はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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新年あけましておめでとうございます。
政治・経済の情勢には一層の不安を感じずにはいられませんが、本シリーズ稿は終結に向けて淡々とマイペースで進めます。
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本稿は以下の続きである。
07-12-05「因果」を考える
07-12-31「因果」を考える (2)
08-01-19「因果」を考える (3)
08-03-11「因果」を考える (4)
08-04-10「因果」を考える (5)
08-04-30「因果」を考える (6)
08-05-09「因果」を考える (7)
08-05-27「因果」を考える (8)
08-06-29「因果」を考える (9)
08-08-28「因果」を考える (10)
08-09-07「因果」を考える (11)
08-09-30「因果」を考える (12)
08-10-06「因果」を考える (12-b)
08-10-19「因果」を考える (13)
08-11-10「因果」を考える (14)
08-11-30「因果」を考える (15)
08-12-24「因果」を考える (16)
09-01-24「因果」を考える (17)
09-02-12「因果」を考える (18)
09-04-05「因果」を考える (18-b)
09-04-20「因果」を考える (19)
09-05-12「因果」を考える (19-b)
09-06-20「因果」を考える (20)
09-07-31「因果」を考える (21)
09-09-25「因果」を考える (22-a)
09-11-06「因果」を考える (22-b)
09-12-29「因果」を考える (23)
10-04-26「因果」を考える (24)
10-06-07「因果」を考える (25)
10-08-10「因果」を考える (26)
10-10-04「因果」を考える (27)
10-11-10「因果」を考える (28)
11-01-17「因果」を考える (29)
12-01-03「因果」を考える (30)
12-03-03「因果」を考える (31)
12-09-11「因果」を考える (32)
12-11-15「因果」を考える (33)
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つまり、自然科学的な理解が為されるということは、自然現象に関する人類の共有財産としての知見が、前回の稿で述べた「全知の我」の立場からの知見に近づいていく各段階を意味しているのである。そしてその際の知見の進展は、(ある程度の紆余曲折や一時の間違いを伴うことがあったとしても)大枠で見れば決して後戻りしない不可逆的な流れとなっていることが重要である。一旦新しい理解の段階に達したならば、それを無かったことにして、他のある部分だけで閉じた理解の前進を遂げるということは許されないのだ。

このように捉えることの意味や意義は、本稿で因果現象の例として大分扱ってきた「水路に砂利を投入するモデル」に当てはめて考えることで明確になってくるだろう(目下の課題は、この因果の逆を考えることから出発した問題なのであった ^^;)。

さらに関連して、アインシュタインの量子論に対する疑問に端を発し、素朴な実在論的の問題提起の形として表現された言葉:「月は見ているときにしか存在しないのか」に対して、我々は今や、明確に答えられることも示そうと思う(ただし本稿では量子力学そのものには立ち入らない予定)。

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さて先ず、「全知の我」は、自然の認識と記述のためにどうしても想定されねばならないのだが、現実には常に未達成状態の仮想的概念であることに注意を払っておこう。「水路に砂利を投入するモデル」の因果を考える場合であれば、真の「全知の我」の視点からは、水路の中で起こる現象の詳細な推移のみならず、砂利を投入する機構を作動せしめる外部の様子も、水位上昇を検出する装置の動作およびそれにより何らかの行動を示す人間の振る舞いなども、全てが詳らかになっている、、そういう類の認識体だ。もし仮に、このような認識体が真に達成されているとすれば、恐らく、「因果」という概念自体が不要、、というかむしろ根本的に成立しないのだろう。何しろ時空間の全ての領域があからさまなのだから、予測するとか発生を防止するとかのような発想が生じる余地がないということになる。しかしそこで、知れることの時空の領域が絞られているときには、原因を究明するとか、今後の現象を制御・選択する、という考え方が大きな意味をもつことになり、因果概念、さらには科学的な考察とか法則という思考そのものが勃興・成立してくるのだ。

「水路に砂利を投入するモデル」の因果を考えるときには、数多ある時空間中の事象のうち、「ある水路に砂利が投入される」、「水路の中の出来事」、「水路の水位上昇の観測」という各箇所で事象を括って、それ以外を直接の考慮あるいは認識の範囲からから外しているのである。
ところが、自然現象の理解は、達成された「全知の我」を想定し、それに照らして構築されるということも、確かにもう一方の絶対的要件である。つまり、因果を考える視点と、自然を整合的に理解する立場との間には、本来的なステージのギャップがあるということなのだ。
<ing>


=====memo=====

ネット文献からの孫引き情報:

月に関する言明は、パイスの回想を通じてのみ伝えられています。原典を引用しましょう。

『1950年の頃だった。私はアインシュタインのお供をして、プリンストン高等研究所から彼の家まで歩いていた。彼は突然立ち止まって私にふり向き、月は君が見ているときにしか存在しないと本当に信じているかね、と尋ねた。私たちは特に形而上学的な会話をしていたわけではない。むしろ、量子論を議論していたのであり、特に、物理的な観測という意味で、為しうることと知りうることは何かということを議論していたのである。 』
アブラハム・パイス著 『神は老獪にして…』(金子務ほか訳、産業図書)P.3

量子力学(タゴールとの対話)

 以下、アインシュタインの『物理学はいかに創られたか』の章「物理学と実在」より。
 「同時に粒であり、波であることの仕組みを追究した謎物語は、ここで、現実とは何かという問いに発展していきます。量子力学によると、人間が見ること:観測は、とても奇妙な役割を演じます。人間が見ていないとき、電子は雲散霧消してしまうというのです。しかし、人間が観察しようがしまいが、電子はある一点に必ず存在しているはずです --- 私が見ているときにしか、月は存在しないのでしょうか???」



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