「教育基本法案」の国会審議は、衆議院での(強行)採決の後、参議院特別委員会に議論の場を移している(例えば日テレNEWS24)。欠席によって審議の前提条件の不備を訴えていた野党側も作戦を改め、議論に参加し、論点を提示する役を果たしているようだ。
国会の議論のポイントを手っ取り早く知るには、(前にも紹介した)以下のサイトが便利だ。
教育基本法「改正」に関する動き/一致バラばらの会
今の参議院における論点、すなわち、新案第16条の意味を見据え、政治と教育との関わりと独立性に目を向けた論点は、やっと真っ当なところにフォーカスが当たったものと評価できる。しかし、、このような核心に触れた観点に基づく、開かれた本格的な議論は、これまで(国会の内外を問わず)あまり為されてこなかったのだ。教育問題に関心のある知識人や大学人が、問題点を見抜き主張をしていたが、ジャーナリズムはこの種の声をほとんど採り上げず、全国民的議論につながらなかった。
核心がどこにあるのかをはっきり示すことなく、審議時間・期間を消化したと主張する与党の戦術は卑怯の極みである。同時に、法案を批判した野党や大学人等も、法案の意味と問題点の核心を、ジャーナリズムや一般国民に対して、分かりやすく説明する力に欠けていたことは否めない(自己反省も含めて)。
いずれにせよ、議論は尽きる段階にあるどころか、これから徐々に本質的意味が一般国民に周知され、問題意識が浸透していき、国民的議論が始まろうとしている段階にあると見るべきなのだ。基本法の全文を変更してしまうという大胆な案の採決が許されるような状況には全く至っていない。
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以下、蛇足になるかも知れないが、これまでに目についた巷のいくつかの意見を分類して眺めてみる。
(1)「愛国心」と「公共の精神」の明文化の是非論
これは早期から盛んに報道された問題だ。論争点が分かりやすいといえば分かりやすい。古くからの「右翼的」「左翼的」という二分対立的な思想闘争がそのまま投影され、右派が勢いづいている今のうちに法律の条文に入れてしまおうという動きと、それに対する警戒・反発の争いという図式となった。しかしこれは、実際の教育行政のあり方や、教育上の問題とはほとんど無縁の、イデオロギー的"思い"の抗争であった。「愛国心」も「公共の精神」も、それ自体は否定の対象にはなり得ようもない。言えるのは、「国」も「愛」も「精神」も固定的な意味を持ち得ない概念であるから、教育の内容が為政者の思惑から独立している限り、単なる形骸的な文言をめぐる無意味な論争となるはずだったということだ。(「だった」と表現したのは、今回の法案の下では、愛国心条項が、時々の政権担当者の国家観に応じて教育の内容を変更することを許す役目を持ってしまうからである.)
(2) 新自由主義信奉論
戦後の公教育が、個人の平等と一定均等的な教育環境の提供を重んじてきたことに反感をもつ論者の主張。教育現場の実情を知らぬ者のこじつけ論。どこの公立中学校においても高偏差値の高校へ進学しようとする者は苛烈な競争に挑んでいるし、また、低偏差値高校においても、物理などの非実務的科目を学びたいという意欲を示す生徒がいる。競争原理を入れて学校間格差をつけたとして、こうした生徒の学習を助けるために何のメリットがあるのか。公教育制度において決定的に不足しているのは、競争や重点配分の手法ではなくて、全体に投入する資金の総量なのだ。こんなことも理解できないという様は、[新自由主義=思考停止的思い込み]であることを如実に示す好例である。
[参考例]中央公論 - 水準を満たさない学校と不適格教師は退場してもらう=下村博文/Yahoo!みんなの政治
(3) 愛国・憂国論
街宣車からのがなり演説と大同小異の、教育制度や学力の問題と無関係な自己主張。
[参考例]- 諸君! - 憲法改正の予行演習、張り合いのない教育基本法論議/Yahoo!みんなの政治
(4) 日教組嫌悪論
無理やりにでも悪者を探し出して、それを駆逐するという形でしか、問題解決策を考えられない種類の人が繰り広げる意見。ネットのブログなどに多数見られるし、昨今の日本の政治や行政の方法論もこうした単細胞的考え方に毒されてしまっている。
なお、日教組に関連することについては、どこかで改めて言及しようと思うが、ここで簡単にコメントしておく。合法的な労働組合組織である日教組を無力化せよだの解体せよなどという主張は、近代社会制度に挑戦するテロ的思想でしかない。確かに、一時期の日教組活動には、労働者の権利を守るという目的を越えていると取られても仕方のない部分があったかも知れない。しかし、それを批判するならば、日教組自体に話をつけて、通常の労働運動の趣旨から外れないように説得すればよいのだ。日教組に反感を持つ人は、何故、かくも日教組を恐れ、いじめられた子供が親に仕返しを頼むかのごとく、権力・権限に頼って弱体化を進めようとするのか、、私にはさっぱり分からない。
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このように眺めてみると、何ともやりきれない暗澹たる気持ちに包まれてしまう。教育問題の本質的議論は一体どこに存在するのだ。理性的、論理的、客観的な思考力を有し、立場の違う人を理解し尊重し得る人格を備えた国民を育むために、どのような教育システムを構築すればよいのか、、このようなことを真摯に考え議論すること無しに基本法を全面的に書き換えてしまう、、、どう考えてもまともな事態ではない。
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現時点で正しい問題認識をしている論者もいる。一般に名の知れた人の発言としては、以下の立花隆氏の見解などだ。
教育基本法改正背後に潜むもの 立花隆氏に聞く/東京新聞
[07-02-27補記]:上のサイトはリンク切れになったので、私が保存している記事の抜粋を末尾に引用させていただく。
立花氏の見解と私の認識はほぼ同一である。改定案を見てこのように受け取るのは、ごく真っ当な感覚であると思う。しかし、このような論点を記事に反映させている大手新聞社はなぜか極わずかなのだ。日本の大手新聞はもはや正しい観点を教えてくれない。一人一人が、自らの力で、淀みくすんだ思考の澱から抜け出さねばならない。
(なお、私は、立花隆氏が書く特に科学分野の報道的解説記事は批判的に見ている(科学的という意味をmisleadingさせる文章が多い)が、上の例のようにズバリと本質を語る力には敬意を払いたい。)
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東京新聞の記事/20061110/特報 ネット掲載分の一部抜粋
教育基本法改正背後に潜むもの
立花隆氏に聞く
安倍政権が教育再生にかける執念はすさまじい。その中核となる、「愛国心」や「公共の精神」を盛り込んだ教育基本法改正案は、「最優先」の掛け声とともに、早ければ来週にも衆院で可決されそうな勢いだ。これほどまでに急ぐ理由はなんだろうか。何か企てがあるのではないか。作家で評論家の知の巨人、立花隆氏に意見を聞いた。 (聞き手・橋本誠)
――安倍政権が教育基本法改正案可決を急ぐ真意は。
安倍首相は、日本の戦後レジーム(体制)を変えたいのだろう。根本は憲法を改正したい。戦後世代は皆、改憲を望んでいるかのように(彼は)いうが、実のところはそうではない。ただし彼は違う。岸信介(元首相)の孫だからね。岸氏は安保条約改定で、特別委で議論打ち切りの動議を出し、衆院本会議もあっという間に通した。警官を動員し、一度にやってしまった。自宅をデモ隊に囲まれた中で、祖父がいかに毅然(きぜん)としていたか、安倍首相は記憶している。安保はその後も役立っており、北朝鮮問題でも米国が日本を守っているとか、そういう発想しかない。
――教育基本法の改正は憲法改正のためなのか。
大日本帝国憲法時代は、国体を根付かせるために教育勅語という当時の教育基本法を作った。親孝行をしろとか、天皇に忠義を尽くせとか、命令を並べていた。天皇のために命をささげる国家になったのは、国民にそういう教育を幼少から繰り返したたき込んだからだ。
戦後新憲法ができたが、国民のマインドが一挙に変わるわけはない。制度を根付かせるために教育の力が必要と、新憲法とペアをなす形で作った法律が教育基本法だ。世界の普遍的な価値の下に憲法を作り、日本全体にしみ通らせるのが目的だった。前文で日本国憲法に触れ、「この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」とした。
憲法改正に必要な三分の二の議席を衆参両院で得るには、憲法を正しいとする教育基本法を変えなくてはならない。「将を射んと欲すれば、まず馬から」という発想であり、憲法改正の地ならしだ。教育基本法の改正もまた、自民党の悲願だった。
しかし、教育基本法に書かれている普遍的価値とは、フランス革命などの歴史の積み重ねから、国家より上にある価値として人類が築いたものだ。憲法と並ぶような重要な法律なのに、中身のちゃんとした議論もされていない。長くて五年、短くて数カ月の時の政治政権が簡単に変えるようなものであってはならない。
――政府案の感想は
びっくりしたのは格調が低いこと。全然ありがたくない。役人が書いたつまらない文章だ。教育基本法をただちに変える必要は全くないと思うが、変えるとしても、まだ民主党案のほうがいい。
――政府案には「伝統」や「公共の精神」など道徳的な言葉が出てくる
当然のこと。いちいち法律で決めて、下の下まで、教科書をこう変えなくてはいけないとか、上からの命令で、下の方の具体的な教育行為の手足を縛るやり方は戦前の教育だ。 かつて岸氏らは教育の世界のシステムの空気を変えようとした。最初にやったのが僕が高校生のころに始まった教師の勤務評定。校長が先生の評点を付け、上の命令で下を支配する構造に変えていった。 今、教育の問題がたくさん起きている。履修漏れの原因は、ゆとり教育が非常に悪い形で始まった八九年の学習指導要領改定にある。今は世界史を全く習わず、ナポレオンも知らない連中が出てきている。
――そういう問題は本来はどうやって変えていくべきなのか。
教育基本法を作ったときの文部大臣の田中耕太郎氏は「教育が国家に奉仕することが目的とされ、共産主義の国もファシズムの国も教育が国家の奴隷になっている」と戦前の教育を語った。世界人権宣言には「教育は、人格の完全な発展と、人権、基本的自由の尊重強化を目標としなければならない」と、教育基本法と同じことが書いてある。 教育勅語のように国定の徳目を列挙し、子供にそれが最高善とたたき込む考えは国家の越権行為だ。教育は世界人類が人類共通価値を次の世代に伝える行為全体を言うのであって、国家以上に長い生命を持つものだ。ヒューマニズムを基本としなければならない。
――改正案には「わが国と郷土を愛する」が盛り込まれている。
理念にとどまる限りは目くじらを立てるものでもない。ただ、日の丸掲揚で起立しないとどうするなどと、具体的な教育内容を押しつけていくことが悪い。文部科学省がすべてを支配する体制にしたいということだろう。 隠された争点は、個人が上位にあるのはけしからんということ。公共心とは、国が決めたことを守れということだ。将来徴兵制ができて、また戦争に行きなさいとなったとき、米国のような良心的忌避の権利が認められるだろうか。日本人のマインドには、何もかもお上が決めたら従えという全体主義の傾向がある。
――政府は「いじめ」「必修漏れ問題」などを「今の教育は崩壊している」と教育基本法の改正に結びつけているように見えるが。
それは明らか。教育の問題のすべてが教育基本法が悪い、という空気を醸成しているのが見え見え。しかし教育基本法を変えれば、全部良くなるわけではないし、そうしていけない。教育基本法をそういうふうに使い、例えば「国を愛する心」に、点数を付けてどうのこうのという話になってしまう。
――来週にも採決と言われている。
それが問題だ。なぜ、そんなにあっという間に決めるのか。昨年の総選挙で自民党が圧倒的な議席を得て、今ならかねて懸案の法律があっという間に通るからという理由でしかない。米国のアイゼンハワー大統領が来るまでに安保条約を通そうとスケジュールを組んだ岸氏と同じだ。この後の政治展開はますます心配。安倍首相はますます祖父に近づいていくのではないか。
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<デスクメモ> 中高生時代を振り返ると、本当に反抗的な子どもだった。授業中は机の陰で小説本を広げていたし、それにも飽きると河原で寝ていた。しかし学校は嫌いじゃなかった。青臭い平和と自由と平等の教育を心の中で信じていた。あのとき「奉仕」や「愛国心」を強要されていたら、もっと暴走していただろうな。(充)
立花 隆(たちばな・たかし) ノンフィクション作家・評論家。1940年長崎県生まれ。東大在学中から執筆活動を始め、「田中角栄研究」「日本共産党の研究」「農協 巨大な挑戦」「文明の逆説」「宇宙からの帰還」など幅広いテーマで著書多数。東大大学院情報学環特任教授。
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