はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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新自由主義者が昨今さかんに用いる反論封殺型のレトリックの一つをあらためてとり上げたい。

「"ねたむ風潮"や"足を引っぱる行為"を慎め!」

というパターン表現だ。あちこちに溢れているが、一番話題になったのは、2月に小泉総理が行った国会答弁で、ネットニュースなどでも報道されていた。念のため、末尾に、公開されている国会議事録(国会会議録検索システム)からの引用をあげておく。

もととなる思想や政治方針の良し悪しを別にしても、この言葉の表現には非常に奇異な感覚を覚える。

ねたむ、羨む、というのは人の内心に湧く感情だ。そして、人から言われるまでもなく、表明するのは恥ずべき感情だと誰しもが認識している。だから、「ねたむ風潮を慎め」と言われれば、反論はし難くなってしまう。---というか、既に慎み抑えている弱い立場の人にとっては、溺れかけているときに「水音をたてるな!」と怒鳴られるかのごとく絶望的な無力感を与えられてしまう。

さて一方、ギラギラと競争に邁進する人たちの世界では、例えば、企業内の出世競争であれ、政治家のポスト争いであれ、学者の業績・功名争いであれ、ねたみと足を引っ張る感情が渦巻いているのは当たり前のことなのだ。そして、心の問題と見る限り、このような感情は、競争による向上心と表裏一体のものだ。ありていに言うなら、「ねたむ側より、ねたまれる側になりたい.」というのが、競争による向上心の中身の本音と言ってよい。したがって、この向上心を原動力に競争に勝った者が、この感情を否定すること自体ナンセンスな自己矛盾であるし、また真の勝者が相手のねたみを制するなどというのは極めて浅ましい発言になってしまう。だから、実際、真に抜きん出た者が、負けた者に対して「ねたむのをやめよ.」などと言うことはまずありえないのだ。(そういう意味で、有力政治家家系のボンボンで、総理に登りつめ、選挙で大勝利までした小泉氏が、この言葉を使うのは非常に奇異であった.)

してみると、「ねたむ風潮を慎め」という言葉は、どのような者が発想するものか?真の勝者の発言でもないし、もちろん弱者の側があえて口にする発言でもない。そう、現状での富がまだ不満である強欲者が、これから弱者を食いものにして成り上がろうと目論み、自分たちに不利な制度を取り止め、有利なルールをつくらせる布石として、撒き散らかしている言葉なのだ。

国民全体の幸せを築くべき政治家のトップが、こんなことを見抜けずに、この定型句を鸚鵡のように口にしている、、奇異・面妖なことである。

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[016/017] 164 - 参 - 予算委員会 - 2号
平成18年02月01日 発言No.358/393

内閣総理大臣:『ですから、今後、我々は気を付けていかなければならないのは、貧困層を少なくするという対策と同時に、成功者をねたむ風潮とか、能力のある者の足を引っ張るとか、そういう風潮は厳に慎んでいかないとこの社会の発展はないんじゃないかと。できるだけ成功者に対するねたみとかそねみという感情を持たないで、むしろ成功者なり才能ある者を伸ばしていこうという、そういう面も必要じゃないかと。』
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前回、個人的な思い出としての祖父の話などを書き込んだ。実は、8月15日直後には、もっと激しい意見を書きたかったのだが、時間がとれずに間があいてしまったので、思い浮かんだエピソードだけを書いた。しかし、自分の拙い文章表現がどうにもはがゆい、、ので、やぼなコメントを追加する。

今夏の終戦記念日のそのとき、私は、東京で開かれた物理教育国際会議の会場にいた(この会議の内容についていろいろ思うところもあるのだが、ここでは触れない)。国立のオリンピックセンターが会場であったため、会場全員の黙祷の時間が設けられていた。帰る途中の新聞(の覗き見)で小泉総理の靖国参拝のニュースを知った。家に戻って、追い討ちをかけられるように、TVニュースから、加藤紘一議員の実家への放火事件を知らされた。しかも、それに憤りを表す声が、官邸サイドからほとんど出ないということを知った。さらにその後、首相の15日の靖国参拝の支持する国民の声が、15日を挟んで、返って上昇しているという報道を見た。

何か、あまりにも不自然ではないか。戦地で死んだ一般人と、政策の意思決定を行った責任ある者を一緒に弔うかどうか、、というのは、個人と国体との関係のあり方についての基本問題だ。いわゆる「思想」の問題と言える。「非力な個々人より国体が大事だ.」vs.「個人の幸せを達成してこそ国家組織に存在の意味がある.」こういう思想の対決があるだろう。そして、このような根本の判断基準は、ある人がどう言ったから、ある一人が何をやったから、どこかの国が何かをしたから、、という程度の理由で影響を受けるものではなく、透徹した内省によってのみ培われるものだと(私は)思う。

うまく言えないが、日本国民全体の思考が、不安の海の中で、何か強そうに見えるものを求めて迷い廻っている、、そんな印象だ。国、国、と叫んではいるが、その国に住む国民全体が(互いに考え方の異なる)他者を尊重し合い信頼し合い支え合うことが、最大の力の源であることを、すっかり忘れてしまっているように見える。-このようなことが言いたかった。


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(既に大分以前に亡くなったが)私の母方の祖父は、戦中は技術系の職業軍人で、戦後は建設関係の企業等で活躍した人であった。口ひげをはやし、人を叱る感じの漂う話し方をされ、子供の私にとっては「こわい」という印象が筆頭にくるおじいさんだった。口を開かずとも、娘を嫁に出した婿の出世状況や、子供の成績に対してプレッシャーを与える威厳をまとっていた。戦争(太平洋戦争)で学友や親類を失ったそうで、私が子供のときには、靖国神社の参拝にしばしば行っていた。靖国に行ったことを語る際の祖父は、厳粛な高揚感のような雰囲気を現していたことは、子供の私にも感じとることができた。

以下は、この祖父について母から聞いた話である。

祖父の家には、住み込みのお手伝いさんがいた。戦争中のある時、そのお手伝いさんが、突然、家から憲兵に連行された。そのお手伝いさんが、共産党員であることが判明したというのが、連行の理由だったそうだ(言うまでもなく、戦中は、言論や思想の自由は無かったのである)。祖父の家では、お手伝いさんのそのような経歴は全く知らなかったそうで、かなりの騒ぎになった。
しかし、間もなく、祖父は、そのお手伝いさんの実家の人と話しをし、お手伝いさんの拘留された先へ何度も面会に行き、差し入れをし、職権とつてを使って、そのお手伝いさんへの扱いがひどくならないように、ずいぶん尽力していたという。

祖父はもちろん共産党活動などとは無縁の人で、どちらかというと時の社会体制を利用して出世した人である。しかし、一旦、奉公の受け入れをしたからには、そのお手伝いさんも、家族の一員として守ろうとしたのである。

人の縁、信頼、仲間、家族、、というのは、本来このようなものであるはずだ。少なくとも、日本の古い家制度には、このような側面を包含する懐の深さがあったのだと、攻撃的な匿名意見ばかりが目立つインターネット時代の今、感慨をあらたに、この話しを思い出した。

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本稿は、
2006年7月23日:力の感覚について -力は感じとれるのか-
2006年8月1日:力の感覚について -力は感じとれるのか-(2)
の続きにあたるものです。
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「力」概念に対する人の素朴な認識は、「動かそうとする意図や行為」に近いものであることを述べた。これは、「力」を引き起こす起源の側に、主観をおいて(あるいは仮に移して)考えるということでもある。そう思って、人が体感する「力」とは何かを再考すると、あらためて納得できることも多い。

整形外科で受けた首牽引のリハビリの話に戻ると、人は、無意識的に、首を牽引する機械の側に立って、その機械の行為(動作と言った方が自然だが)としての引っ張り上げる力をイメージしているのである。もちろん、そこでは、機械と治療される自分との相互関係があるので、「その機械の行為の影響を受ける私」のように感じとる微妙な心理が介在する結果として、「機械がもたらすによって自分が上に引き上げられている.」と判断するに至るのだろう。

人が認識する「力」というのは、このように、複雑、、というか、社会性をもつ人間ならではの高度な思考に根ざしているものと考えなければならない。私は、以前に何かの原稿で、”人は太古の昔より体感としての「力」を知っていたであろうが、、”のように書いたことがある。しかし、どうやらこの表現は適切ではなかった。視・聴・味・嗅・触覚などの一環のようには、人は「力」を感じることはない。力の認識というのは、もっとずっと高度な次元でなされるものであった。

一方、Newtonは、「力(force)」を意味づけるにあたって、(上に述べてきたような)人が認識する「力」から完全に解き放たれた思考法を採用し、圧倒的なブレークスルーを成し遂げた。このことの詳述が本稿の主旨ではないので一文で記述しよう。

Newtonの発想:『物体が慣性運動から外れた運動をするならば、それは'力'というものがその物体に作用している結果だと考えよう.力の原因や起源が何であるかはとりあえず問う必要はない.』

このような発想が、(ブレークスルーを導く)「客観性」「定量性」「純粋化」のためにどうしても必要であったのだ。

Newtonが、自身が初めて基礎づけた"力"の概念を表す語として、既に(複雑ながらも)一定の意味を有していた「力(force)」という単語を当てたのは、ある意味、意地の悪いことであった(同じようなことは、「観測者」という言葉を使ったEinsteinにも言える)。もしかすると、概念に「客観性」「定量性」「純粋性」をもたせることの重要性と意味を人々にあえて投げかけるという意図があったのかも知れない。

いずれにしても、力学を生徒に教えることの最大の意義は、このような、用語と概念の意味を根本から考えることの重要性と効用を伝えることにあると言ってよい。ところが、国際的に定評ある教科書の中にも、人が先入観としてもっている日常用語的な「力」のイメージからの連想に頼った説明を多用する例を少なからず見かける。言語論理的な思考を発達させつつある生徒に対して、親切どころか、混乱を助長させる可能性があることを認識すべきである。

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本稿は、
2006年7月23日:力の感覚について -力は感じとれるのか-
の続きにあたるものです。
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「力(force)」という言葉は、Newtonが生まれるよりずっと前から存在していたはずであるし、そうであれば当然、遥か昔から、人は、その「力」の語源となる効果や現象を意識してきたということになる。この場合の「力」の意味が、まさに、予備知識のない初学者がデフォルトで抱いている「力」の素朴な概念のはずであり、教える側がこれをはっきり認識してこそ、はじめて、初学者に対して物理学的な’力’の概念をうまく伝えることができるのではないか、、このような考えが、本稿を書く私のモチベーションになっている。

分析めいた長い説明はやめて(貴重な読者に嫌われそうなので)、結論的なことから書こう。
人が普通に使う「力」の意味は、その効果が発揮される対象を運動の世界に限るとしても、次のどちらかの意に近いものである。

(1)「対象体をある方向に動かそうとする意図(および行為・行動)」

(2)「対象体を目的の方向に動かし得る能力(実力)」

動かす意図をもつ主体は、自己であることもあるし、他者の立場に立つ(あるいは擬人的になぞらえる)ことで、他者や非生物におかれることもある。

例えば、腕相撲で、対戦する両者は、互いに相手の腕を「机に押し付けようとする力を発揮する」のである。そこでは、時間的な経過はそれほど重要ではなく、ましてベクトルとしての加速度などというものはほとんど無縁である。また、対象体が意図する方向に動いてこそ力は意味をもつのであって、力と動きの向きが一致しないのは異常な事ととらえる。これが、一般の人や初学生がもつ「力」の素朴なイメージである。

「物理用語と一般用語の定義が違うのは珍しいことではない!何をごちゃごちゃ言うのだ.」と、いぶかしく思う人もいるだろう。実際、多くの教科書では、このような用語の意味に由来する初学者の戸惑いを、全然考慮しないか、してもせいぜい「日常の言葉とは別物ですよ.」と冷たく突き放すのが通例である。

しかし私は、このような冷たいあしらいには全く賛同しない。言葉を重視するというのは、論理的思考の第一歩である。科学的思考力を自分の力で芽生えさせつつある段階の生徒こそ、このような言葉上の疑問を強く抱き、それに悩むものだ。ただし、優れた数学の力などを使って一気にここを駆け抜ける生徒もいる。それが理想ではある。しかし、そのようなことが可能な生徒は、まさに一握り中の一握りだ。必ずしも秀才ではないが、論理的思考を芽生えさせる力を有する生徒たち、、私は、この生徒の立場を大切にする。(このような人を大切にしないと国民主権の原則が危うくなるとさえ思う.)

さらにまた、「日常のことと一緒にするな.」のような強調ばかりをしていると、「物理とは結局、特殊な(オタクの)世界のものだ.」「試験が終わったら、わけの分からぬ世界からはさっさとオサラバしよう.」などのような意識を学習者に与えてしまう。一貫した理解の爽快さと有益性を伝えるはずの科学が、このような結末に終わって良いはずがない。

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話が少し逸れたようだ。

-----つづく-----

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