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はぎわら_m の部屋

社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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金融所得の分離課税扱いにもの申す(6)

2025-01-28 03:59:53 | 社会・時事批評
金融所得(含トレード金融商品の益金)に対する課税方式を抜本的に正す大胆な案を出そうとしてこの記事を書いている。
最後の段階で、いろいろ難題が見つかったため、終結的な記述が遅れてしまった。

預金と株式だけならば話は簡単だったのだが、外国株、ETF、投資信託、CFD、商品先物、FX、貴金属現物、等々調べていくと、キャピタルゲインとインカムゲインが不可分に結びついたファンドがあり、海外の課税ルールがからむ商品もあり、仕組みと課税の法規は複雑怪奇で、お手上げ状態になりそうだ、、。
ということで、前回までに提示した基本原則をそのまま制度化するという形では済まないことが判った。
そこで、あらためて本気で考え巡った結果、当初の予想よりも一層大胆な課税方式を創案するに至った。これを、この後の稿で、段階的に示していこうと思う。

先ずは一番簡単なところからだ。

ⅰ. 購入(預け入れ)時に、各年の利率が確定・確約された金融商品による年次収入
→文句なく総合累進課税を義務付ける。ただし、各金融機関で、顧客ごとの1年分(口座解約があっても1年間は追跡)の収入分をまとめて所得化(現金化)し、その年間総額5万円(仮)までを非課税扱いとして、申告不要とする。課税対象となる分は、金融機関から所轄税務署へ(オンラインで)通知する(非課税枠内は通知自体省略)。
結局、庶民の1000万円くらいまでの預金に対する金利には、税金がかからないことになるが、それを超える利息は累進課税の扱いとなる。ただし、金融機関毎に非課税控除枠があるので、大金持ちが、預金を多数の銀行に分ければ節税ができてしまう、が、それはそれで構わない。何十もの金融機関に分散すれば扱いの手間が大変だ、、本当の大資産家の場合、その程度でも全然預金総額に届かないだろう。やりたければやれば、、としておけばよい。

ここから先は、インカムゲインとキャピタルゲインが分離し難い商品による収入を扱うため、また、損益通算の考え方を徹底的に拡張するため、新たな課税概念を導入する必要がある。それが、「総合課税保留口座」(仮称)だ。
回を分けて説明する。
---
<続く>

金融所得の分離課税扱いにもの申す(5)

2024-11-05 00:15:12 | 社会・時事批評
以上考えてきたことを踏まえれば、現状の金融所得課税の制度が不合理であることが解る。特に、以下の問題が大きく浮かび上がってくる。

1.
 預金金利等は、庶民にとっては所得の端数部分程度に過ぎないが、(生活費をはるかに凌駕する)多額の預け入れをしている者の場合は、重大な定常的所得になっている。こうした大きな定常所得こそ累進課税対象とするのが相応しい。それにもかかわらず、現状では一律分離課税(税率20.315%)の対象になっているが、そのような特例扱いにする根拠がない。そのように怪しくつくられた制度が、庶民の雀の涙にも満たないような利息から税金を取るという、ばかばかしい処理を招いている。

2.
トレード型の投資については、ベースとなる資金力の規模が小さい個人の範囲に留まる限り、通年してプラス所得をもたらすものではない(その可能性は低い)。このような個人トレードには、課税そのものが馴染まないとさえ言える。一方、巨大な資金力があるほど、トレードは、確実な収益源に近づいていく。こうした資金力のスケール効果を無視して、一律源泉分離課税(20.315%)を、1回の売却毎に課すという現状の方式は、明らかに不合理である。トレードにかかる税は、分離課税が相応しいのだが、徴税対象は、個々の売買にではなく、ロングスパンの資金の流れを見据えた、実質的な収益分・受益者側に当てる形に正す必要がある。

さてそこで、私が創案した具体的な制度を示していきたい。このとき、当方の知識不足も気になるのだが、、かくも愚かな税制度が綿々と続いてきたことの根源は、これまで、多くの国民が、自分に関係あるところだけを見て、納税額を減らすことだけを考え、それを国政投票に反映させてきたことにある(そうすると結局、力の強い者が自らを有利にする法をつくってしまう)と理解するので、(自分の損得よりも透徹を求める変わり者の)私が提案することには、それなりに意味があると信じて、臆せず提案していこうと思う。
<続く>

金融所得の分離課税扱いにもの申す(4)

2024-10-21 02:35:40 | 社会・時事批評
ここで、少々コメントを挟んでおく。
本稿の記述を見て、「資産家と庶民と国税庁のうちのどの立場の考え?」風の疑問をもつ人もいるだろう。本稿では、誰の側を代弁する立場もとらないようにできるだけ努めているつもりだ。あくまで、全てを見通した上で、筋の通ったルールを見つけることを目指す。私は、このスタンスが、制度を考えるときの基本だと信じる。ただしこうすると孤独な状況になりやすい、、散々経験して慣れてしまったが、、

--
分離課税を適用する対象の話しに戻ろう。

ここまでに示したⅠ,Ⅱ,Ⅲで本質的な観点は揃った。ただし、実際の運用まで考えに入れると、もう一つ観点を加えておく必要がある。それは、納税申告のために個人および各機関で発生する手間の問題だ。各機関というのは、金融商品を扱う会社(銀行,証券会社など)および税務署を指し、書類発送やチェックのためのコストも含めて「手間」とした。

累進課税を適用するためには、必然的に確定申告が必要になる。その申告は納税者が自主的に行うものなので、漏れをチェックする仕組みがどうしても必要だ。金融所得について言えば、本人からの申告とは別に、金融機関等から税務署へ、個人毎の情報を通達する必要がある。そしてその情報を使って実際にチェックする役所人員も必要になる(抜き打ち方式だとしても、やろうと思えば確実に実施できる仕組みを整えなければならない)。損金の相殺処理、(複雑な)各種控除、、全部に応じて正しい累進税率が決まるので、間違いが見つかったときの補正処理も相当大変そうだ。

トレード型の金融商品に手を出している人はある程度限られるだろうが、銀行預金となれば、成人のほぼ全員が口座残高をもっているはずだ。金融所得を全面的に総合課税に含める場合、手間を減らす工夫はどうしても必要になるだろう。

Ⅳ. 申告に関わる手間が発散的に増えることは避ける

ここまで準備したことで、金融所得の課税方式についての正しい見解が得られるようになった。

<続く>

金融所得の分離課税扱いにもの申す(3)

2024-09-25 17:14:06 | 社会・時事批評
次に取り上げなければならないのは、(家・土地等とは異なり)小刻みの売却ができて各年毎の収入になり得るのだが、その売買の結果が損失(負の所得)になる可能性が相当高い取引の扱いだ。有価証券や金融商品の売買、つまり、株式、商品先物、外国為替FXなどの取引で得た所得が該当する。これらの取引で損したとしても、それは強欲の応報なのだから考慮する必要がないと考える向きもあるだろうが、累進性の適用を論じる時には、そういう感情は除外して、冷静に思慮した方がいい。(私も多少は経験したので言えることだが)個人投資家がこれらの金融商品で、毎年利益を上げ続ける可能性は非常に低い。年間のトレードで勝つ確率は1/2未満と見た方がいい。何故かというと、巨大な資金力を有する者・集団はほぼ確実に利益を上げるという事実があるからだ。その利益は、大衆投資家(特に初心者)から吸い上げられる構造になっていると解するのが自然だ。だから、こうした投資商品の取引に由来する個人投資家の所得は、プラスになったりマイナスになったり不安定に変動する(そして結局マイナスの状態で撤退となる)のが通例なのだ。そのような所得がプラスの年に、他の所得と合わせて累進課税を適用してしまうと、損が出た(累計がマイナスになった)年には、損益相殺の考え方をとって、過去のプラスのときの総合課税分を補正すべきではないか、、という非常にややこしい問題が生じるのだ。過去の税率にまで及ぶ変更は無理なので、こうした損益が不安定に変動する所得は、分離課税の扱いにするしかないとなる。
(分かりやすくは、 例えば、FX取引で、利益2千万を得た数年後に、今度は3千万円の損失を食らった、、結局、貧乏の程度がより進んだ、、こんな状況を想像するとよいだろう.)
(なお、分離課税は、総合課税とは独立に税率を決めるというだけなので、税率を低くすると決まっているものではないし、独自の累進性を与えることもできる.)

さて続いて、(株、預金、債権類を含む)金融商品の保有をとおして得られる、配当金、分配金、利息に目を向けよう。これら収入の性格は、上で述べたトレード差益の場合とは全く異なっている。買って保有する株や投資信託の配当・分配金というのは、変動してゼロになることはあるが、負にはならない。銀行預金や国債などに至っては、(変動しても)非ゼロの金利が保証されている。これらは、ゼロ以上に確約された毎年の定常所得を生むのである。庶民レベルの資金で保有できる額の金融商品では、得られる配当・利息はたかが知れている(利率は高々%オーダーだから、お小遣い程度の収入だ)。しかし、もし10億円程度の金融資産を保有できたならば、元本保証に近い商品だけを保有対象としても、普通のサラリーマンの年収以上の金利や分配金の所得が毎年必ず入ってくる状況を実現できるのだ。これこそは、累進税率を算定する全所得に加えることが最も相応しい金融所得ということになるだろう。

以上の考察の結果として得られた視点を次のようにまとめることができる。

Ⅱ. 各年の売買によって所得が生じる場合でも、利益-損失(正負)の別が不安定に変動する性格を帯びる場合は、分離課税の扱いとすべきである。

Ⅲ. 保有することで、毎年、負になり得ない利益を生む金融資産による所得は、分離課税に相応しくない。

<ing>

[補足]
なお、株式について言えば、(ほぼ)不滅の財産として、マイナス所得を生まないものとして保有する方法がある。それは、もち続けた上で、相続で子孫に引き継ぐことだ。金持ちの多くは、インフレに対応する資産の引き継ぎ手段としてこの方法を採っている。ただし、その場合、所得の問題からは離れて相続(または贈与)税の話しになる。相続税にはかなり強力な累進性がかかっているので、税はそこでしっかり捕捉される。株トレードは分離課税の扱いであるが、株の保有に対しては相続の際に累進課税されるという仕組みになっているわけだ(その上で、売却時にさらに分離方式で徴税される、、かなり厳しいことだ、、)。
なお、金銭の贈与は相続の一環であり、現行法では所得の範疇に入らないのだが、実は、そこに問題が潜んでいる。これについては、後にあらためて言及する予定。

金融所得の分離課税扱いにもの申す(2)

2024-09-24 06:23:35 | 社会・時事批評
前回に触れたように、近代国家においては、所得の総計に対して累進税率の課税を行うことが原則になっている。そこにあえて分離課税方式の例外を設けるならば、その合理的な訳を示さなければならない。
ただし、そのとき、富裕層と庶民の間の富の争奪のような視点を持ち込んではならない。そのようなせめぎ合いの構造は当然あるだろうが、その路線で議論するなら、累進税率の考え方そのものに対する異論を出して論争すべきだ。

実感をもって考えやすくしてくれるヒントがある。退職所得の扱いだ。現行税法で退職金は分離課税の対象だが、その正当性はどこから来るのか、退職金に対して総合課税の累進税率をかけることに不都合はあるのか、これを考えてみるとよい。退職金は、支払者の都合で、所得化されることが先送りされた報酬である。若いころから少しずつ受け取っていれば、低税率の範囲の収入となるべきものだ。それが、支払者の都合でまとめて支払われる結果、最後だけ高所得者のような税率になってしまう、、こういうことは不合理だ(支払者の意にも沿わないだろう)。つまり、元々年度毎に分けられるものが、自分の意に関係なくまとめられて大きな金額となるような場合は、その一時的所得は、累進課税の例外扱いにすべきなのである。
これは、家などを売却したときに得られる所得についても当てはまる。家は、毎年少しずつ売ることはできない。(小さくても)自宅なるものを保有していた庶民が家を売ったとき、不動産価格が上昇していれば、その年だけ大金持ち並みの所得を手にすることになる。しかし、結局は、住まいが必要になるので、その所得は、その後の生活のための家の購入とか家賃とかのために費やされてしまう(家の価格や家賃は、値上がった後の時価にしかなり得ないので)。売却益を得て富豪になれるわけではないのだ。

ここに一つの視点が得られた。
Ⅰ. 年度ごとに分割した収入にすることができない場合、その所得は、累進課税の算定に含めるべきではなく、分離課税方式が相当である。

<ing>

金融所得の分離課税扱いにもの申す(1)

2024-09-14 01:39:38 | はじめに
私の個人的な経緯なのだが、この数年、親の死去、定年退職など、いろいろな事があった関係で、給与以外の納税申告に関わることを余儀なくされた。そのおかげで、日本の税制に対する理解がかなり深まった(この歳にして知ったことも多い、、笑われるかも知れないが、、)。
また、本年には、折しも始まった新NISAに触発されて、株式運用にも足を踏み入れた(この夏の急落劇には驚いたが、CFDなどを使い、初心者としてはうまく乗り越えたつもりだ)。

そして、折しも、自民総裁候選挙の争点が話題になり、金融所得課税の話題がネットを賑わしている。

そこで今回は、(給与以外の)納税に関する実感を多々抱くことになった私が考え巡った、金融所得課税に関する意見を記すことにする。
だたし、私の税制に関する知識は初歩段階であるから、理解の整理のための自己用メモのようなころから書き始めることをお断りしておく(経済や税務に詳しい人から見れば稚拙な内容になるだろう)。

はじめに考察の方針を述べる。社会的な制度を論じるときに、「目的」とか「良し悪し」の観点をはじめから持ち込むのは厳禁だ。それをやると、思い込んだことから離れられなくなって、それに対して自ら懐疑の目を向けフィードバックをかける考察ができなくなる。’推進派と抵抗勢力の争い’のような下らない図式に陥りがちだ。正しい手続きは、登場する概念・言葉を十分一般化した上で、整合性を貫き得るルールを探ることだ(これは私の信念だ)。

そこで、金融所得にかかる税金の意味を考えるところからスタートする。そのためには、「税」における「所得」の位置づけを調べるのがいいだろう。
日本で課税される税目は、以下に上がっている47種類(も)ある。
このうちの所得税目を問題にするわけだが、先ず、「所得」の意味が何かを考える。総生産の別側面だ(経済学的発想)とか、収入から経費等を控除した残りだ(経理的発想)とかそういうことではない。富の獲得の中でどのような条件をもつものを所得という括りにしているかを、あくまで税問題として問うている。一応の答えは、「何らかの対価として得た現金もしくは現金同等物」となるだろう。現金同等物とは、確定した現金に換金することが絶対的に保証された正式な契約情報、つまり、預貯金だ。例えば、品物を譲り受けるとか、物々交換の商いで何かを得ても、それは所得扱いにならない。売却して金額の値が定まった時点ではじめて所得となる。つまり所得とは、貨幣経済を絶対前提とする概念なのだ。
(手形・小切手が現金同等であるか否かは、微妙だが、期限切れや不渡りになる可能性を残している時点で所得扱いにならないはずだ、、たぶん)

そして、その所得は、税制上、以下のように13種類ほどに区分されている。
こうした所得は、年度ごとに、原則その現金あるいは現金同等物を得た人が、集計し、種別毎の算出法にしたがって税額を算出し、確定申告しなければならない。
この算出法の中身が、本議論の核心の話題になっていく。

所得に対する課税は、累進税率方式に基づくことが原則になる。累進方式の根拠におく考え方は、いろいろあるが、ここでは触れない。ただし、世界各国で採用されていて、その最高税率が、1980年くらいからどんどん引き下げられて現在に至っている事実は再認識しておこう。
主要国における所得税率の推移の⽐較/財務省

現在の日本の現在の所得税率は以下のとおり。
このサイトにある以下の文面にも注意を払おう。
「所得税の税率は、分離課税に対するものなどを除くと、5パーセントから45パーセントの7段階に区分されています。」

ここに「分離課税」の言葉が登場する。分離課税の本質的意味は、それが適用される所得は、累進税率を算定するベースから外すということだ。そして、上の文中で「~を除くと」の表現が使われていることから、所得税は、原則的に総計した上で累進税率を課すものなのだが、(何らかの事情のため)一部に例外規定としての「分離課税」の扱いが用意されているのだと解することができる。

その例外的分離課税方式が、どの税目に適用されるのかは、以下の文書などから知ることができる。

ここに以下の記述がある。
「所得税は、各種の所得金額を合計し総所得金額を求め、これについて税額を計算して確定申告によりその税金を納める総合課税が原則です。しかし、一定の所得については、<云々>」
累進税率の算定から外れる分離課税の扱いが例外であることが、ここでも確認できる。
ただし、分離課税が設けられている根拠に関する記述はなかなか見つからない。国税庁のサイトをあちこち見渡しても、その辺りがぼやかされているように感じられる。
如何なる考え方に基づくことで分離課税の特例扱いが正当化されるのか。その考えの筋を通すとすれれば、分離課税扱いにすべき所得、すべきでない所得を、どのように判断することになるか。何としてもこれを論じておかなければならない。ここに、やっと本稿の主題に至ったわけだ。
長くなったので、続きは別稿に記すことにする。

<ing>

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(おまけ:批判的な目を養う参考になる)
ごく簡単にまとめた日本の税制の説明


最重要の論点を欠く党首候補者の発言

2024-09-10 18:50:28 | 社会・時事批評
自民党総裁、立憲民主党代表、それぞれの候補者が揃いつつあり、どの候補が良いとかまだマシだとか云々の、ネット上の声も耳に入るようになってきた。
政治絡みの発言とは距離をおくつもりだったのだが、あまりに情けなく感じるので、手短かなコメントを投稿する。

現代の地球上の一国の元首を目指す者であれば、絶対に表明すべきことがあるだろう。それは、今なお絶えることなく繰り返されている国際紛争に対処する方針・方策、およびその底流に据える自らの思想・信念だ。
より具体的には、自らが求め、かつ、自らの力で実行できそうな、外交の方針と手法をきちんと語るべきということだ。

確かに、政治資金パーティー券の裏金問題は、徹底的に正さなければならないことだ。しかしそれは、政党の責任者として為して当たり前の仕事に過ぎない。国家元首になろうかという人を選ぶときに、こんなレベルの論戦が冒頭に出てくるようでは、がっかりを通り越して、力が抜けるばかり。主権者の参政意識を愚弄しているとも言える。

昨今緊張の渦中にある国際問題は、知識の乏しい当方が思い浮かぶものだけでも、中国と台湾の関係、NATO諸国とロシアの関係、パレスチナ自治区とイスラエルの関係など多数ある。いずれも、国際社会を構成する国家として知らん顔は許されない容易ならざる問題だ(特にウクライナ-ロシアの問題には、日本は関りをもってしまっている)。また、日本の領土問題として、北方領土、尖閣諸島、竹島の各問題があるはずだ。各候補者はこれらの交渉を進めることは諦めたというスタンスなのだろうか(それならそうと発言すればいいのに)。北朝鮮のミサイル開発については、Jアラートなどという、意味希薄と言わざるを得ない制度だけが動いている。実質的な軍縮を実現させる努力は一切せずに、精度がほとんど無い後付けアラートがテレビで空しく鳴り響くのみ ― この状況を、次期首相候補者は継承するつもりなのか?

つまり、首相候補は、他国の怪物のような政治家とでも、差しで交渉できるような人物であることが求めらるのだ。そして、その交渉の方向を定めるベースとする理念を、世界に対する説得力をもつ形で語る力が求められるのだ。こういう力を計る材料となる発言を、今回数多名乗りを上げた候補者は、誰一人していないように見受けられる。これが、私が情けないと思う感覚の所以だ。

特にロシアとの外交について付け加える。2022年2月、ロシアのプーチン大統領は、ウクライナに対する軍事作戦を開始する前に、攻撃の予告ととれる演説を、国営テレビを通して放送した。日本のメディアはこれを取り上げていた。岸田首相も聞いていたはずだ。だったら、何故すぐにプーチンに電話をかけないのだ。「武力による問題解決は双方の国民への不幸を招く.思い留まりなさい.」と言うべきではないか。もちろん、「はいそうします.」とプーチンが応じるわけはないだろうが、平和憲法下で元首に任命されている者なのだから、これを述べるのが国際的な責務なのではないか。こうした電話を為し得る人物に、私は、首相を務めてほしいと願うのだ。

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ドングリの背比べのような比較にあまり意味はないが、今の情報に基づいて適・不適を判断するヒントを記しておく。
●政治体制が異なる他国を敵と見て、意見交換をできないような人物は失格。中国、ロシア、イラン、どこへでも行って、話し合いをすることのできる人物が適任。
●「改革」というようなキャッチフレーズを掲げる者は、不適。
小泉純一郎の、「規制緩和」「構造改革」を思い出そう。悪いものを無くすというのは間違いではないのだが、それを掛け声に、思慮を欠く変更を行った結果、前より悪しきものが蔓延る状況を招いた。何かを変更するときには、思いついた案を即採用してはダメだ。自らの創案に対して、悪化の側面までを徹底的に推察し懐疑の目を向け、フィードバックをかける必要があるのだ。
●対立する相手がいるときに、対話を回避して、塀の外から強がりのセリフを投げつけるかのような外交姿勢をとる人物は、全くもって不適格。(竹島の日問題というのもあったな、、あれ、今回の立候補者の一人だっけ?)

[追記]
今にして思うのだが、アメリカ元大統領(かつ今回の候補者)のトランプという人物は、正義・道義理念の側面ではトンデモ元首であったが、北朝鮮との外交交渉を行ったという意味では、元首らしい行動力を有していたわけだ。この観点で、今回の日本の政党代表候補者(および現首相)の外交力のレベルは、皆、トランプ以下に見える。

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[(予告的)付記]
小泉内閣のとき以来進められた規制緩和が、如何に愚かな側面をもっているか、折を見て、私たちの生活に対して不便・不幸を及ぼしている具体的な例を示しながら説明したいと思っている。

科学的論理とは何か(5)

2024-08-14 04:54:19 | 科学論・科学哲学
自然科学的な命題とは何かを論じるための投稿のつもりだが、前回からの期間が空いてしまったこともあり、厳しいスタイルの論述は控えることにする。分かりやすい例をあげて、読者と一緒に考えるスタイルにしてみようと思う。

(哲学的ではなく)自然科学的な命題とは、例えば以下のようなものだろう。

「◯◯は、電流をよく導く。」 (※)

この文は、論理的な主張足り得るのか、、突っ込みどころはないか、じっくり考えていこう。
さて、前件の部分の主語をあえて◯◯としていることには、重要な意味がある。ここを、いろいろに置き換えてみると、自然科学的立場で言わんとすることの意味がよく見えてくるのだ。それが本論につながるのだが、そこにいく前に、先ず、他から確認していこう。
後件に目を向けて、「電流」とか「導く」とかのタームの意味が与えられていないので、真偽の判定ができない文だと思った人もいるだろうか。
しかしそれは、どのような実験をしたときにどのような現象・効果が認識されるのかという観点で、いくらでも捕捉説明ができることだ。論理に対する瑕疵になるものではない。ただし、このことは、人文学と自然科学の主張の違いの特徴の一端を教えてくれる。人文学的主張では、そこかしこに難解なタームが登場するのが常だが、それは、あくまで人の経験と感性に根ざす概念であり、それを高度なところで括って名詞化している場合がほとんどなのだ。ところが、自然科学においては、日常を生きる人の経験上にはない現象にまつわる概念までがターム化される。そのタームの意味は、決して(哲学用語のように)難解ではないのだが、実感できるようになるためには、多大な手間と時間がかかるのだ。文系出身者が、理工学書にとっつき難い最大要因はここにある。
少し脱線したので話しを戻そう。
電流とその導通の意味を解したとして、次に、「よく導く」の「よく」が曖昧だと思う人もいるだろう。確かにそうだ。どこからが「よく」なのかがはっきりしていない。しかし、自然科学においては、明確な区部は必ずしも必要でない。区分にこだわると、むしろ有益な主張ができなくなることも多いのだ。是々云々の現象が、人間が実測可能な形で確かに認められる、、という程度の主張が最も有意義となることが多い。
この段階で、重要な手がかりが見えてきた。自然科学においては、区分、範囲、境界などを敢えて明確にしない方針がとられることが通例なのだ。命題論理は、基本的には集合論の問題に置き換えて扱うことができるものだろう。その集合の範囲が曖昧化される傾向をもつ自然科学の主張は、命題論理に当てはまらない可能性をもつということだ。
ここまでを前準備として、いよいよ、(※)の前件、◯◯の部分を入れて考えてみよう。
以下に、一例を示してみる。その真偽について、考え巡ってみてほしい(宿題にしたいと思う)。

「金属銅は、電流を(最高クラスに)よく導く。」は、科学的に正しい主張である。さてそこで、以下の真偽を考察してほしい。
「正確に56700000000000000000000000000000000000000000000000個の銅原子から成る物質は、絶縁体である。」

注)上に示した数の銅原子を集めると、その総質量が地球の質量にほぼ等しくなる.


科学的論理とは何か(4)

2024-05-17 00:32:00 | 科学論・科学哲学
本題に深く入り込む前に、ここまでに見てきた(A)の立場(A)と、(B)の立場とで、いずれの方が、近現代流の自然科学の発想法に通じているかをざっと考えておく。

(A)のデカルト流は、いかにも厳格で、妥協のない論理構築になっている。一方、(B)の方は、人間の文化・社会を前提として意味が与えられ、自然科学というよりは、人文科学的な論理のようにも感じられる。自然科学は本来、人間文化などという、時間的空間的に小さく限局された領域を超えて成り立つ原理を問題にするものだろうから、(A)の方が、自然科学的立場に近いと考えたくなる。しかし、既に少し述べたように、(A)の立場を貫いても、自然科学を発展させていくことはできないのだ。ある科学的な概念が、既に誰かによって確立されていた場合には、それが適用・拡張され得る範囲についての警鐘を与えてくれるというような効用はある。しかし、新たな自然法則を見つけ出すことには役立たない。自然科学は、疑わしいものを排するだけではなく、もっと大胆な飛躍や仮定を採り入れて初めて進展していくものなのだ。
さて一方、(B)の方は、人間の意味付けを明らかにすることに大いに貢献したが、導き出された事はいかにも人文学的な内容である。自然科学の観点とは異質だと言える。しかし、だからと言って、自然科学的な観点の命題が(A)の立場を通して達成されるわけでもないのだ。むしろ、(B)の立場に含まれる、自然科学の考察にそぐわない部分を修正した方法論が、自然科学の基本方針になりそうだ、、ということが、おぼろげながらに見えてくる。

---
〔追記〕
ここまで述べた内容を見て、Descartesの哲学を貶す内容のように感じる人がいるかも知れない。しかし、私が若いころに読んで、心酔し、影響を受けた最高位の書物は「方法序説」だった。その位置づけには、今でも殆ど変わりはない。近現代の自然科学の書物は、Descartesの精神を忘れたかのようで不満に感じることも多いのだが、そのとき、Decartesの方針と、近代科学の方針の、何が違うのかの理解が曖昧だったのだ。その相違の本質が、今にして、理解できるようになった、、それをお伝えしたいと思って、このBlog記事を書いている。

<ing>

科学的論理とは何か (3)

2024-03-17 03:51:01 | 科学論・科学哲学
前稿で示した(A)と(B)の立場について、もう少し補っておこう。

(B)の方は、文化的観点を重視する立場と見なすことができるだろう。「人」という語を規定するときに、文化的に培われている観念を大元に据える。人の文化的集団の中で、人が死にゆく過程が何度も目撃され、死ぬことへの恐怖とともに、死なない可能性に対する畏怖のような心理が共有されていくことは容易に想像できる。こうした状況を前提とした上で、客観的(つまり誰も否定できないような)結論を求めれば、死ぬときに初めて人となり得るのだという理解に辿り着くのだ。けっして観念的に結論ありきとしているのではなく、十分論理的な演繹が為されていることに注意しよう。

一方、(A)の方は、集団的文化というよりは、個々人の中で内省を貫くことで、論理は構築されるという立場だ。先ず、絶対に否定されない真理を徹底的に探そうとする。それが、「生きている人が存在する」ことだ。この問題を考えている自分は生きている人なのだから、、と考えるわけだ。ここにおいて、R. Descartesが提示した「Cogito ergo sum」の意味がはっきりする(本当に私はこの歳にしてはっきり解った気がする)。デカルトは、集団文化的な観念を哲学の原理に持ち込むなと言いたかったのだろう。だたし、このデカルトの方法的懐疑に基づいても、大した結果は生み出されない。「時間的将来のことには言及できない」という程度の結論しか出せない。何も間違ってはいないが、何も得られない一種の自己満足的哲学だ、、という辛辣な批評も当てはまるだろう。

---
少し脱線気味に話が進んだので、「人は死すべきものである」と、自然科学的論理の話しに戻していこう。

論理的な考察は、客観的な結論を求めて行われるものだ。「貴方はそう思う。私はこう思う。人それぞれだな。」などとなるのを避けるのが、論理の役目のはずだ。しかし、「人は死すべきものだ」を厳格に論理的に扱った結果、全然違う二方向に論理が展開して、別々の見解が得られた。しかも、そのどちらもが、それなりに有意義な意味をもつようだ。いったい論理とは何だったのか?

ちょっと考えると途方に暮れる悩ましい事態に陥ったわけだが、この例を基にして、論理と自然科学、両者の相違、それぞれの本質を次々に明らかにすることができるのだ。

<ing>

おすすめの無名製品2つ

2024-03-03 00:11:10 | 役立ち情報
「こんな機能の製品は無いものか、、有名メーカの宣伝では見ないけれど、、」
このような時に Amazonの検索で探して、試し買いしてしまうことが多くなった。
当然のことだが、期待外れの失敗も多々経験した。
そんな中で、期待どおり or それ以上、の製品に巡り合うことも稀にある。
今回は、そんなネット販売上の小物・少額(5000円未満)アイテムを紹介する。
(些細な話題です)

(1) 洗面・脱衣室用ヒーター
洗面コーナー用の暖房器として本格的な製品もあるが、ホンの短時間使うだけ
なので、大げさなものは、コストは高いし消費電力も大きく、無用と考える。
以下の製品は、600Wで十分に温まるし、人感センサー搭載で自動的にONして
くれる。目的にピッタリで快適に使っている。書斎の足元用などにも使えそう。
ドウシシャ セラミックヒーター 上下首振り 人感センサー付
https://amzn.asia/d/5w0V7gw

(2)充電、着脱式の自転車ライト
LEDヘッドライトはこれまでに何度も買ったが、構造、機能、照度の全てで
合格点のものは無かった。以下の製品は(詳細は述べないが)走行時のon・
off制御から、盗難防止の配慮まで、理想の機能を持っていた。ただし、自転
車フレームのフォークにブラケットが溶接してあることが前提の製品。
Hapyson充電式スマートランプ
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科学的論理とは何か (2)

2024-01-15 08:07:38 | 科学論・科学哲学
先に、以下のように述べた。

「時間が経過したある時点において、死亡という変化が起きないのであれば、その対象は人の1個体とはいえない。」※
から以下が導かれる。
「生きている人は存在し得ない。」※※

これを基に、いろいろな事が見えてくる。

まず、※と※※は本当に論理的同値であるかどうかが怪しいという観点で議論してみよう。

生きている人が存在しないというのは、明らかに誤っていると思う人がいるだろう。(この場合をAとする)
その時は、偽命題を導く仮定は偽であるという背理法の話しに進むことになる。

あるいは、※なる前提は人の本質を表すから、否定のしようがないと思う人もいるだろう。(この場合をBとする)
その時は、「◯◯は人である」という論理的判定が不可能であることを認識することになる。

実は、上のどちらの解釈も、それなりに有意義な結論なのである。

---
(A)
全ての考察は、人が存在するという前提の上に始まったのだ。明らかに、※※は偽だ。したがって、※と※※が同値であるならば、※も偽となる。つまり、「人の1個体は、いつか死ぬとは限らない」という結論が得られる。
しかし、このことは、我々がもっている自然科学的(生物学的)な知見とは食い違う、、のだろうか?
―そんなことはない。科学的に「人」と称するものの集合を規定するとき、「いつか死ぬ」ことは本質的に重要な要件ではない。例えば、特殊な冷凍保存のような処理を施して、代謝を停止させた生物個体があるとする。その個体の遺伝子を調べて、ヒトの条件に合致すれば、それは人であると判断する。今我々が知っている科学は、このような立場であることが確認されるのだ。

(B)
人が死すべきものであることは、人類の文化の最初期から認識されていることだ。これは、真・偽を論じる対象というよりは、むしろ先験的な大前提のように扱うべきだ。
確かにこれを素直に認めれば、生きている限り、その個体は人とは言えないとなる。しかしよく考えてみれば、それが正統ではないか。一見あたかも人のように見え、人のように生きてきた個体があるとする。しかし、その個体を死刑に処しても死亡しない、、一旦死んだように見えても何度でも復活する、、こういうことが起こったならば、それは人ではない(例えば神だ)ということが明らかになる。このように考えれば、生きている限り人でない可能性が残っているというのは、論理的にはもっともなことだ。

--続く


科学的論理とは何か

2023-12-19 05:48:33 | 科学論・科学哲学
当方、コロナ禍に巻き込まれて、予定が全てくるってしまったこの数年であるが、その間オンライン授業の資料などを準備する中で、「科学」や「科学的」の一般的な意味を考える時間を多く持つことになった。ここからしばらく、そのプロセスで辿り着いた私なりの理解を題材にしてみたい。

「科学的」は「論理的」とほぼ同義であると思っている人が多いのではないだろうか。科学的営みの本質はロジカルシンキングだなどと語られることもある。

さて、論理は、命題(述べられた内容が、真か偽のいずれであるかが客観的に判定され得る文)によって構築される。

そこで、はじめに、次の、シンプルな命題を取り上げる。これが正しいかどうかを考え巡ることが、科学と論理の関係を探る最初の取っかかりになるからだ。

「人は死すべきものである」

--
この文章は文学的テイストを帯びているので、先ずそれを取り払ってみよう:
「考える対象が人の1個体であるならば、その対象には、時間が経過したある時点において、必ず死亡という変化が起きる。」

有限時間のうちに死亡する(それ以後人の範疇から外れる)ことが、ある対象個体が「人」であることの必要条件だと言っているわけだ。
首を刎ねても死なないとか、何千年も生き続けるとか、そんなことはありえないという、真っ当な命題のようにも思える。
しかし、これを論理命題ととると、おかしな事態に陥るのだ。

---- 続く
後件の否定を考えてみよう。
「時間が経過したある時点において、死亡という変化が起きないのであれば」
これで必要条件が満たされなくなるので、
「考える対象は人の1個体とはいえない」
が帰結される。(いわゆる’対偶’だが、形式的に扱わず、徹底的に文脈で考えることをお勧めする.)

ここで、ある人の将来の死亡を絶対確実に予測する手段はない(「いつかは死ぬ」などというのは、あやふやな経験則であって、論理ではない.)。
したがって、人であると推定されたある個体について、死亡の成立は、実際に死亡するときまで満たされることはない。
つまり、誰であれ、生きている間は、人であることの必要条件が満たされないということだ。
貴方も私も、(死ぬときまで)人間にはなれない。
もっと言えば、「生きている人は存在し得ない」という一般的内容が演繹的に帰結されることになる。



日本の科学技術脆弱化の根源

2023-10-21 05:47:32 | 社会・時事批評
我が国の宇宙開発用ロケット技術に関する失敗や事故が続いている。
3月のH3ロケットの打ち上げ失敗については、ようやく原因が特定されたそうだ。

H3打ち上げ失敗の調査完了、原因は2段エンジン制御系の短絡による過電流

 宇宙航空研究開発機構(JAXA)は、2023年3月7日に発生した「H3」ロケット初号機打ち上げ失敗の事故調査を完了した。

日経クロステック(xTECH)

 

↑この解説を見て、電気・電子回路に関わる技術畑の人ならば、気が抜けるというか、不安に駆られるというか、複雑な心境になったのではないだろうか。
回路素子の中に内部短絡などの不具合を起こすものがあって、設計どおりに動作しないということは、割とよくあることである。ただし、そのようなことは、大量に出荷される工業製品の場合には、対処しやすい問題だ。検査してはねればよい、所謂「歩留まり」の問題の範疇におさまることなのだ。大量につくられるモノに対しては、異常が起きやすい部品、それによって生じる症状、などが統計的な経験値として蓄積できる。そうなれば、検査を、マニュアルにしたがって実行する作業扱いにすることもできる。ところが、宇宙向けの機材ではそうはいかない。試作を含めてもごく少数、本番に使うものは1発限りという世界だ。したがって、ロケット打ち上げ技術においては、開発・設計と同格というほどに、検査・チェックが重みをもつことになる。こうしたチェックは、マニュアルにしたがって期限内にきっちり仕事を為すという意識では成り立たない。起こるかも知れないことを推察・想像し、それがシステム全体にどのように影響するかを考え含めて、場合によっては、納期延長を提案する、プロジェクトの進行にストップかける、設計変更や予備ボードの装備などを強く提起する、、検査する技術者にはこうした行いを躊躇わずに為す立ち位置が求められる。
長年の大学改革の流れを観てきた私としては、日本の国策に根本的な誤りがあったことを痛感せざるを得ない。「階層的な分業」に基づく組織運営の発想が大学に持ち込まれて20年。この方針は、日教組的なものを忌み嫌うというイデオロジカルな心理を底流にして、思慮なく盲目的に政治主導で推進された。言われたことをきちんとやって評価されることを目指す、、この思考の色が、教える側にも学習する側にも染み渡ってしまった。
科学技術を考えるときに、「創出」の役目ばかりに目を向けてはだめだ。生産や検査の場面で、科学的な広い見識と推理力を本気で発揮する、、こうした意思が湧き起こるような、科学技術的風土が必要だ。製造業への派遣が制限されていた1900年代までの日本ではそれがかなり実現していた。ただし、もし、こうした根源的問題に気づき、製造業の雇用形態や大学の運営体制などを今から是正したとしても、技術レべルが回復するためはかなり長期間の年月がかかることだろう。世界がそれを待ってはくれない。鬱々とした思いに苦しむ。

〔追記〕
この20数年、日本(の自民党政治)が指向した社会的改革は、ぼんやり曖昧にされているところを鮮明化して言えば、ひたすら、軍隊型(あるいはマフィア型)の意思決定スタイルを目指してきたと言える。大元の方針がどこでどのように決まったか、それが最良と言えるのか、末端側が考えることではない、意見をもつこと自体許されない、、これがこのスタイルの核心の姿だ。右翼的精神を持つ人はさぞかし美しく感じることだろう。だが、これは、「全容を理解しようとする思考活動を止めよ、諦めよ!」と言うことに等しい。そして、これこそが、新しい科学技術を培う活力を徹底的に阻害する土壌なのだ。
確かに、単に物量を増せばいいだけの仕事ならば、大元などを考える暇に作業を進めた方が儲かると言う図式も成り立つ。しかし、宇宙技術をはじめとして、オリジナルな開拓が求められる場面では、部品一つの作製段階から、全体構成を理解した者が、疑いの思考や推理力を発揮して、最大限のこだわりを込めた仕事を積み上げる必要がある。「下請」スタイルをできるだけ遠ざけ、複数チーム間の意見の交換や情報の共有によって、計画が進んでいく形にしなければならない。
そういうスタイル・気風を予め大学で学んだ若手が、チームのメンバーでなければならない。全くもって当たり前のことなのだ。

「首下がり症候群」実体験(7)

2022-11-26 01:22:25 | 役立ち情報
 「逆流性食道炎」は、中年以降の人の多くが罹るポピュラーな疾患だ。日本では、食生活の変化や高齢化の影響で、罹患者の割合が急速に増加し続けているそうだ。食道-胃噴門部の活躍筋が弱まるために、食道に胃酸が侵入して炎症が起こる疾患。首下がりや前かがみ姿勢は間接的な原因になる。症状はけっこう辛く、仕事等の活動の大きな支障となる。悪性疾患でないとは言え、真の完治につながる治療法はなかなかなく、治療はもっぱら、胃酸の分泌を抑える薬の内服にたよることになる。その方式となれば著効を示す処方薬があるので、薬を飲んで炎症をおさめていくことはできるのだが、根本的な治癒を導くものではないので、薬との付き合い方に個々の特性に応じた工夫が要る。今回は、その関連の注意・工夫についてのちょっとした話。

先ず、胃酸分泌を抑える薬として、今日使われるのは次の4種に区分される:M1ブロッカー、H2ブロッカー、PPI、P-CAB (これらの情報はネット上に多数. ここでは触れない.)
よく使われる薬品名:ピレンゼピン、ファモチジン、ネキシウム、タケキャブ(←これのみ唯一の商品名)
効果は、基本的に右に行くほど顕著。医院で処方されるのは、右側3種類。患者側からみて、この3つからどのように処方してもらえばいいかと言う話しを記す。
結論的に言えば、強い症状を止めたいと思ったら、「タケキャブ」に限る。

ファモチジンは効果が弱い。治すというより、(辛いものや油ものをたくさん食べた、夜遅くに飲食したなどで)症状が出そうだと思ったときに、予防的に飲むのに向いている。市販薬にもなっているので、口内崩溶型(ガスター10 S錠等)を鞄に入れておくとよい。

PPIはそこそこよく効くのだが効果が出るのに日にちが必要。さらに「ネキシウム」は、私には合わなかった(むしろ腹痛を誘発する)。形状がカプセルで、しかもその色が無用に派手(毒々しい)であることもネガティブポイントだ。

タケキャブは、顕著な効果を示す。かなり即効的で持続時間も長い(効果は、飲んで1時間あたりから出はじめ、余裕で半日は続く)。腹痛なども出ない(唇が乾いて、塩っぱいような感触を覚えるという副反応があるのだが、このことは薬が効いている期間の確認に役立つ)。さらに錠剤が長細く半分に割れる形が良い。タケキャブの唯一の欠点はやや高価なことなのだが、20mg錠を処方してもらって、それを半分に割り、日によって飲み方を変えることができる。薬価は、20mg 157.9円、10mg 105.3円 なので、10mgとして使う場合でも、必ず 20mgを処方してもらうべきだ。逆流性食道炎では、最初に内視鏡検査をした後は、簡単な問診が行われるだけだ。通院する意味はほとんどないので、医院に出向く回数は極力減らしたい。ただし、1回に処方してもらえる薬の日数分には制限がある。そこで、20mgを1ヶ月分出してもらえれば、2月間もつことになるのだ。また、症状が、朝にひどい場合、夕方にひどくなる場合などあるのだが、半錠ずつ朝夕に内服する方式をとれば、1日中強力に効く。要するに、ひどいときには1日2回に分け服用、おさまってきたら、1日の中のどこかで1回、半分だけ服用するという使い方ができる。これが決定版だ。(症状がひどくなる時間帯があれば、それに先立つ食事の前に飲むのが効果的.)


-----参考となるリンク集------

胃食道逆流症(GERD)と逆流性食道炎/オリンパス(株)
https://www.onaka-kenko.com/various-illnesses/esophagus/esophagus_04.html

NHK健康--胃食道逆流症の症状--【胸焼けの治し方】胃食道逆流症の治療と注意すべきこと/NHK
https://www.nhk.or.jp/kenko/atc_428.html

兵庫医科大学病院>もっとよく知る!病気ガイド>胃食道逆流症(GERD)注意
https://www.hosp.hyo-med.ac.jp/disease_guide/detail/12

日本消化器学会ガイドライン>患者さんとご家族のためのガイド>胃食道逆流症(GERD)ガイドQ&A>Q7〜Q9
https://www.jsge.or.jp/guideline/disease/gerd.html#q1

胃酸の分泌を抑えるお薬(酸分泌抑制薬)の解説
https://www.tanaka-cl.or.jp/health-column/isan/

PPIとH2ブロッカーはどう使い分けるべきか
https://www.m3.com/clinical/open/news/962018

逆流性食道炎は薬で治せる?薬の使い分けとは?(オンデマンド療法のことなど)
https://www.tamapla-ichounaika.com/knowledge/category/post-35616/

タケキャブ錠10mg、タケキャブ錠20mg
https://clinicalsup.jp/jpoc/drugdetails.aspx?code=65139

食道裂孔ヘルニア改善には腹式呼吸?正しい腹式呼吸とは?
https://www.tamapla-ichounaika.com/knowledge/category/post-35111/