はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

〔コメント数の数字クリックで書き込みができます〕
 



定義が曖昧なため、その時々で都合の良い意味に適宜解されながら使われるという厄介な言葉がある。
(時間がないこともあって)例を示すだけにする。皆さんも一緒に考えてほしい。

Ⅰ「国」
「国を相手取って訴訟を起こす」
「国の借金が溜まっている」
「国を愛する」
「国の方針」
「国民」

〔追記〕:大手新聞の経済面で堂々と「国の借金○○円に」という見出しが上がっていた(日経2005,12/23朝)。日本という国家がよそからお金を借りているわけではないのに、、。新聞社の人は、見出しが与えるイメージというものをどのように認識しているのだろうか。(もしかしたらわざとやっている??)

-----以下は物理(教育)の話です-----
Ⅱ「力 (force)」
「地球がりんごに及ぼす力」
「りんごが受ける力」
「地球とりんごの間にはたらく力」
「力は加速度に比例する」


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




最近のネット上では、小さな政府、歳出削減、公務員削減の方向の意見が満ち溢れている。財政のプライマリーバランスは確かに大切なのだが、「あいつも減らせ、こいつも減らせ」風の合唱に、私は警告を与えたい。税を経由しての社会サービスは、基本的には、所得の再分配を取入れた、国民の共同出資ないし互助保険的な経済の仕組みである。公の仕事を縮小するということは、生活のレベルの保障から遠ざかることに他ならないという認識を忘れてはならない。

もちろん、税金で無駄な買い物をしたり不要な給料を払うことがあってはならない。だから私たち国民は、「あれを減らせ」と言うのと同じだけ「これをやれ」と言うべきなのだ。一般国民が恩恵に与らない無益な事業を縮小して、国民生活に直接役立つことをやれと要望すべきなのだ。

具体的な例で言おう。一般の人がほとんど使用しないままに、いずれ朽ち果てるハコモノや無用な大規模土木工事は止めるべきだ。しかし、治安の悪化状況に対して数と質が絶対的に不足している警察官の養成と拡充はすぐにでも行うべきだ。また、みすぼらしくて、勉強机での食事が強いられる一般の公立小中学校への予算はもっともっと増やしてもよい。

予算権のある役人(の多く)は、一般国民でなく、社会的な発言権の強い特殊な人の方ばかりを見て、出世のために熱心に仕事をしている。国民は、この人たちの目を醒ますように、「これをやってくれなくて何が公務員だ!!」と叱責すべきなのだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




最近、我が家の電子レンジ、掃除機、カセットオーディオ、電話機などがあい次いで故障した。どれも10年程度使用した製品で、安価な修理方法はなく買い直した方が得と言うことだった。

ところが、その後買い直して2年目の電子レンジ(大手メーカー製)が早くも故障してしまった。扉にテンションを与えるバネの破断のための故障で、明らかに部品の品質不良である。保証期間を少し過ぎていたが、交渉して無償で直してもらった。軽微な不具合はその後も累積的に生じているようだ。

保証は満たしているしサービスも一応誠実なのだが、私は大変がっかりした気分に襲われた。というのも、私の母のところで使っている電子レンジの印象が強いからだ。実家の電子レンジは30年近く前のものだが、一度も修理を受けずに今も使用されている。同様の堅牢性が、昔の冷蔵庫、ミシン、カメラ、ステレオなどにはあったように思う。「壊れにくい日本製品」のイメージは、少なくとも私の体験上では崩れてしまったし、恐らくは一般的にもそのような傾向があるのだと思う。

構成部品を人件費の安い外国から調達するというのが、昨今の製造業では一般化している。しかし、通常のエレクトロニクス関連技術があたりまえのように世界の隅々まで行き渡っている今日、外国で作ることのできる程度の部品を組み合せて、日本独自の優位性を発揮する製品を産み出すことができるのだろうか。日本製品の優位性は、作業労働者段階の、自発的意欲や、器用さや、誇りと向上心の高さを活かすことで、カタログスペック上にはあらわれない品質、すなわち、信頼性や壊れ難さや仕上げの良さのブランドイメージを獲得することでこそ得らるのではないか。

日本人は、本来、低価格より品質を重視する性向をもつことは、お米が不作で高騰した時にも、安い外国産米が売れなかった事実が物語っている。内需に目を向ければ、安物よりも良いものが売れる。誰にでも作れる製品を、コストを競って輸出することに捕われていると、日本の優位性は失われる一方だ。長持ちする高品質の製品、これを産み出すことは、持続可能な社会のための産業のあり方を見出す端緒でもあると思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




力学における「仕事」は不思議な量である。いくら力を出して踏ん張っても、移動がなければ仕事はゼロだという。実際には、力を出す人はへとへとに疲労するにもかかわらずである。「人」というと非科学的なイメージだが、ヘリコプターのホバーリング状態で、エンジンが燃料を消費し続けることは、否定の余地のない科学現象である。

実は、(力学的な)仕事というのは、力学的な変位を介してつながった系の間のエネルギー移動を表す量なのである。それを決めるのは、つながったそれぞれの系のエネルギー的な状況の変化だ。系のもつエネルギーを定量的に認識・評価し、それに増減が認めらるとき、その変化分だけエネルギーが受け渡されたと考え、そのエネルギー変化分で仕事という量を定義している。力学的描像では、エネルギーは、運動エネルギーと位置エネルギーの両者に分けられるが、どちらも系の構成要素の移動と結びついている。この意味で系のエネルギーが変わるためには、内部的にせよ外部的にせよ、必ず何らかの変位現象を伴わねばならない。

ヘリコプターの例で、エンジンやプロペラの動きまでに着目すれば、当然移動の現象が起きている。また、燃料の化学反応までに着目すれば、分子の運動状態の変化がある。そのように見れば、静止したヘリコプターは仕事をしている。そして、そのエネルギーは、空気(の成分分子)の運動の形で大気中に移る。

重い荷物を持って立ち止まっている人の体が熱くなる状況を考察するとき、動かない人(の内部)ではエネルギー的な変化があり、人は仕事をする。一方、人の内部構造を考えずにその巨視的な運動エネルギーと位置エネルギーだけを問題にするなら、人は仕事をしない。

つまり、仕事というのは、系のエネルギーをどこまで認識するかによって、見方が変わる、そういう概念と言える。「力×距離」などという式を書いただけでは、仕事を説明したことにはならないし、場合によっては定義したことにさえならない、ということを我々は自戒を込めて意識しなければならない。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




わが国においては、多くの優秀な技術者や労働者や経営者たちが、日々身をすり減らして生産活動に携わっている。そのおかげで、我々日本人は、近代的な都市空間を身近に利用し、高度なエレクトロニクス機器が満ち足りた暮らしをおくっている。
しかし、日本人の生活は、本当に世界最上級の豊かさであると言っていいのだろうか。何か釈然としないのは私だけではないと思う。

考えてみれば、我々の生活は、様々な機器等が溢れているのに対して、住居の面積が狭い。複数の子供全員分の勉強部屋と夫婦の独立した寝室、これらを叶えられる家庭はどれほどの割合なのだろうか。これを思うと、少子化の方向に向かうのも無理からぬことと感じる。

経済は、経済のためにあるのではなく、人間の幸せな生活のための手段としてはじめて意義が与えられる。してみれば、我々は、先ず、日本人の生活に何が足りないのか、何を加えれば今より幸せになるのか、を考えて生産活動や経済政策を考えねばならないはずだ。

確かに、日本には(平地の)土地が少ない。したがって、住居面積の総量を増すためには、雇用の大都市集中を緩和することや、遠距離通勤を助けるため勤務時間を短縮したり、遠方在宅勤務を可能にするような労働政策が求められる。そしてこれらは、ネット時代の今日に相応しい方向性でもある。

「売れるものを開拓して売れるだけ売れ」というミクロな視点に捉われていては、流す汗が国民の幸せにつながらないことを、特に政治家や政府は理解してほしい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




長さは、大きさだけを持つ物理量である。ある基準位置から隔たる長さの差によって2点間の距離を定めることができる。差という量は、どちらからどちらを引くかで正負が変わる。このように、距離を符号付きの量に拡張することで任意の(スカラー量としての)変位が表現できる。

このような符号付変化量の考え方は、長さと変位の関係の場合に限らず、時間と時刻、角度と方位角、温度と温度目盛値、熱量と熱の移動、など様々な物理量について適用される。

また、符号付物理量が、空間の次元に対応する3つで一組となり、それらが座標変換に際して幾何学の規則に従って変化するとき、この3つ一組の量をベクトルと呼ぶ。

以上のような、定式科学の最も基本となる事項を明確に記している本が少ないのは、まことに歯がゆいことである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




責任をきちんと全うする重職につく人はさぞかし大変なことと思う。生命に関わる治療行為に全力を尽くす医師、技術的開発プロジェクトの立案・責任者、その場で客の反応に接する一流調理人やプロスポーツ選手など、いずれも、自らの才能に甘んじて仕事をこなすだけでは許されず、厳しい結果責任のプレッシャーに立ち向かって仕事をしている。このような者が、高額の報酬を受け取るのは当然のことであると思う。

しかし一方、強い社会的影響力や意思決定権を持つにもかかわらず、結果責任をほとんどとらない役職というのもある。つぶれる心配がない公益法人や独立行政法人の管理職(第一何をやっているのか一般国民に見えません)、お役所が編成した審議会の構成員(キャリアアップの重要白星だそうな)、バブル期の企業重役陣と大蔵省他中央省庁の上層陣(バブル時の総括・反省は何処へ)、等だ。

責任を負わない意思決定の役目の分は、名誉をもって無報酬で務めるのが良い一法と思うが如何か。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




政治社会問題関連の話題ばかりのスタートになってしまいました。
科学的な話に少し目を向けます。(本格始動には未だ至りませんが.)
----------

飛行機等の翼で揚力が発生する原理を「ベルヌーイの法則」によって説明する例をよく見かける(実際、うちの子供が読む科学雑誌でこの趣旨(に沿ったつもりらしい)の説明イラストを何度も見かけた)。これについては、従来よりいろいろな疑問や問題の指摘がなされており、見識のある人の間では、正しい共通認識がなされているようである。
〔例えば最近見つけたサイト:野尻ボード

ここで言いたいことは、揚力原理の内容に立ち入ることではない(既に上記サイト内等に答え(のヒント)はある)。
私が大変不思議に思うことは、プロペラが空気の流れと推進力を生む原理と、翼が揚力を生む原理を、別々の現象のように扱うことを、どうして、記事を書く人(も読む人も)不自然に思わないのだろうか、またそれ以前に、ベルヌーイの法則に結びつけたとして揚力の原因が本当に納得できたのだろうか、ということである。

科学的な納得というのは、その場その場の都合のよい説明によっては、決して得られないと思う。むしろ、なるべく都合の悪い例を考えて、それでも、成り立つ基本原理を感じたときにこそ、心底理解した気持ちになる。

翼の断面形の話を持ち出すときには、背面飛行が実現できる事実も示すべきだ。同様に、例えば、滑車の動きを扱うときには滑車の運動量・運動エネルギーがあり得ることも語るべきだし、気体の入ったシリンダのピストンが動くときには、シリンダ外にどのような力学的変化が生じるかにも考えを巡らすべきだ。

世に定着しているからと言って、それが本当に納得できる説明法なのかどうか、、少なくとも教育的な著述や情報発信をする者は、根本から問い直す姿勢を持ち続けねばならないと思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




株価は上昇し、地価も上昇の兆しを示している。種々の相場価格もインフレを先取りするように上昇傾向を見せているものが多い。
これは、たしかに小泉内閣の作戦(水面下の動きも含む)の結果であると見ていいだろう。さて、これをどのように評価すべきかといえば、私は、大変まずい状況であると考える。
小泉政権の期間に、失業が増え、個人所得は抑えられ、内需に頼る中小企業は困窮し、個人商店の多くが閉店に追い込まれた。このような状況下で、上場企業の株価が上がり、不良債権が減ったとしても、国民の生活は苦しいままだ。そして、これに不動産インフレが加われば、一般国民のマイホームの夢は完全に絶たれ、ただでさえ日本の生活の貧しさの根源となっている住居環境が一層劣悪化する。

一刻も早く、内需と個人消費を重視する政策に移るべきだ。さもなければ、バブルとその崩壊という悪夢の再来によって、日本人の心と富は決定的に傷つけられることになるだろう。

バブルの反省ができない政府関係者は、次の有名な言葉を思い出されたい。
「過ちて改めざる 是れを過ちと謂う」(孔子)


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




IT時代のプライバシー保護の観点から個人情報保護法ができた。しかし、ネット掲示板に溢れる悪口表現を見ていると、IT社会において個人を保護するために必要なのは、正しい情報を隠すことよりむしろ、嘘や憶測の情報を取り締まることだと強く感じる。
近年のネット上の言葉の暴力の特徴は、①反論が不可能な軽薄性(真面目に反論しようとすると返って惨めにさせられる)、②(権力に向かってではなく)力のない者に対して集中的に浴びせられる、③マジョリティーや優越者からの疎外・脱落を匂わせるような脅し的攻撃、等にあると分析する。

考えてみればこれらは順に、「お前の母さん○○○」の類の幼児的攻撃手法、戦中の「非国民」の思想、昔ながらの悪習「村八分」の考え方、そのものなのである。

自信と品性、許容と博愛の精神、人権の考え方、、日本が近代国家になり獲得したはずのこれらの事は、地に根づいていなかったということになるのだろうか。

参考 宮城県知事浅野氏のサイトより

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




あまりにも大きなテーマです。追々少しずつ加筆することとして、断片的に書き始めます。
-----
自由か平等か、資本主義か社会主義か、のように二者択一的に扱ってしまうと、社会全体の進歩・改善の方向から逸脱して、思い入れや信条の対立する勢力間の争いになってしまう。これでは、綱引き状態、つまり、"一方が喜べば他方が忌々しく思う"という状況が右に左に振れながら繰り返されるばかりで、一向に進歩しない。

私は、とりあえず、意思決定の権限と、金銭的報酬とを、切り離すことが大事だと思う。そうでないと、一たん優位な立場に立った限られた者が、限りなく自己(グループ)に有利なルールをつくってしまう。現状はかなりこれに近い。

収入の差が生じることは認める。しかし、高い報酬を得た成功者は、早々に引退して、いつまでも意思決定に関わらない。こういう社会が望ましいと思う。

これに「早期交代型自由競争主義」という仮称を与えることとしたい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




2005年5月26日

日中関係日韓関係がこじれたまま改善のきっかけがつかめない状況だ。外交に限らず、小泉内閣の政策の本質は、威勢のよい「ポーズ」を頑強に取り続けることに尽きる。これが、単純思考の保守派層に、頼もしい(心地良いという方が当たっているか)と受けとられるのだろう。

しかし、外交上の問題は、”あちらを立てればこちらが立たず”が原則であり、意地のポーズは、問題をこじらせる以外、何の効果(国益)ももたらさない。外交能力は、対立する両者を一定の妥協の範囲で説得する智恵が出せるかどうかで評価されるべきものである。この智恵の欠如が小泉外交の弱点の本質である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




2005年3月28日 -以下のBenesseのアンケート回答文-

>>『Benesse教育情報サイト』教育に関するアンケート
今回は、特に『産学連携』について、みなさまのお考えをお聞かせいただきたいと思います。ぜひ、アンケートへのご協力を宜しくお願いいたします。

-----
単に時流に従うのではなく、大学と企業の社会に対する役割の違いを明確にする哲学をもっていただきたい。例えば、家庭用TVゲーム機などは、大きなマーケットを生んだ一方で、子供の抽象思考能力の発達段階に悪影響を与えている。真の知力は、「自分だけが儲かれば良い」式のモチベーションによっては育たないと思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




2005年01月06日

横浜市が公立小中学校で習熟度別授業を導入するというニュースを聞いたので、コメントを記す。

私は、公立学校でも学力を重視すべきと考えるが、「習熟度別」=「成績段階別」の意味ならば、この制度には全く反対である。

要は、生徒個人個人の学力を最大限に伸ばし得る仕組みをつくることだ。どのような説明の仕方が解かり易いかとか、理解が進むプロセスの様態には、人によって様々なパターンがある。数多くの科目を一時期にこなすより特定科目に集中するのが適した生徒、素朴な疑問を数多く抱き、最初は遅々としか進まないが、ある所から急激に伸びる生徒、等等、である。

このような生徒の個別性を把握し、同じ科目を、複数のクラスに分かれて異なる方式で教え、そのクラスは生徒自身が選ぶ、、こうした授業形態が望ましいと思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




2004年4月23日

近代民主国家というのは、法の下で、個人の思想や価値観の多様性を尊重する国でなければならないはずです。
しかし残念ながら、最近のイラク人質問題や日の丸・君が代に関わる問題を観ると、今の日本の世相は許容の心を極端に失った状態にあるとしか思えません。このような時期に、「今なら(国会を)通る」という勢いだけで、教育基本法をいじってしまえば、必ず、「国を愛する」の意味を拡大解釈して、特定の価値観に誘導し、従わない者を罰することが教育であるかのような誤解をする人が出てくるでしょう。

案は色々つくればいいでしょうが、法改正は急ぐべきではないと強く思います。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ