はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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この問題については、既に多くの人がとり上げているので発言を控えるつもりでいたのだが、教育基本法のどこがどのように変えられようとしているのかが一目瞭然のサイト(by chiki氏) :「現行教育基本法と「教育基本法改正案」の比較」 を見ているうちに分かったことがあるので、コメントすることにした。

ここで先ず注目して見たいのは、(話題の第二条でなく)「(義務教育)第五条」のところだ。

改正案第五条の(2)は次のようだ。

『(義務教育)第五条
(2)前項の普通教育は、個人の能力を伸ばし、社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家および社会の形成者として必要な資質を養うことを目的として行われるものとすること。 』

「あれ?」と思った人もいるだろう。第一条と全く同じ表現が出ている。一条は次のとおり。

『(教育の目的)第一条
教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家および社会の形成者として必要な資質を備えた、心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならないこと。』

上記第一条は、平和・民主の社会を築くために教育があるのだという正論を述べている。一方、第五条は、この「平和で民主的な」という形容句をとり除いた形で「国家および社会の形成者」という言葉を再登場させ、義務教育はその形成者に求められる資質を養うために実施せよと述べている。

両者の意味の違いは決して小さくない。「平和・民主社会の実現のために教育がある」という意味内容と、「国家および社会の形成者の資質を養うように義務教育を実施せよ」という意味内容は、本質的に違うと言える。しかし、使われている語句は同一であるから「ここがこう悪い」というような批判をし難いように出来上がっている。

そして、「形成者の資質」とは何ぞやという謎への答えが、 (教育の目標)第二条の五:『伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、、』で与えられる仕組みなのである。

何とまた手の込んだ条文構成であることか。そして、この文案をひねり出した人は(どこぞの経済新聞のライターとは異なり)それなりにかなり頭の切れる人ではある。

しかし、憲法相当の法律とも言われる教育基本法の変更を議論するときに、このような反対派を適当に丸め込みながら、皆がよく分からないうちに可決してしまうことを狙ったような文案を出してくるというのは如何なものか。

今のままでは何がどのようにいけなくて、どのような効果をねらってどのように変更したいのか、、もっと本音を出して、はっきり論戦すべきではないか。野党については、今のままで良いと言って引っ込んでいるだけでなく、「自民党右派がそのように変えたいと言うなら、うちは本来こう書きたいぐらいだ!」という議論のための対比案(対案とはちょっと違う)を出して、国民的議論を喚起させる役目を果たすべきではないか。

もし私に意見を求められたならば、

「将来他者に抜きん出た富や権力をもつようになっても、驕ることなく、様々な価値観をもつ国民全体を愛する心を重んずる態度を養うこと。」

という対比条文を提示したい。


〔過去の関連投稿〕
教育基本法と「愛国心」 (2004年4月記述、05-11-16掲載)

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3月16日の投稿、「格差社会の連載報道の紹介」の中で、毎日新聞の価値ある記事:連載特集「縦並び社会」 を紹介した。

一方、これに対して、日本経済新聞の一面のコラムとして、「格差を考える」という特集(上中下の連載構成)が出ている。その4月21日(朝刊)に掲載された -下- の部分を読んで、大手新聞の一面記事というよりはネット掲示板の書き込みを思わせる悪質なレトリックの羅列にすぎない内容に、私は、最初は思わず噴出し、その後、考え込んでしまった。

私が今までに書いたことと重複するので、その記事の内容の細をここで批判するのはやめておく(要するに、そこらに溢れている文句をつないだものだ)、が、最高に傑作なのは、

中ほどの以下の記述:
『今になって歯車を逆転させ、自らの才覚や努力で稼いだ人や企業を引きずりおろしても、日本経済という船が再び沈めば元も子もない。結果の平等を重く見るために起きる数々の談合事件は、公共事業のコストを高止まりさせ、国民に過度な負担を強いてきた。』

のところと、そして、

別枠の語句の注釈として、ご丁寧にも、「結果の平等と機会の平等」が説明されているのだが、その中味が、意味の矛盾性や曖昧性や語源のことには一切触れず、一般人が感覚的に捉えてしまうのをそのまま後押しするような最低級の内容になっていること、

の二箇所であった。(笑わずにはいられなかった.)


この記事には、自社(あるいは自分)なりに独自に調査したり、客観・論理的に分析した結果を、他者に供するという姿勢が皆無である。そして借り物の語句をつなぎ合わせて文章(らしきもの)に仕立てる行為に一切のはばかりがない。筆者に本気で記事を書く気があって、このようなレベルになってしまうとしたら、この筆者には文章をつくる能力が無いということになる。少なくとも、給料をもらえるプロとしての”才覚や努力”は全く認められない。そういうことならば、もし私が編集委員長なら、当然のこととしてすぐに書いた人をライターの仕事から外す。

しかし、曲りなりにもプロのライターにそういう人がいるとは考えにくい。むしろこの記事は、何かの意思・思惑に応じる形で、何らかのマニュアルのようなものにしたがってつくられたと考える方が自然だ。例えば「機会の平等」も「セーフティーネット(安全網)」も、自然な日本語としては少し前まで存在していなかった。これをジャーナリズムで頻用するように仕向ける何かが動いている、、と考えるしかないのではないか。

昨今の報道機関の中では、一体何が起こっているのだろうか。(考え込まずにはいられなかった.)

〔追記〕
隠し誤魔化してきたことがあばかれそうになって焦っている、、そんな印象だ。このような傾向は、最近は、大臣級の人の発言にまで見られる(例:竹中平蔵氏の発言に見る悪質ディベート術)。




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本稿は、以下シリーズの最終回です。
遡って上からご覧いただければ幸いです。
1月31日:「サイホン現象を観た時の二つの衝撃
2月 5日:「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(1)-
2月14日:「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(2)-
3月 6日:「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(3)-
3月12日:「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(4)-
3月21日:「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(5)-
4月4日:「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(5)-b-

(Keywords: サイホン,サイフォン,siphon, 誤った, 説明, 理解)

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「複雑な機器の技術知識などよりも、まずは素朴な自然現象を扱うことが大切.」という旨の前回の私の主張に対して、次のような批判意見をもつ人もいるだろう。

(1)しょせんは物理屋の枠にとらわれた発想だ。普通の人は、素朴な自然現象などより、生活の便利や損得に結びつくことに関心が向く。

(2)現代の社会においては、科学技術の知識は必須になっている。基本的な現象を一から取上げるなどという悠長なやり方をしていては、いつまで経っても、必要な技術知識に到達できない。

これらは、現在の一般の社会生活を送る大人の感覚としては、もっともであると思う。しかし、むしろ、これがもっともとなってしまうこと自体が、本質的な科学教育の危機的問題を提起していると言える。

確かに、科学技術というのは積み上げによって成り立っている側面が大きい。現時点で達成していることを利用して次の進歩が得られる。しかし、積み上げる小石がいずれ崩れるように、同方向の積み上げには限界や破綻が訪れる。間近に見えることの積み上げが必要であるのと同様に、このまま重ね続けることに問題はないのか、とか、未だ見えぬ別の方向性を捜す必要はないのか、などの思慮・考察の努力が極めて重要だ。さらに、技術の基礎を成す科学における重要なブレークスルーは、必ずこのような視点の転換によってもたらされてきことも認識すべきであろう。

科学における視点の転換などというと、天才的な科学者の話と受け取られるかも知れないが、ここで言いたいのは、科学技術が生活に入り込んでいる現代社会だからこそ、国政の主権者たる国民が、科学技術に対して、全体の本質を見とおして、理性的で的確な批判を行うことができる力をもたねばならないということなのだ。そして、そのためには、完結性のある透徹した科学的理解の確かな体験を与える教育が重要であり、その題材として、素朴で単純な自然現象から入る以外にないだろうというのが、私の主張なのである。

もちろん、すべての人が、このような理解体験をもつのは無理なことかも知れない。しかし、時流や、雰囲気や、感情や、目先の損得などに、判断基準を求めないで意思決定のできる科学の非専門家層を厚くすることは、可能であるし、またそれを為すことこそが、現代の技術社会における必須・焦眉の課題であると思う。

ただしここで、(2)の主張が、現代の科学教育のあり方に関する根本的ジレンマを鋭く突いていることにも目を向ける必要がある。時代とともに科学は加速度的に進歩し、その事項・内容が増え続けているのに対して、子供たち(あるいは我々)が勉強したり思索にふける時間数は、増えるどころか、むしろ減少している。これでは、一からやっては間に合わなくなるのは当然なのである。必然であることが分かっているはずのこの根本問題を、正面から議論する声があまり聞かれないことが、私には大変不思議であり不満である。


この難題への名答が簡単に得られるはずもないが、関する私見を少しだけ述べて、この稿の結びとしたい。

基本的には、科学の教育と、生活における技術の教育を、教科としては切り離すことが必要だ。中学校には「技術家庭」という科目があるが、その内容を、もっと科学技術指向にして、IT技術、電子機器技術、さらにはエネルギー問題や環境問題などはそこに含めればよい。例えば「生活技術」という科目名として、これ(に類するもの)を、小学校から高校までのカリキュラムで、理科とは別枠で実施するのがよいと思う。

一方、理科については、まず、目的が自然現象(の活用)そのものにあるというよりは、その考察を通して科学的考察能力を養い、社会の中で理性的な判断をするための糧にすることにあるのだということを明確にし、そのことのコンセンサスを築くことが先決だ。その上で、個々の現象の知識を扱うのか、体系的に構築される過程を示すのか、あるいは、数式・定量的扱いを出すタイミングをどうするのかなどのポリシーを明確にし、各生徒の発達プロセスの個性に応じた、ある程度多様な教程(教科書)を準備すべきだ。レベルの異なるものを複数つくるというのではなく、各生徒に科学的思考の達成感を最も効果的に与えてやるためにはどうすればいいかという観点で、多様な中から個々適切な教え方をとることが求められる。そして、何が適切な教え方であるかは、個々の子供が抱く「疑問の構造」を見抜くことではじめて判断できるのである。

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文科省の中央教育審議会では、次期指導要領の立案に向けて、理科の教育体制の見直しの議論が活発化しているらしい。(この部分追記予定)

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本稿は、
1月31日:「サイホン現象を観た時の二つの衝撃
2月 5日:「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(1)-
2月14日:「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(2)-
3月 6日:「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(3)-
3月12日:「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(4)-
3月21日:「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(5)-

の続きにあたるものです。

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このように、小中学校の理科の先生には、純心なる子供の疑問の目と心をあたたかく見つめ育み、また、その大切さを親にも伝えるという重要な役目があると思う。そして、こういう役目を活き活きと自信をもってこなすためには、先生が自ら、種々の科学的疑問に対する、(通り一遍の答えの知識ではなく)透徹した考察と解決の達成体験をもっていることが求められるのだ。

しかし私は、現状の日本の公教育機関は、このような先生の役目を十分支えているとはいい難いと感じている。1990年代頃を中心に、初等・中等教育機関の新規教員採用は著しく抑制され、さらに時を同じくして進行し始めた生徒の理科離れの影響を受けて、理科教諭、とりわけ物理系の先生の存在の重要性が、少なくとも一般の目からは、認識され難くなってしまった。私が直接耳にした話では、物理の先生が皆仕方なく化学を教えているとか、高校の理科の先生に物理系の出身者がいなくなってしまった県もあるということだ。

私たちの日常生活を取り巻く自然には、不思議と疑問の種が溢れている。そして大切なのは、その個々の疑問に対する答えを知ることよりもむしろ、きちんと考えていけば、いくつかのより簡単な性質に帰着させることで、全てが矛盾なく納得できる、、こういう理解のプロセスの実体験を積み重ねることなのだと思う。ただし、この場合の「理解」とは、理由をつけることとは少し違うことに注意してほしい。自然現象については(あるいは自然以外の事象でも)、突き詰めた根本の理由は説明できないことがほとんどだ。しかし、一見相反する個々の現象を、一貫無矛盾に見る方法は必ず存在する。これを見つけるのが科学であり、その手立てが科学的・論理的思考なのである。このような思考力の糧となる理解体験を多くの一般人までが持ってこそ、国民が自分の頭脳で物事を判断するという「国民主権」の原則も成り立ち得るのではないか。

「ゆとりから学力重視」の流れが起きている教育行政であるが、一からの透徹した理解体験に結びつけることにはどう考えても適さないコンピュータとか電子機器のような人工物の技術教育を、初等教育段階から指向する傾向が見えるところに重大な疑問を感じる。自分の思考できちんと理解する体験を積むには、シンプルな自然現象を題材にするのが適切であることは、ほとんど自明のことと思う。

-つづく-



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