はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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前稿で示した(A)と(B)の立場について、もう少し補っておこう。

(B)の方は、文化的観点を重視する立場と見なすことができるだろう。「人」という語を規定するときに、文化的に培われている観念を大元に据える。人の文化的集団の中で、人が死にゆく過程が何度も目撃され、死ぬことへの恐怖とともに、死なない可能性に対する畏怖のような心理が共有されていくことは容易に想像できる。こうした状況を前提とした上で、客観的(つまり誰も否定できないような)結論を求めれば、死ぬときに初めて人となり得るのだという理解に辿り着くのだ。けっして観念的に結論ありきとしているのではなく、十分論理的な演繹が為されていることに注意しよう。

一方、(A)の方は、集団的文化というよりは、個々人の中で内省を貫くことで、論理は構築されるという立場だ。先ず、絶対に否定されない真理を徹底的に探そうとする。それが、「生きている人が存在する」ことだ。この問題を考えている自分は生きている人なのだから、、と考えるわけだ。ここにおいて、R. Descartesが提示した「Cogito ergo sum」の意味がはっきりする(本当に私はこの歳にしてはっきり解った気がする)。デカルトは、集団文化的な観念を哲学の原理に持ち込むなと言いたかったのだろう。だたし、このデカルトの方法的懐疑に基づいても、大した結果は生み出されない。「時間的将来のことには言及できない」という程度の結論しか出せない。何も間違ってはいないが、何も得られない一種の自己満足的哲学だ、、という辛辣な批評も当てはまるだろう。

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少し脱線気味に話が進んだので、「人は死すべきものである」と、自然科学的論理の話しに戻していこう。

論理的な考察は、客観的な結論を求めて行われるものだ。「貴方はそう思う。私はこう思う。人それぞれだな。」などとなるのを避けるのが、論理の役目のはずだ。しかし、「人は死すべきものだ」を厳格に論理的に扱った結果、全然違う二方向に論理が展開して、別々の見解が得られた。しかも、そのどちらもが、それなりに有意義な意味をもつようだ。いったい論理とは何だったのか?

ちょっと考えると途方に暮れる悩ましい事態に陥ったわけだが、この例を基にして、論理と自然科学、両者の相違、それぞれの本質を次々に明らかにすることができるのだ。

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