はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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PC(Windows環境)を用いて理系の文書を作成する人向けの話題です。

理系の内容の文を、PC上で、ビジュアル的に出版レベルの文書として
完成させようとするとき、用いるフォントが悩ましい問題となる。
理工系の文章だからこそ悩ましくなる理由はいろいろあるが、まず、
物理量を表す記号はイタリック(斜)体の文字、さらにベクトル量であ
る場合にはボールド(強調)体の文字で表すという表記上のルールがあ
る。その上、上付き・下付き文字、ギリシャ文字、算術演算子などの
数学的記号が頻繁に登場し、さらに、プランク定数や℃、Åなどの特
殊文字が必要になることもある。こうした、通常とは異なる字体や記
号類がそこかしこに織り混ざった文を、欧文として綺麗に表示・印字
できるようなフォントが求められる事情にあるのだ。
さて、さて、当ブログでは過去の2007年に、「℃」などの記号を、欧
文フォントで表すときの苦労や対策についての記事(物理量を表すためのフォント)を書いた。
その当時の見解として、「純粋な欧文フォントであらゆる特殊記号を
表すことは困難だ。Unicode系のフォント(代表例Arial Unicode MS)
を使うことが、限られた対策になる。」と結論した。
そして、10年以上の時が経った。その間に、私が使うPCのOSは、ほと
んど全て、Windows10に変わった(ダウングレード版XPからWin10に入
れ替え、快適に動いているものも多々)。それに伴って、Windowsや
Officeの内部で標準的に使われる文字コードも、unicode系が主流に
なっていった(当方は詳しい知識を有しません.詳しい情報はネット
検索でどうぞ.)
こんなことを薄々感じつつ、一旦自分なりに決めたフォントの使い方
を変えることもなく最近に至っていたのだが、先日、ふと気になって、
アップグレード・アップデートしたWin-Officeに備わているフォント
と、それによる特殊記号の表示のされ方を調べてみた。
その結果、興味深い(私にとってはかなりびっくりの)ことが分かっ
てきたので、ここに、自己用メモを兼ねてまとめておく。

→続きを書く時間がとれませんので、書きかけ状態ながら、準備した
図だけを以下に掲載して、とりあえず公開します。(後日続きを書く
予定.また、稿をいくつかに分ける可能性も検討中.)


表1. MS Windows-Office環境の欧文系各フォントで表示した、理工学でよく用いられる記号の一覧(対応するUnicodeのコードポイントも示している).
〔以下は縮小表示.その画像かココをクリックすると、フルサイズで表示します.〕




図1.MS Windows-Office環境の欧文系各フォントの字体比較.注目すべき違いが現れるものを掲げている.立体,斜体のちがいと交番の際の表示のされ方にも注意されたい.

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この項目は、先に投稿した記事の付記のところにリンクするために立てています。


MS-Wordは、欠点もあるが、書式を詳細に指定したテキスト、数式、ベクトル画像、ラスタ画像、罫線による表、を、一括環境で扱うことができて、しかも、最初の3つは、余計な知識を使わずにWYSIWYG(ウィジウィグ)で編集可能な、とても便利なワープロである。
Wordを使って、数式等を含む見栄えのよい文書を完成させた後、それを画像化して、他で使いたいという場面も少なからずある。
そのような場合の変換をWebサイト上で無料で行ってくれるサービスを見つけ、便利に活用させてもらっている。
-というわけで、それを紹介した前の記事の最後のところにジャンプするリンク(の練習)。
Convertioの紹介

---
〔追記〕
その後、日本語OCRも、Webサービスを使ってあっさり実現できることを知ったので、追加紹介する。
何と、(かなりの)世界中の言語から選ぶことができて、出力も、Word,Excel,テキストを選択指定できる。
(少なくとも私にとっては)「いつの間にこんなに進歩したの」と驚きを覚えるほどの高性能でした。
FREE ONLINE OCR SERVICE

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・突然ながら、計測実験をする人のための技術資料を扱います。
---
開発・研究で使われる計測器は、ほとんどの場合、リモート制御のためのデジタル通信インターフェースを備えている。高機能な機器では、これを使ってPCからリモート命令を送ることが前提になっていて、手動では限られた機能しか使えないのが普通だ。そのインターフェースとしては、複数種類が備わっていることが多いが、今回は GPIB (General Purpose Interface Bus)と呼ばれる規格を使うときの話である。
、、と書き出してみたが、入門的な話を十分に書く余裕はないので、以下は、既にGPIBに触れたことのある人にのみ意味をもつ内容となってしまうことをご了解願いたい。

GPIBを運用するためには、PCにつなぐインターフェースボード(あるいは外付けユニット)が必要だ。このボードのメーカーは多数あって、メーカー毎に、汎用プログラム言語上で使える関数が仕様化されているのだが、ただでさえ、各機器固有の膨大な命令を調べるのに苦労しなければならないところへ、この呼出関数の使い方も調べなければならないという苦労が重なる。だから、インターフェースボードには、よく使われる標準的な製品を用いることにして、そのために用意された関数群に統一して、慣れながら、ノウハウを蓄積していくことになる。ところが、残念なことに、この標準とされているのはNational Instruments(以下NI)社という米国メーカーである。同社の日本語のHPがあって、サポートはそこそこ十分になされているのだが、仕様書や解説文書で日本語化されているのは一部だけであり(和文も分かり難いのが多いが)、さっさと使うという風にはなかなかならない。「英語なんだから斜め読みでも何でもできるでしょ!」と言われそうだが、今回、故あって(概念的に特に分かり難い)「シリアルポール」を行う関数についてのNI社の解説文(ネット公開されている)を日本語訳してみた。そうすると、、やはり、今まで分からなかったところまでよく読み取れる。できた日本語を読んで分かるというよりは、訳す過程で、精読したことが利いているのだろう。
― というわけで、前置きが長くなったが、今回は以下に、Webサイト http://www.ni.com/tutorial/4054/en/ に公開されている、「Serial Polling and SRQ Servicing with NI-488.2 Software and Basic」と題された文書の(私なりの)日本語訳を掲載させてもらう。(NI-488.2を使って、計測プログラミングする人にのみ意味があります.ごめんなさい.)

なお、オリジナルサイトで、改行の入り方が間違っていて明らかにコードがおかしくなっているところなどは修正しています。また、Word文書として書いたものをページ毎に画像化してリンク付きサムネイルの形で貼り付けるものです。(NI社に対しては、製品に関する公開説明文書をサイトを明示して載せるものなので、(利益に協力するだけの意味しかないので)許諾は必要はないと思う、、が如何でしょう.)

        
↑各ページ(左からp.1~p.5)のサムネイルをクリックすれば内容が表示されます。


【付記】 ― 一般向けの情報としては、こちらがメインです。
gooブログには、Word文書やPDFをそのまま掲載する機能はない。そこで、Word文書を画像化して貼ったのだが、その際、docxからjpegに変換するソフトとして以下の「Convertio」というWeb上フリーツールを使った。実用性十分のおすすめツールなので、ここで紹介する。(なお、上の文書の画像は、さらに Paint Shop Pro ver.7 (今となっては貴重な軽快に動く画像加工ソフト、Win10上で問題なく使える.)を使ってpngに変換したものです.)




Convertio ― DOCXファイルをオンライン上でJPGに変換する簡単なツール:
https://convertio.co/ja/docx-jpg/


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この10月9日、ユネスコは、中国の申請による「Nanjing Massacre records」の資料を、記憶遺産に登録した。対する、政治家やらネット論者やらの動きが騒がしい。

私は、特段の情報や見識を持つ者ではない。今後とりたてて首を突っ込む予定もない。しかし、ネットに溢れる意見があまりにも情けないので、一言述べたくなった、、が、言おうと思っていた概ねのことは、以下の江川氏のサイトに書いてあったので、最初に紹介させてもらう。

「南京事件」資料の記憶遺産登録、大騒ぎするほど中国の思うつぼ?

思想性抜きで、論理的に言えることを補足しよう。
戦争状態のさ中では、中立的で公正な取材や報道が為されることはない。新聞記事や、映画ニュースフィルムは、正しい事実を伝えず、証拠となるような情報をもたない(特に太平洋戦争終結時に我々日本人が思い知ったことである)。また、軍部内の記録・資料は、終戦直前にことごとく焼却されたらしい。そうなると、正しい情報は、現場にいた人の記憶の中にあるだけだ。しかし、個々の人は、ごく狭い範囲のことしか分からない。記憶に(意図せずして)妄想が加わってしまうこともあり得るし、伝聞に尾ひれがつくことも当然のように起こる。だから、調査すべきは、上官として南京攻略に関わり、直接には蛮行等に加わらなかったが、一定の理性と良心を保持しつつ任務を全うした職業軍人(士官)ということになる。その人達は、(正式な報告を受けるはずもないから)見て見ぬふりをするような形で、状況を掴んでいたはずだ。そして、東京裁判では、当然こうした職業軍人からの聴取が行われただろう。裁きの結果は、戦勝国が決めるのだから、公正でない側面をもつと考えるのは妥当だ。しかし、全くの事実無根の事を指摘されたのならば、否定的内容を証言することはできる。拷問にかけてでも裁判長の意の通りに答えさせたのならともかく、公開裁判の形をとっている以上、証言は自由意志で行われたはずだし、その証言内容は(判決に影響しなかったとしても)記録に残る。
東京裁判の後も、こうした(元)職業軍人の者からの情報は少しずつ出てきて、蓄積されただろう。それが、日本の中央省庁に引き継がれているはずである。これが、日本の側で見い出し得るトップレベルの証拠材料になる。外国が、事実に反する事を言って、クレームをつけてきたならば、当然、この証拠を使って反論しなければならない。東京裁判では採用されなかった証拠であっても、日本側の当事者の立場からの反証として堂々と出せばいい。それが、日本側役人の仕事である。
はっきり言おう。そのような生き証人の職業軍人の多くが亡くなってしまってから、報道的な写真の分析やら、少々の文書再読などをして、事実の根底に関する見解を出すなど、お笑い草もいいところである。また、同様に、結論ありきで、そこらの一兵卒やら被害の目撃者やらからの証言をとって、ストーリーにまとめるなどというのも意味が無い。それに対するアラを探して、してやったりというように述べるのもますます意味が無い。
中央省庁のどこかに密かに眠る公式記録、これを精査できる者だけが、何らかの見解を述べることができる。

ユネスコが採用した記録には、素人談義のような書物は含まれない。大衆受けするあやしい写真も入っていないはずである。だから、日本がユネスコ(や中国)にクレームをつけるとすれば、「不満だ」などと言うのではなく、日本側がもつ可能な限りの情報を出して、これを用いてより正確にせよと言うことなのだ。
なお、中国に対しては、大衆受けする尾ひれがついた話しを流布させないように、要請・交渉することが必要だ。('まぼろし論’などが出回ってしまう現状では、とても交渉力・説得力は発揮できないと思うが、、)


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最近、'80年代以前のポピュラーソング(洋も邦も)の名作にあらためて聴き惚れ、子供の頃には分からなかった歌詞の意味などを再発見して、一人感嘆することが趣味みたいになっている。YouTube(およびchromecast)と、そこにアップしてくれている世界のネットユーザーのおかげということになるだろう。今回は、意表を突いて、この関連のちょっとした情報発信を試みる。

さて、某大手コンビニでBGMとしてよく流れている、モンキーズの「デイドリーム・ビリーバー」。気分よくのれる軽快性の上に、何か独特の’落ち着きのある浮き浮き感’みたいなテイストを発揮する曲であり、一度聞いたら必ず記憶に残る不巧のポップスナンバーだろう。
この歌詞の意味など、今までほとんど考えたこともなかったが、YouTubeでじっくり味わううちに、詞の意味が気になって仕方なくなった。原lyricsはネットで簡単に見つかる。英文は簡単なのだが、何が言いたいのかが曖昧に書いてあって、もやもやが残る。そこでネット上で日本語訳を探してみると、確かにいろいろあって参考にはなるのだが、私が英語の原詞を見たり聴いたりして、そこかしこで気になる肝心の部分が表現されていない(意味がかき消されている)ものばかりだった。ということで、はぎわら_m 流、、徹底的に文章を反芻して、曖昧さの構造を解析した上での私なりの訳詞を公開しようと思う。

先ず、歌詞の原文を(音楽著作権等が絡むそうなので、リンクで)示す。
DAYDREAM BELIEVER/うたまっぷ.com

さて、予め、私なりの理解のプロセスをメモしておく。先ずこの歌が描く場面は、早朝における(恐らく結婚して日の浅い夫婦または同棲の)男女の寝室である。つまり、大胆にも、朝のベッドシーンで始まる歌なのだ(クラッシックのオペラ ’ローゼン・カバリエ’の出だしが確かそんなだった.)。先ずこの場面性を意識しないとだめだ。二人暮らしは既にスタートしているから、緊張感などはほとんど無い。しかも、寝起きのタイミングらしいから、つらつら考えた想いを述べるような状況でもない。必然的に、たわいもない戯れのような言葉が連なるものと考えるのがよさそうだ。
さてそして、流行歌の詞というのは、多くの場合、表の意味と並行して裏の意味を暗喩するかのようにできている。裏とは、大抵、いわゆるエッチな連想に訴えかけるもので、日本のアイドル歌謡など殆どがその要素を利用して成り立っているのはご存知の通り、、(これは私だけの妄想では無いはず...ただし、「もしかしてこんな意味ですよね.」と問うても、「違います!文章のとおりですよ.」と反論できるように出来上がっている..)。

こう考えると、この歌詞の曖昧な文章、やや不自然な言い回し、などの全てが、この路線に沿って巧みにつくられたものとして理解できてくる。

分かりやすい部分としては:
「our good times start and end without dollar one to spend」
「how much, baby, do we really need」

もしかしたら...の部分としては:
「Oh, what can it mean」(この歌詞で一番曖昧で訳し難い文.この訳し方が全ての鍵.)
「a white knight on a steed」(すごくやばい例えかも..)

ここで、モンキーズの歌そのものを聴きましょう。
Monkees - Daydream Believer (1967) HD 0815007

そして、はぎわら_m による訳詞はどうなるか。
ただし、わざと直訳風にしています。したがって暗喩であることをあからさまには表現していません。連想すれば連想できる、、それが可能なように注意して日本語に訳さないと曲のエッセンスが抜けてしまう、、これが今回の主張。

Daydream Believer
作詞 (および作曲):John Stewart
訳詞:はぎわら_m (ver.3.3)

あぁ、、あの左右の翼の下に隠れられたらいいのに、、
さえずっている彼女-あの青い鳥の.
この6時のむかつく(sick)アラーム音が鳴らなきゃいいんだけど
でも鳴ってて、僕は起き上がるのさ.
両目をこすって眠気を拭うよ
僕のカミソリの刃は冷たくて、ヒリヒリ刺激してくれる.

元気アップしてっ、眠たそうなジーン!
さーぁ、一体何を意味しているんだろーな?
空想を本当みたいに思える僕と、‘ホームカミング・クイーン’の君、二人にとってさ.

はじめの頃、君は僕のことを、
馬上の白騎士みたいに思ったんだよね.
そして今では君は、僕がどんなにハッピーになれるかを知ってる.
あぁ、、それで僕ら二人の(何回もの)グッドタイムが始まって終わるわけだ、、
1ドルのお金も使わずにね.
でもさぁ、ベイビー(は)、現実的にはどれだけ要るかなぁ.

(※)
元気アップしてっ、眠たそうなジーン!
さーぁ、一体何を意味しているんだろーな?
空想を本当みたいに思える僕と、‘ホームカミング・クイーン’の君、二人にとってさ.

※繰り返し


-----
【追補】 ここまできたら、さらに大元の所まで言及したくなった。
どうして上の(※)が何度も何度も繰り返されて、そして、それが心地よく響くのだろうか。大体からして、'daydream believer'と'homecomming queen'という言葉は何を表現するために導入されたのか。今やよく分かる。'homecomming queen'は、男が惹かれるイイ女の表象であり、女性のセックスアピール性をイメージさせるための語である。daydream believerは、これと対比する形で使われており、あまりぱっとしない、少なくとも昼間の行動のパフォーマンス低めの男性をイメージさせる。このパフォーマンス低めの言わば並の男性が、セックスアピール抜群のイイ女性をゲットして、その彼女を”寝坊すけジーン”なんて呼び捨てにして、毎朝・毎晩、思わせぶりな戯れ言葉を語りかけられるような立場に立っている。気分いいぞ! (※)の繰り返しフレーズは、このような(男側からの)達成感・爽快感を連想させる効果を発揮するのだ。もちろん、どっしりと自信に満ちたようでかつ浮き浮きした感覚を表現するのにぴったりのシンプルで印象的な旋律の効果も抜群である。かくして、ポップスの名作品は出来上がったということなのだろう。

-----
〔付記〕
以上はもちろん、私なりの一つの見方です。流行歌の歌詞の意味なんて、感覚・雰囲気でとらえるものだから人それぞれで、決まっちゃいない!とする意見に立ち向かうものではありませので、念のため。
また、「そんな事は誰も皆それとなく分かっている.理屈っぽく言葉にしないだけだ.」とのご意見があれば、静かにうなずいておくのみです。

=====
P.S.
これでもか これでもかと、セクシュアルな暗喩の想像を迫ってくるJ-POPの代表的名曲と言えば?、、私なら松田聖子の『ピンクのモーツァルト歌詞)』をあげたい。’近日中’とはいかないだろうが、この歌詞の完全意訳を載せることを計画中。(大丈夫か. 物理学者 はぎわら_m!)
=====
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既に昨年末のことであるが、平成25年12月23日に、天皇陛下は傘寿の誕生日を迎えられ、それに先立つ12月18日には代表質問に答える形式の記者会見に臨まれている。
以前に『次第に過去の歴史が忘れられていくのではないか』旨の憂慮(ご即位二十年に際する記者会見)を述べられた陛下らしい、もの静かでかつ厳しい見解が表明されている。
野暮なコメントを加えるつもりはない。ただ、この会見の発言全文を正しく報道したテレビ局・新聞社が少なかったことがとても気になるので、ここにとり上げた。

【天皇陛下傘寿を迎えるにあたっての記者会見全文】
・ (公式の)宮内庁サイト
・ (貴重な)東京新聞社のサイト

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本稿は以下の続きである。
07-12-05「因果」を考える
07-12-31「因果」を考える (2)
08-01-19「因果」を考える (3)
08-03-11「因果」を考える (4)
08-04-10「因果」を考える (5)
08-04-30「因果」を考える (6)
08-05-09「因果」を考える (7)
08-05-27「因果」を考える (8)
08-06-29「因果」を考える (9)
08-08-28「因果」を考える (10)
08-09-07「因果」を考える (11)
08-09-30「因果」を考える (12)
08-10-06「因果」を考える (12-b)
08-10-19「因果」を考える (13)
08-11-10「因果」を考える (14)
08-11-30「因果」を考える (15)
08-12-24「因果」を考える (16)
09-01-24「因果」を考える (17)
09-02-12「因果」を考える (18)
09-04-05「因果」を考える (18-b)
09-04-20「因果」を考える (19)
09-05-12「因果」を考える (19-b)
09-06-20「因果」を考える (20)
09-07-31「因果」を考える (21)
09-09-25「因果」を考える (22-a)
09-11-06「因果」を考える (22-b)
09-12-29「因果」を考える (23)
10-04-26「因果」を考える (24)
10-06-07「因果」を考える (25)
10-08-10「因果」を考える (26)
10-10-04「因果」を考える (27)
10-11-10「因果」を考える (28)
11-01-17「因果」を考える (29)
12-01-03「因果」を考える (30)
12-03-03「因果」を考える (31)
12-09-11「因果」を考える (32)
12-11-15「因果」を考える (33)
13-1-4「因果」を考える (34)
13-3-8「因果」を考える (35)
13-4-8「因果」を考える (36)
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本シリーズ稿も終結に近づいてきた。
ここ最近では、因果の逆の意味をめぐって考察を進めてきたが、そこから興味深い疑問ももたげてくる。それは、ここに至っての理解で、‘因果律’をどのように捉えればよいかという問題であり、「因果」という認識の仕方の意味をまとめるのに相応しい題材となる。
さて、‘因果律’は、初期のころの第(6)稿あたりでも一度扱っていることを思い出そう。

本シリーズを辿ってきた我々が、今あらためて因果律を表現すれば以下のようになるだろう。

『ある因果関係が認識されるとき、その「結果系」の事象は、「原因系」の事象よりも時間的に先行することはない。』
-->†(11月23日時点、上の表現は原因と結果の語が反対になっていたので修正しました. お恥ずかしい...)

そして我々は、ある特定の現象間のつながりを考えるとしても、「原因系」と「結果系」のとり方は色々で、過去の現象が判明することが結果系を成すような因果関係もあり得ることを知った(具体例を第(32)稿で出している)。

このことから、因果律が言うところの前後関係を問題にする「事象」と、その事象に対応する純粋客観的な物理現象は厳格に区別されなければならないという重要な知見が先ず浮かび上がる。

物理現象は本来、人間の判別や解読、まして制御や活用とは全く関係なく、自然界の時空間の中で、渾然一体的に生じている事柄である。それを認識する主体があってこその出来事ではあるのだが、純粋な物理現象とは、その個々の主体からは完全に離れて、まさに客観的な事として成り立っている、、少なくとも究極的にはこの想定に叶うものと確信される出来事なのである。

ところが一方で、この完全客観状態(‘全知状態’とほぼ同義)を目指すことこだわらずに、ある段階の人の都合を優先して、現象を適当なところで括って区分し、活用や制御の考察を進めたいこともある。このようなときに、因果が認識されるわけだが、そこで区分された「原因系」や「結果系」は、必ずしも純粋客観的な物理現象でなくてもよい、、すなわち、ローカルな人の思考の中身なども含めよい出来事であり、これが因果律と結びつく「事象」となる。

<inging>

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昨今では、調べ事は、インターネットに頼るのが当たり前となった。大学で授業をする方の立場から言えば、学生がネット上の情報を見ていることを常々意識しておかねばならない。
―  ということで、、先日、急に気になって、Wikipedia(日本版)の中の「ニュートン力学」の項目の記述を眺めたところ、一番大事なところが誤解されているように見受けられたので、これは教育的にまずかろうと思い、(先行の執筆者にはやや申し訳なく思いつつも)ほぼ全面的に加筆・改訂させてもらった。
あらためて数種の書籍と受業ノートを読み直しながら記載し、そこそこ本質を反映した(辞典的な)まとめにはなったと思う。何日もつかは分からないが、、一区切りとしたので、、一応、本ブログに報告メモ。

※2013-09-04時点で、どこかの人が予想しないところをに編集を加えていた(特に、「質点に関する運動の法則」のあたり)。はっきり言って改悪であるが、、まあ、、放っておくことにしよう。
---------------------------------------------

せっかくなので、少し補足させてもらう。

ニュートンが獲得した理解の最も卓越したところは、月の周回軌道運動と、地上の(例えばリンゴの)落下運動が、本質的に同じ現象であって、そのことを整然と説明するためには、運動学的に決まる(つまり目で見て測れる)加速度と直結させた量として「力」というパラメータを導入すべきことに気づいたこと、、そしてその際、「力」が、どこかに宿るとか、何かによって伝えられるとかいう仮説を設けない方針が必要だと気づいたこと、にあるのだ。これは、全く驚嘆に値する高度な思考であって、同時代までの自然哲学者とは明らかに一線を隔す境地にあったと思う。(私は、物理学史に詳しくはないので、反証材料があれば素直に吸収します.是非教えて下さい.)

そしてさらに、運動の3法則の設定は、慣性系、質量、力を同時無矛盾的に定義する唯一とも言える方策であって、ニュートンは(本人は必ずしも明確にはその論理構造の価値を認識していなかったようながら)直感的に結果として正しく必要十分な原理を置くことに成功した。

ただし、時間の定義づけは掘り下げ不十分であったし、エネルギーの概念にたどり着くことはなかった。これらは、ニュートンの限界と言えるが、スタートラインを与えた価値は微動だにしないだろう。

ニュートン力学と、本ブログを理解すると、、自然科学という人間の思考活動が一体何であるかが見えてくる、、となればいいのだが、、。

〔PS.〕
なお、'継承と発展'の中の'解析力学'という見出しのつけられた部分は手つかずです。
遠隔作用としての逆2乗則のことも、どこかにちゃんと記述した方がいいと思います。
どなたか、自信のある方、是非、加筆・改良して下さい。



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本稿は以下の続きである。
07-12-05「因果」を考える
07-12-31「因果」を考える (2)
08-01-19「因果」を考える (3)
08-03-11「因果」を考える (4)
08-04-10「因果」を考える (5)
08-04-30「因果」を考える (6)
08-05-09「因果」を考える (7)
08-05-27「因果」を考える (8)
08-06-29「因果」を考える (9)
08-08-28「因果」を考える (10)
08-09-07「因果」を考える (11)
08-09-30「因果」を考える (12)
08-10-06「因果」を考える (12-b)
08-10-19「因果」を考える (13)
08-11-10「因果」を考える (14)
08-11-30「因果」を考える (15)
08-12-24「因果」を考える (16)
09-01-24「因果」を考える (17)
09-02-12「因果」を考える (18)
09-04-05「因果」を考える (18-b)
09-04-20「因果」を考える (19)
09-05-12「因果」を考える (19-b)
09-06-20「因果」を考える (20)
09-07-31「因果」を考える (21)
09-09-25「因果」を考える (22-a)
09-11-06「因果」を考える (22-b)
09-12-29「因果」を考える (23)
10-04-26「因果」を考える (24)
10-06-07「因果」を考える (25)
10-08-10「因果」を考える (26)
10-10-04「因果」を考える (27)
10-11-10「因果」を考える (28)
11-01-17「因果」を考える (29)
12-01-03「因果」を考える (30)
12-03-03「因果」を考える (31)
12-09-11「因果」を考える (32)
12-11-15「因果」を考える (33)
13-1-4「因果」を考える (34)
13-3-8「因果」を考える (35)
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本シリーズ稿(34)で予告した素朴な実在論:「月は見ているときにしか存在しないのか」に対する答えは今や明確である。

この問いかけをするときの、「月」の意味は何か。もしそれが純粋に、ふと夜空を見上げたときに目に映った像というだけの意味ならば、(見えていないときにも)常に存在するという発想は生じないだろう。また、真にそれだけならば、’月’という言葉自体も生まれていないはずである。だがそこで、繰り返し何度も、同様の「月」様の属性をもつ対象体を目にする経験を積んでいくと、素朴な「存在」の感覚が生じてくる。さらに、その対象体を見ることが他者との間の共通経験として認識されてくると、言語のやり取りを通して、その対象体に「月」という言葉が割り当てられる。

しかし、アインシュタインを含む近・現代の我々が「見ていないときに月は存在するか」と問いかけるときの「月」の意味は、このレベルの月の意味からは相当飛躍しているのである。月が地球の衛星であることを知った人が、科学的立場で「月」と言うときには、それはもはや「目に映る月の視覚属性」に対応する語ではない。天体としての軌道データや質量・形状の情報までを伴った「月」なのである。そしてさらに、(アインシュタインは亡くなっているが)1969年の人類の月面到達以降ともなれば、構成する物質の現物や、実際に月に立って撮った写真映像までの知見を総合的にがっちりと伴った「月」となっている。すなわち、月に関する限り、前稿までに述べてきた「全知」の状態がある程度達成されていると言ってもよい。時間・空間を越えて知見が発展していく過程とは、このように、言語の対象事物の意味合いをも変えていくのである。

このような科学的客観性を帯びた「月」となれば、もはや、一個人がある時に見る行為およびそこから得られる情報の重みはゼロに等しい。したがって、見えていなくても、’今日の科学的な立場で考える月’は存在すると確信できる。これが絶対の答えとなる。

量子力学の芽生えに触れたアインシュタインの脳裏には、このような科学的客観性の保証される限界の意味を疑い深く確かめたいという欲求がもたげたのだろう。それが、このような素朴な実在論的疑問の形で呈されたのだ。そして、現在の我々は、物体の存在に関する客観的な知見の発展には限界がある、、すなわち、ミクロな全知状態は決して実現されないことを自然の原理として認めるに至っているということなのだ。

<ing>

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本稿は以下の続きである。
07-12-05「因果」を考える
07-12-31「因果」を考える (2)
08-01-19「因果」を考える (3)
08-03-11「因果」を考える (4)
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09-06-20「因果」を考える (20)
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09-09-25「因果」を考える (22-a)
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10-04-26「因果」を考える (24)
10-06-07「因果」を考える (25)
10-08-10「因果」を考える (26)
10-10-04「因果」を考える (27)
10-11-10「因果」を考える (28)
11-01-17「因果」を考える (29)
12-01-03「因果」を考える (30)
12-03-03「因果」を考える (31)
12-09-11「因果」を考える (32)
12-11-15「因果」を考える (33)
13-1-4「因果」を考える (34)
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ここまでの考察に基づけば、「水路に砂利を投入するモデル」の因果関係とその逆の意味が、次のように整理されて見えてくる。

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話しを分かりやすくするためには、いきなり「全知」の状態が達成されているとして考えてみるのがいいだろう。

(I) 「全知の我」の立場からの認識

『水槽の左端付近でに体積Vの砂利が投入されるという事象が起こり、
その直後より水槽中の水に津波型の進行波が立ち、反射を含む複雑な波動の振る舞いが生じて、
それが次第に減衰し、最終の定常状態に至る段階で水槽の水面が V/S だけ上昇するという事象につながって、
遂には安定化する.』

これこそは、物理法則に従った正しい出来事の一部始終である。しかし、こんなことが最初から詳らかである場合には、「因果」という概念の出番はほとんどない。(ただし、このように因果系列的な事象の整理・記述をすると、関する物理法則の理解が正しいことを確認することにはなる)。

---
ところが、水槽の中で起こる途中の出来事ははっきりは認識されず、「砂利の投入」という事象の括りと「水槽の水面上昇」という事象の括り、およびそれらの関係だけがことさらに意識される場合、以下のような因果認識が価値をもつのである。

(II) (限られた情報の中で)括って単純化した事象間のつながりに関心を置く場合の認識

『「水槽に総体積Vだけの砂利が投入される」ことが原因となって、
「水槽の水位がV/Sだけ上昇する」という結果が起こる.』

これは、生じる出来事の関連性を、人間が活用する都合にマッチさせて、粗っぽく関連付ける認識法と言えるだろう。(物理的)時間軸上を追って考える限りは、全知の我の捉え方から「因果をつなぐ系」の部分を取り除いただけなのだが、因果の事象の括り方が1対1対応的にうまく選ばれている場合には、論理的な逆命題は成立するという性質を帯びる。

---
さらに、そのように1対1型に事象が括られていて、かつ、原因側の出来事の科学的客観性が意識される場合には、物理時間の進行とは別の因果の流れが生じ得る。(I)の全知状態は、はじめから達成されているわけではないのだから、観測された部分的事象を考察して、それまで知り得なかった知見を追加していくというプロセスであり、それは「全知の我」に近づいていこうとする知見の発展過程であるとも言える。

水槽に砂利を投入するモデルはその科学的価値がピンと来ない例になってしまうが、それでも次のような因果が考えられることは納得できるだろう。

(III) 認識される知見が発展するプロセス

『水槽の水位がΔhだけ上昇した事実の検出が原因となって、
水槽に総体積 S×Δh の物体が投入される動作が確かに実現していることが知見に加わる.』

---
そして、もうお気づきのことと思うが、このように複数の異なる認識の仕方の立場があるときに、その間をいつの間にか移り動いて考えてしまう、あるいは、どれも一緒のように思ってしまうと、不可解な感覚や混乱した状況が生じてくるのである。
<inging>



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新年あけましておめでとうございます。
政治・経済の情勢には一層の不安を感じずにはいられませんが、本シリーズ稿は終結に向けて淡々とマイペースで進めます。
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本稿は以下の続きである。
07-12-05「因果」を考える
07-12-31「因果」を考える (2)
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08-10-19「因果」を考える (13)
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09-01-24「因果」を考える (17)
09-02-12「因果」を考える (18)
09-04-05「因果」を考える (18-b)
09-04-20「因果」を考える (19)
09-05-12「因果」を考える (19-b)
09-06-20「因果」を考える (20)
09-07-31「因果」を考える (21)
09-09-25「因果」を考える (22-a)
09-11-06「因果」を考える (22-b)
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11-01-17「因果」を考える (29)
12-01-03「因果」を考える (30)
12-03-03「因果」を考える (31)
12-09-11「因果」を考える (32)
12-11-15「因果」を考える (33)
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つまり、自然科学的な理解が為されるということは、自然現象に関する人類の共有財産としての知見が、前回の稿で述べた「全知の我」の立場からの知見に近づいていく各段階を意味しているのである。そしてその際の知見の進展は、(ある程度の紆余曲折や一時の間違いを伴うことがあったとしても)大枠で見れば決して後戻りしない不可逆的な流れとなっていることが重要である。一旦新しい理解の段階に達したならば、それを無かったことにして、他のある部分だけで閉じた理解の前進を遂げるということは許されないのだ。

このように捉えることの意味や意義は、本稿で因果現象の例として大分扱ってきた「水路に砂利を投入するモデル」に当てはめて考えることで明確になってくるだろう(目下の課題は、この因果の逆を考えることから出発した問題なのであった ^^;)。

さらに関連して、アインシュタインの量子論に対する疑問に端を発し、素朴な実在論的の問題提起の形として表現された言葉:「月は見ているときにしか存在しないのか」に対して、我々は今や、明確に答えられることも示そうと思う(ただし本稿では量子力学そのものには立ち入らない予定)。

=====
さて先ず、「全知の我」は、自然の認識と記述のためにどうしても想定されねばならないのだが、現実には常に未達成状態の仮想的概念であることに注意を払っておこう。「水路に砂利を投入するモデル」の因果を考える場合であれば、真の「全知の我」の視点からは、水路の中で起こる現象の詳細な推移のみならず、砂利を投入する機構を作動せしめる外部の様子も、水位上昇を検出する装置の動作およびそれにより何らかの行動を示す人間の振る舞いなども、全てが詳らかになっている、、そういう類の認識体だ。もし仮に、このような認識体が真に達成されているとすれば、恐らく、「因果」という概念自体が不要、、というかむしろ根本的に成立しないのだろう。何しろ時空間の全ての領域があからさまなのだから、予測するとか発生を防止するとかのような発想が生じる余地がないということになる。しかしそこで、知れることの時空の領域が絞られているときには、原因を究明するとか、今後の現象を制御・選択する、という考え方が大きな意味をもつことになり、因果概念、さらには科学的な考察とか法則という思考そのものが勃興・成立してくるのだ。

「水路に砂利を投入するモデル」の因果を考えるときには、数多ある時空間中の事象のうち、「ある水路に砂利が投入される」、「水路の中の出来事」、「水路の水位上昇の観測」という各箇所で事象を括って、それ以外を直接の考慮あるいは認識の範囲からから外しているのである。
ところが、自然現象の理解は、達成された「全知の我」を想定し、それに照らして構築されるということも、確かにもう一方の絶対的要件である。つまり、因果を考える視点と、自然を整合的に理解する立場との間には、本来的なステージのギャップがあるということなのだ。
<ing>


=====memo=====

ネット文献からの孫引き情報:

月に関する言明は、パイスの回想を通じてのみ伝えられています。原典を引用しましょう。

『1950年の頃だった。私はアインシュタインのお供をして、プリンストン高等研究所から彼の家まで歩いていた。彼は突然立ち止まって私にふり向き、月は君が見ているときにしか存在しないと本当に信じているかね、と尋ねた。私たちは特に形而上学的な会話をしていたわけではない。むしろ、量子論を議論していたのであり、特に、物理的な観測という意味で、為しうることと知りうることは何かということを議論していたのである。 』
アブラハム・パイス著 『神は老獪にして…』(金子務ほか訳、産業図書)P.3

量子力学(タゴールとの対話)

 以下、アインシュタインの『物理学はいかに創られたか』の章「物理学と実在」より。
 「同時に粒であり、波であることの仕組みを追究した謎物語は、ここで、現実とは何かという問いに発展していきます。量子力学によると、人間が見ること:観測は、とても奇妙な役割を演じます。人間が見ていないとき、電子は雲散霧消してしまうというのです。しかし、人間が観察しようがしまいが、電子はある一点に必ず存在しているはずです --- 私が見ているときにしか、月は存在しないのでしょうか???」



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科学的考察に際しては、時刻が進行するという事柄を純粋に客観的で絶対的な自然現象であると見なすことが暗黙の前提となっている。実は、ここに全ての鍵があるのである。

純粋に客観的・絶対的な時間を考えるということは、あらゆる場所で起こる事象に対して共通して用いることのできるような一意的な時刻を定めることができて、どのような場合にも自然に一様・一方的に増えるその変化量として、時間を認識するということである。
そして例えば、ここまで取り上げてきた「水槽に砂利を投入するモデル」の原因から結果へつながっていく現象の波及も、このような条件に叶う時刻軸上の変化として記述するときに、はじめて、動画を見るように、誰に対しても無矛盾で一貫した事象の連なりとなり得る。

このように話を凝縮することで、自然現象を科学的に認識・記述する、すなわち’自然科学’というパラダイムを成り立たせている根底には、以下の要件が絶対的に在していることがはっきり分かる。

『自然科学的な認識・記述は、考慮の対象となる事物の完全な外側に、考慮の対象となる事物の全てを知り得る一個の認識主体を想定して、その認識主体の知見として無矛盾にまとめられるべく進展していく.』

このような認識主体は、「全知(全能ではない)の我」と呼ぶこともできるだろう。「その主観が完全に科学的に客観を成すような我」という捉え方もできる。ただし注意してほしいのだが、決して、「神」のような唯一絶対の意識の主を据えるのではない。あくまで、通常の人間の理解の総体を考えるのであるが、その総体は、時間(歴史)的、空間(地理)的な広がりの中で、無矛盾・一貫性の完成を目指して次第に形成されていく、、そういう理解の終着点を想定するということなのだ。
<ing>

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因果に関わる事の推移を考える際には、次の(1),(2)の相異なる2種類の自己発
展する変数が介在しているらしい、、というところに話が進んでいた。

(1) 現象の非可逆性によって規定される物理時間
(2) 科学的世界の知見の発展を順序づける進行する変数(名前は未定)

ここで気をつけてほしいのだが、決して、物理時間とそれ以外の例えば'擬時間'
のようなものがあって、その両者が、変化認識の底流として別々に流れる、、と
いうようなことではない。ある一人の人間の思考の流れを考える限りにおいて
は、脳の活動も物理時間の発展の中で起きる自然現象の一つに違いないのだか
ら、知見の発展も、物理時間を適当に写像して得られる変数で記述できると考え
るのが妥当だ。大いなる問題は、人間の自然に対する「知の発展」なるものは、
このような一個の生物内で起きる現象としては説明できないのであり、時間・空
間をまたいで広がっていくことが本質であるために、単に時間発展の上には記述
できないということなのだ。

ならば、その発展がどのようなものであるかと問われるなら、「認識主体の拡大」であるというのが目下の私なりの答えとなる。

禅問答のようにしてぼやかすことは本意でないので、できるだけ具体的なイメー
ジに戻していこう。

---
そこで砂利を投入するモデルを思い出して、再度丁寧に、目下考察中の(通常とは逆の)因果関係の表現をつくってみよう。

まず、純粋に論理的表現とするならば、以下のように記述になるだろう。

・「水槽の水位がΔhだけ上昇する」という事象の発生が確かなことであれば、
「水槽に総体積 S×Δh の砂利が投入される」という事象の発生も確かなこととなる。

これを、因果関係と見るということは、次のような認識を行うことだろう。

・水槽の水位がΔhだけ上昇する現象が(客観的な観測結果として)確認されたことが原因となって、水槽に総体積 S×Δh の砂利が投入された事も(客観的事実として)確認されるという結果を招く。

つまり、不明であった(物理時間としては過去の)出来事が、それと確実に結びついている別の場所の出来事の判明を通して明らかになるのである。ただし、「明らかになる」とは、「ある人にとって知識が追加される」こととは違うというのが(私の主張の)重要なポイントだ。ある人の中で知識が追加されるプロセスを因果的にとっても悪くはないが、それは個人の思いの変遷を馬鹿馬鹿しく大仰に表現するだけのことで、考えに入れる価値はほとんどない。しかし人間の叡智として知見を増やしていくプロセスは、科学研究的な行いの本質をなすものである。測定・実験によって見えない所を知ることの例は、センサーや顕微鏡による観察から宇宙探査まで、枚挙に暇ない。そしてその際に得られる知見が過去に関することというのもよくあることである。地層や化石の研究とか宇宙論にまつわる観測実験の考察は大抵そうであるし、もっと実社会的な例もいくらでも見つけることができるだろう。このように、「知の発展」は、時間を遡る方向に進むことも普通であり(そうでない場合もあるが)、かつ、その発展プロセスを因果的にとらえることは決して不自然ではないのである。

ところが一方、先に記載した因果認識を、次のような文章表現に変更すると、全くありえないことになってしまう。

---
・水槽の水位がΔhだけ上昇してそれを検出する装置に何らかの変化を与えたこと
が原因となって、水槽に総体積 S×Δh の砂利を投入するように外部機械が作動する。

これが「全くありえないこと」と判断される根拠は、もちろん、時間的な順序関
係の矛盾なのであるが、そのことを今一度整理してみよう。

==
ある現象が他の現象を引き起こすというタイプの波及が起こる場合、前者に結び
つく時刻という変数の値よりも、後者に結びつく時刻変数の値の方が必ず大きく
なっている!、、この当たり前にも思える命題は、よく考えれば大いに不思議な
ことである。むしろ、この命題に立脚して正直に論理を尽くす限り、そのような
必要は無いと考えるのが正統である。過去-現在-未来とはいったい何なのだろう、、という素朴かつ根本的な疑問に立ち戻らざるを得ない。
<inging>

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物理的な事態の推移・関係を曖昧性なく認識し得るからこそ、科学的な因果世界の空間を構築することができるのであって、そのためには「一個に一貫した認識主体」存在が必然になるという、ある意味で、主観と客観の意味の再考を迫るような重大な真理に辿り着いた。

ただし、このときの「一個の主体」とは、一個人を意味する語ではない。人類の頭脳の中の理解として多くの他者と共有され得る、しかもその共有とは、国などの遠い地理的隔たりを超えるのみならず、場合によっては時間的・歴史的な軸の上を渡って共有されている、、そういう壮大な「理解する我」なのである。これこそが、科学的世界空間の定義にも直結する絶対の前提である。

---
ただし、ここで一般化した考究を目指しすぎると(思考の興味は高まるのだが)説明する言葉を探すことが大変むずかしくなり、息が続かない。もう少し当初の問題に帰って、まとめに向かいたいと思う。
---

ポイントは、我々が変化を認識するときに、そのプロセスの進行を定める独立変数として、次の2種類が併存しているということなのだ。

(1) 現象の非可逆性によって規定される物理時間
(2) 科学的世界の知見の発展を順序づける進行する変数(名前は未定)

前者は、様々な観測可能な痕跡を残しながら、物理的状況を未確定から確定に変えていく過程を表すための変数であり、(定義は難しいながらも)我々が日頃さんざん使っている物理時間が相当する。後者は、確定した事象の間の関係を辿るための、「理解する我」の状態の推移を表す変数とでも言うべきものである。
ただし、これらがどのようにして一方向に流れる変数足り得るのか、、などと考え込んでしまうと、迷宮に入り込んでしまう。変数が同じ値を取る段階ではどのような要件が課されるか、ということのみを手掛りに考察するのがよい。

<ing>

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(約一年ぶりのシリーズ稿の続きですが、、淡々と再開します.)

原因と結果が一対一に対応するような認識の仕方が可能な場合に「有意義な因果関係」が成立し、その際、因果関係を論理的に扱う立場をとるならば、因果の逆も成立することになる、、という趣旨のことを述べてきた。そして、水槽に砂利を投入するモデルを使って、以下のように因果関係の具体的表現例を示した。

(再掲)
・「面積Sの水槽に総体積Vの砂利が投入される」という事象が起こるならば、必ず、「水位が V/S だけ上昇する」という事象も起こる。

・「水槽の水位がΔhだけ上昇する」という事象が起こるならば、必ず、「水槽に総体積 S×Δh の砂利が投入される」という事象も起こる。

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実は、上の表現においては、物理的因果関係と論理的因果関係の間をさりげなく移ることができるように、ある意味でずる賢こく曖昧にしているところがあった。その問題部分である「砂利が投入される」という所、「水位が上昇する」という所、すなわち、原因事象と結果事象の表現が意味するところを、もっと正確に探ることが必要なのであり、それによって、前回の最後に掲げた疑問:「結果系から原因系には情報の波及が起こるはずがない!?」という疑念に対する解答も見えてくるのである。

「砂利の投入」というのは、本来、Δh = V/S の関係を成立させる機構の完全に外側で起きる出来事であることを前提にしている。このような「外側」の出来事は、その事によって、目下着目する因果を伝える系に及ぼす変化以外にも、其処彼処に多々様々の影響・痕跡を残すと考えられるものでなければならない。それが、事象の科学的客観性の要件であり、実験物理学的に言う「観測可能」であることの本質とも言える。これと同じく、結果系である「水位の上昇」も、様々な外部からの観測にかかる出来事としてとらえることで、はじめて因果関係の構成要素の事象になる。そうして、このことをできるだけ忠実に反映させた形で結果系を表現をするならば、今の結果系は、例えば「水槽の水位がV/Sだけ上昇したことが、何らかの外部装置によって観測・記録される」とすべきなのである。

ここまで見通すと、結果事象が、因果を伝える水槽系に対して跳ね返りの影響を及ぼさないことの意味も分かってくる。科学的な因果関係の結果とは、客観的事象として揺るぎ無く確定することが要件だったのだ。そのためには、結果事象自体が、さらに1対多型に膨大な事象の波及につながっていなけれならない。このことによって、時間逆行向きに遡るような事象の推移も(事実上)禁止されている。’客観的に観測される揺るぎない事象であること’というのは、実は、『科学とは何か』という大問題につながていることなのだ。

話が(遠大に過ぎるところへ)はみ出したようなので、本筋に戻す。以上で考察したように、純粋に揺るぎない事象として位置づける「原因系」も「結果系」も、それら自体が時間反転禁止型の因果の網の目にがんじがらめに絡め込まれている。ここで深刻・重大となる問いかけが、そのときの因果構造は、何との間の関係を基本におくものかということだ。そして、その答えとして、必然的に、「一貫した認識主体」の存在が要請されることになる。

揺るぎない事象の間の関係を論じることが因果的な見方の本質であるのならば、「原因」と「結果」は、物理的な事態の推移・関係を曖昧性なく認識できるような、一個に一貫した認識主体が把握するのでなければならないのだ。そうでないときには、「見た・見ない」、「言った・言わない」、「やった・やらない」の類のいわゆる水掛け論の可能性が排除できず、科学的な世界空間を築くことが不可能になってしまう。

因果関係というのは、このような認識主体の認識・理解の推移の上に展開することなのである。

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