本稿は以下の続きである。
・ 07-12-05「因果」を考える
・ 07-12-31「因果」を考える (2)
・ 08-01-19「因果」を考える (3)
・ 08-03-11「因果」を考える (4)
・ 08-04-10「因果」を考える (5)
・ 08-04-30「因果」を考える (6)
・ 08-05-09「因果」を考える (7)
・ 08-05-27「因果」を考える (8)
・ 08-06-29「因果」を考える (9)
・ 08-08-28「因果」を考える (10)
・ 08-09-07「因果」を考える (11)
・ 08-09-30「因果」を考える (12)
・ 08-10-06「因果」を考える (12-b)
・ 08-10-19「因果」を考える (13)
・ 08-11-10「因果」を考える (14)
・ 08-11-30「因果」を考える (15)
・ 08-12-24「因果」を考える (16)
・ 09-01-24「因果」を考える (17)
・ 09-02-12「因果」を考える (18)
・ 09-04-05「因果」を考える (18-b)
・ 09-04-20「因果」を考える (19)
・ 09-05-12「因果」を考える (19-b)
・ 09-06-20「因果」を考える (20)
・ 09-07-31「因果」を考える (21)
・ 09-09-25「因果」を考える (22-a)
・ 09-11-06「因果」を考える (22-b)
・ 09-12-29「因果」を考える (23)
・ 10-04-26「因果」を考える (24)
・ 10-06-07「因果」を考える (25)
・ 10-08-10「因果」を考える (26)
・ 10-10-04「因果」を考える (27)
・ 10-11-10「因果」を考える (28)
・ 11-01-17「因果」を考える (29)
・ 12-01-03「因果」を考える (30)
・ 12-03-03「因果」を考える (31)
・ 12-09-11「因果」を考える (32)
・ 12-11-15「因果」を考える (33)
・ 13-1-4「因果」を考える (34)
・ 13-3-8「因果」を考える (35)
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本シリーズ稿(34)で予告した素朴な実在論:「月は見ているときにしか存在しないのか」に対する答えは今や明確である。 この問いかけをするときの、「月」の意味は何か。もしそれが純粋に、ふと夜空を見上げたときに目に映った像というだけの意味ならば、(見えていないときにも)常に存在するという発想は生じないだろう。また、真にそれだけならば、’月’という言葉自体も生まれていないはずである。だがそこで、繰り返し何度も、同様の「月」様の属性をもつ対象体を目にする経験を積んでいくと、素朴な「存在」の感覚が生じてくる。さらに、その対象体を見ることが他者との間の共通経験として認識されてくると、言語のやり取りを通して、その対象体に「月」という言葉が割り当てられる。
しかし、アインシュタインを含む近・現代の我々が「見ていないときに月は存在するか」と問いかけるときの「月」の意味は、このレベルの月の意味からは相当飛躍しているのである。月が地球の衛星であることを知った人が、科学的立場で「月」と言うときには、それはもはや「目に映る月の視覚属性」に対応する語ではない。天体としての軌道データや質量・形状の情報までを伴った「月」なのである。そしてさらに、(アインシュタインは亡くなっているが)1969年の人類の月面到達以降ともなれば、構成する物質の現物や、実際に月に立って撮った写真映像までの知見を総合的にがっちりと伴った「月」となっている。すなわち、月に関する限り、前稿までに述べてきた「全知」の状態がある程度達成されていると言ってもよい。時間・空間を越えて知見が発展していく過程とは、このように、言語の対象事物の意味合いをも変えていくのである。
このような科学的客観性を帯びた「月」となれば、もはや、一個人がある時に見る行為およびそこから得られる情報の重みはゼロに等しい。したがって、見えていなくても、’今日の科学的な立場で考える月’は存在すると確信できる。これが絶対の答えとなる。
量子力学の芽生えに触れたアインシュタインの脳裏には、このような科学的客観性の保証される限界の意味を疑い深く確かめたいという欲求がもたげたのだろう。それが、このような素朴な実在論的疑問の形で呈されたのだ。そして、現在の我々は、物体の存在に関する客観的な知見の発展には限界がある、、すなわち、ミクロな全知状態は決して実現されないことを自然の原理として認めるに至っているということなのだ。
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