の子とも交わりやすいというか、今のところ、いろんな背景を持つ友達ができているよう。近所でも、コケージャンの子、アフリカンアメリカンの子、両側からの誘いがくる。そしてそう「間」にあるからこそ感じるものというのがあるんだなあと、傍で見ていて思う。

 州内にも色々な雰囲気を持つ地があり、夏に引っ越すことをオプションとして考えている理由の一つには、こうしたダイバーシティーの問題もある。暮らしてみて見えてくること。もし引っ越すならば、今度の地ではしばらく落ち着くことを目指し、模索していきたい。 


「先生」という立場

2015年11月12日 | 放課後スクール

「先生」というのは、

先を生きると書く。

 

その場にドスンと居座るものに引っ張られるのではなく、

前へ前へと創り出していく立場なのだと、

改めて感じている。

 

例えばその場に渦巻く感情、

落ち込んでいる、

イライラしている、

混乱している、

怒りに満ちている、

悲しみに覆われている、

 

それらに引っ張られるのでなく、

前のめりに、

雰囲気を創り出していく。

 

元々ひとりひとりが持っているけれど、

その場のその時には隅に追いやられたり、

なかったことにされているものを、

導き出し、

かけあわせることによって。


宇宙をアーティスティックに描くことに夢中になる「問題児」達

2015年11月11日 | 放課後スクール

今「算数」と「アート&サイエンス」を教えているプログラムは、

主に学校の勉強に遅れている子や低所得家庭の子供たちにまずは招待状が行き、

その後空いているスペース分だけ、「一般の子」の参加を募ることになっている。

 

それで実際始めてみてどういうことなのかというと、

普段学校で、先生方の間でも名の通った「問題児」が勢ぞろいという状態。

 

例えば、

「今日も先生が真っ赤になって怒ってた。

今日はカウンセラーの先生が教室から連れ出してた。

今日は先生が二人がかりで違う部屋に連れて行ってた」

三女が時々そう口にするクラスの「問題児」A君のような子が、

クラスの何人かを占めていたりする。

 

 

中高学年のクラス。

知恵もかなりついてきているから、反抗的態度にも磨きがかかっている。

その無礼さ、口の悪さ、

思わず「君すごい!」と手を打ちたくなるような風刺を込めたジョーク。

 

私のようにこちらの方々に比べると、ちょっと線が細くも見え、

しかもこの辺りでは馴染みのないネイティブスピーカでないアジア人となると、

もう突っ込みどころ満載のようで、

初めの頃はもうそれは無礼極まりない発言態度の連発。

 

とはいえ、スタッフ会議での他のインストラクターの方々の話を聞くと、

授業どころじゃない、クレイジー過ぎる、聞きやしない、

ボスの子がいてクラス全体を巻き込んで反抗させようとする、

などと皆さん嘆いていらっしゃり、

どのクラスも似たような様子のよう。

 

そこで初めは、コーディネーターの方が各クラスを周り、

怒鳴りつけ、家庭に電話するなどの警告を発することで、

私も他のインストラクターの皆さんもようやく授業になるという状態だった。

 

ちなみに、他のインストラクターの方は、

リタイヤした元先生や非常勤講師など、

皆さん教師歴長いベテラン。

そんな先生方でさえもてあましている・・・

 

ああ、なんてことに足を踏み入れてしまったんだろう、

そう思った。

 

それでも、自分でも振り返って少し不思議になるのだけれど、

「何とかなるに違いない」といった気持ちを持っている自分もいた。

 

多分それは、一旦何かを創り始めると、

夢中で取り組む「問題児」達の姿を見たからだと思う。

 

天文学とアートを結びつけたクラスなのだけれど、

前に立って惑星や太陽系などの説明をしている時は、

全然じっとしてられなくてクラスを妨害しようとする子達だけれど、

一旦創りだす時分になると、目が輝いて夢中になっている。

 

それで、一緒に創り、

ここはもっとこうしたらどうかな、などと言いながら、

出来上がったものに共に感心したり感動したりとしている内に、

無礼な態度や言葉が、減っていったのだった。

 

「僕、先生より背が高いんだよ、

僕より高い子って同じ学年に一人もいないんだ。」

そう得意げに横に並んできたり。

「先生の本当の名前は何?」

と不思議そうに何度か聞いてきたり。

(まいこながおか)がどうしても名前に思えないらしい。(笑)

何だか可愛らしくさえ思える瞬間も出てきて。

 

 

 

それで改めて思うのは、ボンディング(絆)がないところで、

いくら力で押さえようと思っても、難しいということ。

特に私のように、必死でドスのきいた声を出そうとしても、

ほとんど恐く見えなかったりするようなタイプにとってはなおさら。

 

一緒に考えたり、創ったり、感心したりと「いい時」を重ねていくこと、

これほどパワフルなことはない、そう改めて思う。

 

 

 

 

とはいえ、10歳前後の子供達。

気分によって、まだまだむちゃくちゃな態度をとってくることもある。

そんな時は、

「あなたがそうあるなら、コーディネーターを呼んで連れ出してもらうしかない。

アートをしたい他の子達を、これ以上邪魔するのを許すことは出来ない」

とはっきり伝える。

(ちなみにインストラクターにはいざという時のためにトランシーバが渡される!)

すると、大体の場合、落ち着くようになった。

 

コーディネーターの方に連れ出される → 家に連絡が行く

ということなのだけれど、

どうも「お母さんに告げられる」のが最も辛いと感じる子が多いようで、

一気にしゅんとしおらしくなる。

 

この「母ちゃんに言いいつけるよ!」

が効く子はまだいいのだけれど、

「問題児」の中には、

底の底のところまでなかなか見えない子もいる。

そんな子とも算数のクラス(毎回2・3人の生徒を交代で教える)

で関わることがあるのだけれど、

「良心」というものが深い深い層に覆われているようにもみえることがある。

そんな場合は、より専門家の介入が必要なんじゃないかと思ったりもする。

 

 

 

 

そんなこんなで、

予想していたのとはちょっと違った展開で物事が進んでいるのだけれど、

自分自身に起こった変化として気がつくのは、

色々な意味で、

これまで小さな蜘蛛にキャーキャー言っていったのが、

タランチュラと格闘しているうちに、

小さな蜘蛛に影響を受けなくなっていったというような感じかもしれない。

 

授業前は、

よっしゃーと気合入れてリングに立つような気分でもある。

まさか算数やアートを教えるのに、

こういう心構えが必要になるとは思わなかった。(笑)

同時に、授業後にこみ上げる達成感のすごさ。

 

 

宇宙をアーティスティックに学び表現していくとき、

縁ありこの子達と共に過ごす時を、大切にしていきたい。


放課後スクールで算数&アートクラスを担当することに

2015年10月24日 | 放課後スクール

公立小学校の放課後スクールで、

「算数が苦手な子のケアクラス」&「アートを通してサイエンスに親しむクラス」

を担当することになった。

来週から研修が始まる。

 

今年で20年目!になるというこの放課後プログラムは、

放課後プログラムとしては州で最も補助金を受け、

最も大きなプログラムなのだと担当者の方が説明して下さった。

 

ベテランスタッフに囲まれ、授業カリキュラムも充実している。

学ぶことが山のよう!

 

「アートを通してサイエンスに親しむクラス」のサンプル授業では、

針や糸を使ってエイリアンのぬいぐるみを創りつつ、

宇宙について学ぶといったカリキュラムを見せてもらった。

 

仮面について勉強していたことがあると言うと、

仮面を使った授業もあるのよ!と担当者の方が嬉しそうに。

仮面を創りつつサイエンスに親しむ・・・。

な、なんて楽しそう!

是非担当させていただけませんかとアプライ。 

昨夜、正式に雇っていただけることに。

 

 

これまで大学で日本語を教えたり、

日本文化センターの子育て支援を担当したり、

公立小学校で日本プロジェクトをしたり、

自宅で1対1や2.3人相手のクラスをしたり、

小学校やキンダーで先生のアシストをしてきたけれど、

日本や日本語に全く関係ないところで、

何十人を相手にした授業を自ら持つというのは、

私にとって、新しいチャレンジ。

 

英語を磨くために、

非営利団体のスピーチクラブにも加ろうと調べ中。

 

こうした機会を与えていただけたことに感謝。

この体験を、未来に生かしていきたい。

 

いい授業にしていきたいなあ。

新しい始まり。