はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

〔コメント数の数字クリックで書き込みができます〕
 



本稿は以下の続きである。
07-12-05「因果」を考える
07-12-31「因果」を考える (2)
08-01-19「因果」を考える (3)
08-03-11「因果」を考える (4)
08-04-10「因果」を考える (5)
08-04-30「因果」を考える (6)
08-05-09「因果」を考える (7)
08-05-27「因果」を考える (8)
08-06-29「因果」を考える (9)
08-08-28「因果」を考える (10)
08-09-07「因果」を考える (11)
08-09-30「因果」を考える (12)
08-10-06「因果」を考える (12-b)
08-10-19「因果」を考える (13)
08-11-10「因果」を考える (14)
08-11-30「因果」を考える (15)
08-12-24「因果」を考える (16)
09-01-24「因果」を考える (17)
09-02-12「因果」を考える (18)
09-04-05「因果」を考える (18-b)
09-04-20「因果」を考える (19)
09-05-12「因果」を考える (19-b)
09-06-20「因果」を考える (20)
09-07-31「因果」を考える (21)
09-09-25「因果」を考える (22-a)
09-11-06「因果」を考える (22-b)
09-12-29「因果」を考える (23)
10-04-26「因果」を考える (24)
10-06-07「因果」を考える (25)
10-08-10「因果」を考える (26)
10-10-04「因果」を考える (27)
10-11-10「因果」を考える (28)
11-01-17「因果」を考える (29)

-----

(約一年ぶりのシリーズ稿の続きですが、、淡々と再開します.)

原因と結果が一対一に対応するような認識の仕方が可能な場合に「有意義な因果関係」が成立し、その際、因果関係を論理的に扱う立場をとるならば、因果の逆も成立することになる、、という趣旨のことを述べてきた。そして、水槽に砂利を投入するモデルを使って、以下のように因果関係の具体的表現例を示した。

(再掲)
・「面積Sの水槽に総体積Vの砂利が投入される」という事象が起こるならば、必ず、「水位が V/S だけ上昇する」という事象も起こる。

・「水槽の水位がΔhだけ上昇する」という事象が起こるならば、必ず、「水槽に総体積 S×Δh の砂利が投入される」という事象も起こる。

--
実は、上の表現においては、物理的因果関係と論理的因果関係の間をさりげなく移ることができるように、ある意味でずる賢こく曖昧にしているところがあった。その問題部分である「砂利が投入される」という所、「水位が上昇する」という所、すなわち、原因事象と結果事象の表現が意味するところを、もっと正確に探ることが必要なのであり、それによって、前回の最後に掲げた疑問:「結果系から原因系には情報の波及が起こるはずがない!?」という疑念に対する解答も見えてくるのである。

「砂利の投入」というのは、本来、Δh = V/S の関係を成立させる機構の完全に外側で起きる出来事であることを前提にしている。このような「外側」の出来事は、その事によって、目下着目する因果を伝える系に及ぼす変化以外にも、其処彼処に多々様々の影響・痕跡を残すと考えられるものでなければならない。それが、事象の科学的客観性の要件であり、実験物理学的に言う「観測可能」であることの本質とも言える。これと同じく、結果系である「水位の上昇」も、様々な外部からの観測にかかる出来事としてとらえることで、はじめて因果関係の構成要素の事象になる。そうして、このことをできるだけ忠実に反映させた形で結果系を表現をするならば、今の結果系は、例えば「水槽の水位がV/Sだけ上昇したことが、何らかの外部装置によって観測・記録される」とすべきなのである。

ここまで見通すと、結果事象が、因果を伝える水槽系に対して跳ね返りの影響を及ぼさないことの意味も分かってくる。科学的な因果関係の結果とは、客観的事象として揺るぎ無く確定することが要件だったのだ。そのためには、結果事象自体が、さらに1対多型に膨大な事象の波及につながっていなけれならない。このことによって、時間逆行向きに遡るような事象の推移も(事実上)禁止されている。’客観的に観測される揺るぎない事象であること’というのは、実は、『科学とは何か』という大問題につながていることなのだ。

話が(遠大に過ぎるところへ)はみ出したようなので、本筋に戻す。以上で考察したように、純粋に揺るぎない事象として位置づける「原因系」も「結果系」も、それら自体が時間反転禁止型の因果の網の目にがんじがらめに絡め込まれている。ここで深刻・重大となる問いかけが、そのときの因果構造は、何との間の関係を基本におくものかということだ。そして、その答えとして、必然的に、「一貫した認識主体」の存在が要請されることになる。

揺るぎない事象の間の関係を論じることが因果的な見方の本質であるのならば、「原因」と「結果」は、物理的な事態の推移・関係を曖昧性なく認識できるような、一個に一貫した認識主体が把握するのでなければならないのだ。そうでないときには、「見た・見ない」、「言った・言わない」、「やった・やらない」の類のいわゆる水掛け論の可能性が排除できず、科学的な世界空間を築くことが不可能になってしまう。

因果関係というのは、このような認識主体の認識・理解の推移の上に展開することなのである。

<ing>

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )