はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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本稿は以下の続きである。
07-12-05「因果」を考える
07-12-31「因果」を考える (2)
08-01-19「因果」を考える (3)
08-03-11「因果」を考える (4)
08-04-10「因果」を考える (5)
08-04-30「因果」を考える (6)
08-05-09「因果」を考える (7)
08-05-27「因果」を考える (8)
08-06-29「因果」を考える (9)
08-08-28「因果」を考える (10)
08-09-07「因果」を考える (11)
08-09-30「因果」を考える (12)
08-10-06「因果」を考える (12-b)
08-10-19「因果」を考える (13)
08-11-10「因果」を考える (14)
08-11-30「因果」を考える (15)
08-12-24「因果」を考える (16)
09-01-24「因果」を考える (17)
09-02-12「因果」を考える (18)
09-04-05「因果」を考える (18-b)
09-04-20「因果」を考える (19)
09-05-12「因果」を考える (19-b)
09-06-20「因果」を考える (20)
09-07-31「因果」を考える (21)
09-09-25「因果」を考える (22-a)
09-11-06「因果」を考える (22-b)
09-12-29「因果」を考える (23)
10-04-26「因果」を考える (24)
10-06-07「因果」を考える (25)
10-08-10「因果」を考える (26)
10-10-04「因果」を考える (27)
10-11-10「因果」を考える (28)
11-01-17「因果」を考える (29)
12-01-03「因果」を考える (30)
12-03-03「因果」を考える (31)
12-09-11「因果」を考える (32)
12-11-15「因果」を考える (33)
13-1-4「因果」を考える (34)
13-3-8「因果」を考える (35)
13-4-8「因果」を考える (36)
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本シリーズ稿も終結に近づいてきた。
ここ最近では、因果の逆の意味をめぐって考察を進めてきたが、そこから興味深い疑問ももたげてくる。それは、ここに至っての理解で、‘因果律’をどのように捉えればよいかという問題であり、「因果」という認識の仕方の意味をまとめるのに相応しい題材となる。
さて、‘因果律’は、初期のころの第(6)稿あたりでも一度扱っていることを思い出そう。

本シリーズを辿ってきた我々が、今あらためて因果律を表現すれば以下のようになるだろう。

『ある因果関係が認識されるとき、その「結果系」の事象は、「原因系」の事象よりも時間的に先行することはない。』
-->†(11月23日時点、上の表現は原因と結果の語が反対になっていたので修正しました. お恥ずかしい...)

そして我々は、ある特定の現象間のつながりを考えるとしても、「原因系」と「結果系」のとり方は色々で、過去の現象が判明することが結果系を成すような因果関係もあり得ることを知った(具体例を第(32)稿で出している)。

このことから、因果律が言うところの前後関係を問題にする「事象」と、その事象に対応する純粋客観的な物理現象は厳格に区別されなければならないという重要な知見が先ず浮かび上がる。

物理現象は本来、人間の判別や解読、まして制御や活用とは全く関係なく、自然界の時空間の中で、渾然一体的に生じている事柄である。それを認識する主体があってこその出来事ではあるのだが、純粋な物理現象とは、その個々の主体からは完全に離れて、まさに客観的な事として成り立っている、、少なくとも究極的にはこの想定に叶うものと確信される出来事なのである。

ところが一方で、この完全客観状態(‘全知状態’とほぼ同義)を目指すことこだわらずに、ある段階の人の都合を優先して、現象を適当なところで括って区分し、活用や制御の考察を進めたいこともある。このようなときに、因果が認識されるわけだが、そこで区分された「原因系」や「結果系」は、必ずしも純粋客観的な物理現象でなくてもよい、、すなわち、ローカルな人の思考の中身なども含めよい出来事であり、これが因果律と結びつく「事象」となる。

<inging>

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昨今では、調べ事は、インターネットに頼るのが当たり前となった。大学で授業をする方の立場から言えば、学生がネット上の情報を見ていることを常々意識しておかねばならない。
―  ということで、、先日、急に気になって、Wikipedia(日本版)の中の「ニュートン力学」の項目の記述を眺めたところ、一番大事なところが誤解されているように見受けられたので、これは教育的にまずかろうと思い、(先行の執筆者にはやや申し訳なく思いつつも)ほぼ全面的に加筆・改訂させてもらった。
あらためて数種の書籍と受業ノートを読み直しながら記載し、そこそこ本質を反映した(辞典的な)まとめにはなったと思う。何日もつかは分からないが、、一区切りとしたので、、一応、本ブログに報告メモ。

※2013-09-04時点で、どこかの人が予想しないところをに編集を加えていた(特に、「質点に関する運動の法則」のあたり)。はっきり言って改悪であるが、、まあ、、放っておくことにしよう。
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せっかくなので、少し補足させてもらう。

ニュートンが獲得した理解の最も卓越したところは、月の周回軌道運動と、地上の(例えばリンゴの)落下運動が、本質的に同じ現象であって、そのことを整然と説明するためには、運動学的に決まる(つまり目で見て測れる)加速度と直結させた量として「力」というパラメータを導入すべきことに気づいたこと、、そしてその際、「力」が、どこかに宿るとか、何かによって伝えられるとかいう仮説を設けない方針が必要だと気づいたこと、にあるのだ。これは、全く驚嘆に値する高度な思考であって、同時代までの自然哲学者とは明らかに一線を隔す境地にあったと思う。(私は、物理学史に詳しくはないので、反証材料があれば素直に吸収します.是非教えて下さい.)

そしてさらに、運動の3法則の設定は、慣性系、質量、力を同時無矛盾的に定義する唯一とも言える方策であって、ニュートンは(本人は必ずしも明確にはその論理構造の価値を認識していなかったようながら)直感的に結果として正しく必要十分な原理を置くことに成功した。

ただし、時間の定義づけは掘り下げ不十分であったし、エネルギーの概念にたどり着くことはなかった。これらは、ニュートンの限界と言えるが、スタートラインを与えた価値は微動だにしないだろう。

ニュートン力学と、本ブログを理解すると、、自然科学という人間の思考活動が一体何であるかが見えてくる、、となればいいのだが、、。

〔PS.〕
なお、'継承と発展'の中の'解析力学'という見出しのつけられた部分は手つかずです。
遠隔作用としての逆2乗則のことも、どこかにちゃんと記述した方がいいと思います。
どなたか、自信のある方、是非、加筆・改良して下さい。



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本稿は以下の続きである。
07-12-05「因果」を考える
07-12-31「因果」を考える (2)
08-01-19「因果」を考える (3)
08-03-11「因果」を考える (4)
08-04-10「因果」を考える (5)
08-04-30「因果」を考える (6)
08-05-09「因果」を考える (7)
08-05-27「因果」を考える (8)
08-06-29「因果」を考える (9)
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09-04-20「因果」を考える (19)
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11-01-17「因果」を考える (29)
12-01-03「因果」を考える (30)
12-03-03「因果」を考える (31)
12-09-11「因果」を考える (32)
12-11-15「因果」を考える (33)
13-1-4「因果」を考える (34)
13-3-8「因果」を考える (35)
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本シリーズ稿(34)で予告した素朴な実在論:「月は見ているときにしか存在しないのか」に対する答えは今や明確である。

この問いかけをするときの、「月」の意味は何か。もしそれが純粋に、ふと夜空を見上げたときに目に映った像というだけの意味ならば、(見えていないときにも)常に存在するという発想は生じないだろう。また、真にそれだけならば、’月’という言葉自体も生まれていないはずである。だがそこで、繰り返し何度も、同様の「月」様の属性をもつ対象体を目にする経験を積んでいくと、素朴な「存在」の感覚が生じてくる。さらに、その対象体を見ることが他者との間の共通経験として認識されてくると、言語のやり取りを通して、その対象体に「月」という言葉が割り当てられる。

しかし、アインシュタインを含む近・現代の我々が「見ていないときに月は存在するか」と問いかけるときの「月」の意味は、このレベルの月の意味からは相当飛躍しているのである。月が地球の衛星であることを知った人が、科学的立場で「月」と言うときには、それはもはや「目に映る月の視覚属性」に対応する語ではない。天体としての軌道データや質量・形状の情報までを伴った「月」なのである。そしてさらに、(アインシュタインは亡くなっているが)1969年の人類の月面到達以降ともなれば、構成する物質の現物や、実際に月に立って撮った写真映像までの知見を総合的にがっちりと伴った「月」となっている。すなわち、月に関する限り、前稿までに述べてきた「全知」の状態がある程度達成されていると言ってもよい。時間・空間を越えて知見が発展していく過程とは、このように、言語の対象事物の意味合いをも変えていくのである。

このような科学的客観性を帯びた「月」となれば、もはや、一個人がある時に見る行為およびそこから得られる情報の重みはゼロに等しい。したがって、見えていなくても、’今日の科学的な立場で考える月’は存在すると確信できる。これが絶対の答えとなる。

量子力学の芽生えに触れたアインシュタインの脳裏には、このような科学的客観性の保証される限界の意味を疑い深く確かめたいという欲求がもたげたのだろう。それが、このような素朴な実在論的疑問の形で呈されたのだ。そして、現在の我々は、物体の存在に関する客観的な知見の発展には限界がある、、すなわち、ミクロな全知状態は決して実現されないことを自然の原理として認めるに至っているということなのだ。

<ing>

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本稿は以下の続きである。
07-12-05「因果」を考える
07-12-31「因果」を考える (2)
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08-03-11「因果」を考える (4)
08-04-10「因果」を考える (5)
08-04-30「因果」を考える (6)
08-05-09「因果」を考える (7)
08-05-27「因果」を考える (8)
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08-10-06「因果」を考える (12-b)
08-10-19「因果」を考える (13)
08-11-10「因果」を考える (14)
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10-04-26「因果」を考える (24)
10-06-07「因果」を考える (25)
10-08-10「因果」を考える (26)
10-10-04「因果」を考える (27)
10-11-10「因果」を考える (28)
11-01-17「因果」を考える (29)
12-01-03「因果」を考える (30)
12-03-03「因果」を考える (31)
12-09-11「因果」を考える (32)
12-11-15「因果」を考える (33)
13-1-4「因果」を考える (34)
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ここまでの考察に基づけば、「水路に砂利を投入するモデル」の因果関係とその逆の意味が、次のように整理されて見えてくる。

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話しを分かりやすくするためには、いきなり「全知」の状態が達成されているとして考えてみるのがいいだろう。

(I) 「全知の我」の立場からの認識

『水槽の左端付近でに体積Vの砂利が投入されるという事象が起こり、
その直後より水槽中の水に津波型の進行波が立ち、反射を含む複雑な波動の振る舞いが生じて、
それが次第に減衰し、最終の定常状態に至る段階で水槽の水面が V/S だけ上昇するという事象につながって、
遂には安定化する.』

これこそは、物理法則に従った正しい出来事の一部始終である。しかし、こんなことが最初から詳らかである場合には、「因果」という概念の出番はほとんどない。(ただし、このように因果系列的な事象の整理・記述をすると、関する物理法則の理解が正しいことを確認することにはなる)。

---
ところが、水槽の中で起こる途中の出来事ははっきりは認識されず、「砂利の投入」という事象の括りと「水槽の水面上昇」という事象の括り、およびそれらの関係だけがことさらに意識される場合、以下のような因果認識が価値をもつのである。

(II) (限られた情報の中で)括って単純化した事象間のつながりに関心を置く場合の認識

『「水槽に総体積Vだけの砂利が投入される」ことが原因となって、
「水槽の水位がV/Sだけ上昇する」という結果が起こる.』

これは、生じる出来事の関連性を、人間が活用する都合にマッチさせて、粗っぽく関連付ける認識法と言えるだろう。(物理的)時間軸上を追って考える限りは、全知の我の捉え方から「因果をつなぐ系」の部分を取り除いただけなのだが、因果の事象の括り方が1対1対応的にうまく選ばれている場合には、論理的な逆命題は成立するという性質を帯びる。

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さらに、そのように1対1型に事象が括られていて、かつ、原因側の出来事の科学的客観性が意識される場合には、物理時間の進行とは別の因果の流れが生じ得る。(I)の全知状態は、はじめから達成されているわけではないのだから、観測された部分的事象を考察して、それまで知り得なかった知見を追加していくというプロセスであり、それは「全知の我」に近づいていこうとする知見の発展過程であるとも言える。

水槽に砂利を投入するモデルはその科学的価値がピンと来ない例になってしまうが、それでも次のような因果が考えられることは納得できるだろう。

(III) 認識される知見が発展するプロセス

『水槽の水位がΔhだけ上昇した事実の検出が原因となって、
水槽に総体積 S×Δh の物体が投入される動作が確かに実現していることが知見に加わる.』

---
そして、もうお気づきのことと思うが、このように複数の異なる認識の仕方の立場があるときに、その間をいつの間にか移り動いて考えてしまう、あるいは、どれも一緒のように思ってしまうと、不可解な感覚や混乱した状況が生じてくるのである。
<inging>



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新年あけましておめでとうございます。
政治・経済の情勢には一層の不安を感じずにはいられませんが、本シリーズ稿は終結に向けて淡々とマイペースで進めます。
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本稿は以下の続きである。
07-12-05「因果」を考える
07-12-31「因果」を考える (2)
08-01-19「因果」を考える (3)
08-03-11「因果」を考える (4)
08-04-10「因果」を考える (5)
08-04-30「因果」を考える (6)
08-05-09「因果」を考える (7)
08-05-27「因果」を考える (8)
08-06-29「因果」を考える (9)
08-08-28「因果」を考える (10)
08-09-07「因果」を考える (11)
08-09-30「因果」を考える (12)
08-10-06「因果」を考える (12-b)
08-10-19「因果」を考える (13)
08-11-10「因果」を考える (14)
08-11-30「因果」を考える (15)
08-12-24「因果」を考える (16)
09-01-24「因果」を考える (17)
09-02-12「因果」を考える (18)
09-04-05「因果」を考える (18-b)
09-04-20「因果」を考える (19)
09-05-12「因果」を考える (19-b)
09-06-20「因果」を考える (20)
09-07-31「因果」を考える (21)
09-09-25「因果」を考える (22-a)
09-11-06「因果」を考える (22-b)
09-12-29「因果」を考える (23)
10-04-26「因果」を考える (24)
10-06-07「因果」を考える (25)
10-08-10「因果」を考える (26)
10-10-04「因果」を考える (27)
10-11-10「因果」を考える (28)
11-01-17「因果」を考える (29)
12-01-03「因果」を考える (30)
12-03-03「因果」を考える (31)
12-09-11「因果」を考える (32)
12-11-15「因果」を考える (33)
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つまり、自然科学的な理解が為されるということは、自然現象に関する人類の共有財産としての知見が、前回の稿で述べた「全知の我」の立場からの知見に近づいていく各段階を意味しているのである。そしてその際の知見の進展は、(ある程度の紆余曲折や一時の間違いを伴うことがあったとしても)大枠で見れば決して後戻りしない不可逆的な流れとなっていることが重要である。一旦新しい理解の段階に達したならば、それを無かったことにして、他のある部分だけで閉じた理解の前進を遂げるということは許されないのだ。

このように捉えることの意味や意義は、本稿で因果現象の例として大分扱ってきた「水路に砂利を投入するモデル」に当てはめて考えることで明確になってくるだろう(目下の課題は、この因果の逆を考えることから出発した問題なのであった ^^;)。

さらに関連して、アインシュタインの量子論に対する疑問に端を発し、素朴な実在論的の問題提起の形として表現された言葉:「月は見ているときにしか存在しないのか」に対して、我々は今や、明確に答えられることも示そうと思う(ただし本稿では量子力学そのものには立ち入らない予定)。

=====
さて先ず、「全知の我」は、自然の認識と記述のためにどうしても想定されねばならないのだが、現実には常に未達成状態の仮想的概念であることに注意を払っておこう。「水路に砂利を投入するモデル」の因果を考える場合であれば、真の「全知の我」の視点からは、水路の中で起こる現象の詳細な推移のみならず、砂利を投入する機構を作動せしめる外部の様子も、水位上昇を検出する装置の動作およびそれにより何らかの行動を示す人間の振る舞いなども、全てが詳らかになっている、、そういう類の認識体だ。もし仮に、このような認識体が真に達成されているとすれば、恐らく、「因果」という概念自体が不要、、というかむしろ根本的に成立しないのだろう。何しろ時空間の全ての領域があからさまなのだから、予測するとか発生を防止するとかのような発想が生じる余地がないということになる。しかしそこで、知れることの時空の領域が絞られているときには、原因を究明するとか、今後の現象を制御・選択する、という考え方が大きな意味をもつことになり、因果概念、さらには科学的な考察とか法則という思考そのものが勃興・成立してくるのだ。

「水路に砂利を投入するモデル」の因果を考えるときには、数多ある時空間中の事象のうち、「ある水路に砂利が投入される」、「水路の中の出来事」、「水路の水位上昇の観測」という各箇所で事象を括って、それ以外を直接の考慮あるいは認識の範囲からから外しているのである。
ところが、自然現象の理解は、達成された「全知の我」を想定し、それに照らして構築されるということも、確かにもう一方の絶対的要件である。つまり、因果を考える視点と、自然を整合的に理解する立場との間には、本来的なステージのギャップがあるということなのだ。
<ing>


=====memo=====

ネット文献からの孫引き情報:

月に関する言明は、パイスの回想を通じてのみ伝えられています。原典を引用しましょう。

『1950年の頃だった。私はアインシュタインのお供をして、プリンストン高等研究所から彼の家まで歩いていた。彼は突然立ち止まって私にふり向き、月は君が見ているときにしか存在しないと本当に信じているかね、と尋ねた。私たちは特に形而上学的な会話をしていたわけではない。むしろ、量子論を議論していたのであり、特に、物理的な観測という意味で、為しうることと知りうることは何かということを議論していたのである。 』
アブラハム・パイス著 『神は老獪にして…』(金子務ほか訳、産業図書)P.3

量子力学(タゴールとの対話)

 以下、アインシュタインの『物理学はいかに創られたか』の章「物理学と実在」より。
 「同時に粒であり、波であることの仕組みを追究した謎物語は、ここで、現実とは何かという問いに発展していきます。量子力学によると、人間が見ること:観測は、とても奇妙な役割を演じます。人間が見ていないとき、電子は雲散霧消してしまうというのです。しかし、人間が観察しようがしまいが、電子はある一点に必ず存在しているはずです --- 私が見ているときにしか、月は存在しないのでしょうか???」



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科学的考察に際しては、時刻が進行するという事柄を純粋に客観的で絶対的な自然現象であると見なすことが暗黙の前提となっている。実は、ここに全ての鍵があるのである。

純粋に客観的・絶対的な時間を考えるということは、あらゆる場所で起こる事象に対して共通して用いることのできるような一意的な時刻を定めることができて、どのような場合にも自然に一様・一方的に増えるその変化量として、時間を認識するということである。
そして例えば、ここまで取り上げてきた「水槽に砂利を投入するモデル」の原因から結果へつながっていく現象の波及も、このような条件に叶う時刻軸上の変化として記述するときに、はじめて、動画を見るように、誰に対しても無矛盾で一貫した事象の連なりとなり得る。

このように話を凝縮することで、自然現象を科学的に認識・記述する、すなわち’自然科学’というパラダイムを成り立たせている根底には、以下の要件が絶対的に在していることがはっきり分かる。

『自然科学的な認識・記述は、考慮の対象となる事物の完全な外側に、考慮の対象となる事物の全てを知り得る一個の認識主体を想定して、その認識主体の知見として無矛盾にまとめられるべく進展していく.』

このような認識主体は、「全知(全能ではない)の我」と呼ぶこともできるだろう。「その主観が完全に科学的に客観を成すような我」という捉え方もできる。ただし注意してほしいのだが、決して、「神」のような唯一絶対の意識の主を据えるのではない。あくまで、通常の人間の理解の総体を考えるのであるが、その総体は、時間(歴史)的、空間(地理)的な広がりの中で、無矛盾・一貫性の完成を目指して次第に形成されていく、、そういう理解の終着点を想定するということなのだ。
<ing>

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12-01-03「因果」を考える (30)
12-03-03「因果」を考える (31)
-----

因果に関わる事の推移を考える際には、次の(1),(2)の相異なる2種類の自己発
展する変数が介在しているらしい、、というところに話が進んでいた。

(1) 現象の非可逆性によって規定される物理時間
(2) 科学的世界の知見の発展を順序づける進行する変数(名前は未定)

ここで気をつけてほしいのだが、決して、物理時間とそれ以外の例えば'擬時間'
のようなものがあって、その両者が、変化認識の底流として別々に流れる、、と
いうようなことではない。ある一人の人間の思考の流れを考える限りにおいて
は、脳の活動も物理時間の発展の中で起きる自然現象の一つに違いないのだか
ら、知見の発展も、物理時間を適当に写像して得られる変数で記述できると考え
るのが妥当だ。大いなる問題は、人間の自然に対する「知の発展」なるものは、
このような一個の生物内で起きる現象としては説明できないのであり、時間・空
間をまたいで広がっていくことが本質であるために、単に時間発展の上には記述
できないということなのだ。

ならば、その発展がどのようなものであるかと問われるなら、「認識主体の拡大」であるというのが目下の私なりの答えとなる。

禅問答のようにしてぼやかすことは本意でないので、できるだけ具体的なイメー
ジに戻していこう。

---
そこで砂利を投入するモデルを思い出して、再度丁寧に、目下考察中の(通常とは逆の)因果関係の表現をつくってみよう。

まず、純粋に論理的表現とするならば、以下のように記述になるだろう。

・「水槽の水位がΔhだけ上昇する」という事象の発生が確かなことであれば、
「水槽に総体積 S×Δh の砂利が投入される」という事象の発生も確かなこととなる。

これを、因果関係と見るということは、次のような認識を行うことだろう。

・水槽の水位がΔhだけ上昇する現象が(客観的な観測結果として)確認されたことが原因となって、水槽に総体積 S×Δh の砂利が投入された事も(客観的事実として)確認されるという結果を招く。

つまり、不明であった(物理時間としては過去の)出来事が、それと確実に結びついている別の場所の出来事の判明を通して明らかになるのである。ただし、「明らかになる」とは、「ある人にとって知識が追加される」こととは違うというのが(私の主張の)重要なポイントだ。ある人の中で知識が追加されるプロセスを因果的にとっても悪くはないが、それは個人の思いの変遷を馬鹿馬鹿しく大仰に表現するだけのことで、考えに入れる価値はほとんどない。しかし人間の叡智として知見を増やしていくプロセスは、科学研究的な行いの本質をなすものである。測定・実験によって見えない所を知ることの例は、センサーや顕微鏡による観察から宇宙探査まで、枚挙に暇ない。そしてその際に得られる知見が過去に関することというのもよくあることである。地層や化石の研究とか宇宙論にまつわる観測実験の考察は大抵そうであるし、もっと実社会的な例もいくらでも見つけることができるだろう。このように、「知の発展」は、時間を遡る方向に進むことも普通であり(そうでない場合もあるが)、かつ、その発展プロセスを因果的にとらえることは決して不自然ではないのである。

ところが一方、先に記載した因果認識を、次のような文章表現に変更すると、全くありえないことになってしまう。

---
・水槽の水位がΔhだけ上昇してそれを検出する装置に何らかの変化を与えたこと
が原因となって、水槽に総体積 S×Δh の砂利を投入するように外部機械が作動する。

これが「全くありえないこと」と判断される根拠は、もちろん、時間的な順序関
係の矛盾なのであるが、そのことを今一度整理してみよう。

==
ある現象が他の現象を引き起こすというタイプの波及が起こる場合、前者に結び
つく時刻という変数の値よりも、後者に結びつく時刻変数の値の方が必ず大きく
なっている!、、この当たり前にも思える命題は、よく考えれば大いに不思議な
ことである。むしろ、この命題に立脚して正直に論理を尽くす限り、そのような
必要は無いと考えるのが正統である。過去-現在-未来とはいったい何なのだろう、、という素朴かつ根本的な疑問に立ち戻らざるを得ない。
<inging>

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07-12-05「因果」を考える
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物理的な事態の推移・関係を曖昧性なく認識し得るからこそ、科学的な因果世界の空間を構築することができるのであって、そのためには「一個に一貫した認識主体」存在が必然になるという、ある意味で、主観と客観の意味の再考を迫るような重大な真理に辿り着いた。

ただし、このときの「一個の主体」とは、一個人を意味する語ではない。人類の頭脳の中の理解として多くの他者と共有され得る、しかもその共有とは、国などの遠い地理的隔たりを超えるのみならず、場合によっては時間的・歴史的な軸の上を渡って共有されている、、そういう壮大な「理解する我」なのである。これこそが、科学的世界空間の定義にも直結する絶対の前提である。

---
ただし、ここで一般化した考究を目指しすぎると(思考の興味は高まるのだが)説明する言葉を探すことが大変むずかしくなり、息が続かない。もう少し当初の問題に帰って、まとめに向かいたいと思う。
---

ポイントは、我々が変化を認識するときに、そのプロセスの進行を定める独立変数として、次の2種類が併存しているということなのだ。

(1) 現象の非可逆性によって規定される物理時間
(2) 科学的世界の知見の発展を順序づける進行する変数(名前は未定)

前者は、様々な観測可能な痕跡を残しながら、物理的状況を未確定から確定に変えていく過程を表すための変数であり、(定義は難しいながらも)我々が日頃さんざん使っている物理時間が相当する。後者は、確定した事象の間の関係を辿るための、「理解する我」の状態の推移を表す変数とでも言うべきものである。
ただし、これらがどのようにして一方向に流れる変数足り得るのか、、などと考え込んでしまうと、迷宮に入り込んでしまう。変数が同じ値を取る段階ではどのような要件が課されるか、ということのみを手掛りに考察するのがよい。

<ing>

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(約一年ぶりのシリーズ稿の続きですが、、淡々と再開します.)

原因と結果が一対一に対応するような認識の仕方が可能な場合に「有意義な因果関係」が成立し、その際、因果関係を論理的に扱う立場をとるならば、因果の逆も成立することになる、、という趣旨のことを述べてきた。そして、水槽に砂利を投入するモデルを使って、以下のように因果関係の具体的表現例を示した。

(再掲)
・「面積Sの水槽に総体積Vの砂利が投入される」という事象が起こるならば、必ず、「水位が V/S だけ上昇する」という事象も起こる。

・「水槽の水位がΔhだけ上昇する」という事象が起こるならば、必ず、「水槽に総体積 S×Δh の砂利が投入される」という事象も起こる。

--
実は、上の表現においては、物理的因果関係と論理的因果関係の間をさりげなく移ることができるように、ある意味でずる賢こく曖昧にしているところがあった。その問題部分である「砂利が投入される」という所、「水位が上昇する」という所、すなわち、原因事象と結果事象の表現が意味するところを、もっと正確に探ることが必要なのであり、それによって、前回の最後に掲げた疑問:「結果系から原因系には情報の波及が起こるはずがない!?」という疑念に対する解答も見えてくるのである。

「砂利の投入」というのは、本来、Δh = V/S の関係を成立させる機構の完全に外側で起きる出来事であることを前提にしている。このような「外側」の出来事は、その事によって、目下着目する因果を伝える系に及ぼす変化以外にも、其処彼処に多々様々の影響・痕跡を残すと考えられるものでなければならない。それが、事象の科学的客観性の要件であり、実験物理学的に言う「観測可能」であることの本質とも言える。これと同じく、結果系である「水位の上昇」も、様々な外部からの観測にかかる出来事としてとらえることで、はじめて因果関係の構成要素の事象になる。そうして、このことをできるだけ忠実に反映させた形で結果系を表現をするならば、今の結果系は、例えば「水槽の水位がV/Sだけ上昇したことが、何らかの外部装置によって観測・記録される」とすべきなのである。

ここまで見通すと、結果事象が、因果を伝える水槽系に対して跳ね返りの影響を及ぼさないことの意味も分かってくる。科学的な因果関係の結果とは、客観的事象として揺るぎ無く確定することが要件だったのだ。そのためには、結果事象自体が、さらに1対多型に膨大な事象の波及につながっていなけれならない。このことによって、時間逆行向きに遡るような事象の推移も(事実上)禁止されている。’客観的に観測される揺るぎない事象であること’というのは、実は、『科学とは何か』という大問題につながていることなのだ。

話が(遠大に過ぎるところへ)はみ出したようなので、本筋に戻す。以上で考察したように、純粋に揺るぎない事象として位置づける「原因系」も「結果系」も、それら自体が時間反転禁止型の因果の網の目にがんじがらめに絡め込まれている。ここで深刻・重大となる問いかけが、そのときの因果構造は、何との間の関係を基本におくものかということだ。そして、その答えとして、必然的に、「一貫した認識主体」の存在が要請されることになる。

揺るぎない事象の間の関係を論じることが因果的な見方の本質であるのならば、「原因」と「結果」は、物理的な事態の推移・関係を曖昧性なく認識できるような、一個に一貫した認識主体が把握するのでなければならないのだ。そうでないときには、「見た・見ない」、「言った・言わない」、「やった・やらない」の類のいわゆる水掛け論の可能性が排除できず、科学的な世界空間を築くことが不可能になってしまう。

因果関係というのは、このような認識主体の認識・理解の推移の上に展開することなのである。

<ing>

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水槽に砂利を投入するモデルにおいて、『水位上昇(Δh) = 投入する砂利の総体積(V)/水槽の面積(S)』の関係が因果をつないでいるという考え方は、砂利の投入以外の水位変動の要因が無いという判断を前提にしなければ成り立たない。そうであるからこそ、特定の原因と結果を対照させる'因果関係'という捉え方に意味が生じてくるのである。このことと同種のことがらは、物理的因果の連鎖を考察していた本シリーズ(16)回のところで触れている。まずは、そのときの表現をそのまま再掲しよう。

『因果関係が有意義になる条件は、原因と結果が一対一(時には一対多)に対応していて、かつ、因果のつながりがほぼ確実と見なせることである.』<再掲>

ここで、「(時には一対多)に対応」と記したところについて、少々反省的な補説しておかねばならない。先に、自然現象の連鎖的対応関係を考えた際には、あたかも枝分かれした導火線につながった複数事象への効果の波及をイメージした。すなわち、一つの原因要素に対して、複数のどれもが必ず起こる結果要素がつながっていると想定した。しかしこれを、「一対多対応」と呼ぶことには問題があった。「複数のどれもが必ず起こる」対応なのか、「いずれか一つが必ず起こり、そのどれもが起こり得る」という対応なのか、二通りにとれるからである。そして、いずれか一つが起こる場合の結果事象は、有意義な結果事象になり得ないことは明らかだろう(原因が成立したときに生じる結果が分からないので)。有意義な因果関係においては、複数種類の結果事象が生じるとしても、そのどれもが生じるのでなければならない。となれば、その複数事象の根元のところに視点を移して、一括した一個の結果事象として見直すことが可能なはずである。ということは、結局、有意義な因果関係は、原因と結果が一対一に対応するような認識の仕方が可能な場合に成立する. と理解できるのである。

そしてこれを「論理的因果関係」に適用して考えるならば、論理関係の一対一対応は集合の'同値関係'に他ならないのだから、逆も真となることが必然であると分かる。水槽に砂利を投入するモデルに対する具体的表現にすれば以下のようになる。

・「面積Sの水槽に総体積Vの砂利が投入される」という事象が起こるならば、必ず、「水位が V/S だけ上昇する」という事象も起こる。

・「水槽の水位がΔhだけ上昇する」という事象が起こるならば、必ず、「水槽に総体積 S×Δh の砂利が投入される」という事象も起こる。

順序だてた考察を辿ることで、この逆の表現に全く無理・不自然がないことが納得できるのである。

こうして、我々は次の理解に達した。

十分有意義な論理的因果関係が認められる場合には、その因果を伝える機構の時間反転の成立・不成立と関係なく、逆の(論理的)因果関係が成立する。

時間進行上の事象の発展と、論理上の事象の発展は、互いに異なった、それぞれ確固たる認識世界を形成するのである。このことを常に意識し、決して混同しないように気をつけることで、多々存在する思考の迷路や、怪しげな逆説から逃れることができる。

---
しかし、釈然としない感覚をもつ人も少なくないだろう。今の場合の因果を伝える系は、結果系から原因系に向かって情報を伝えないのは事実なのである。もう少し詳しく、物理事象における論理の逆の意味を探っておく仕事が残っている。

<inging>

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前項の(*)式を「因果をつなぐ系」として扱うとは、次のように認識するということだ。

〔因果をつなぐ系〕
『水位上昇 = V/S なる関係式(*) と、それが確実に成立することを保証する物理的状況の全て.』…(☆)


これが結び付ける原因と結果の関係を、論理的因果の側面から見て、その逆関係を議論することが目下の課題だが、本論に進む前に、ここで、準備的に少し一般論に立ち戻る。

さて、「PならばQである」という論理関係と、「Pを充たす集合Aは、Qを充たす集合Bの部分集合である」という集合の包含関係は、互いに同等であることを論理数学で習う。ただし数学で扱う例は、例えば『自然数の集合』のように、極めて純化された要素概念が対象になっており、(それほど単純でない)物理的現象の因果関係に適用・対応させるとどうなるのかは、通常の書物には書かれていないことであって、ここで我々が検討しなければならない。

ここで問題にする「論理的因果」とは、『Pという現象が起きたならば、(必ず)Qという現象が起こる.』という物理事象の論理関係である。これを「'Pの発生'が成立するならば、'Qの発生'が成立する.」と読めば、論理関係:「PならばQである」と対応させることに無理・不自然はないと分かる。そこで、このときの集合の包含関係は、つぎのように表現されるだろう。「Pを発生させる物理状況は、Qを発生させる物理状況のうちの一つである.

こうして見ると、論理的因果関係は、実は、我々が本シリーズの以前の稿で考えた、現象の連鎖における分岐した因果の対応関係で理解できることに気づく。
つまり(の理解を参照して)、「Pが起こればQが起こる」という論理的因果関係は、Pを起こす物理的設定とQを起こす物理的設定が'多対一'で対応していることに対応しているのである。(大きい集合が'一'の方で、小さい部分集合(の一つ)が'多'の方に対応する.注意しないと混乱する.)

ここに、「Pが起ったからには、必ずQが起こる.」と確実に言える場合であっても、「Qが起こった原因は、Pにある.」とは言えないこと、すなわち、論理的因果関係は原因究明に結びつけることができないという重要な特徴が、あらためて明確に確認されることとなった。

----------

さて、ここで、考えてきた水槽に砂利を投入するモデルに戻っていこう。

本頁一番上で設定したような因果をつなぐ系(☆)の捉え方、すなわち、以下の再掲(*)式を、因果媒介の主役に据えるとしたとき、これは、今我々が理解した「論理的因果関係」を意味することになるのだろうか。

水槽の水位上昇(Δh) = 水槽に投入される物体の総体積(V)/水槽の広さ(S) <再掲(*)>

ここで考えられる論理的因果関係を素直に表現すれば以下のようになるだろう。

・「面積Sの水槽に総体積Vの砂利が投入される」という事象が起こるならば、「水位が V/S だけ上昇する」という事象が起こる。

・「水槽の水位がΔhだけ上昇する」という事象が認められたとしても、「水槽に総体積 S×Δh の砂利が投入される」という事象が生じたとは限らない。

このような、論理的因果関係が成立するということは、水槽の水位を変動させる原因が、'砂利の投入'以外にも種々考えられるということに他ならない。そして、このような状況自体は、雨が降るとか、底から湧き水が出ているとか、初期注水のための水道栓があって、これが作動したとか、、いくらでも実際的に考えられることである。しかし、ここでよくよく考えてみてほしい。あえて、(*)式を因果の主役として書き下ろしたことの意味はいったい何であったのだろうか。
<ing>

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『水槽に体積Vの砂利を投入すると、水槽の水位が V/(水槽の面積) だけ上昇する結果が生じる.』という因果関係の、因果をつなぐ機構のところを、時間的に発展する物理現象に立ち入らずに表現するならば、以下のようなことになるだろう。

[因果をつなぐ系]:
『地上(の重力環境中)に、漏れなく水を溜めた、上方が開口した一定の水平断面積Sをもつ容器が置かれていて、その容器中に総体積Vの(水と反応しない)物体を沈めるときに成立する「水槽の水位がV/S だけ上昇した状態に至る」という定量的な関係.』

前半の「漏れなく~」で始まる断り書きのような記述は、その後に書いてある関係式を成立させるための物理的な条件として重要であるが、地上では暗黙の前提条件と言ってもよく、表現から省略することも許されるだろう。

そうとなれば、

水位上昇 = V/S (*)

という関係式自体が、因果をつなぐ系の役目を果たしている、というとらえ方もできそうだ。

---------------

この(*)の式自体は、小学校の算数に登場するような簡単な関係式である。
しかし、この式を、単に試験問題の答えのように書けることと、実際の「事象」に関する予測・推察・究明・対策などに活用できることとの間には、大きな隔たりがある。そうした活用のためには、時間的および論理的因果との関係の視点から、この式の意味するところを、あらためて熟考する必要がある、、このようないきさつで、今の話に至っている。

さて、(*)式を単に数学公式のように見るとき、その式が成立するための条件は、式とは別途に、設定・確認されるべきものとなっている。その条件とは、例えば、水槽が地上の一様重力場中にあって、投入される物体の比重は1より大きく、水と反応することはなく、体積Vの分だけは水面下に完全に沈むというようなことであるし、また、水面の波立ちはいずれおさまって、その時点の水位を問題にするという約束であるし、さらに大切なことは、水位を変動させる他の原因は無いという保証である。算数の授業では、「そのような条件が全て整った上で」という前提を想定して、そのときに、この関係式が導ける(あるいは知っている)かどうかを問うわけである。

しかし、物理事象に適用して考えるとなれば、この前提が成り立つかどうかを調べることが、重大・本質の課題となる。そして、物理的な立場で(*)式を書くということは、数学的な式変形を問題にするのではなく、まさにこうした前提条件が成り立っていることを宣言するという意味をもつのである。

ここまでくると、時間変遷を考慮の外に出した(*)式は、論理的な因果の逆に堪える関係を与えていることが見えてくる。
<ing>

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「因果の逆」の問題に関連する考察を進めながら最後の視点に移っていきたい。次に考えるべき状況は、因果の仲立ちをする機構自体が本質的に時間反転禁止型になっている場合、つまり、[原因系]-[因果をつなぐ系]-[結果系] の中の、「因果をつなぐ系」の部分が、自然的な時間進行の上にしか成り立たない場合である。このようなことは、[因果をつなぐ系]を基礎づける法則が、熱学・統計力学的な手続きに立脚するときに多々生じてくるのだが、ここでは、誰にもイメージし易い、もっと素朴なモデルを使って考え進めたいと思う。

以前に扱った”水漏れ水路モデル”をヒントにして、次のような状況設定をしてみよう。

細長い水槽に水を張る。長さは、水泳プールと同じぐらいだと思ってほしい。
水槽の左端には、(水中に)砂利を投入する機械が備えられている。

ここで、次のような因果認識を考える。

[原因系]:
砂利投入機を作動させて、この水槽に、総体積Vの砂利を入れることによって

[結果系]:
水槽の水位が、V/(水槽の面積) だけ上昇する結果が生じる.


さて、この場合の[因果をつなぐ系]は何だろうか。とりあえず宿題としてみよう。

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この答えを求め思索をめぐらすに至って、必然的に、本シリーズ稿の早期の段階から(おぼろげながら)意識の片隅にあった問題:「自然事象の進行と論理事象の進行」の違いと関係が明確になってくるのである。

まず、この水槽に砂利を投入した後に起こる出来事の時間的な推移を考えてみよう。砂利を成す石粒の一つ一つが落下して、水面から水中に入る度に、パルス的な水面波が立ち、はじめはそれが同心円状に広がっていくだろう。この波が水槽端の壁面に達すると反射されることになるが、投入位置が水槽の左端に寄っているので、大まかに見れば、左から右へ進行する不規則なパルス波の集合のように振舞うようになることだろう。さらに言えば、この波は、左右対称のパルス波でなく、通過後の平衡位置が高くなるような、言わば津波型の性格を帯びていることだろう。
さて、この波列が、右端に達すると、そこで反射して、今度は左向きの波列になり、以降、左右での反射を繰り返す。ただし、水面波は、(内部摩擦、分散、空気運動が絡む不規則成分等のために)比較的速やかに減衰する。間もなく、砂利を投入したことに因る波立ちは消失し、砂利を入れる前と同様の静かな水面が実現する。この時点で「水位」という量が意味を持つようになる。そして、砂利投入後に静まった水路の水位は、投入前の水位よりも、V/(水槽の面積) だけ上昇している、、という事実が、実際に観測されることとなる。

以上のプロセスは、多数の要素的事象から、より粗視化された平均量で指定できる状況へ向けて移行する自然的な操作になっていて、その時間的な逆順が絶対に起こり得ない典型的な例になっている。

ただしこれは、因果をつないでいる物理機構に特段に焦点を当てた認識の仕方である。因果関係の主役は、あくまで「原因」と「結果」の出来事であり、「因果をつなぐ系」のところは、細に入らないように扱うこともできるのだ。

<ing>

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割れたガラスの破片をうまく運動させて、重りの球を高く突き上げる事態を生じさせるというのは、さすがに、実現のリアリティーに乏しい例となってしまった。ここで示したいことは、実は、球を落下させてガラス板を割るというモデル現象の逆転を実現する手段の内容云々ではない。重大な視点は、原因から結果へ至る一連の系の中で、因果をつなぐ純粋に物理(または化学)現象的な機構に目を向ければ、その出入り口付近でインターフェースを担っている部分とは、多少なりとも相互に影響し合っていると考えられるので、どこかに逆転現象が認識できる領域を見出すことができる、、という一般論である。

例えば、物が燃えるとか溶媒に溶けるというのは、かなり典型的な時間反転禁止型の現象であるが、それでも、燃焼や溶解によって生じた化学成分が逃げ切らずに近傍・周囲に立ち込めれば、燃焼や溶解の反応を抑制する方向に働くだろう。この発想を進めれば、反応の出口にある物質状況を強制的に設定することで、反応の入り口側の物質の消費状況を変えるという、一種の、部分的(不完全)な、因果の逆の流れが起こることが分かる。これは、跳ね返りの効果または逆現象と呼んでいいことの一種だろう。

具体的で分かりやすい例とするため、自動車のエンジンとマフラーから出る排気ガスの関係を考えてみよう。排気ガスと同成分の物質を準備して、これを排気口の付近に集めてどのような運動を与えたとしても、これに因ってエンジンが稼動し始めるということはない。しかし、排気ガスの流れの様子は、少なからずエンジン回転に影響を与えることも事実なのだ。排気の流れを押さえ込む(単純には出口をすぼめる)などの操作を行うと、エンジンの回転速度は低下し、逆に、排気を強制的に吸引してやれば、今度は回転速度が増す結果につながる、、このように排気の状況がエンジンの動作に跳ね返る事態は、容易に予想することがにきるだろう。さらに、これを、次のような因果認識として表すこともできるだろう。

『エンジンの排気の出方を(外部から)加減することに因って、エンジンの回転状況が(いくぶん)変動する結果が生じる.』
(なお、ここでは、目的の回転速度やパワーを出すべく(アクセルに)フィードバックをかけたりはしないという前提である.)

これは、上で述べた「部分的な因果の逆現象」に対応する一例になっている。

一般論に戻って、次のようなことが理解される。ある認識の仕方にしたがって、跳ね返りの効果が断ち切られた一方方向的な因果関係が確認できたとしても、それをもって、その現象に関する一切の跳ね返り、すなわち逆現象が無いと判断するのは早計・危険である。因果関係をつなぐ系には科学的な相互依存関係が必ず介在しており、そこを中心にして、認識の範囲を探ると、不完全な因果の逆が成り立つ状況を見出すことができるのが普通である。

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さて、さまざまな因果的現象を見渡すと、一見、一方通行の因果関係のように思えて、実は、逆現象を起こすという物理現象が多々存在することに気づく。

その分かりやすい一例として、半導体発光素子(一般的なのはLED)と太陽電池の逆現象をあげることができるだろう。

まずは、昔ながらの発光装置であるフィラメント電球を考えてみる。フィラメントに電流を流したときに起こる現象は、かなりの発熱を伴う、時間反転禁止型の性格を帯びた現象である。このことから、単純に、フィラメントに光を当てれば発電が起こるということは期待できないと推察できる(ただし、光電管型の真空管をつくって、バイアス電圧をかければ、光で電気信号を加減することは可能である.)。

さて次に、半導体発光素子のLEDについては、光を当てて発電が起こるという逆現象が、ごく簡単な実験で確められる(LEDを電圧計につなぎ、光を当てるだけでいい)。
参考リンク例:LEDを光センサとして使ってみる! (実験室)

そうなると、太陽電池の逆現象、すなわち、太陽電池素子に電源をつないで電流を流すと、発光するのかどうかに興味がもたれる。普通に考えると、太陽電池の一般的な材料であるシリコンが発光デバイスにはなっていないことが明らかなので、発光を観ることは難しそうに思える、、が、やってみると、案外、光が見える場合もあるという(Using led as solar cell)。おそらく、実際のシリコン材料の乱れた(クラスター)構造などが関与しているのだろうが(ポーラスシリコンシリコンナノ結晶,他参考情報多数あり)、そんな専門知識に結びつけなくとも、半導体接合界面で起こることは、電球のフィラメントで起こることよりもずっと要素的(すなわち、時間反転禁止は強くは効いていない)であるというイメージさえあれば、ちょっとした条件の付加で逆現象を起こすことができそうだと推察できる。これが、本稿を通して考察してきた我々の合理的直感というものである。
<ing>

〔雑記的追記〕
この考察は、実は、純粋客観的な科学現象と、人間の(言語的な)認識にかかる現象との間には溝があり、人間は結局のところは因果的に現象を捉え理解せざるを得ないのではないか、、そしてこれは、しばしば量子論の混乱の元となる「観測」の意味の曖昧さ、という大問題に結びついているのかも知れないと、私自身が今気づき始めている。

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前回までに、時間反転に関する非対称性との関連を考えながら「因果の逆」の考察を進めてきた。さて一方、本シリーズの比較的初期段階より、因果関係においては[原因系]-[因果を伝える系]-[結果系]の結びつきのところで跳ね返りの効果が阻止されていることが本質的な要件であることを、繰り返し述べてきた。ここで、因果の逆効果が成立する例を探るためには、このあたりの視点の違いと関係を再整理しておくことが重要になってくる。

まず、やや一般化した視点に戻して考える。既に述べたように、時間の反転が禁止された巨視現象は、膨大多数のミクロ事象を個別には認識せずに、荒っぽく一括して把握する場合に現れてくる。このことを'エネルギー'の観点で見るならば、力学的エネルギーが、認識されないところ(形態)に散逸する現象であると言える。そして、このようなタイプの現象が、[原因系]-[因果を伝える系]-[結果系]の連鎖構造のどこかに介在していると、そこでの変化の伝播は一方通行になる。すなわち、跳ね返りの効果が阻止されていることになる。しかし、跳ね返りの効果を阻止する条件は、必ずしもこのような物理機構的な効果によって与られるとは限らず、実は、「原因」と見なす事柄の言語的な表現と把握のしかたにも深く関わっているのである。

このことを、目下とり上げている具体例:”ガラス板上に球を落下させるモデル”を引き合い出しながら、その [原因系]-[因果を伝える系] のつながりの部分に着目し、考察しよう。

先ず、『マッチの炎を近づけて紐を焼き切る』というような原因系の認識のしかたをする場合には、紐を切る操作を為す完全に外部独立的な要因が想定されていて、このようなときは、球の運動状態からの跳ね返りの影響などは如何にしても考えられない。これは、物理機構として時間反転が起こる得るか否かの問題というよりは、物理的な把握の対象となる系の全くの外側に原因を意識するという、因果の認識のスタイルに由来することである。

しかし、ここで、[原因系]の認識のしかたを、このような全くの外的操作までもって行かないように変更することも可能だ。それは例えば、『紐のどこか一箇所が(灰縄[*]のような)崩れる寸前のぼろぼろの状態になる.』というような原因のとらえ方である。こうした場合は、跳ね返りや逆の効果の有無は、物理的に把握可能な系内の現象として論じ得る問題となる。そしてその答えは、先にも述べたことだが、「灰縄」状態を生じるプロセスが、時間反転禁止型、すなわち紐の燃焼という非可逆的反応と形態変化を経ないことには実現不可能であって、球の運動状態を遡らせたとしても、そのことから「灰縄」を産み出すことは到底できない、、したがって、跳ね返りの効果は無く、因果の逆転も起こらない、と理解される。
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[*注]
「灰縄」の表現は、一休さんだったかのトンチ話から思いついた。
(話の内容の出ているサイトの例は、ちくたくさんのHPの「むかしばなし(目次)」から入ったところにある No.24 灰の縄ないなど。)
'灰の縄ない'は、時間反転の成立しない現象の分かり易い好例ですね。
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さていよいよであるが、この原因系の認識の仕方は、さらに次のように変えることもできるのだ。

『球が、ガラスを割ることのできるだけの位置エネルギーをもつ高さのガラス上方に束縛されることなく位置している.』

上の表現は、「因果をつなぐ系」(今の場合は重りの落下運動を導く仕組み)に直接結びつく部分だけを、ことさらに注目し「原因系」と見なすというスタイルの認識のしかたである。このように「原因系」をとらえるときに、それへの跳ね返りの効果も(物理的制約の範囲内で)最大限発揮されることが期待できる。

今考えているモデルでは、「因果をつなぐ系」の最終段階における球とガラスの衝突過程における非可逆性(時間反転禁止型)があるため、因果の伝わりの逆走、すなわち重りが跳び上がっていく現象はかなり実現しにくくはなっている。しかし、ガラスの破壊は、完全に認識不可能なミクロ現象につながるというほどの事ではなく、人為的な操作によって、ある程度は、時間反転させた現象を起こし得るとも言える。
その操作とは、例えば次のようなことだ。先ず、ガラスの粒状粉砕破片を多数用意し、これを机上に置いた球状重りの周りに広げて置いておく。そして、ある瞬間に、できるだけすばやく、このガラス粒を重りの下方あたりに集中するように移動させる。重りは、ガラス粒に突き上げられ、うまくすれば、投げ上げ的な上昇運動をさせることができるだろう。元々吊るしてあった高さまで上昇させることは、実際上はかなり困難だろうが、原理的、あるいは思考実験的にならば考えてもよさそうだ。

<ing>

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