はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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本稿は以下の続きである。
07-12-05「因果」を考える
07-12-31「因果」を考える (2)
08-01-19「因果」を考える (3)
08-03-11「因果」を考える (4)
08-04-10「因果」を考える (5)
08-04-30「因果」を考える (6)
08-05-09「因果」を考える (7)
08-05-27「因果」を考える (8)
08-06-29「因果」を考える (9)
08-08-28「因果」を考える (10)
08-09-07「因果」を考える (11)
08-09-30「因果」を考える (12)
08-10-06「因果」を考える (12-b)
08-10-19「因果」を考える (13)
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前回の最後でヒントのために想定したような大規模なドミノ倒し系については、最終結果の事象(この例では花火の打ち上げ)の原因を、最初のただ一つの駒に負わせることには無理がある、、 多くの人がこのように直感するのではないだろうか。そして、その判断は確かに科学的な正当性をもっている。その理由と意味を探っていこう。

先ず、ドミノの並べ方が不完全で、駒が倒れる連鎖がどこかで止まってしまう心配について考えておく。実際、ドミノ倒しが長くなればなるほど、この中断エラーの可能性は高くなるだろう。しかし、今我々が考えているのは、結末の事象が確かに起きたとしたときの因果関係であるから、連鎖が途絶えるエラーの可能性は考慮から外しておく方がいい。倒れる運動が連鎖する力学的構造は(波動のときと同じく)完全であるとしよう。

しかし、この仮定を入れてもなお、最初の駒と最後の駒の因果のつながりは不完全である。なぜかというと、予期できない力学的な擾乱(例えば床の振動や虫類の衝突など)によって、先頭以外の途中のドミノが倒れてしまう可能性があるからだ。連鎖のエラーは無いと仮定できるが、途中で倒れること(これもエラーの一種にはちがいない)の可能性はドミノ倒し系の本質に結びついているので、軽々に排除できないとするのが当主張のポイントである。

前回までに、因果の連鎖系と見なされるための要件の一部を見い出してきた。その際、各ユニットがある程度独立していることと、事象の伝播が一方向的であることに注目した。このうち、ユニットの独立性は、あるユニットに着目したときに、それに影響を及ぼし得る外部系として、隣りの駒以外の要素まで考えに入れなければならないという考え方と密接に関係する。両隣の駒以外からの影響は絶対にあり得ないようなユニットの連なりならば、全体を一つの系として記述する方が相応しく、ユニットの因果の連鎖と見る必然性は乏しくなる。あるユニットの外側は、完全には把握することのできない「外部系」として一括認識するしかないという立場が、ユニットが独立的であると見なす立場に相当している。そして、このような場合には、予期せぬ外因によって(途中の)駒が倒れることは、本質的であって、考慮から外すことはできない。そしてまた、事象伝播の一方向性があるために、この途中で倒れるアクシデントは、(ある段階から先は)想定された最初の駒を倒した場合と全く同じ結果を生むのみであり、何ら特別な効果を系の運動状態に付加するものではない。

ここまで考えることで、((1)や(2)とも関係する)以下のようなドミノ倒し系の第3の特徴がはっきりした。

(3) (出発点に限らず)系列中の任意の駒が連鎖運動の発端となる可能性があり、そのいずれの場合も同じ最終結果に結びつく。

このことはすなわち、原因と結果が「一対一対応」でなく「多対一」の形で結びついていることを意味している。そして、このような場合には、因果関係は、存在しても完全ではないと考えねばならない。つまり、連鎖系における原因と結果は、非対称的な重みをもっていて、結果から見た原因の結びつきには、その場合の数の非対称度がかかわる中間・連続的な程度があることになる。

ドミノ倒し系に限らず、複数の事象が絡むことで影響が伝わるような場合には、因果関係の有る無しを2者択一的に判断するのはナンセンスであり、中間的な因果のつながりの程度(蓋然率とでもいうべきか)を考えねばならない。このことは、しばしば見落とされる重要な視点である。
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