はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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自然科学的な命題とは何かを論じるための投稿のつもりだが、前回からの期間が空いてしまったこともあり、厳しいスタイルの論述は控えることにする。分かりやすい例をあげて、読者と一緒に考えるスタイルにしてみようと思う。

(哲学的ではなく)自然科学的な命題とは、例えば以下のようなものだろう。

「◯◯は、電流をよく導く。」 (※)

この文は、論理的な主張足り得るのか、、突っ込みどころはないか、じっくり考えていこう。
さて、前件の部分の主語をあえて◯◯としていることには、重要な意味がある。ここを、いろいろに置き換えてみると、自然科学的立場で言わんとすることの意味がよく見えてくるのだ。それが本論につながるのだが、そこにいく前に、先ず、他から確認していこう。
後件に目を向けて、「電流」とか「導く」とかのタームの意味が与えられていないので、真偽の判定ができない文だと思った人もいるだろうか。
しかしそれは、どのような実験をしたときにどのような現象・効果が認識されるのかという観点で、いくらでも捕捉説明ができることだ。論理に対する瑕疵になるものではない。ただし、このことは、人文学と自然科学の主張の違いの特徴の一端を教えてくれる。人文学的主張では、そこかしこに難解なタームが登場するのが常だが、それは、あくまで人の経験と感性に根ざす概念であり、それを高度なところで括って名詞化している場合がほとんどなのだ。ところが、自然科学においては、日常を生きる人の経験上にはない現象にまつわる概念までがターム化される。そのタームの意味は、決して(哲学用語のように)難解ではないのだが、実感できるようになるためには、多大な手間と時間がかかるのだ。文系出身者が、理工学書にとっつき難い最大要因はここにある。
少し脱線したので話しを戻そう。
電流とその導通の意味を解したとして、次に、「よく導く」の「よく」が曖昧だと思う人もいるだろう。確かにそうだ。どこからが「よく」なのかがはっきりしていない。しかし、自然科学においては、明確な区部は必ずしも必要でない。区分にこだわると、むしろ有益な主張ができなくなることも多いのだ。是々云々の現象が、人間が実測可能な形で確かに認められる、、という程度の主張が最も有意義となることが多い。
この段階で、重要な手がかりが見えてきた。自然科学においては、区分、範囲、境界などを敢えて明確にしない方針がとられることが通例なのだ。命題論理は、基本的には集合論の問題に置き換えて扱うことができるものだろう。その集合の範囲が曖昧化される傾向をもつ自然科学の主張は、命題論理に当てはまらない可能性をもつということだ。
ここまでを前準備として、いよいよ、(※)の前件、◯◯の部分を入れて考えてみよう。
以下に、一例を示してみる。その真偽について、考え巡ってみてほしい(宿題にしたいと思う)。

「金属銅は、電流を(最高クラスに)よく導く。」は、科学的に正しい主張である。さてそこで、以下の真偽を考察してほしい。
「正確に56700000000000000000000000000000000000000000000000個の銅原子から成る物質は、絶縁体である。」

注)上に示した数の銅原子を集めると、その総質量が地球の質量にほぼ等しくなる.



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本題に深く入り込む前に、ここまでに見てきた(A)の立場(A)と、(B)の立場とで、いずれの方が、近現代流の自然科学の発想法に通じているかをざっと考えておく。

(A)のデカルト流は、いかにも厳格で、妥協のない論理構築になっている。一方、(B)の方は、人間の文化・社会を前提として意味が与えられ、自然科学というよりは、人文科学的な論理のようにも感じられる。自然科学は本来、人間文化などという、時間的空間的に小さく限局された領域を超えて成り立つ原理を問題にするものだろうから、(A)の方が、自然科学的立場に近いと考えたくなる。しかし、既に少し述べたように、(A)の立場を貫いても、自然科学を発展させていくことはできないのだ。ある科学的な概念が、既に誰かによって確立されていた場合には、それが適用・拡張され得る範囲についての警鐘を与えてくれるというような効用はある。しかし、新たな自然法則を見つけ出すことには役立たない。自然科学は、疑わしいものを排するだけではなく、もっと大胆な飛躍や仮定を採り入れて初めて進展していくものなのだ。
さて一方、(B)の方は、人間の意味付けを明らかにすることに大いに貢献したが、導き出された事はいかにも人文学的な内容である。自然科学の観点とは異質だと言える。しかし、だからと言って、自然科学的な観点の命題が(A)の立場を通して達成されるわけでもないのだ。むしろ、(B)の立場に含まれる、自然科学の考察にそぐわない部分を修正した方法論が、自然科学の基本方針になりそうだ、、ということが、おぼろげながらに見えてくる。

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〔追記〕
ここまで述べた内容を見て、Descartesの哲学を貶す内容のように感じる人がいるかも知れない。しかし、私が若いころに読んで、心酔し、影響を受けた最高位の書物は「方法序説」だった。その位置づけには、今でも殆ど変わりはない。近現代の自然科学の書物は、Descartesの精神を忘れたかのようで不満に感じることも多いのだが、そのとき、Decartesの方針と、近代科学の方針の、何が違うのかの理解が曖昧だったのだ。その相違の本質が、今にして、理解できるようになった、、それをお伝えしたいと思って、このBlog記事を書いている。

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前稿で示した(A)と(B)の立場について、もう少し補っておこう。

(B)の方は、文化的観点を重視する立場と見なすことができるだろう。「人」という語を規定するときに、文化的に培われている観念を大元に据える。人の文化的集団の中で、人が死にゆく過程が何度も目撃され、死ぬことへの恐怖とともに、死なない可能性に対する畏怖のような心理が共有されていくことは容易に想像できる。こうした状況を前提とした上で、客観的(つまり誰も否定できないような)結論を求めれば、死ぬときに初めて人となり得るのだという理解に辿り着くのだ。けっして観念的に結論ありきとしているのではなく、十分論理的な演繹が為されていることに注意しよう。

一方、(A)の方は、集団的文化というよりは、個々人の中で内省を貫くことで、論理は構築されるという立場だ。先ず、絶対に否定されない真理を徹底的に探そうとする。それが、「生きている人が存在する」ことだ。この問題を考えている自分は生きている人なのだから、、と考えるわけだ。ここにおいて、R. Descartesが提示した「Cogito ergo sum」の意味がはっきりする(本当に私はこの歳にしてはっきり解った気がする)。デカルトは、集団文化的な観念を哲学の原理に持ち込むなと言いたかったのだろう。だたし、このデカルトの方法的懐疑に基づいても、大した結果は生み出されない。「時間的将来のことには言及できない」という程度の結論しか出せない。何も間違ってはいないが、何も得られない一種の自己満足的哲学だ、、という辛辣な批評も当てはまるだろう。

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少し脱線気味に話が進んだので、「人は死すべきものである」と、自然科学的論理の話しに戻していこう。

論理的な考察は、客観的な結論を求めて行われるものだ。「貴方はそう思う。私はこう思う。人それぞれだな。」などとなるのを避けるのが、論理の役目のはずだ。しかし、「人は死すべきものだ」を厳格に論理的に扱った結果、全然違う二方向に論理が展開して、別々の見解が得られた。しかも、そのどちらもが、それなりに有意義な意味をもつようだ。いったい論理とは何だったのか?

ちょっと考えると途方に暮れる悩ましい事態に陥ったわけだが、この例を基にして、論理と自然科学、両者の相違、それぞれの本質を次々に明らかにすることができるのだ。

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先に、以下のように述べた。

「時間が経過したある時点において、死亡という変化が起きないのであれば、その対象は人の1個体とはいえない。」※
から以下が導かれる。
「生きている人は存在し得ない。」※※

これを基に、いろいろな事が見えてくる。

まず、※と※※は本当に論理的同値であるかどうかが怪しいという観点で議論してみよう。

生きている人が存在しないというのは、明らかに誤っていると思う人がいるだろう。(この場合をAとする)
その時は、偽命題を導く仮定は偽であるという背理法の話しに進むことになる。

あるいは、※なる前提は人の本質を表すから、否定のしようがないと思う人もいるだろう。(この場合をBとする)
その時は、「◯◯は人である」という論理的判定が不可能であることを認識することになる。

実は、上のどちらの解釈も、それなりに有意義な結論なのである。

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(A)
全ての考察は、人が存在するという前提の上に始まったのだ。明らかに、※※は偽だ。したがって、※と※※が同値であるならば、※も偽となる。つまり、「人の1個体は、いつか死ぬとは限らない」という結論が得られる。
しかし、このことは、我々がもっている自然科学的(生物学的)な知見とは食い違う、、のだろうか?
―そんなことはない。科学的に「人」と称するものの集合を規定するとき、「いつか死ぬ」ことは本質的に重要な要件ではない。例えば、特殊な冷凍保存のような処理を施して、代謝を停止させた生物個体があるとする。その個体の遺伝子を調べて、ヒトの条件に合致すれば、それは人であると判断する。今我々が知っている科学は、このような立場であることが確認されるのだ。

(B)
人が死すべきものであることは、人類の文化の最初期から認識されていることだ。これは、真・偽を論じる対象というよりは、むしろ先験的な大前提のように扱うべきだ。
確かにこれを素直に認めれば、生きている限り、その個体は人とは言えないとなる。しかしよく考えてみれば、それが正統ではないか。一見あたかも人のように見え、人のように生きてきた個体があるとする。しかし、その個体を死刑に処しても死亡しない、、一旦死んだように見えても何度でも復活する、、こういうことが起こったならば、それは人ではない(例えば神だ)ということが明らかになる。このように考えれば、生きている限り人でない可能性が残っているというのは、論理的にはもっともなことだ。

--続く



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当方、コロナ禍に巻き込まれて、予定が全てくるってしまったこの数年であるが、その間オンライン授業の資料などを準備する中で、「科学」や「科学的」の一般的な意味を考える時間を多く持つことになった。ここからしばらく、そのプロセスで辿り着いた私なりの理解を題材にしてみたい。

「科学的」は「論理的」とほぼ同義であると思っている人が多いのではないだろうか。科学的営みの本質はロジカルシンキングだなどと語られることもある。

さて、論理は、命題(述べられた内容が、真か偽のいずれであるかが客観的に判定され得る文)によって構築される。

そこで、はじめに、次の、シンプルな命題を取り上げる。これが正しいかどうかを考え巡ることが、科学と論理の関係を探る最初の取っかかりになるからだ。

「人は死すべきものである」

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この文章は文学的テイストを帯びているので、先ずそれを取り払ってみよう:
「考える対象が人の1個体であるならば、その対象には、時間が経過したある時点において、必ず死亡という変化が起きる。」

有限時間のうちに死亡する(それ以後人の範疇から外れる)ことが、ある対象個体が「人」であることの必要条件だと言っているわけだ。
首を刎ねても死なないとか、何千年も生き続けるとか、そんなことはありえないという、真っ当な命題のようにも思える。
しかし、これを論理命題ととると、おかしな事態に陥るのだ。

---- 続く
後件の否定を考えてみよう。
「時間が経過したある時点において、死亡という変化が起きないのであれば」
これで必要条件が満たされなくなるので、
「考える対象は人の1個体とはいえない」
が帰結される。(いわゆる’対偶’だが、形式的に扱わず、徹底的に文脈で考えることをお勧めする.)

ここで、ある人の将来の死亡を絶対確実に予測する手段はない(「いつかは死ぬ」などというのは、あやふやな経験則であって、論理ではない.)。
したがって、人であると推定されたある個体について、死亡の成立は、実際に死亡するときまで満たされることはない。
つまり、誰であれ、生きている間は、人であることの必要条件が満たされないということだ。
貴方も私も、(死ぬときまで)人間にはなれない。
もっと言えば、「生きている人は存在し得ない」という一般的内容が演繹的に帰結されることになる。




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